2009年02月28日

ク○ぅ

100均で買っておいた分配器を出してきて使ったのですが、よく見るとパッケージの右下隅の「プラ」マークの表記がおかしい。最初はカタカナの「ク」に半濁点がついているのかと思ったんですけど、どうもこれ、人型です。身体を「ク」の字にしている人型で、「ク」の字部分は少し寝ていて、「ク」の字の上の頭の部分に「○」が付いてる。だから半濁点にしちゃ○がデカいし、本来右上についているべきなのに、真上に○がある(笑)そしてカタカナの「ラ」でなくて、ひらがなの小さい「ぅ」になってます。小さいように見えるのは、隣の人型がデカいからでしょうか。写真を撮って載せようにも、透明なので、上手に撮れそうにありません。タイトルに表そうかと思ったのですが、最初の文字が表現できない(笑)いろいろなケースを見てきたけど、文字でさえない記号を使っているのは珍しい(笑)

『VOW』を愛読してきた私にとっては、おなじみのこのテのネタですが、最近、あるマジメな本に取り上げられているのを見ました。『日本語ヴィジュアル系 あたらしいにほんごのかきかた』という新書です。著者は、秋月高太郎さん。この方は言語学者で、ことばと文化、とくにサブカルチャーとの関わりを研究されているそうなのですが、この本では、見た目を重視する日本語が、デジタル時代で拡げている様々な可能性について書かれています。まだ読んでいる途中なんですが、たまたま実例を目にしたので、ちょっととりあげてみます。

その昔、”まる文字”なんてものが流行りました。少女文字の一種であったわけですが、近年では、ケータイ・メールで使われた”ギャル文字”と呼ばれたものがありますね。少女たちが新たなフォントを生み出しているというわけですね。
マンガでは、効果音などが文字で表されるときに、文字自体が手書きでデザインされていることが多いです。それが頭の中でイメージとして鳴るわけで、まさに効果音ですよね。
ひらがな・カタカナ・漢字という3種類の文字を持つ日本語では、ひとつの言葉を表記するのに文字を選びます。「いも」「イモ」「芋」といったように。文字の種類によって、言葉の印象が変わってしまうのですよね。
日本語を母国語として使っていると気付かないことなのでしょうが、外国の方たちは、日本人ほど言葉を表記することにこだわりがないようなのです。念のために、ここでは、良い・悪いを言っているのではないですよ。

最初に挙げた「プラ」の表記でもそうでしたが、外国の方が日本語を表記すると、看板や説明書などにおいても、日本人から見るとおかしな表記になっていたりします。そこ大事なんだから間違っちゃダメだろうって、ツッコミをいれたくなりますね。日本人でも、ちょっと悪筆だと、「ソ」と「ン」とか、「シ」と「ツ」とか、わかりにくかったりしますよね。さすがにひらがなとカタカナを間違えることはあまりないかもしれないけど。言われてみれば、たしかにカタカナの「ラ」とひらがなの「う」は似てます。ただ、外来語は基本的にカタカナで表記するから、「プラスチック」の「プラ」はカタカナであるのが当たり前だって考えるし、2文字の単語の最初の文字がカタカナであれば、次もカタカナで表記するのがフツーだからとも考えますよね。でも、この2つの考え方は、日本語を知らない人にしてみると、想像もつかない考え方なのかもしれません。1つの言語に、3つの文字というのはどう考えても特殊ですもんね。こうやって、自分以外の人が読む文章を書くという作業の過程では、必ず、「ここは漢字で」とか「ここはカタカナで」とか、考えながら文字化しているわけです。これを自然にやっているつもりだったのだけれど、たとえば、アルファベットで表記する言語であったら、そんなことは考えなくて済むわけですよね。強調したい部分をイタリック表記にするくらいはあるだろうけど。日本語ってやっぱり面倒なんだな。

無意識にことばを使っているということについて、たまたま目にとまった本がそうだったので、もうひとつ。ドイツ人のステファノ・フォン・ローという方が書いた『小さい”つ”が消えた日』という本。活字の五十音村でのお話。「発音できない」ことから「要らない」とみんなに言われて、家出をする小さい”っ”。ところが、彼がいなくなってはじめて、彼の大切さを知るというストーリー。ドイツ人である著者が、がんばって日本語の不思議を描いているわけです。この方は作家さんではないので、物語としてはちょっとたどたどしいのですが、着眼点は面白い。”っ”が発音されないという点に、今まで気付かないでいた自分にびっくりします。発音されない音が表記されてたんですね(笑)外国の方が日本語の発音を学ぶときに、この促音というのが案外難しいのだそうですよ。日本語は発音が単純で簡単だというイメージがあったのですが、難しい部分もあるようですね。トニー・ラズロさんも、『ダーリンの頭ン中』で言っていた。「はんのう」「はんぱ」「はんこ」「はんを」「はん」。表記は同じ「はん」だけど、発音は微妙に違うというのですよ。「ん」の発音だけでも、実は3〜5種類あるんだそうですね。日本人なのに知らなかったよ。無意識に発音してますもんね。

『小さい”つ”が消えた日』に話を戻しますと、かな文字それぞれに性格を見出しているのが面白いです。「あ」は、日本語の五十音でもアルファベットでも一番先頭にいるから主張が強い。「を」は文字と文字との間にいるので、常に中立的な立場だとか。(でも、これって「と」の方がふさわしくない?)「か」は哲学者で、あれこれ悩んで、何でも疑う。「ん」は、控え目でみんなに席を譲って、自分は後回し。だから、一番後ろにいることが多い。感覚的にはなんとなくわかっていても、具体的に書かれると、そうだよなって思います。

小さい”っ”がいなくなったことで、日本語は大混乱して、結局帰ってきてくれてよかったねとなるわけですが、話の大前提として活版印刷の存在があります。それが具体的に存在する活字のひとつという前提がないと家出もできないしね。デジタルな世界で1文字が消えるというと、ちょっとぼやけちゃうし。だけど、実際の世界はすでに活版印刷なんてほとんどないわけで。昔は一文字一文字を職人さんが組んでいたんですよね。それをこうして瞬時に文字にして不特定多数の人に見てもらうことができるというのは、本当にすごい技術なんですねぇ。

文字というものが、意味やイメージ、気持ちを伝える手段として使われていることに、今更ながら不思議を感じるのでありました。日本語というイメージを重視する言葉を母国語として使えるのはありがたいことですなぁ。
posted by nbm at 11:30| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月27日

聴かせるヴォーカル

家から一番近い場所にあったヴァージンメガストアが無くなってしまいました。TSUTAYAに変わっただけで、CDショップ自体が無くなったわけではないのですが、それなりに個性的な品揃えだったのに、やっぱり一気に平凡な雰囲気の店になってしまいました。残念…。
ヴァージンメガストアの日本事業が、丸井からカルチュア・コンビニエンス・クラブによって買収されていたことも知りませんでしたが。どうやら店員さんたちは、会社の体制が変わっても、そのまま働き続けているようです。見た目からしていかにも”ロック好き”という感じの店員さんが、赤黒のヴァージンのユニフォームから、シャンブレー・シャツとジーンズのTSUTAYAのユニフォームに着替えさせられている辺りが、哀愁を誘います。そこここに貼られていた手書きのインプレッションも姿を消し、視聴の棚に置かれてプッシュされている作品も、イマイチ冴えがありません。

私が初めて行ったファージンメガストアは、当時池袋丸井の地下にありました。大型レコード店というか、CDショップというか、こういったタイプの店は六本木にあったWAVEが最初だったような記憶があるのですが、なんとなく敷居が高かった。店に入っても、ゆっくりできないような(笑)その頃にはすでにタワーレコードが渋谷にできてたかもしれないけど、元々渋谷という街があまり好きではなかったので、とりたてて行くこともなく…。

勝手な印象を述べさせていただくと、ヴァージンメガストアはやはりブリティッシュ・ロックに強い印象がありました。私の場合は、結局HMVがお気に入りのCDショップとなりましたけど、HMVは、感覚的に言うと、可もなく不可もなく、浅く広くまんべんなくという品揃えのような感じ。でも、少々クラシックやジャズ、ワールド・ミュージックなんかに力が入っている感じがしますかね。店舗ごとに違う部分もあるのでしょうが。以前も書きましたが、現在のタワーレコードの特に池袋店は、インディーズのジャパニーズ・ロックに強いです。つまりは、客側が、必要に応じて、店を選ぶことになっていくわけですね。
最近、新宿にできたマルイ・ワンには、ヴィジュアル系ロック専門のCDショップができたと聞きました。ゴシック・ロリータなショップもたくさん入っているとかで、新宿は今後ゴシック・ロリータな人たちをたくさん見かける街になりそうです。
こんな時代ですから、ヴァージンが撤退していくのも仕方がないことなのかもしれませんが、何かに特化して、専門的な部分がないと、物販業界ってのは難しい時代になってきているんでしょうかね。ただでさえ、音楽配信が浸透してCDの売り上げが落ちたり、ネットでCDを入手できるようになったりして、CDショップは追い込まれているのでしょうからね。これからのHMVやタワーレコードの動きに注目していきたいと思います。

さて、幾分カタい話題になりましたか。
今日書きたかったのは、音楽の話だったわけですが。
以前から言ってますが、80年代までは洋楽を聴いていたのですが、90年代からこっち、ふっつりと洋楽を聴かなくなっていたもので、ここ数年で、90年代の復習と、21世紀になってからの新しい音を追いかけているわけなのですが、前から気になっていたRazorlightを聴いてみようかと思って、とりあえず音源を捜して試聴をしていたわけです。そしたら、ちょうど最近新しいアルバムが出たとのことで。他の曲はイマひとつピンとこなかったのですが、今回のアルバムの「Wire to Wire」という曲が、ものすごくイイです。ジョニー・ボーレルのヴォーカル力というか、声に魅かれます。公式HPにリンクがあったのでYouTubeで試聴できます。コチラ。すごくシンプルな映像なんですけども、曲を聴かせてくれるというか、歌声でもたせてしまうというか。

もう一組、ヴォーカルが気になったのが、”レッジャン”ことThe Red Jumpsuit Apparatus。ニュー・アルバム『LONELY ROAD』が出たばかり。 コチラのファン・サイトで試聴できます。フロリダ出身のスクリーモ。だけど、すでにスクリーモって、昔言ったスクリーモじゃないんだね。もう、何がなにやら(笑)曲的にはどうってことないんですが、とにかくヴォーカル力がある!ヴォーカルは、ロニー・ウィンター。スクリーモはヴォーカル力が命なんだな。って、だからスクリーモって何?!誰か、正確に定義してください!

というわけで、気になったヴォーカルを擁するバンドをメモメモしてみました。
posted by nbm at 11:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

☆自演乙☆乙!

昨夜のK−1MAX。
最初から観られなかったのは残念でしたが、長島☆自演乙☆雄一郎選手がとってもよかった!コスプレで登場することで話題を集めていましたね。詳しいことを知らず、本人もインタビューで「仕事はコスプレで、格闘技は趣味(またはアルバイト)」などと言っていると聞き、盛り上げ役にはなるだろうけど、はたして通用するのか?と思ってました。
すみませんでした!私の認識の甘さを、全面的に謝罪したいと思います。彼はすばらしい選手でした。

K−1MAX自体を事前にチェックしてなかったので、HAYATO選手との1回戦だとは知らなかった!対戦カードを知ってたら、失礼ながら1勝もできずに終了かなと予想していたことでしょう。HAYATO選手は、なかなかいい選手ですからね。しかし今知ったけど、もう31歳なのか。ベビーフェイスだからねぇ。ちょっと驚き。
YouTubeで探して、観逃していた1回戦のHAYATO戦を今観てみました。入場のコスプレは「マクロスF」のランカ・リーだったんだね(笑)曲も「星間飛行」だったし。2回戦の入場は放送だとカットされちゃってたけど(笑)、一体何だったんだろう?ピンクのコスチュームだけじゃ判別できなかった…。

そして、2回戦、つまり準決勝。山本優弥選手との対戦。これは観ましたよ。長島選手の試合を全く観たことがなかったので、そのファイト・スタイルを知らなかったのですが、キックボクシングかと思いきや、あれは日本拳法ですね。白いボクサー・パンツに黒帯みたいなモチーフが付いてたし、御本人も日本拳法出身というのを誇りにしているのでしょうね。もちろん、キックボクサーとしてもタイトルを持ってるくらいですから、実力があるのはわかってます。タイトルをとったのは、新しい団体みたいだけど、デビューから2年足らずで11連勝してるし。
だけど、一見へなちょこで「はにゃ〜ん」みたいに見える拳の出し方は、独特でしたね。ストレートパンチというよりも掌打って感じでした。間合いも拳を出したあとのいなし方も、キックボクシングとは違う感じでした。あれは、慣れないと、キックボクサーにはやりにくい相手でしょうね。手数が多くて、スタミナがある。そして、打たれ強い。ガンガン前に出て行くし、観ていて本当に気持ちのよい戦い方をしてました。
1回戦で負傷した目の上の傷からの出血が止まらなくて、結局ドクターストップになってしまいました。残念。本人、号泣してましたね。決勝戦まで3回分のコスプレを用意してたのにね(笑)
予想外に、本当にいい選手だったので、これから応援していきたいと思います。

個人的な好みとして、正統派よりも、クセのあるファイターが好きなので、長島選手のような個性的な選手が活躍してくれると、本当に面白い。今回、優勝したのはコヒでしたが、ちょっと優勢に立つと、余裕ぶっこいちゃって、逆にヤラれちゃったりするっていうおきまりのパターンでしたね。魔娑斗が解説で「彼はこういうポカをよくやるんですよね」とか言ってるし(苦笑)で、劣勢になるとクリンチを繰り返す…。結局、勝ちはしたけど、試合がかちょ悪い…。
それと今回も、ワンデイ・トーナメントの悪いところが出てしまいました。長島選手が準決勝でTKOになってしまったのも、前の試合の傷が元でしたし、前回覇者の城戸選手を完全に戦意喪失させるといういい試合をした日菜太選手も、負傷で先に進めなくなってしまいましたしね。長島選手、日菜太選手は、まだまだ若いし、これからも注目ですね。

そうそう、長島選手が野望に掲げていたことのひとつに、”声優デビュー”というのがあるのですが、「地獄少女 三鼎」第22話でカメラマン役として出演されるそうです(爆)ちなみに、長島選手のブログはコチラ

☆修正しました☆
”正拳突き”と書いていたのですが、”掌打”と書きたかったのでした。ちゃんちゃん。
posted by nbm at 11:39| Comment(2) | TrackBack(1) | 格闘技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月23日

近未来都市TACHIKAWA

妹が出産したので、お祝いに都下方面へ。予定日からかなり遅れていたので、内心ハラハラしていたのですが、無事に自然分娩することができたようで、とにかくよかった。
対面してみると、なぜか、くしゃみを連発する小さな生命体。私たちが、外から花粉でも運んできてしまったかい?そいつをだっこさせてもらい、その体温の高さにあらためて驚くのだけれども、胎内は少なくとも36度はあるわけで、外界はそりゃあ寒いわな。元気に育ってくれたまえよ。

さて、距離的にはバカみたいに遠いわけじゃないけど、ひどい渋滞の中、せっかく都下方面に来たので、ついでにウワサの立川の街を見物に。
立川の駅前は、近年にわかにアニメ作品などで取り上げられるようになったのですが、数年前、実際に友人の結婚式で立川を訪れたダンナさんが、その変わりぶりに驚嘆していて、いつか私にもその街を見せたいと思っていたようでして、その機会がめぐってきたというわけです。

車で向ったので、電車に乗ってきて駅から出た場合と比べたら、多少インパクトが弱まったかもしれませんが、いや、ホントに、びっくりしました。私が以前に立川を訪ねたのは、もう15年以上も前だと思いますが、やはり友人の結婚式でした。駅前は静かで、殺風景な道をとぼとぼ歩いて式場まで行った記憶しかありません。
ところがですよ。今や駅前にはLUMINE・ISETAN・TAKASHIMAYAとデカいデパート群があり、それをとりかこむように延々と2F部分にペデストリアンデッキが形成されていて、その上、頭上をモノレールが走ってます。個人的には、ここまで長いペデストリアンデッキを他に知りません。どこまでもデッキ上を歩いて行ける。横断歩道で信号待ちをする煩わしさがないのと、地下でなく地上なので、開放感があるのがいいですね。でも雨天のときは地下が羨ましくなるかな。

今クールで放送中の「とある魔術の禁書目録」というアニメ作品では、この立川駅前の風景がふんだんに使われています。コチラの「ねこにこばん」さんというサイトのお写真が、特に近未来感をとっても上手に表現されているので、参考にさせていただきましょう。作品中の場面と、同じアングルで撮られている実際の風景の写真が比較されています。このアニメ作品は、魔術と超能力が出てくるのですが、舞台となるのは超能力者を集めて教育・研究している学園都市。そのモデルとして使われているのが、現在の立川駅の主に北口周辺ということなのです。雰囲気がまさにピッタリです。
近年は、アニメの背景として使われた場所に実際に行く”聖地巡礼”という行為が、一般社会でも注目されるようになってきましたね。例えば、「らき☆すた」の鷲宮神社とか、町おこしにも貢献したりして…。我ら夫婦も、立川に聖地巡礼してきたというわけです。目に映る景色は、初めて見る景色なのに、「これか!」とか思っちゃうわけですね(笑)作中では、この街並みのそこここに、風力発電のデカい風車が立ってるんだよなぁなんて思いつつ…。こんな風に、ベースは実在するのだけれども、細部が実際と違っているなんてところも面白いのですよね。

ついでに、第一デパートにも行ってみました。
ここは古くからある、小さな店舗が集まっているタイプのデパートのようなのですが、フィギュアを扱うお店や、レアなコミックを中心に扱う書店などマニアックなお店が1つのフロアにかたまっていることから、そのスジでは有名な場所。時間がなくて、あまりゆっくり見ることができなかったが残念でした。
ところが、今あらためて調べてみて知ったのですが、老朽化により近く解体される予定なのだとか。ビル全体がかもし出す古めかしい雰囲気がなんともいえない空間なのに、残念ですね。各店舗もその後が決まっていないようで、新しく建設されるビルには、入れないのでしょうか。たしかに立川駅北口周辺では、昔の面影を唯一残している部分にあたるようです。ビルの老朽化は仕方のないことなので、安全性を考えると建て替えた方がよいのはわかるのですが、周辺の今昔の比較写真などを見てしまうと、昔の街の景色が全く消えてなくなってしまうのは、ちょっと寂しいですね。あそこまで近未来都市的な街並みになってしまうと、全部小奇麗にしないと気が済まないのもわかるけどね。ああいったキッチュな空間がなくなってしまうのは、つまらない気もします。

しかし、立川にこんなに商業施設を作って、イマドキ採算が取れるのだろうかと、おせっかいにもちょっと心配してみたりして…。でも、立川駅って、乗降客がとても多い駅だそうで、都内でも23区外では一番多いんだそうです。JR東日本管内では15位。相当な人が使ってるんですね。立川近辺の人にしてみると、新宿など23区内に出なくても、買い物は充分用が足りてしまう感じ。とっても便利な街になったと思います。
posted by nbm at 12:11| Comment(5) | TrackBack(0) | コミック・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

あなたも<ユスリート>に!

人間、無意識に行動するということは、ままあるもので。
知らず知らずのうちに、人から指摘されないとわからないことをやっていたりするもんですよね。私はものを食べるときに、首を左右に小刻みに振るクセがあるそうです。自分じゃ見たことないからわからないのですが、ダンナさんから指摘されて気付きました。それが、面白いことに、兄二人も同じクセがあることが、先日わかりました!兄たちが、甥・姪たちに指摘されてたんです。実は私にも同じクセがあったわけで、兄弟3人で同じクセを持っていたことになります(笑)変なところが似るもんですね。

うちのダンナさんは、主に寝る間際とかに、「トントン、トントン」と指でどこかを叩いてリズムを取るクセがありまして、これがけっこううるさいです(笑)観察していると、何かを待っているときにやっていることが多いんですが、例えばPC操作でレスポンスを待っているちょっとした時間とか。寝る前にやるのは、寝るのを待ってるのか?どうやら、頭の中で鳴っている音楽に合わせて、ドラムを叩くような感覚で指でリズムを取っているようです。
そういえば、私も音楽に合わせて指を動かすことがありますが、私の場合はメロディーを追ってピアノを弾くように動かしています。ただいつも面白いと思うのは、両手が対称に動くことです。例えば、右手で「ドレミ」と弾くとしたら、親指・人差し指・中指の順番に動かすわけですが、そのとき左手を同時に動かすと、親指・人差し指・中指と動くので、真ん中に鏡に写したように対称に動きます。右手は、ピアノの鍵盤の配置のように、右に行くほど高い音という認識なのに、左手側は、逆に左に行くほど高い音という感覚になってます(笑)ラテン・ピアノのように両手でユニゾンを弾くのって難しいとも思っていたので、音の感覚の認識が左右の手で違うことには意味があるのでしょうね。というか、指を動かす運動野の問題か?同時に、絶対音感まではいかないけど、音の高低はわかるので、相対音感ぐらいは持ち合わせているんだなと認識します。音楽を聴きながら、瞬時に「これはさっきの音より高い(低い)」とわからなければ、運指はできないわけですからね。そして、この運指をすることで、メロディーを把握するという脳内活動を助けているとも思います。無意識の行動なのに、脳はずいぶんと複雑なことをやってるもんだな。

ちょっと話がそれちゃいました。
面白いモノを見つけまして、もうすでにご存知の方も多いと思いますが、明和電機と面白法人KAYACが共同開発したYUREXというモノ。貧乏ゆすりを解析するという商品です。HPはコチラ。サイトもいちいち揺れて、見づらいよぉ(笑)「あなたのクリエイティブビートが、測れる、見れる、操れる」なんじゃ、そりゃ!(爆)あいかわらず、やってくれます、明和電機さん。
どういうモノかといいますと、太ももにカウンターをつけることで、ビンボーゆすりをカウント。ビンボーゆすりを脳内の集中状態のバロメータと考えて、個々の”インナービート”たるそのリズム・パターンを解析。”創紋”として記録し、最高のノリノリ状態を再現するサウンドで集中状態を高められるという…。つまり、こういうことですか。自分のビンボーゆすりを記録することで、集中しているときのビンボーゆすり具合を割り出して、それをリズムとして再現できるようにし、つまりは集中を高めたいときに最適なビンボーゆすりをすることで集中力を引き出すことができると?それは、すばらしい!(爆)

私が個人的に気になったのは、本体のデザインです。
オモチャの場合、パッケージデザインは、衝動買いを狙うため、「売り場での違和感で目立つ」ことが大切です。しかしYUREXは高額商品で、しかもWEBでの販売がメインなので、衝動買いはありえない。であればパッケージは、お客様が家に届いてそれを手にとったときに、ボワーッツと妄想が膨らめばよい。だから真っ黒い箱にマークしか描いていません。まるでCIAから届いた機密兵器みたいに(そんなもの見たことはありませんが)。

明和電機・土佐信道


うん、なんかイイ!

残念ながら、私はビンボーゆすりをするクセがないので、この商品は使えません。ですが、よくよく考えてみると、上に書いたように指を動かしていることが多い気がします。この行動が、ビンボーゆすりに代わる行動なのかもしれません。

貧乏ゆすりというのは、心理学的には、不安や緊張の表れだと言われていますが、血行を促す生理現象や、収縮した筋肉を無意識に伸ばそうとしているとする見方もあるようです。幾分かは、カロリー消費にもつながるのではないかという意見もありますし(笑)男性に圧倒的に多いクセというのも面白いですね。男女の筋肉量の違いや、脳梁の太さの違いが関係しているのではないかという説があるようです。
posted by nbm at 11:43| Comment(6) | TrackBack(0) | 身体のこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月16日

ペパーミント・グリーンの思い出

先日、テレビ東京の「モヤモヤさまぁ〜ず」を観ていたら、あれ?どこだったっけ?自由が丘?忘れちゃったけど、古い喫茶店に落書きノートが置いてあって、数十年分のバックナンバーが保存されていたのでした。昔はよくあったよね、落書きノート。

私が高校生時代に通っていた喫茶店は、最寄駅近くにある紅茶専門店でした。ごちゃごちゃした商店街の端っこにあって、白が基調のシンプルなインテリアがかわいらしいお店でした。脱サラしたマスターと奥さんが、ひっそりと営んでいたお店。今はもう無くなっていて、その後伊豆かどこかでペンションを経営されているというウワサを聞いたのですが、詳細はわからずじまいです。近くの男子校の生徒がよく来てた。自分の高校は離れた所にあったので、いっしょに来たコ以外は、同じ学校の生徒に会うことはなくて、居心地がよかったなぁ。ポットごと出てくる紅茶がとっても美味しくて、当時ポットウォーマーなんてものを見たことがなかったので、キルトの覆いを新鮮に感じたものです。ローズヒップなんかのフレーバー・ティーもまだ珍しかったし。リゾットというシロモノを初めて食べたのもこのお店で、コンソメ味で卵とベーコンを使ったあっさりしたものだったのですが、これを真似して自宅で作り、今でもうちの定番メニューとなってます。高2の春に失恋をして、ヤケ酒を飲んだのもこのお店でした(笑)カクテルが置いてあったので、シンガポール・スリングを。しかし、今考えると、制服姿の女子高生に、昼間からよくカクテルなんて出してくれたよな。実は密かにアルコールを抜いてくれてたのかな。
高1の時から、学校でのイベントの打ち上げは、みんなで居酒屋で酒を飲むってのが定番だったけど、今は”18歳未満入店お断り”とか、カラオケでも”18歳未満は夜11時まで”とか、厳しいですね(笑)

話を喫茶店に戻しましょう。
このお店の落書きノートに、よく書き込みをしてました。何をどう書いてたのか、全然憶えてないけど(笑)何も具体的にはならなかったけど、件の男子校の生徒と、ノート上で少しだけ交流していたような記憶があります。
その男子校といえば、私が毎朝、自転車で通る道沿いにあったのですが、おかしな電話がかかってきたことがありました。日曜日だったかな。家族が「綾小路さんって人から電話だよ」と取り次いでくれました。そんなヤツは知らんと思い、訝しみつつも電話に出ると、相手は男の子で、例の男子校に通っている”綾小路文麿”と名乗った。ここまでで充分アヤシイ。「実は、ボク、草葉の陰からいつもあなたのことを見ていました」って、お前は死んどんのか!受話器の向こうから、複数のクスクス笑いが聞こえたので、イタズラだと確信し、そばにいた兄に「なんか変な電話なんだけど」と受話器を渡して「ゴルァ!」とやってもらいました。あまりにくだらない出来事なのですが、偽名のネーミングがナイスだったことと、「草葉の陰から」というフレーズをたぶんマジで間違って使用していたことが印象深く、忘れられない出来事となりました(笑)
しかし、なぜに私の電話番号を知ったのか。例の落書きノートには、当然個人情報を書き込んだりはしません。あの男子校の生徒との接点はそこだけだったのですけども。当たり前のことながら、名前も明かしてませんし。もちろん、学校名もウソだったとも考えられるのですが。
近所の高校ですから、同じ中学校の同級生も数人いましたし、そいつらから情報が流れたか、もしくはそいつら自体が犯人だということも考えられます。
私は毎朝その男子校の前を通って駅まで通っていて、鬼の形相で自転車を漕いでいる私を目撃したことがあると、その学校に通う同級生から言われたこともありました。声をかけようにも、恐ろしくてかけられなかった、と(笑)なにせ、いつも遅刻ギリギリで登校していたもんで、とてつもないスピードで前を通り過ぎていたハズ。”鬼の形相”と言われるのもうなずけます(笑)

ついでに、他にも懐かしいお店を思い出してみました。
リゾットといえば、クリーム味のものもうちでよく作りますが、それはまた違う喫茶店でお料理上手のマスターが出していたメニューでした。クリームの味のしつこさをやわらげるために、生のトマトを刻んで乗せていたのですよね。そのマスターは確か亡くなったとのことで、そのお店ももうありません。そこに隣接していた個人輸入の洋服屋があって、GAPやBANANA REPUBLICのものなどをよく買ってました。そして、今でも着てる!(笑)普通のサラリーマンが趣味で週末だけ開けていたようなお店だったのですが、当時は今のようにメーカー直営のショップがありませんでしたからね。でも、そのお店ももうありません。そのビルの上には、長年通った美容室があったのですが、ある日突然消滅してました(笑)これには正直参りました。他にも当時の最寄り駅の近辺には面白いお店が多く、主に大学生時代に通った貸し本屋もありました。借りたのは、マンガばかりだったけど。その店ももうありません。それから、やはり大学生時代から通っていたセレクト・ショップがありまして、ここの店舗は無くなったものの、姉妹店がいくつかあったので、今はちょっと離れた姉妹店に通っているというわけです。オーナーさんや店員さんは変わらないので。

この駅周辺を使わなくなって、もう十年以上経ちます。たまに電車で通り過ぎたりすると、降りて歩いてみたくなるんだけど、実際の行動に移したことはありません。ピザがとってもおいしいイタリアンのお店もあったのだけれども、ネットで検索しても出てこないところをみると、そこも無くなってしまったかな。他にも、本格的に珈琲を飲ませてくれる正統派の喫茶店があり、お客さんひとりひとりの雰囲気に合わせて別々のコーヒー・カップで出してくれたお店があったのですが、そこだけはまだ営業しているかも。
十年も経ちゃあ、街も変わるってもんですよね。高校時代から結婚して引っ越すまで、生活していた街なので、地味な街だけどそれなりに愛着があるもんです。
posted by nbm at 12:01| Comment(7) | TrackBack(0) | どうでもいいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月14日

闇を聴く

昨日、関東で吹いたはずの春一番。
気温が20度にもなるというので、身構えていたのですが、一向に温かくならないどころか、寒い!今朝も寒いままなので、どうやら、この辺りには春一番は吹かなかった模様。おかしいと思い、天気予報のサイトで風向きを見てみると、関東でも南風は南側だけ。北側は北風が吹いていました。どうなっとんねん。北風と南風のぶつかる所では、一体どうなっていたのでしょう?この辺りでは、雨にも避けられた様子で、全く降らなかったみたいだし。ここは埼玉の最南端なんですけど、全っ然、あったかくなんないよぉー!

『闇を歩く』という本を読んでみました。体験作家でナイトハイカーである中野純さんという方が書いてます。内容もさることながら、文章がおもしろくて、活字を読みながら声をあげて何度も笑うという稀有な本でありました。中野さんは、”さるすべり”というレーベルを作って、様々な活動をされているようなのですが、例えば少女まんが館を作られていたりね。”さるすべり”のHPはコチラ。中野さんの他の著書、『東京「夜」散歩』『ヒトの鳴き声 ホーミーと牛とマッキントッシュ』あたりも読んでみたくなりました。

さて、主に東京近郊の夜の山を歩くナイトハイクを中心に書かれているこの本。しかし、プラネタリウムからおばけ屋敷、果ては水禽窟まで、闇を探して歩き回ります。
もはや正真正銘の闇には、滅多にお目にかかれなくなりました。家の中では、雨戸をピッチリ閉めて外光を遮り、電気を全部消せば、完全な闇が作り出せると思いますが。一歩外に出てしまうと、街灯や車のライト、コンビニの看板など、とにかく明るいです。たまに流星群を見たいなんて思っても、明るい場所が多くて、家の近所ではなかなか難しいのですよね。
私たちはふだん、自分とまわりとの境界を、目で確認して生きている。もちろん、一部は触覚でも確認しているが、ほとんどは視覚で自分と自分以外を区別している。だから真っ暗闇でなにも見えなくなると、自分と自分以外を区別しづらくなってしまう。自分というものが把握できなくなってしまう。文字どおり、自分を見失ってしまう。そうすると、まわりに自分が呑み込まれていくような感じがしてくる。

自己という認識が曖昧になってしまうようですよ。そして、パニックを起こす。私とあなたが融け合って、人類補完計画に取り込まれてしまったようなことになるわけか(笑)
人よりは、夜の山というものに行った経験は多いとは思うのですが、それはいつも車に乗って行っていたわけです。若かりし頃、仲間と四駆で夜の山を走り回っていたのでね。でも、そこには必ず車のライトがあったし、車内という安心感もありました。自ら進んで車の外に出ようとは思いませんでしたし。

夜の山歩きは、いいことずくめらしい。普段、交通量が多い車道は、めったに車が通らない。当然、他の登山客はいないので、混雑を避けられる。夜を徹して歩き、辿り付いた山頂では、絶景の朝日が出迎えてくれることになる。暑い時期でも熱射病にかからずにすむし、スズメバチなどの危険生物に遭う確率が低くなる一方で、出会ってみたい野生生物には遭遇しやすくなる。それに、お手軽に不思議体験ができる!(笑)中野さんはホーミーの使い手なのだそうだけれども、夜の山の、それも特に神聖視されているような場所でホーミーを奏でたりすると、幻聴が聴こえることがあるとか。ホーミーなんて、簡単にできるものではないけれども、なにもホーミーを奏でなくとも、目に見えぬ者の気配を感じることは珍しくないらしい。やはり、夜の山でゲロアタックをしているダンナさんに言わせると、おかしな音がしたり、何かの影が見えたりすることはよくあることなのだというし。

闇を体験すると、私たちが普段視覚というものをいかに重視しているかがわかるという。それは想像に難くないのだけれども、そうなるとどうなるかというと、五感のうちの他の感覚をフルに使おうとするらしく、中でも一番研ぎ澄まされるのが聴覚だという。目から得られない情報を、なんとか耳でキャッチしようとするんだね。さっき書いたけど、夜の山でいろんな物音が聴こえるというのは、聴覚が敏感になっているからなんだろうね。
光は見るものであり、闇は聴くものと言っていい。

著者は、ここで”闇”という漢字に”音”が使われていることに気付くのだけれども、気になったので、またまた漢和辞典で”闇”を引いてみる。”音”というのは音符で、「おおう」という意味があって、”闇”という字は門を閉じることから、「暗くなる」という意味。ちなみに、”暗”という字も”音”が付いてるけど、同様に日が隠れて「くらい」となるのだとさ。”音”は、「イン」という音符として”陰”に通じているよう。成り立ちからすると、まるで関係ないようなのだけれども、偶然というか、闇は聴くものだという主張を強力に後押しすることになってる。
ちなみに、山とは無関係に、”闇飲み”というものが紹介されていた。闇鍋の飲み物版。参加者がそれぞれ飲み物を持ち寄って、闇の中で飲む。すると、不思議なことに味覚が錯綜するそうだ。人間って、やっぱり視覚に頼っているところが大きいのね。ちなみに、風邪を引いたりして鼻がきかなくなると、味覚の感覚が落ちるなんてこともありますよね。五感って、助け合っているのね。

山歩きは、昼間でも当然危険がともなうものであるし、低山だとしても決して侮ることはできない。間違っても、おもしろそうだと簡単に夜の山を歩くような真似をしてはいけないと思うので、一応忠告。もし、行きたい場合は、必ず山歩きに慣れた人と行くことを、中野さんも勧めていました。私も中野さんと、夜の山を歩いてみたくなりました。

夜の山で思い出す方がもう一人。安曇潤平さん。『山の霊異記 赤いヤッケの男』はオススメです。怪談雑誌『幽』に掲載された、ご自身の体験を元にした山の怪談を集めたもの。この方、一人で山を登り、一人で山で夜を明かすという経験を数多くされているので、いろんな話が出てきます。怪談というだけでなく、山を登ることが擬似体験できたり、壮麗な景色を想像したり、豊かな文章力で楽しませてくれます。

中野純さんは、夜の山で闇を楽しむことを、”ディズニーランドにでも行くように”と表現さていました。それは、手軽に恐怖を楽しむ、一大レジャーなのであります。って、ナイトハイクって、あんまり手軽じゃないような気もするが(笑)ご家庭で一番お手軽に闇を楽しめるのは、”闇風呂”だとか。アイソレーションタンクを擬似体験できるそうです(笑)
posted by nbm at 11:28| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月12日

Stupid White Bear ?

朝起きて、一番にすることはPCの電源を入れること(笑)同時にテレビをつけて、朝食の準備にとりかかります。調理には電子レンジを使うこともあります。そして、出かけるときには、携帯電話とMP3プレーヤーが欠かせません。

このブログを読む方であれば、PCか携帯電話をお使いのはずで、上記に私が書いたような行動は、特に何の変哲もなく映ることでしょう。テレビなら、電源をつけて、チャンネルを変えるくらいだから簡単にできそうなことではありますが、電子レンジともなると、温めるものによって時間を設定したり、自動で温めてくれるにしても、そのボタンを選択して押すという動作をしないと動いてくれません。今は、温めたいものを放り込んでただ”あたためボタン”を押せば済む機能もあるかと思いますが。携帯電話も、通話に使うくらいなら、大した操作は必要ありませんが、メールをやりとりしたり、写真を撮ったりするには、それなりの方法を覚えて実行しなければなりません。MP3プレーヤーともなると、どこかから楽曲をダウンロードするなり、手持ちの音楽ファイルを読み込むなりしなきゃなりません。
もちろん、世代間の格差というものは否定できないと思います。先日、「笑っていいとも」の100人の観客の方に徳光さんが聞いていましたが、携帯電話を持っていない人は皆無でした。勝手な推測ですが、この観客の方たちは、大体20代からせいぜい40代くらいでしょうか。年配の方や小さな子供を除くと、携帯電話を持たない人は少ないでしょうね。携帯電話が一般化していく中で順応できた世代と、物心ついたときにはすでに携帯電話というものが存在したという世代は、何の躊躇もなく手にすることができるでしょう。
私は、こういったことが当たり前のことだと思っていました。

ところが、『イギリス人はおかしい』という本を読んで、少なからず衝撃を受けたのですよ。これは、イギリスで生活する高尾慶子さんという日本人ハウスキーパーが、イギリスについて語った本です。ずっと以前にチェックしていた本なのに、題名や著者をすっかり忘れ、闇雲に探していたのですが見つからず、昨年だったかredpillさんのブログで偶然発見して、やっと読むことができました(笑)
イギリス人の悪いところを辛らつに書いていて、少々辟易するところもあるのですが、自分が直接接したことのないイギリス国民について書いてあることは、悪口を多少引き算しながら読んでも、興味深いです。一応言っておくと、高尾さんはイギリスという国をとても愛していらっしゃいます。
高尾さんによると、イギリス人は”なかなか動かないシロクマ”のようなもの。何をするのも遅く、何かの修理を頼んでも時間がかかるし、どこで何をするにも対応が遅いので行列ができるといいます。
けれどもプライドだけはとても高く、アジアを見下しているのだそうです。貧富の差がとても激しいから、貴族などの富裕層には特に顕著なのでしょうか。日本は極東地域ですからね(笑)どうやらイギリス人は、産業革命の時代や列強と言われた時代のことを、いまだに自負しているようなのです。
貧富の差が激しいとはいえ、福祉国家として名高いイギリスでは、失業手当などが充実していて、そのせいで逆に働かなくともどうにか暮らしていけるということらしく、働く気のない人は働かないまま(笑)それで生きていけるんだからすごいことだけど。この本が出版されたのは1998年なのですが、それから10年…イギリスは変わったでしょうか。

さて、この本の中で一番衝撃を受けたのは、一度は地下鉄の駅で導入された自動券売機が、すぐに撤去されてしまったこと。機械の使い方がわからなくて、一人が20分も使い方を試すので大行列。結局、使い方がわからず、窓口に助けを求めることになるので収拾が付かなくなったというわけ。そんなことなら、従来どおりに窓口で切符を販売した方がいいということに。イギリス人は、stupidなんだってさ。
今の日本では、自動券売機どころか、suicaやpasmoさえ、あっという間に浸透してしまったわよね。
産業革命に誇りを持つイギリス人としては、古い機械を使い続けるという考えがあるらしい。それは、一面ではとてもすばらしいことだと思うのだけれども、そうすると新しい物がなかなか導入できないし、たとえ新しい物を導入しても複雑化した機械に馴染むことが難しいらしい。それに、古い機械にはメンテナンスが必要だけれども、そのメンテナンス自体もチャッチャとできないので、機械が故障するということは大事で、一度故障すると復旧するまでに非常に時間がかかってしまう。何でも使い捨てにして、新しいものに乗り換える日本人としては、古いものを大切に使うという姿勢は、ある意味見習いたいのだけれども。両極端って感じだね。

さて、機械の操作に抵抗を懐かないのは、日本人の特長なんだろうか。それとも、イギリス人が特別どんくさいの?
子供時代って、なんでもボタンがあると押したがりませんでしたか?エレベーターでも、博物館の仕掛けでも、駅の案内板でも。ボタンを押すと、何がしかの仕掛けが動作するという醍醐味。道理がわからなくても、「これを押せばこうなる」ってだけで楽しい、みたいな。
件の本では、サッチャーさんが教育費を削減したからイギリス人がおバカになったという指摘だったのだけれども、学校で教えるようなことだろうか?大体、機械の操作方法って、誰か特定の人に教わったっけ?自分で、「こうなってるのか」って試しながらやるしかないんでないの?でも、ある程度の道理がわからないと、やっぱり操作できないのかもね。

機械操作の苦手な原因のひとつに、機械に対して恐怖感を持っているというのがあると思います。ボケかけたうちの父がそうで、電子レンジに触るとビリビリしそうで、怖くて触れないそうです(爆)そんなこと、あるか!
そこまでひどくなくても、「適当にいじって壊れてしまったらどうしよう」とか、考えたりして。間違うことはあっても、壊れることはあんまりないと思うのですが。
それにしたって、ジュースやたばこなどの自動販売機はもちろん、銀行のATMなんてのも当たり前。最近はポイントカード関連の機械がお店に置いてあったりしますし、自分でできるセルフ・レジなんてのがスーパーにあったりします。考えてみれば、パチスロだってボタン操作だし、テレビ・ゲームなんて最たるものですね。遊ぶときにもボタンを押してたのか(笑)

イギリス人よりも日本人の方が、頭がいいなんてまったく思いませんが。当然、個人差はあるでしょうが、日本人は機械操作に抵抗がないということは明らかですね。しかし、それが何によって培われたものなのか、深く考えると面白そうです。
posted by nbm at 11:34| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月11日

Point of View

『クローバーフィールド/HAKAISYA』(2008)を観てみましたわ。『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)手法、つまり演者が持つビデオカメラで撮影されている映像という設定で、手ブレ映像が続くわけですね。乗り物酔いする方は、大変です。あたしゃ、乗り物酔いしないタチなので全然大丈夫なんですけども。内容的には、ニューヨークはマンハッタンを舞台にした怪獣パニック映画。かつて起こった出来事の資料のひとつである記録映像として紹介される形になってます。怪獣映画になじみのある日本人には、怪獣映画としては物足りなさがありますし、撮影手法以外には、特筆すべき点はあまりありません。クリーチャーもそんなに目新しいものでもなかったし。J.J.エイブラムスが、ふと浮かんだアイデアをそのまま映像化してひとつの作品としてしまったという感じ。
評価できるとすれば、ひとつには登場人物に有名俳優を起用しなかったこと。これで、俳優に目が行かず、一市民としてのリアルな視点が保てます。もうひとつは、手法がドキュメンタリー的なものだから当たり前といえば当たり前だけど、作品中に音楽を使っていないこと。逆にいえば、音楽を使わず、映像と効果音だけで観せてくれたともいえるかな。エンドロールも、途中までは音楽が入ってなくて、このまま行けばかっこいいなと思ったんだけど、途中から我慢しきれなかったのか音楽を入れちゃったね(笑)最後まで無音で通してほしかったな。
決して、つまらなくはなかったですよ。何より、ハッピーエンドでなかったことは評価に値します。

さて、この映画のように、主観の視点で撮られている映像をPOV映像と呼ぶそうです。Point of Viewっつーことですか。最近では、他に『REC』(2007)という作品も、POVの作品として名前が挙げられています。ジョージ・A・ロメロ御大の『『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』(2007)も。これらは未見なのですが。いっそのこと、POVで、尚且つ3Dとかにしちゃったらどうだ?臨場感を出すための手法なんだろうからさ。

POVっていうと、アクション・アドベンチャー・ゲームを思い出すわ。自分の視点で進むのだよね。もちろん、主観映像だけではないのだけれども。ホラー系とか、やっぱり臨場感があるよね。

今クール観ている『FRAG』(2006)というアニメ作品は、徹底的に主観映像で構成されている作品。すべてのシーンが、ビデオカメラ映像か写真、もしくはコンピュータやヘリなどのモニター画面で構成されているというもの。慣れるまではちょっと観づらいのだけれども、なかなか面白い手法です。
中央アジアの小国の内戦を、戦場カメラマンの視点で描くという作品。HAVICという、現時点では実在しない人型ロボット兵器が出てきますけども、とてもリアリティのある作品です。そのうち、こういう兵器も開発されて、実際の戦場で使用されていくのだろうなという、現実にすごく近いところでの想像が生まれてきます。

Point of Viewとひとことに言っても、それが地面に立った地続きの視点なのか、高みから全体を見る俯瞰なのか、そのPointによって大きな差があるでしょう。物語で”見ている”人は自分ではないし、厳密に言えば”主観”とはいえないのだけれども、それを擬似的に体験させてくれるという意味では、POV映像というのも悪くないかな。

posted by nbm at 15:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

タモリさんは粋だ!

先日、「笑っていいとも」のテレフォン・ショッキングのコーナーに、徳光和夫さんが出演されていました。徳光さんは、ご自身が司会者ということで、「今日はタモリさんにお話を伺いたい」と言って、タモリさんに話をふりました。ひとつは、赤塚不二夫さんへの弔辞について。私も、こんなすばらしい弔辞は聞いたことがないと思いましたが、後にあの弔辞を読んでいるときの手もとの原稿は白紙だったというウワサが流れましたね。徳光さんは世論を代表しているような調子で、直接「あれは白紙だったのですか」とは聞きませんでしたが、読むスピードと原稿をめくるスピードに違和感を感じたというようなことをおっしゃいました。そして、真相はどうだったのか、と。タモリさんは、間髪をいれず「忘れましたねぇ」と答えました。当然、忘れてなどいるはずがありませんが(ニヤリ)私は、そう答えたタモリさんに感銘を受けました。
徳光さんが、その後に続けた話もしかり。お二人の共通のご友人が亡くなったとき、力を落とされているご家族に代わって、タモリさんが葬儀のすべてを取り仕切ったというお話。そこまで徳光さんに話されてしまったので、タモリさんは仕方なくといったように、「お世話になった方なんです」と話していました。「お前はトランペットは下手だから辞めろ。だけど、しゃべりが上手いから司会をやれ」とアドバイスをしてくださった方なのだとか。
徳光さんが話したお話は、人が聞きたいと思う話かもしれないけれども、タモリさんご自身は、話したくないことだったのだと思う。

先日、テレビ朝日の開局50周年記念番組の一つとして、「タモリ倶楽部」のスペシャル番組が放送された。タモリさんはスペシャル番組を作ることを嫌い、今まではなかったそうだけれども、そこは開局50周年ということで制作されたようだった。私にとっても、「タモリ倶楽部」は初期の頃からずっと観続けてきた番組。なので、このスペシャル番組を楽しみにしていたのだけれども、どうやらタモリさんは出演されないとわかり、ご自身はあまり乗り気ではなかったのだなと想像した。番組は、テレビ朝日のアナウンサー2人が、過去の内容を振り返るというものだったけれども、ほとんどが近年放送されたものだった。2人のアナウンサーの語りから、タモリさんが過去の映像を流すことをあまり快く思っていないことが汲み取れる。過去をあまり振り返りたくないということなのか、はたまた過去の自分の映像が流れることをよしとしないのか、本当のところはよくわからないけれども。勝手に想像してみると、「タモリ倶楽部」という番組は、どうでもいいようなことを”やり逃げ”しているようなもので、その瞬間の面白さを追及しているわけだから、それを振り返って何が面白いんだ?ってことかな。って、こんな風に想像すること自体をタモリさんは嫌うかもね(笑)

そして、今朝のこと。「王様のブランチ」を観ていたところ、キングコングの西野亮寛さんが絵本を出すということで紹介されていた。極細ペンを1000本以上使い、仕事の合間を縫って5年をかけて完成させたという絵本「Dr.インクの星空キネマ」は、以前取り上げたアイナール・トゥルコウスキィを髣髴とさせる力作。それを描くきっかけとなったのは、タモリさんだっという。「絵本が描きたい」という西野に、「描け」と言ったのはタモリさんだった。そして、制作中に、森のシーンで表現に悩んだ西野が屋久島に行きたいと言うのを聞くと、タモリさんが屋久島行きのチケットや宿泊先などをすべて手配してくれて「行って来い」と送り出してくれたそうだ。

ね。タモリさんて、こういう人だ。だから、かちょいー!

「タモリ倶楽部」については、高校生の時分から観てきたわけですが、といっても、女子高生の自分が、「タモリ倶楽部」をかぶりつきで観ていた記憶はないのだけれども、当時のコーナー「愛のさざなみ」なんかを懐かしく思うのだから、やっぱり観ていたわけで(笑)それから、ちょうど自分が泉昌之作品の漫画にハマっていた時期に、久住昌之さんが出演していた「東京トワイライトゾーン」とか。「空耳アワー」は別格としても、色々と面白いコーナーがあったんだよね。近年は特に、タモリさんの趣味に走った企画が多いけど、それがまた面白いんだよねぇ。
かといって、欠かさず観るってほどの熱意をもって観ているわけでもないんだけど(笑)
posted by nbm at 11:20| Comment(9) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月05日

裸蟲の数え方

最近、ハマっている漢和辞典。
パラパラめくっていると、面白くて止まらなくなる。

昨日は、漢数字の一から十について調べてみた。
一から三までは、成り立ちが簡単に想像できる。1という数字に関しては、今数字に関する本を読み出したところなので、あらためて記事にしたいと思う。二については、特に面白いこともないんだけど、三にはすでに「たくさん」という意味が含まれるらしい。作り話なのか、どこぞの部族では数の概念が「1つ、2つ、たくさん」と3通りしかないなんて話を聞いたことがあるけど、とはいえ三という字で「たくさん」という意味を持つ熟語を探してみると、なかなか見つからない。

四というのは、縦線が4本並んだものが変形した字だとばかり思っていたのだけれども、そうではなくて、元々横線4本で表していたものだったのが、四という字を借りて表すようになったらしい。ちなみに、四は口を開けて歯や舌が見えるさまで、「息つく」という意味。もひとつちなみに、四って部首でいうと”くにがまえ”になるのね。普段、横長に書くから、どうもそうは思えないんだけど。私だけ?
五は、糸巻きの形の象形文字。物が交差した形を示す指示文字でもあるのだけれども、それを借りてる。
六は、家屋の形で、「屋」の原字。
七は、もともと「+(プラス)」のような形の、横線を縦線で切断するさまで、「たちきる」という意味。「切」の原字。
八は、互いにそむき合っている二本の線で、「わかれる」意。おめでたかったりするイメージがあるんだけど、「わかれる」という意味だったのね。
九は、うでを曲げた形で、数のきわまりを表す。「曲がる」ことが「つまる」ことに通じるのはちょっと苦しい気がするけども。
十は、針の形で、針の原字。
と、こんな具合。なんで数字にその字を借りることになったのやら、結局よくわからない。
またまたちなみに、中国での金銭証書や公文書などでは、「壱・弐・参・肆・伍・陸・柒(漆)・捌・玖・拾(什)」というような数字を使うらしい。ご祝儀を包むときなんかには、旧字体の漢数字を使ったりするけれども、中国の影響なんだろうか。仕事で、たまに手形の金額がずらずらと漢数字で書かれているものを見かけたことがあるけれども。間違いのないようにってことなのかなぁ。一・二・三とかだと簡単に改竄できそうだもんね。実際は、すげぇ読み取りづらいんだけれども(笑)

もうちょっと調べてみると…
百は、一と、「大きい」という意味の音符「白」とから成る字。
千は、一と、音符「人」とで表されたもの。
万は、うき草の象形文字で、萬の略字。萬は、さそりの形。
億は、人と、「心をみたす意」の意から成っていて、人が安んじるという意味。
兆は、うらないで亀の甲に現れたわれめの形で、「きざし」の意。

やっぱり、さっぱりわからない…。
けっこうテキトーなのね。

長い歴史の中で、漢字も相当変化していっているようで、何かに読み替えられてしまうというようなことが多すぎる。前回取り上げた「寸」という字でも、もともとは手を意味する「又」が、寸に変わってしまっている字というのが少なくないようで、「寺」も「対」も「専」も「封」も「射」も、「寸」と書かれている部分は、もともとは「又」だったらしい。漢字とて、今の形が完成形と思いきや、中国では次々と略字が考案されているみたいだし、やっぱり時代とともに変化しているのね。
漢字の解釈については、諸説あるようですから、ここに書いたものは、ひとつの説としかいえないのかもしれませんけれども。

タイトルの「裸蟲」というのは、「人間」のことを指すことば。毛の生えていない虫ってことなのね。毛が生えていて当たり前の、陸上生活動物の中では、「コイツら、毛も生えてねーでやんの!」的な扱いなのかしらん。
posted by nbm at 12:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 気になったこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月03日

単位の日

ある日、テレビを観ていたら、立て続けに聞きなれない言葉を聞いた。それは、みな何らかの単位だった。

最初に聞いたのは、パーミルケルビン。二つとも、なんとなく聞いたことがあるような…という感じ。
これは”タービダイト”を解説している地質学の先生らしき人の口から出てきた。まず、タービダイトって何だよっ!(笑)タービダイトってのはですねぇ、大陸棚斜面において発生した混濁流(タービティティー・カレント)が海底谷を下り、深海底に堆積し、形成されたもの。こんなの。通常のように水流の勢いが一定ならば、粒の大きさが違う小石と砂が混ざるような地層はできないはずなのですが、洪水や集中豪雨などがあると、様々な大きさの石や砂が混ざった状態で堆積するというわけですね。つまり、重いものが沈むのだろうから、粒の大きさは水流がなければ、ある程度は揃うはずだということらしい。どこを見ても説明がわかりづらいんだが、つまり、タービダイトってのは、砂岩と泥岩が交互に堆積した地層を指すってことかな?あぁ、あの先生の解説をもっとちゃんと聞いておくのだった…。

いかん、いかん。今日の本題はこれではないのでした。単位の話ね。そこで出てきたのが、まずパーミル。これは、千分率のことで、‰と表記される。パーセント(%)に余計な0がくっついてるよ!例えば、5%=0.5‰ってことだね。どっかで聞いたことがあると思ったら、道路や鉄道の勾配を表すのに使われてたのか。あれ?でも道路標識なんかはパーセント表示だよね?あとは血中アルコール濃度か。あんまり縁がないから実感ないな。例えば、飲酒轢き逃げのニュースとかでも、アルコール濃度まであんまり言わないよね?
もうひとつがケルビン。これもどっかで聞いたことがあるけど、よくわからない。これは、温度(熱力学温度)を表す単位。「すべての分子の運動が停止する絶対零度を 0 ケルビン(K)とする」そうか、絶対零度ね。普段使い慣れてる温度の単位はセルシウス度というらしいんだけど、”摂氏”というのは”セルシウス”の音訳だったのか!水の凝固点を0℃、沸点を100℃にしたヤツね。たまに華氏の温度を聞くと、摂氏でいうと何度くらいになるのかまったくわからなくて混乱するよね。って、ケルビンどっかにいっちゃったよ。

で、もうひとつ、これは別のテレビ番組で同日に聞いた単位、エレクトロンボルト。電子ボルトだね。なんか強そうだ!「1Vの電位差がある自由空間内で電子1つが得るエネルギーを1eVとする」おぉ!なんのことやらわけがわからない(笑)非常に小さなエネルギーを表すときに用いる単位ってことだね。素粒子の質量とか。全然強くなかった!これが、素粒子レベルで高エネルギーになると、MeV(メブ)・GeV(ジェブ)・TeV(テブ)となっていくのだとか。メガ・ギガ・テラがくっついてるのかな。「チバ・シガ・サガ!」みたいだな(ヒント:ラーメンズ)エレクトロンボルトは、単に「イーヴィー」と発音されることも多いらしく、そっちの方が聞いたことがあるような。

そんな単位を耳にした同日、何の気なく漢和辞典をパラパラ見ていたら、という字が目に付く。どうでもいいことだけど、「スン」と読む字はこれ1字しかないんだね。「寸」は、手の形に点が加えられている象形指事文字。手首の脈をはかる意。また、手のひらの付け根から手首の脈までのあいだを基準にする長さの単位。今でいうと、1寸=3.03cm。
わたくし、苦手なことのひとつとして「脈をはかる」という行為があります。脈をはかると全身の力が抜けてしまうのであります。だから、小学校時代の運動能力テストでの踏み台昇降は地獄でした(笑)幼少の頃にまぶたが釘で引き裂かれるという怪我をした際、自分の手に握られていた血だらけのビー玉を見てトラウマとなり、血がダメなのですが、脈をはかるという行為が、血液を想像させることで、全身の力が抜けるのではないかというのが自己分析。
なので、滅多なことでは自ら脈をはかるということはしないのですが、やろうとすると、どこが脈ポイントなのかわからず、いつも困っていましたが、そうか、手首の付け根から1寸ね!
憶えておこう。

単位で思い出す話は、大学受験のときのこと。私が通った大学は、入試問題がユニークな傾向があったのだけれども、日本史の試験が特に面白かった。「たかしくんはお父さんとお寺にでかけました」みたいに始まった問題。その時点でもう可笑しくて笑いを堪えるのが大変だった。まわりを見回して、みんなよく平然と試験を受けてるなと感心した覚えが。寺院の伽藍配置や、日本史なのに万葉集が出てきて、途中で「あれ?今、国語のテストだったっけ?」みたいな錯覚に陥ったり。で、とどのつまりに「銀○匁は何貫でしょう?」ときた!もう、心の中で「なんじゃそりゃー!」と絶叫しましたよ。ほかにも、高校の教科書にそんな細かいこと載ってんのかって問題ばかりで、問題文のソフトな印象と裏腹なトリビア的な問題に、笑うしかなかったわけですが…。それでね、匁とか貫とか言われても、ほんとに全然わからなかったんですよ。1貫=100両=1000匁なんですね。そんで、1匁=10分なんだ。あとは厘、毛と続くんですね。分・厘・毛あたりは把握してたけど、匁はほんとに見当も付かなかったなぁ。どうでもいいことだけど、匁は銭の重さの単位だったから、5円玉は今でも1匁なんだそうです。3.75g。

ってことで、どういうわけか1日のうちに様々な単位が頭に残ったので、調べてみました。人が生活する上で、また何かを表現する上で、単位という基準は確かに必要なんだが、いろんなものがあるよなぁ。国が違えば変わってきちゃうし、換算しなきゃならなくなる。物質的なものはそれで済むけど、貨幣はそう簡単にはいかないよね。そんな不確かなもので、世界は動いているんだよなぁ。
posted by nbm at 11:48| Comment(2) | TrackBack(0) | 気になったこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする