2008年10月31日

三只眼吽迦羅

う〜む、書きたいネタはたまっているものの、なかなか書く時間が取れません…。この10月の更新の少なさには、びっくりだよ。
今日こそ記事を書こう!
と思ったら、お仕事が入ってしまい…。
腰を据えて書けないので、ちょっとお茶を濁す記事を。

先日、盲目の人のために開発されている、画期的なある製品をテレビで見ました。番組のHPはコチラ。2008年10月26日放送の「全盲者にも楽しく街を歩く喜びを与えたい」が、それ。低周波で皮膚に刺激を送ることで、見える像を伝えてくれるというもの。ビデオカメラで映した白黒映像をアウトラインだけ残して単純化し、それを更に”ドット絵”化する。そして、その信号を額に当てるパッドを通して、皮膚を刺激する信号として伝える。すると、目が見えない人でも、皮膚の刺激から画像を捉えることができるというもの。
白杖で触る前に、額に情報が送られてくるため、障害物があるかないかくらいはわかる様子。それだけでも、見えない方にとっては有用なようでした。白杖で触るか、自分の体がぶつかるまでは、そこに何かがあるとわからないというよりは、随分マシなのでしょう。
もちろん、それなりの練習が必要なようです。モニターをしていた方たちは、ある時期から全盲になったという方たちで、生まれつき全盲の方だと、伝えられた情報を読み取るのは数段難しくなるのではと想像してしまいます。番組では触れられていなかったけど、一面が白っぽい無地の壁だったらどうなるんだろうか。障害物はないってことになっちゃわない?さすがにそこまでデカいものだったら、機械で”見る”より先に威圧感を感じるかな。
額の痛点の配置間隔の関係で、電気刺激を送るドット同士の間隔は3mmが限界なのだそうだよ。それでも、体の部位の中で、額というのは比較的痛点が多いのだそうで。そうすると、額の面積を考えても、表示できる画面の大きさや解像度は限られてしまうんだって。開発中の現段階ですでに頭打ちか。
ちなみにこの製品の開発については、次回11月2日にパート2を放送するとのこと。

今日のタイトルは、「さんじやんうんから」と読むらしい。うちのダンナさんに教えてもらいました。『3×3 EYES』というコミックに出てくる不老不死の妖怪。第三の目が額にあるヤツら。面白そうだなと思いながらも読んだことがない作品なんだけど、読みたくなりました。
古来から、第三の目といえば、必ず額に現れるものとされてますが、どうしてなんでしょうね。
そういえば、話題のプレイステーション配信アニメ『亡念のザムド』でも、アキユキが最初にヒルコを埋め込まれたのは、額の真ん中だったよな。この辺にツッコんでいくとドツボにハマりそうなので、今日はやめときます。
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2008年10月28日

1.0は残酷な世界さ

昨日のこと。
買い物に出かけると、店の駐車場付近で、自転車に乗ってこちらに向ってくる友人のMちゃんとバッタリ。久々だったので、しばし立ち話をしていたのですが、そのとき、どこからともなく白い雑種のワンコが全力疾走で駆けて来て、自転車にまたがったままのMちゃんに飛びつく。ハーフ・パンツ姿だったMちゃんは、ワンコの前脚の爪で引っ掻かれてしまって…私がMちゃんからワンコを引き剥がす。すると今度は、数メートル離れた所にいた、幼ない女の子を抱っこした若いママさんに飛びつく。女の子は恐怖で泣き叫んでいたので、救出に。またもワンコを引き剥がす。ふぅ…。
ヤツにとってみれば、「遊んで、遊んで!」という意思表示だったんだろうけど、見知らぬワンコにいきなり飛びつかれたら、怖いよねぇ。ヤツには殺気がなく、”遊んでオーラ”全開だったので、「コラコラ」と私は後ろから前脚を掴んで、飛びつくのを辞めさせたのですが、しばらく興奮が収まるまでは飛びつくわ、吠えるわ。一息ついてオシッコするまでは、大変でした。オシッコして落ち着いたかい?
どこかのお宅のコの綱が外れてしまったのでしょうね。首輪も鑑札もちゃんと付いてたので、ノラではなかったと思うのです。人にも慣れてたし。自由になった嬉しさの余りの行動だったと思われ…。
危なそうなワンコだったら、私も触れないんですけど、ヤツは単に嬉しくて興奮していただけに見えたので、触ってしまいました。みなさんも、もし知らないワンコに触るときには、ワンコの表情をよく観てからにしましょうね。って、フツーは触らないか…(笑)
しかし、いつものルートから行くと、店の駐車場を通ることは、私にしては珍しいのですが、なぜかそちらのルートを選び、Mちゃんに会いました。いつものルートを通っていたら、きっと会えなかったし、ワンコとの遭遇もなかった。Mちゃんはご近所さんなので、年に何度も偶然の出会いがあるのですが、その度ごとに、自分が予定とは別の行動を取り、その結果偶然に会うということに驚きます。何がそうさせてるのかしらん。

さて、と。
日本での公開から苦節1年(←短いって…笑)。やっとのことでダーク・ファンタジー『パンズ・ラビリンス』(2006)を観ました。タイトルは『牧神の迷宮』ってことですわね。公式HPが繋がらないんで、DVDのHPを。コチラ。予告編が観られます。
牧神パーンについて、あらためて調べてみると、実はギリシャ・ローマ神話よりももっと古い神ではないかとも言われているようですね。原題ではギリシャ神話の”パーン”でなく、ローマ神話の”ファウヌス”。半分羊で、半分人っていう姿は変わらないのかな。関係ないけど、ファウヌスって「2月(Feburary)」の語源になってる神さまなんだってね。ローマの古いお祭り<ルペルカリア>ってのが2月15日にあるんだってさ。腰に羊の皮一丁の裸体の青年たちが走り回って、女性を羊皮のひもで打つ…なんてぇ祭りだい?異教の祭りだったこの<ルペルカリア>を、キリスト教が差し替えてしまったのが<バレンタイン・デー>なんだってさ。へぇ。ファウヌスってのが、牧畜や豊穣に関する神ということからなのか、性的なことを司る神という意味もあったようで、キリスト教からすると、きっとちょっと刺激的すぎたんだね、このお祭りは。
それからパーンってのは、どうやら予言の神でもあったようですね。そして「パニック」の語源であると言われています。

前置きが長くなっちゃった。このくらいにして…と。
映画のあらすじを一応書いておきましょうね。
舞台は1944年のスペイン。内戦終結後もフランコ政権に反発するゲリラが闘争を繰り広げる山間部。内戦で父を亡くした少女オフェリアは、ビダル将軍と再婚した臨月の母カルメンと共に、山奥でゲリラ鎮圧にあたる将軍のもとへ。しかし、オフェリアは冷酷で残忍な義父に恐怖と憎しみを募らせていた。その夜、彼女は昆虫の姿をした不思議な妖精に導かれ、謎めいた迷宮へと足を踏み入れる。そこは牧神パンの迷宮。パンは、彼女が地底の魔法の国のプリンセスの生まれ変わりで、満月の夜までに3つの試練を乗り越えれば、魔法の国に帰ることが出来ると告げる。オフェリアはその言葉を信じて、与えられた3つの試練に立ち向かう決意を固めるのだったが…。っちゅうお話。
監督・製作・脚本は、メキシコ出身のギレルモ・デル・トロ。同じメキシコ人のアルフォンソ・キュアロンも製作に名を連ねるこの作品。一応アメリカも製作国のひとつになってるけど、スペイン・メキシコ色が強い。よかった!アメリカ主導でファンタジー作ると、お子ちゃま向けのひどい作品になりがちだからね。クリーチャーとか小道具とか、さすがなグロさだ。このラテン系の独特なダークな味付けって好きだ、大好きだ!

ここからは、多少ネタバレありかも。
スペイン内戦が背景に選ばれたのは、人間の残酷さを描き易かったってことかな。随所に盛り込まれている残虐なシーンは、サブリミナルのように”残酷さ”というものを植えつけていきます。ラスト・シーンの受け取り方は人それぞれだと思うけど、結局、「現実とは残酷なもので、その現実からは逃れられないものだ」ということが言いたかったんじゃないかと、私はとらえました。娘を抱えた女が一人で生きていくことが難しい時代。オフェリアの母も、恐怖で人を支配するタイプのピダル将軍に媚びてでも生きていくことを選んだわけで。愛する夫を戦乱で亡くした母こそが、現実の過酷さを語る資格をもっていたというか。そして、その母が、夢見がちな娘に「現実は残酷なものなの」と諭すのですよね。その言葉を発するや否や、オフェリアはより過酷な現実を体験していくわけですし。しかし、少女オフェリアのその後の行動は、現実逃避するわけでなく、逆に現実の世界を生ききっている。あのラストを救いと取る人もいるでしょう。ですが私には、現実を突きつけているようにしか見えませんでした。結局、救いはない。でも、懸命に生きた少女の姿に感動を覚えました。どんなにつらいことがあろうとも、人は生きていくしかないのさ。

うちでは、夫婦して<Web2.0>と<1.0>の世界について考えることが度々あります。<Web2.0>とは、Wikiあたりの説明では、例えば情報の双方向性とか新しいWebのカタチとして認識されている言葉ですが、うちで使っているのはちと意味合いが違います。すごく簡単に表現するならば、<Web2.0>は脳内活動でありバーチャルな世界、<1.0>は現実世界のことです。これって、アニメ『ムネモシュネの娘たち』で使われてた概念で、そこでは<1.5>ってのもあったのですが(笑)この作品中では、50年後くらいには<2.0>と<1.0>の境が曖昧になってるんですよ。
結局のところ、脳内世界もしくは仮想世界から、現実世界に戻してくれるのは、肉体感覚なんじゃないかなって。「痛み」を感じるっていうのが、手っ取り早い方法なのかもしれないって。ちょっと話がズレるけど、高次脳機能障害を扱った『ガチ・ボーイ』って映画がありましたよね。記憶が1日しかもたない主人公がプロレスを始めるんだけど、翌日に記憶がなくなっても、トレーニングした筋肉痛とか肉体の感覚っていうのは残っているって設定でした。それが「生きている」という喜びに繋がると。作品自体は観てないけどさ。その現実の感覚っていうのがわかりやすいなって思ったんです。
『パンズ・ラビリンス』に戻ると、切られたり撃たれたり潰されたりと残酷なシーンがちりばめられていたのは、この「痛み」の感覚が現実に一番近いものだったからではないかと。「痛み」を感じて、夢から覚めよと言われているような気がしてきました。

長くなったんで、この辺で。
久々に、”新しいもの”に出会ったような刺激があって、楽しめた映画でした。
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2008年10月25日

白と黒のイリュージョン

入院していた母も退院となり、ひと段落です。ご心配をしてくださった方々に、あらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。みなさんに励ましていただき、とっても元気付けられました。あとは回復するのみ。まだまだサポートは必要ですが、気持ち的には随分楽になりました。
わがままな父も、こまごまと野菜を使った料理を作って行って、「残さず食べろ!」と監視しつつ食べさせましたよ。やり過ぎと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実は長い間の偏食で、身体に異常が出始めていましてね。もう放置しておけないのです。例えば、野菜などの食物繊維をほとんど摂らないので、何処も悪くないのに下痢が続いていたり、たんぱく質をあまりに摂らないので、手足の筋肉が落ちて力が入らなくなってしまったり…。いなりずしも手作りして持って行きました。野菜やたんぱく質は、食べたくないと文句を言いながら嫌々食べてましたが、おいなりさんだけは「ちょうどいい味だ」と気に入ってくれたようでした。やっぱり炭水化物しか食わないよ、この人。教育し続けるしかないですね(苦笑)

さて、今日は絵本の話です。
病院に行ったりすると、文字通り”病の気”にあてられるのか、やっぱり気分がどよ〜んとするので、CDショップや本屋に寄って気分転換をしてから家に帰っていたのですが、そんなときに本屋さんで大人向けの絵本が集められていて、その棚で見つけた1冊が『まっくら、奇妙にしずか』。ドイツ人、アイナール・トゥルコウスキィという方の作品です。この作品、精密だけれども、どこかしらおかしくて不思議な絵柄のモノクロ作品。モノクロなわけなんです。なにしろ、1本のシャープペンシルで400本の芯を使って3年間を費やして書かれたという作品なのですから。2005年3月、ドイツはハンブルクの応用科学大学デザイン・メディア・情報学部の卒業審査に提出されたというものなのですよ。これが、名だたる絵本賞を獲得し、スロヴァキアの首都で2年に1度開催される<ブラティスラヴァ世界絵本原画展>でグランプリを受賞したのだそうです。実は、今年の夏頃に日本国内で展覧会があったそうで、<ボローニャ国際絵本原画展>でも、この絵本の原画が特別展示されていたのだそうですが、まったく知りませんでした…orz。ブラティスラヴァの原画展のHPらしきところに作品の画像があります。画像はクリックすると大きくなり、多少拡大して見られます。絵本では、もっと繊細な感じがしますが(原画はさらに繊細なんだろうなぁ)、雰囲気はわかっていただけるでしょう。作者ご本人のお写真もありますね。
もうね。この絵柄、たまりません!私のストライクゾーンに「ズドン!」って感じです。奇妙な装置がたくさん付いた船や小屋。意味不明の装置の数々。魚はもちろん、時折描かれる海鳥たちや羊(山羊?)さんのような動物たち、無造作に転がる薬のカプセルやたるんだ靴下、デカすぎるタイプライター…。なんて素敵!
芸術的な絵もさることながら、お話もシュールでありながら、アイロニカルで寓話的。とある場所にやってきた”よそ者”が、秘密の方法で魚の漁をしているのです。排他的でありながらも好奇心でいっぱいの地元民たちが、昼夜監視を続け、やっとその秘密を暴くのですが、それは、雲を捕まえてその中から魚を獲ってくるというもの。しかし、秘密がわかったときには”よそ者”はすでに姿を消していて、地元民たちもどうにかして雲から魚を獲ろうとするのですが…。というお話。
久しぶりに、心に刺さるものを観ました。お話の内容もおもしろいのですが、やはり圧倒的な絵の力を感じるわけです。その精緻さや、奇妙なモチーフや構図だけでなく、作家が作品に込めたエネルギーを感じるのですよね、きっと。これが、400本の芯を使い3年を費やした作品だと知らなくても、そのエネルギーは観る人に伝わるのだと思うのですよ。
ゆうべ、エクストリーム・アイロニングをやっている松澤等さんという方が、深夜のV6の番組に出てました。度を越えたバカなことに真剣に取り組む姿に、非常に好感が持てました。「そこにシワがあるから」…(爆)海外の映像は観たことがあったのですが、日本にもやってた人がいたのね。エクストリーム・アイロンってのは、海底や山頂など、とんでもないところでスポーツをしながらアイロンをかけるという競技です。詳しくは、コチラのエクストリーム・アイロニング・ジャパンのHPへどうぞ。個人的には、筑波山山頂のエア・アイロンの写真が好き。
それでね。なんでいきなりエクストリーム・アイロンかって、バカなことに時には命をかけて真剣に取り組んでるってことですよ。そこに人は感動するわけです。(って、私だけか?)トゥルコウスキィさんだって、この作品を描いていたときは大学生で、大学の卒業のために描いたわけですよね。そこには、例えば「これで売れてやろう」とか、損得勘定はなかったんじゃないかと想像するのです。ただ純粋に作品を描いた。それも、膨大な労力と時間をかけて。ただ楽しむ。もしくはただ楽しませたい。そんな気持ちが伝わって、人は感動するのではないかと。そんな想像をしてしまうわけです。ある種の潔さがかっこよく見えるんじゃないかな。

長々書きましたが、せっかくなので、もう少し。
『まっくら、奇妙にしずか』と同じく大人向けの絵本として紹介されていた棚にあった、アン・ジョナスさんの『光の旅、かげの旅』もおもしろい作品でした。1枚の絵をさかさまにすると別の絵に見えるというもの。全てが、さかさ絵で構成された絵本。これも白と黒で描かれていて、だからこそ成立する作品なのでしょうけれども。例えば、暗い山を走る白い道は、さかさまにすると闇を走る稲妻となり、荒れた海の白波は、さかさまにすると夕暮れにねぐらに帰る鳥の群れになる、という具合。絵のおもしろさが先立って、筋はどうでもいい感じになっちゃってますけど、陽が昇るとともに家を出て、夜暗くなってから、来た道筋を帰るということが、光とかげとの白黒のコントラストでシンプルに作られていることが、なんというか、逆に想像力をかきたてるというか。明るい街中で暮らしていると、あまり実感できない本物の闇というものを想像させる作品でありました。しかし、四半世紀も昔の作品だったんですね。

ついでに、もう1冊。
上記の2冊を図書館から借りるときに、ふらふらと本棚を眺めていて、偶然見つけた本。リンド・ウォードさんの『狂人の太鼓』。これはずいぶんと古い作品で、1930年に発表されたそうです。図書館の本は日本語版で2002年に発行されてました。その間、翻訳されなかったのか?っていうか、翻訳要るのか?というのは、これは木版画だけで描かれた小説。載っているのは、120枚の白黒の木版画だけ。文章は一切ありません。一度読んで(観て)みたのですが、いまいち筋がわからない(笑)何度も読み返さないとダメみたいです。
奴隷商人の父親が、アフリカで太鼓をたたいていた人物を殺し、その太鼓を持ち帰るところから物語りは始まります。その太鼓を持ち帰ったところから、様々な災いが起こるということのようですが…。太鼓の呪いが伝播してゆくのか、呪いが発動するとき(?)の人物の顔が凄まじくて、例えて言うと、映画『エクソシスト』で一瞬二重写しに見える悪魔の顔みたいな感じ(笑)この作品も、白と黒とのコントラストが強烈で、不気味さを醸し出しています。

というわけで、あえて白と黒だけで描かれている絵本を3冊チョイスしてみました。
写真でも、カラーよりもモノクロの方が、物語性を感じるというか、色という情報が少ない分、他のこと、つまり文章で言うところの行間が見えてくる気がしますよね。”ドット間”とでも呼べばいいのか?
白と黒だけでシンプルに表現された絵というのも、同じような効果があるのかもしれないな。なんて考えてみるのでした。
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2008年10月16日

自分の中の狼

手術を受ける母のことを考えていたら、眠れなくなってしまいました…。ちょっとした手術とはいえ、高齢ということを考えると簡単に考えてはいけないと思う。手術が大成功し、後遺症などなく、順調に回復してほしいと願うばかり。

眠れなくなって、どうせ起きてるんだったら、もったいないから本でも読もうと思い(笑)、読んだのが『14歳のカミングアウト 性同一性障害を乗り越えて』 三峰有生(みつみね うるふ)著。以前からなぜか性同一性障害には興味がありまして。トランスジェンダーな人と友達になって、お話してみたいなぁなどと考えていたりするものですから。読み出したら、ペロッと読み終えてしまったよ。
ウルフさんは、身体は女性だけれども、心は男性というタイプ。10万人に1人といわれているそうです。ウルフさんとは逆の、身体は男性で心は女性と言う方は、5万人に1人といわれているそうです。倍ですね。不思議だな。自分の中の”男性”が暴れそうになるときがあり、それを彼は”ウルフ”と名づけた。
心と身体の性の違和感から不登校となり、誰にも言えないままに養護学校で寄宿舎生活を送るようになる。そこで、自らが性同一性障害であることを認識し、カミングアウトするわけだけれども、周囲もなんらかの障害や病気を持った生徒が多かったためか、とってもすんなりと受け入れてもらっているような感じ。
残念なことに、その公立の養護学校は大阪にあるため、財政難から無くすことが検討されているということ。行き場を無くした子どもたちが、社会に出るまでの時間を過ごす貴重な場所がなくなってしまうということは大変なことですよね。

女子トイレを使ったり、女子といっしょに着替えをしたりすることに悩むウルフさん。自らの女性の身体を嫌悪しながらも、男性として女性の身体に興味があるのも事実で、その葛藤に悩むわけです。特に、月1回の生理は、本当にツライみたい…。そうだろうなぁ。それと、常に存在がうっとうしいと思うのは、やはり胸のふくらみ。これも、邪魔だし、複雑だろうな。
性同一性障害と一口に言っても、外見だけ整えれば納得する人から、身体を手術して性転換をしないと違和感が消えない人まで様々だそうですが。
ウルフさんが、自身の病気に気付いたのは、競艇の安藤大将選手が性同一性障害であることをカミングアウトしたのをテレビで見たことがきっかけとなってます。この障害のことを知らないで、悩んでいる少年少女たちは、まだたくさんいるのかもしれません。テレビドラマの『金八先生』では、上戸彩ちゃんがそんな役どころでしたよね?映画ではヒラリー・スワンクの『ボーイズ・ドント・クライ』なんていう作品が印象的。今は、モデルとして活躍している椿姫彩菜ちゃんや、”エアあやや”のはるな愛さんが有名ですね。でもこのお二人は男性の身体で心が女性というタイプだな。『友達の詩』がヒットした中村中さんもそうでしたね。あれはビックリしたな。あそこまで有名になってしまったら、きっと応援してくれる人の方が多いよね。だけど、普通の小・中学生で、同じ障害を抱えながら悶々としているコたちもたくさんいるんだろうなと思うと…。自分のことを、少数の人に自ら語って伝えることはできても、学校全体とか不特定多数の人たちみんなに理解してもらうっていうのは難しいことだよね。多くの人に理解してもらうってことは、障害とか抜きにしたってまず難しいことであるしね。だから、ウルフさんみたいに、少人数の寄宿学校でカミングアウトできたというのは、恵まれていたのかもしれない。

ウルフさんは、男性として、女性と恋愛をしていることも赤裸々に書いています。私がトランスジェンダーな人たちに興味があるのは、脳の性差についての興味なのかもしれません。男性と女性というのは、互いを理解するのに苦しむことが多いわけですけど、こういう人たちって、女性の気持ちもわかるし、男性の気持ちもわかるような…。性という枠組みを超えて、”人として、人に接している”からなのでしょうか。自らの体とは逆の性へのこだわりというものは当然あるとは思いますが、男や女である前に「自分は人間だ」という意識が強いような気がしてね。勝手な想像ですけど。

ウルフさんが、自分を応援してくれる歌として紹介しているのは、RADWIMPS「祈跡」という曲。久々にRADWIMPSでも聴いてみるかな。
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2008年10月15日

昼間なら毒、夜なら鉈

cNaさんとこの記事で知った『コンゴ・ジャーニー』。密かに人気が出た作品だと知ったのは後になってからですが、図書館に予約してみると、誰も予約をしていない…。すんなりと手に入りました。出版されてから日が経っているとはいえ、まだ数ヶ月だってのに。あんまり読まれている形跡がなく、綺麗なままのハードカバー…。しかし、読み始めて驚愕!これは近年まれにみる傑作ですよ!なんでみんなこんなに面白い本を読まないで放っとくんだ?!まだ上巻しか読んでないけど、感想が長くなるのは解りきってるんで、とりあえず上巻の感想を書きとめておきます。

イギリスの旅行作家、レドモンド・オハンロンが、アメリカ人の友人で動物行動学者のラリー・シャファー博士と連れ立って、コンゴのジャングルの奥地にあるテレ湖へと、有名なUMA”モケレ・ムベンベ”を探しに行くという冒険記。もちろん、ノンフィクション。しかも、1890年頃の話だっていうんだから、ほんの最近のお話。レドモンド・オハンロンを”旅行作家”と呼ぶのはどうかと思うけど。せめて”冒険作家”とか、”無謀作家”とか呼ぼうよ(笑)

語り口というか、ラリー(と呼ばせてもらおう)の言う事がいちいちツボにハマり、ニヤリとしたり、吹き出したりしながら読むハメになる。この人、多発性硬化症という難病に罹っているというのに…。かと思えば、奥地に行かずともそれなりに不衛生なコンゴの首都の街でレドモンド自身がマラリアにやられ、熱にうなされているときに見る子どもの頃の幻想世界は、あまりにも現実と対照的な美しい世界だし。そりゃあ、作家なんだから脚色はしているだろうけども、わかっていてもひきこまれるというもの。
コンゴという国が異なる政治体制の二つの国に分かれてるってことにまず単純に驚くけど、社会主義国家の中にある目的地は、まず行く許可を取ることから始めなければならず、そこからして役人たちとの丁々発止がスリリングに展開される。何をするにも金や薬剤などを請求される世界。

政府の許可を得て、クセのある随行者、水・森林資源省の役人で学者のマルセランらと合流し、やっとのことでジャングルに向う船に乗り込む。
川沿いの奥地の村々は、世襲の村長と社会主義国家の派遣する議員のような人物とがいて、二重に管理されている。一見、文明が立ち入っているような村々。けれども、首都ブラザヴィルの街中を出発する前から、すでに呪術は影響していて、村々の呪術師たちの存在や、部族や個人間の争いが徐々に顕在化してくる。文化のまったく異なるイギリス人とアメリカ人は、戸惑うばかり。これからこの呪術がこの冒険譚にどんな風にからんでくるのか楽しみなところ。
そして、そんな様々な部族の中でもテレ湖への道を案内してくれるピグミーは、一線を画しているような雰囲気がある。やっぱり、ホモ・サピエンスとは違うんじゃないのかい?ピグミー・チンパンジーつまりボノボの存在や、ゴリラたちの存在を考えると、ホモ・サピエンスとは違う進化の道筋を辿ったヒトがいてもおかしくないんじゃないかとワクワクしてみたり。想像の中のピグミーと合致する森の住人たちとは違い、漁師のピグミーもいるっていうし、たとえ森に住んでいても、同じピグミーでも互いに言葉も通じないこともあるらしい。
そんな想像をしていると、”サマレ”さえ実在する別種かと思いたくなるなぁ。この”サマレ”については、まだよくわからないので、下巻を読んでから書くことにしますわ。

アフリカは、日常が不幸やショックや悪夢の連続なんだ。悪夢が首根っこをつかまれ、袋に放り込まれて、片付けられるってことがない。いつもその辺にうろついていて、森に散歩に出かければいきなり木の間から出てくるし、暗くなるを待って襲ってくる。
(中略)
大きな恐怖が待ち構えていて、隙あらば壁を破って侵入しようとしている。それがわかっているんだ。だからさ、小さな恐怖を−さほど深刻でないことが半ばわかっている恐怖を−たくさん用意しておいて、大きな恐怖を薄め、風景の中に拡散させるんだと思う。


これは、レドモンドが、呪い(まじない)の意味について、ラリーと語っている言葉。宗教の持つ心理的取引と変わらないんじゃないかという話。

とにかく、ツッコミどころが満載で、いろんな意味でワクワクしながら読んでます。下巻にも期待!

posted by nbm at 18:38| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月14日

特殊な街

連休中、またまたダンナさんとスクーターで秋葉原へ。
スクーターの後ろって、つかまるところがないんですわ。横にコロンっていったら、死ぬ…とか思いつつ乗ってます(笑)ハンドル握ってるダンナさんにつかまるしかないんですけども、しがみつこうにも、ベッタリくっつくのもナンだし、腕を回そうにも私の腕は短いので回りません(爆)それでも、ムリに腕を回そうとしてたら、腕に変に力が入ってたようで、腕がダルくなってしまいました。バイクでタンデムのときは、ダンナの尻の下に手を入れて寝るっていう友人がいるんですけど。それも高速とかで。真似できねぇ…。

なんかね、秋葉原はすごいことになってますね。人の数が尋常じゃない。昔は、渋谷って街がキライで、それはあまりにも人がいて歩きにくいからだったんですけども、そう感じた渋谷よりも秋葉原の方がヒドイ感じがします。例の事件で歩行者天国がなくなっているわけですけど、その分休日は歩道に人が集中してひどいことになってる。
その日は、黄緑色の痛車のオープンのフェアレディZを目撃し、通りをオレンジ色の衣装のデカい悟空が歩いてると思ったら、それは外人さんで(笑)、超ミニのピンクのメイド服のおねえさんはパンツが見えないようにお尻の後ろを手で抑えながら階段を上がっていくし…やはり、そこらの街では見ることのできない光景ばかりで。
ダンナさんが仕事上で知り合った知人で、毎週秋葉原に行くという人がいまして、この人に渡したいブツがあったので、秋葉原についてから携帯で連絡をとってみると、通りのすぐ向こう側にいるとわかり、数分と経たぬうちに会えました。事前に何の連絡も取ってなかったのに(笑)彼は午前中から来ていて、その日のお目当てのゲームなどを購入し、すでに大荷物。秋葉原を歩いていると、バックパックなど大きいカバンの人を多く見かけますね。
しかし、ほんとに代替の利かない特殊な街だよなぁ。

うちが歩くのは、いつものようにジャンク街なのですが、ジャンク街でさえ以前より人が増えてる。確かにPCパーツ以外の様々なアヤシゲなものも売られてはいるけど、そんなにおもしろいものでもないような…。みんながみんな自作PCを作っている人たちとも思えないが。観光客も多いんだろうか。
もうひとつ、今回目についたのは50がらみの(いやもっと上かな?)年配の男性が多かったこと。ジャンク街のお店は、大概店内の通路が異常に狭くてすれ違いができないくらいなんですが、ある店舗では、その狭い通路を埋め尽くしてるのがほとんど年配の男性でした。最近、今まで表立ってなかった50代以上の年齢層のアニメ・ファンというのが顕在化してきているという話を聞いたのですが、実際に秋葉原でそのぐらいの年代の方たちが、ジャンク・パーツに群がっているのを見て、「やっぱりいたんだ!」と実感したわけです。アニメ・ファンというだけじゃなくて、いわゆるオタクという分野が30代からせいぜい40代くらいを中心に考えられていたものが、実はもっと先輩たちが隠れていたことに気付かされたという…。

今回の秋葉原行きは、USBハブがいかれてしまったので、それを購入にというのが名目だったのですが(そんなものはその辺でも売ってるわけですけども)、どうもバスパワーだけのものは壊れやすいような気がして、ACアダプター付きのものに戻してみようということになりました。
秋葉原に行ったからには、当然ほかにも様々なものを見てくるわけですけど、やっぱり気になるのはモニター。しばらく、プリクラのモニターを改造したものを使ってたわけですけど、気に入ってたのに2台続けて壊れてしまい、今は市販の液晶モニターを使っているわけですが、この液晶モニターを使うようになってから、目に負担がかかるような気がしていて…。といっても、高輝度液晶モニターの輝度を落として使用しているのですがね。友人が、やはり液晶を使い出してからドライ・アイがひどくなったという話をしていて、自分も液晶を使い出してから目が疲れやすくなり目薬を注す頻度が増えたように感じていたのですが、点滅していない分やはりCRTとは光量が違うわけで。友人も、液晶モニターは感覚的にも光量が多い気がするって言うんですよ。確かに液晶は目への刺激が強いように感じます。高輝度液晶なら、当たり前かって話もありますが。プリクラモニターは、液晶モニターにガラス板がついていたので、フィルターがかけられたようになっていて見やすいものだったんですよね。一般的にはCRTよりも液晶の方が目が疲れないと言われているわけですけれどもね。もちろん、機種や設定にもよるのでしょうが、一概に液晶の方が目に優しいとは言えないということですね。店頭で光沢液晶の画面を見て、再確認しました。やっぱりただの液晶はギラギラしてて見にくい。フィルターをつけるって手もあるけど、次に買うのは光沢液晶だなという結論になりました。光沢液晶は画面への映りこみという大きな問題もありますが、目への刺激を考えると液晶よりもまだマシな気がするんだけど。コントラストが強くて、動画をよく観るうちにとっては、よい気がするのよね。たぶん、すごい少数派意見だと思うけど(笑)

こうやって、あーでもないこーでもないと言いながら、お目当てのものを買いこんで家路につくのでありました。

<追記>
液晶モニターについて、加筆訂正しました。
posted by nbm at 11:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月11日

メロンパンを食べながら…

どうしてもメロンパンが食べたくなって、今朝の朝食にはメロンパンを食べました。しかし、メロンパンというヤツは、強力なカロリーを持つ危険なヤツ。菓子パンひとつで軽く400kcal越えですからね。下手すりゃ、うちのいつもの1食分ですわ。そこで、ダンナさんと半分コ。そして、サラダやスクランブル・エッグなんかといっしょにね。あー、うまかった!

久々に気になる音をチェックしときます。

NICO Touches the Walls
 「Who are you?」
名前は知っていたものの、さほど惹かれるものはなかったのですが、このファースト・アルバムの3曲目「THE BUNGY」を聴いて、考えを改めました。個人的にはサビよりも、前段の部分が驚き。ロバート・ランドルフか!みたいな曲に仕上がってる。プロデューサーであるAIRの手腕なのか、彼ら自身の実力なのかようわからんけども、完成度が高いアルバムになってる気がする。ココで試聴できます。
バンド名は、Vo&Gの光村龍哉が、よろめいて壁に触れた時に、壁に触れるという行為は壁の向こうにある世界、日常から新しい世界を創造するというイメージにつながると考えたことからだという。新しい世界を広げてくれたまへ。

猿ダコンクリート 「形と成して始まる」
強烈なバンド名から、大体音が想像つくかと思いきや、単なるパンクバンドとかじゃありません。ものすごーくプログレッシブな音に哲学的な言葉を乗せて音楽を作り出している不思議なバンド。かといって難解なわけではなくて、歌詞の世界はわりとストレートな表現でわかりやすい。一言で言うと、「ノリにくい!」(爆)でも、けなしてるんじゃありません。褒め言葉です。ライブとか、一体どうなってるんだろう?ノレない傑作。HPでは歌詞も見られます。MySpaceはコチラ

Friendly Fires
こちらは、ハード・コアをやってたはずなのに、80年代のクラブ・ミュージックに傾倒していったというイギリスはロンドン出身の3人組。一応ベース・ドラム・ギターってメンバー紹介されてるけど、演奏してる映像を観ると、ボーカルとドラムとパーカッション?なんちゅう構成…。打ちこみ系ならではですな。古めかしいチャカポコチャカポコいう音が、新しく味付けされた感じでナイス。いろんな音で埋め尽くされてるカオス感がいい。個人的には、このアルバムを聴いてたら、Adam Antが聴きたくなりました(笑)MySpaceはコチラ。巷では、KLAXONSを継ぐモノとされているようです。個人的にはKLAXONSはあまりピンとこなかったのですがねぇ。全然別物に聴こえる。”Friendly Fire”って”同士撃ち”ってことなんだね。

そういえばさ、Journeyの新しいボーカルの人は、フィリピン出身なんだよね。なんか、フィリピンの人って歌が上手い印象があるんだけど、なんで?と思ったら、やっぱり音楽が好きな国民らしい。街には音楽が溢れているらしい。大体、刑務所の受刑者をマイケル・ジャクソンの「スリラー」とかで踊らせてるくらいだからな(笑)音楽教育について調べてみると、やっぱり音楽を学校で教えてる。それも英語や数学の授業より音楽の授業の方が多いらしい(笑)なるほどな。
先日、イギリスの男子校で合唱団を作って、ロイヤル・アルバート・ホールで歌うっていうドキュメントをちょっと観たんだけど、聖歌隊とかとは違って、普通の中高生はやっぱり歌が上手じゃないんだよね。以前、日本みたいに学校に音楽の授業があることは世界的には珍しいことなんだってこのブログに書いたけど、合唱なんて、日本で育ったら大概学校で経験することだよね?しかし、このイギリスの男子校を観ていて、音楽を聴いたり演奏したりすることは個人個人の趣味に委ねられていることを再び実感するのでした。だけど、その趣味が高じた人たちは、ひとかどの人になっていくわけで。学校で教えりゃいいってもんじゃないとも思うし。一生懸命に歌う彼らを観ていて、こういう中から、将来偉大なバンドのメンバーのひとりとして活躍するようなコがでてくるんだろうな、などと妄想していたわけです。みんな、かわいかった!
歌が上手かったり、演奏のテクニックがあったりしても、それだけじゃ魅力を感じないし、逆に下手でも何か光るものがあると、そっちの方が大きかったりする自分にとっては、”上手いこと”だけが評価の基準じゃないんで、関係ないんですけど、全体の底上げっていうか、そういう意味では音楽教育ってのはやっぱり効果があるもんなんだなと…。
posted by nbm at 12:04| Comment(6) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月07日

きまぐれロボット

長らく更新が滞っておりました。訪問してくださった方には、申し訳ありませんでしたね。
仕事が入り、必至こいて片付けると、終わった頃にまた仕事が入り…という繰り返しで、息つくヒマがありません。その上、たいしたことない病気なんですが、実母が入院・手術することとなり、病院に付き添って通っていたりしていたので、すっかりブログを書くという行為から遠のいてしまいました。少々、グロッキーではありますが、私は元気です(笑)

実母が入院するということになったわけですが、心配なのは当の実母よりも、その間の実父。こいつがどうしようもない甘えん坊さんで、身の回りのことが、何一つ満足にできない。一番困るのは食事の問題で、食べられるものが少ない上に、既製品の味が気に入らない人なので、常日頃から母は食生活に苦労していたようなのですよ。そこらの弁当を与えても食べられるようなものがなく、それは外食にしても同じことで、だからといって自分で作るということは皆無なので、一体何を与えればいいんだ?ということに…。仮に何か作って持っていったとしても、母と同じ味付けはできませんしねぇ。父は味の濃いものしか食べませんが、うちは数年前から薄い味付けに転向しましたから、私には母の味付けのものは最早作れそうにありません。本人の甘えと、母が甘やかしてしまったからといえばそれまでなのですが、今から思いやられます。いっしょに暮らしていた頃は、そこまでひどくなかったと思うのですが。歳を取るに連れて、食べ物の好みが変化することも加わり、食べられる食材が、極端に狭まってしまったようなのです。油を使ったものはダメだとか、肉は食わないだとか、繊維質のものは歯に挟まるだとか言ってね。魚も、食べるのはマグロの赤身が主で、サケみたいな脂っぽい魚はNG。肉も野菜もほとんど食べないので、炭水化物しか食べていないような感じ。それもただの白いごはんがイヤだというので、最近は毎食おいなりさんを食べてるっていうんです。はぁ…。
日常生活においても、何をするのも他人任せで、いくら「ボケるぞ!」と脅しても、何もやろうとしません。困ったものでありますよ。実はこの父、子どもの頃はお坊ちゃまで、中学生になっても、洋服を自分で着たことがなかったという人なので、思考がその頃に戻ってしまった感があります。”赤んぼうがえり”かっ!

長々と愚痴を書きましたが、病院の行き帰りに読んでいた星新一の本に、「きまぐれロボット」という作品がありました。30年以上昔の作品ですね。中学生の頃だったか、星新一作品をたくさん読んだ時期がありました。昔のことで、内容をほとんど忘れてしまい、読み返したいと思っていたものです。思い返せば、今年はSF作品をたくさん読もうと決めていたのに、今の今まで1作品も読めていなくて、この文庫本が1冊目です。もう10月だってーの!

で、「きまぐれロボット」です。それは、こんなお話。
お金持ちのエヌ氏が、離れ小島でしばらくひとりで静かに過ごすために使いたいと、購入したロボット。開発した博士いわく、「これがわたしの作った、最も優秀なロボットです。なんでもできます。人間にとって、これ以上のロボットはないといえるでしょう」そう太鼓判を押されたシロモノだった。エヌ氏は、ロボットといっしょに島にある別荘へ。「ビールでも飲むか」といえば、さっそくビールを運んでくれ、「おなかがすいたな」と言えば、美味しい食事も作ってくれる。掃除からピアノの調律までし、面白い話もしてくれる万能ロボット。しかし、二日もすると、ロボットの様子がおかしくなってくる。動かなくなったり、仕事の途中で逃げ出したりするように…。ロボットをつかまえるために、考えた挙句、落とし穴を掘ってロボットを捕まえてみると、ロボットは何事もなかったかのようにまた働き出す。こうして、ロボットは毎日何かしら事件を起こすようになった。休暇を終えて、ロボットを開発した博士に文句を言うエヌ氏。それに対して博士は…
「もちろん、故障もおこさず狂いもしないロボットも作れます。だけど、それといっしょに一ヶ月も暮らすと、運動不足でふとりすぎたり、頭がすっかりぼけたりします。それでは困るでしょう。ですから、人間にとっては、このほうがはるかにいいのです」


文庫本で、わずか3ページ半のこの作品。父に読ませたい!(爆)病院帰りの電車の中で、ひとりニヤリとしていた私なのでした。

posted by nbm at 11:13| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする