2009年06月26日

我思うゆえに汝(なれ)あり

去年の10月の話。
うちのダンナさんがUFOを目撃しました。白くて卵型に見えたそれは、超高速で南東方向に飛んで行ったといいます。某掲示板の書き込みによると、他にも同時にその物体を見ていた人がいたようでした。速度や高度、大きさなどから、風船や飛行機ではなかったといいます。何だかわからないんだから、これは確かにUFO=未確認飛行物体です(笑)
おかしな動画を紹介してくれるサイトを観るのが好きなのですが、UFOの動画なんてのもたくさんあります。作り物もあるとは思いますが、そういえば、こういう所でも最近、ダンナさんが目撃したような白くて卵型のUFOをよく見かける気がするのです。流行り?(爆)

考えてみれば、最初にUFOという概念が広まったのは、アダムスキーさんが目撃したというアダムスキー型のUFOからだったと思います。アダムスキーさんがアダムスキー型UFOの写真を公開したのは1952年。シンプルな円盤型や葉巻型なんてのもありましたが、やっぱりアダムスキー型のカタチは強烈な印象があります。いまだに、UFOというと、このカタチで表現されることが多いですが、カタチのインパクトのせいでしょうか。
こんなカタチのUFOが目撃されたと報道されると、あっちでもこっちでも、同じタイプを見たという報告が出てくるようになってる気がします。変形するUFOを見たといえば、別の場所でも同様のものが見られるようになったり。
相手が異星から来たのか、未来から来たのか、地底から来たのか知りませんが、UFOのカタチにも流行があるんかい?それとも、それなりの進化でモデルチェンジをした結果なのか?とにかく、どこかで一度目撃されたものは、瞬く間に広がって、別の場所でも目撃されるようになってる。流行があるように見えます。

話は変わって、幽霊といえば、大概”夜に出現するもの”という認識がありませんでしたか?しかし、今、幽霊は明るい昼日中でもお構いなしに現れます。いつ頃からそうなったのか。
個人的には、『リング』の貞子が与えた影響が強いような気がします。原作小説『リング』が出版されたのは1993年。1998年には映画化されました。
もちろん、それ以前から昼に現れる幽霊というイメージは存在していたでしょう。けれども、貞子くらい強烈なインパクトを残すキャラクターは、なかなかいませんからね。”明るい昼でも幽霊が出る”ということを周知させたのは貞子と言っても過言ではないのではないかと…。
私が愛読していた『新耳袋』という実話怪談シリーズもメディアファクトリーから再スタートしたのが1998年。この実話怪談集の中でも、昼間に現れる幽霊の話がたくさん出てきます。そして、この本を読んでいると、昼間でも身の回りでおかしなことがよく起きました。昼間は感じにくいだけで、恐怖するものがないわけではないということに気づかされたような気がしましたよ。昼よりも夜の方が怖いに決まってるんですが、”夜の恐怖”は、よく見えないことが前提になっている恐怖。”昼の恐怖”は、はっきり視認できる分、実は”夜の恐怖”よりも怖さのグレードが高い感じがします。見てしまったら、夜のように「よく見えない」という誤魔化しが効きませんからね。
そういえば、幽霊といえば、白い着物を着た髪の長い女性というイメージは、丸山応挙の時代から変わっていませんね。もちろん、幽霊のビジュアル・イメージは一方で多様化していますが、古いスタイルもしっかり生き続けていると思います。貞子も、長い黒髪で白いドレスを着た女性。『呪怨』の伽椰子たんでさえそうですもんね。
本来、幽霊ってのは、”幽か”な存在だったわけですよね。暗闇にぼうっと見えるくらいの。これが、『リング』あたりでは完全に可視化され、物質化してきてる。井戸やテレビ画面からにゅうっと出てくるわけですからね。
ハリウッド映画などを観てますと、どうしても幽霊を可視化されたものとして表現したいんですね。それは観客にわかりやすくするためだと思うんですけど、日本人がそれを観ると興ざめになってしまう。ぼんやりしたところが恐怖なわけですね。
昼間の幽霊は、存在がはっきりしている。じゃ、怖さ半減かと思うと、逆に怖いんですよね。おまえ、昼でも出てくるのか!みたいな。お日様が昇れば大丈夫っていう安心感が無くなるわけですからね。”夜にしか出て来れないヤツとは格が違う”感があります。

ちょっと散漫な文章になってしまいましたね。
UFOが存在する・しないとか、幽霊がいる・いないとかいうのは別問題です。今回考えたかったのは、イメージの伝播について。
たとえば、昼間の幽霊に関して言えば、90年代からこっちに大々的に伝わっているような気がするんですよ。
どうも、人間が一度”見た”とされたものは、イメージとして固定化・共有化されていくような気がして。
SF的に、未来に実現するであろうことを人間が予測(希望と言ってもいい)すると、それはいつかは実現していくそうですね。思い描いたことは、時間がかかるとはいえ、実現されていくわけです。
科学技術の世界だけでなく、人間が思い描いたことが実現するとしたら…。同型のUFOや昼間の幽霊も、そんなことと関係していたら面白いと思って…。
そういえば、こんな話がありました。どなたのお話だったか、実話怪談系の本に載っていた話。臨死体験のようなことになり、死神が現れて、その死神は黒いスーツ姿のおじさんだったそうです。そして、別の方のお話で、死神はやはり黒いスーツ姿のおじさんだったという話がありました。本当に死神が黒いスーツを着ているのか、それとも「死神は黒いスーツをきているおじさん」という情報が伝わっただけなのでしょうか。
posted by nbm at 10:49| Comment(5) | TrackBack(0) | 不思議な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月22日

決定論的予測不可能性

デザインを暫定的に変えました。
黒地に白文字が見づらかったためで、ずっと気になってはいたのですが、とりあえず変えてみることに。だってさぁ、ラブログのテンプレートってセンス無いんだもの。だからって、どこかから探してくるとか、一から自分で作る気力もなく…。なので、白地に黒文字という無難な線でと思ったのだけれども、これはこれでチカチカしませんか?大丈夫?黒地から白地に変えると、以前使っていたカラーのハイライトが見えづらいのよね。簡単にはいかないものですな。

大したことしてないのに、なんだか身体が疲れきっているようで、微熱と背中痛に悩まされております。この背中痛というのはですね。私の場合は肩甲骨の周辺の筋が凝り固まるもので、放っておくと、激痛になってきて、いてもたってもいられなくなります。「ん?キタかな?」というときに、しっかりシップを貼ると、ひどくならずに済むんですけどね。フェルビナクが効くのよ。体調が芳しくなくて、仕事を数日放ったらかしにしていたので、今日こそ片付けねば。そんな感じで、気力がないので、書きたくないんだけど(笑)、書かないと記事が溜まるばかりなので、書いておきます。

その昔、あれは中学生のときだったか、高校のときだったか。国語の教科書に載っていた評論が忘れられません。『「である」ことと「する」こと』というタイトルでした。作者も忘れていたのですが、今調べたら丸山眞男さんだった。あらためて読もうかと思ったら、なんだかあまりに難しそうなのでやめておきましょう。おかしいな。教科書に載っていた部分は、こんなに難しいことではなかったと思うんだけど。
私の頭の中では、非常に単純な構図しか残ってません。「である」という”状態”と、「する」という”行動”の違い。単純だけど、静止している状態と、動かすという行動との対比が面白かったことを覚えているのみです。

さて、今回読んだ『砂時計の七不思議 粉粒体の動力学』の終章は、物理学の歴史を確認することからはじまり、壮大なテーマへと発展するものだった。つまり、”知る”ことと”わかる”ことは違うということ。
物理学は元来、物質主義であって、物質とその性質を列挙していくものであった。リンゴは「赤い」「丸い」「甘い」「軟らかい」。けれどもいくら性質を列挙したところで、「リンゴ」そのものを定義することにはならない。
ここで、カオス理論登場!物質とその性質がわかっても、その物質の実際の振る舞いが理解できないということが、あまりに多いことに気づいてしまう。
物質主義だけでは推し量れない部分を補足するために生まれた、統計力学という考え方なら、こういう状態にするにはこれをこのくらいにすると…と繰り返し、実験結果が理論的な数値と近似値になることを探すというアプローチができる。それでも、ここにカオスというものがでてくると、難しいことは省くけど、こんなアプローチでも理解できない現象がある。
人間のすごいところは、物理学者が理解したほんのわずかなことを用いて信じがたいまでに多様な応用を考え出したことだ。(中略)自分たちが作った環境で毎日暮らしていれば、わかっていることばかりなのは当然である。環境から一歩外に出れば、本当はわからないことばかりである。

粉粒体の振る舞いを物理学的に捉えようとする試みは、まだ始まったばかりと言っていい。今までと同様に物理学的にアプローチしていくしかないのだから、地道に研究していくのみ。
だけど、パラメータをいじって、それが現実と一致したからといって、粉粒体を”理解した”ことにはならないのが現状だという。
結局、人間は何をもって”わかった”と感じるのか。この壮大なテーマに勘付いてしまった一部の物理学者たちは、人間の脳や精神構造の問題の研究に流れているという。物質の性質を追求していったがゆえに、はっきりと捉えることができない理解不能な分野にまで踏み込んでしまったということか。
科学の分野では、「主観」と「客観」とが明確に分離していたはずだった。例えば、PCの中には、人間の頭の中にしかなかったはずのモデルが存在する。「主観」であったはずのモデルが、このデータとしてのモデルが公開された瞬間に「客観」となる。逆に、例えば気象を観測しようとしたときに、「主観」であるはずの人間の営みは「客観」の中に組み込まれていることになる。こうした主客の立場のあいまいさも、さまざまな面で物事の理解に影響するのではないかというのが著者の意見。

今まで発見されてきたことのように、単純な因果関係で説明できる事象は、研究され尽くしたのかもしれない。量子力学の世界では、「すべてこうなる!」という決定論が通用しない。カオス理論によれば、わずかな誤差が時間の経過とともに大きくなってしまい、誤差ゼロの観測が不可能であることから、未来は予知できないことになる。今の科学をもってしても、天気予報がはずれるというのは、こういうことなんだそうで。
たしかに、量子力学が登場したあたりから、物理学とアヤシゲな精神世界とが近づいてしまった感があるのは、今まで考えられてきたような”科学的アプローチ”というものが、限界に来ているからなんだろう。そこを飛び越えて、新たな境地(?)に到達する思考が求められているわけだね。そして、それを人間の脳内に求めている人たちもいる、と。
あぁ、自分で読み返すのもメンドーな記事になりました。今日は、書きっぱなしだ!だから書きたくなかったんだよ(笑)
posted by nbm at 11:24| Comment(9) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月19日

砂時計、そして塩と米粒

今から180年ほど前、粉流体について論文を書いたのは、『ロウソクの科学』で知られるファラデイだったという。粉流体の下から振動を当てると、鍋の中でお湯が沸くように、中央から湧き上がる流れができ、容器の端からもぐりこむという対流が観察されたのだそうで。こんな研究は、長い間無視されてきたようなのだけれども、近年になってから再開された研究によると、お湯の対流でのエネルギー源は熱だけど、粉流体の対流の源は”音”だったそうだ。
ネットで見かけて、興味を持った本、『砂時計の七不思議 紛粒体の動力学』。物理学者の田口善弘さんという方が書かれた本です。ちょうどひと月前に予告めいたことを書いているのですが、記事にするのが遅くなってしまいました。15年ほど前の本になるので、内容的には少々古く、もしかしたら現在の研究とは違ってきているものもあるかもしれませんね。
粉粒体とは、例えば砂のように、粒々が集合したもの。混ぜても混ざらず、液体とも固体とも異なる奇妙な振る舞いをするというもの。分子を粒として考えてしまうと、空気や水でさえも紛粒体と言えなくもないけれども、全体として一緒に運動するものの、個々の粒々は見える程度には大きいものを紛粒体とするらしい。そう考えると、満員電車の乗客さえ紛粒体と考えられなくもないんだけど、その辺のことは、『渋滞学』という別の本を読んでいるので、少々お待ちを。

「対称性の破れ」という言葉は、小林・益川両先生がノーベル賞を受賞されたあたりから、よく聞くようになった言葉だけれども、目に見える紛粒体も非対称の運動をするらしい。砂時計の砂は、流れ落ちる断面を見てみると、左右非対称に砂が落ちていくことがわかる。最初に砂が積まれたときのわずかなずれが、流れ落ちるときに影響してしまうというわけ。
砂粒と通り抜ける穴の大きさの関係も重要で、穴の大きさは粒径の6倍以下だと、目詰まりを起こす。この目詰まりは穴を囲むアーチ型に形成される。これを逆手にとると、山にトンネルを掘るときにも応用されている原理ということになるのね。それとともに、粉粒体は圧力を分散してしまう性質があり、上に積みあがっている量に無関係に圧力を保つので、トンネルはつぶれないということになる。
粉粒体も流体になったり、固体になったりする。通常の固体というのは、原子・分子が引力で結びつきあった結果であり、温度変化などによって、原子・分子の速度が大きくなると、引力ではとどめられなくなって流体となるわけだけど、流体の固体・液体をコントロールしているのは重力。重力がかかると固まる。雪崩や土砂崩れなどを想像するとわかりやすい。逆に、粉流体が融けるのは、山の頂上の安息角という安定した角度が崩壊したときで、火山の溶岩ドームが崩壊して火砕流となったりするのがそうだ。積み上げられただけのものというのは、ちょっとした衝撃で流れ出すってこと。
風紋についての考察も面白い。砂漠などに見られる縞模様のこと。砂の粒々の個々の運動の結果が、縞模様になってしまうというのは不思議だ。砂粒は、風に吹かれてひきずられ、巻き上げられて移動する。転がることと跳躍することを計算してコンピュータでモデルを作ると、やはり風紋のような縞模様ができあがるとのこと。風がある程度強くなると縞模様ができ、もっと強くなると縞の感覚が広がる。偶然なのか、テレビなどに使われる液晶の液晶対流も、同様の縞模様ができるという話。あるいは、シマウマやアライグマのしっぽのような生物の縞模様とも関連があるのではないかというのが著者の推測(笑)
さて、もうひとつの粉流体の注目すべき性質は、重いものが上にくるということ。粉流体の粒に多少の大小があった場合、重いものは沈まずに上に浮かぶということ。小さい粒は大きい粒同士の隙間から下に落ちていってしまうから。というだけではなさそうなんだけど、とにかく重い粒が浮かんでくるというのは科学的な常識を考えたら、不思議な感じだ。
それからもうひとつ。粉流体は混ざっても簡単に元に戻る。大体、混ざりにくいし。こういった性質は、エントロピー増大の法則からすると、非常にイレギュラーなことになるらしい。

話がいつのまにか砂時計から大きくはずれているのだけれども、結局のところ、砂という粉粒体でなければ、物質が流れ落ちることを利用して手軽に時間を計ることはできないということなんだね。粉流体の様々な奇妙な性質のおかげで、3分間などという短い時間も正確に計れるわけだ。
世の中には、物理学の常識があてはあまらない出来事が意外に多いらしい。今日、科学で解明されていないことの方が少ないように感じてしまっていたのは私だけではないはず。あらためて、人間の無力さを実感した次第であります。
しかし、まさか、砂時計の話から、物理学の、というか科学の根本的な考え方にまで、話が広がるとは思っていませんでした。長くなったので、その辺のことは次回にでも。
posted by nbm at 11:37| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月16日

風に乗ってどこまでも

大好きな監督の一人、M・ナイト・シャマラン『ハプニング』を観てみました。私は、彼の作品は程度の差こそあれ、みな評価しています。こんなヤツは、他におらん!映画のサイトはコチラ
今日はネタバレにならざるを得ません。これをネタバレというのかどうかわからんが(笑)映画を未見の方で、これから観るという方は読まない方がいいかも。それから、自分で物事をアレコレ考えることが好きでない方は、この映画はつまらなく感じるかもしれませんので、観ないことをオススメします。


突如として、アメリカの東側で連鎖的に起こる集団自殺。事はニューヨークのセントラル・パークで始まり、急速に周辺の町へと広がっていく…。
第一段階…言語を喪失し、意味不明の言葉を繰り返す。
第二段階…方向感覚が喪失し、立ち尽くす。
第三段階…自らによる死。
なんらかのテロかもしれないという予想をメディアが流す中、逃げ惑う人々が次々に自殺していく…。
主人公はフィラデルフィアの高校の科学教師エリオット。最初に登場した授業の場面で、ミツバチの失踪について語っている。これは現実に起きている現象で、私も興味を持っているテーマのひとつなんだけれども、エリオットは生徒たちにこのミツバチ失踪の原因を考えさせる。ウィルス、公害、地球温暖化…けれども明確な答えは出ない。すると、一人の生徒が答える。「自然界の出来事は完全にはわからない」と。エリオットは彼の答えを評価し、付け加える。「科学で”理由づけ”しても、それは理論でしかない」…。
エリオットが常日頃から生徒たちに言い聞かせている”科学の研究の基本ルール”。
対象の確認・実験の設定
注意深い観察と測定
実験データの解析
彼は、このルールを当てはめて、科学的アプローチで人々の集団自殺という奇妙な現象を捉えようとする。一方、エリオットの親友である数学教師も、確率などの数字でこの現象を捉えようとしている。
ベタなアイデアではあるけれども、この2人が、なんとか人間の知恵で、事態を捉えて対策が立てられないものか考えていくわけだ。けれども、解決をみることはできない。
ところで、エリオットが言う「理論は”理由付け”でしかない」という話。ちょうど読んでいた本に書かれていて感銘をうけた部分であったので、それはまた今度記事にします。

それでも、エリオットのアプローチは、ある程度は成功する。原因は<風>。これには、植物が発生させたなんらかの毒素が含まれているかもしれない。そして、どういうわけか、人数が多いところから優先的に攻撃されていることを発見する。そして、<風>から逃げながら、少人数に分かれて逃げた方がいいと考える。当初はテロとの見方をしていたメディアも、被害の広がり方からして、その可能性が低いことを認め出す。
パニック時の情報の遅さや錯綜については、経験があります。地下鉄サリン事件です。あのとき、唯一サリンの袋が破れずに被害が出なかった丸の内線に乗ってました。1本あとだったけど。通勤時間帯の丸の内線は2分間隔ですからね。途中駅で、透明の袋に液体が入ったものを警官がチリトリで運んでいるのを見ました。後にそれがサリンであったこと知るわけですが。被害者が多く出る中でも、ニュースではまだ”爆発物”と報道されていました。車内放送でも同様でした。ある意味情報操作していたのかもしれませんが。災害時に、正確な情報を得ることは大事ですよね。誰も想像しないよな、通勤電車で毒ガスが撒かれるなんて…。だけど、現実ってこうなんだよね。

さて、『ハプニング」でのパニックは1日で収まり、アメリカでは、<風>を避けきり生き延びた人々が日常生活を再開した数ヶ月後、別の国で<風>が猛威を振るい始める…
つまり、<風>の正体はわからないまま。植物の毒素という説も、確定的ではないというあいまいな結末。
手法的には「そうきたか!」という感じ。パニック映画というものは、大概原因がわかっている。そこからどう逃げるか、身を守るかというのがテーマになるものだ。けれども、この作品は違う。何が原因かわからないから、どう身を守ったらよいのか皆目わからない。ここが、この作品の恐ろしいところ。それでも、<風>の存在に気づき、正体はわからないまでも、<風>を浴びないように対処した人間は、どうにか生き残った。大体、<風>って目に見えないじゃないか。対処が難しいよ。

シャマランが、プロダクション・ノートで語っている。
結局、種を存続させるものはただひとつなんだ。害のあるものから離れようとする本能、自分と他人を守ろうとする本能だ。しかし、その本能が奪われたら何が起きるか。

実は、これがこの作品の肝。壮大なテーマじゃないか。この映画は、シャマランが着想とその考察を映像化したもの。だから問題提起で終わってしまう。それを映画としては物足りないと思う人もいるだろうけれども、こんな大掛かりな問題提起もなかなかできないよ。
生きることを止めた人間が増えていく。しかもそれが感染するかのように広がっていくんだからね。

話は変わって…
先日、『探偵!ナイトスクープ』での話。とある大学構内のバス停付近で、夕方になるとインスタント・ラーメンの匂いが漂ってくるが、匂いの元がわからないという。周辺で、学生がラーメンを食べていないかとか、近隣のラーメン店から漂ってくる匂いなのかとか取材を続けるが、原因はなんと、バス停周辺に生えていた植物だった!ひさかきの匂いだそうです。あんまりいいにおいじゃないみたいだから臭いと書くのが正しいでしょうか。常に存在しているのに、夕方に臭いを強く感じるのは、風向きや風の強さが変わるからではないかとのことでした。
『ハプニング』を観て、このことを思い出しました。普段は意識しないけど、いろんな成分が風に乗って拡散されているということを意識させられます。植物の毒素も、ウィルスも、放射能も、一酸化炭素ガスも、風に乗ってやってくる。そして、臭いや刺激があれば気づくけど、無臭で猛毒なものってたくさんある。そんなことを思ったのでした。

結局、気づいてないだけで、世界ではいろんなことが起こっているんだよね、きっと。
posted by nbm at 11:50| Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

情報過多の作法

毎年、夏と冬の年2回発行される怪談専門誌『幽』を楽しみにしているのですが、夏場は6月に発行されることが多いはずなのに、今年は遅いなと思っていたら、7月3日になるようです。楽しみに待つことにしましょう。

夏はやっぱり怪談だろうってことで、加門七海さんの怪談本(?)を2冊読了。
1冊目は『心霊づきあい 11人の作法』。自身も怪現象を日常的に体験する加門さんが、怪に関心を持つ人物11人に、怪現象との付き合い方をインタビューしたもの。『幽』の1コーナーとして掲載されていたもので、そのほかに4人分が書き下ろしで加えられている。ということで、『幽』愛読者である私にとって、ほとんどは1度読んだインタビューなのだけれども、まとめて読むとまた面白かった。いわゆる霊能者という方々には、別口の『うわさの人物』という本でインタビューされているようなので、これもそのうち読んでみようと思うのだけれども、『心霊づきあい』に関しては、タレントさんや作家さんなどを中心に、話を聞いている。心霊についての専門家というような人たちじゃない。まぁ、「あなたの知らない世界」でお馴染みの新倉イワオさんや民俗学の分野から怨霊を研究されている大森亮尚さんは、ある意味専門家か。
おもしろいのは、怪現象へのスタンスが、加門さんはもちろんだけど、みなさんに共通していること。そして、それは、私のスタンスとも共通している。怪現象は自分が体験しているのだから、存在する。おそらくはまだ科学的に解明されていないだけ。ただ、脳科学だけでは説明できない何らかのエネルギーの存在を感じている。つまり、物理的な現象のようだ。大概のものは無視すればそれで済むし、お祓いなどをする霊能者には懐疑的。守護霊など、自分に見えないものは信じない。そして、”見る人”・”感じる人”というのは、怪現象が好き(笑)
異界・異形は世界の一部だ。親族以外の霊魂は、パッセンジャーでしかない。通りすがりの人間に一々驚かないように、大概は無視すればいいだけだ。
私もいつも、そうしている。そして、皆もそうしていると知って、かなりホッとした。

あとがきのこの加門さんの言葉が、心霊とつきあう作法の結論。
明治期に行われたアメリカによる日本人の意識調査によると、”虫の知らせ”なども含めた霊体験・神秘体験をした人は、なんと七割強もあったそうだ。日本の精神的風土病と評された。そういう文化の中に育ってきてるんだから、時代が変わったとはいえ、まだまだ受け継がれている部分が大きいのだろうね。この本を読むと、加門さんも指摘しているけれども、幼少期からの育った環境が、怪現象に対しての寛容さを身に着ける一因になっているようで。小学生から、何者かがよく現れた家で育ち、中学校で様々な不思議体験をした自分にも、怪を受け入れる素養はできあがるというわけですね、きっと。

もう1冊は『怪のはなし』
こちらは、加門さんの体験がエッセイ風に書かれているものでした。
加門さんは、人間の霊にはすごく冷たいので(笑)、出てくると「帰れ!」みたいに怒って対処するのが面白いです。そのくせ、痩せ細った猫の霊には「どうしたんでちゅか〜」って、ごはんをあげたりして(笑)
加門さんの著書には、”土地の記憶”的なものが描かれていることも多いのが、興味深い特徴のひとつ。東京の下町育ちの加門さんは、東京の”土地の記憶”を感じ取ることが多いらしい。戦時中、空襲の被害があったような所は苦手なようで、それなら広島や長崎はどうなってしまうのかと思うと、いまだに足を踏み入れられない場所なのだそうです。

怪談とは別次元の話なのだけれども、一番印象に残った話は、都会の情報過多が心身へのダメージとなるという話。
都市部では、あらゆる意味での情報過多が心身へのダメージになる。そのため、人は無意識に感覚を鈍くして身を守るのだ。

実は、しばらく前からブログ記事にしようと思っていた事柄だったので、この部分の記述を読んだときには正直驚いた。ちょっと時間があいてるし、シンクロしたとまでは言わないけど、ちょっとビビッた。続いたからね。
きっかけは、ひと月ほど前。今話題のアーティスト・阿部真央ちゃんが、『僕らの音楽』という音楽番組で土田晃之さんを相手に語っていたことだった。彼女が語っているところを初めて観たなと思ったら、テレビ初出演だったらしい。大分県出身の彼女は、東京という土地に来て、「このままでは自分はダメになる」と思ったそうだ。東京は情報量・刺激が多すぎて、自分の感性の危機を感じたと。このまま東京に居たら、曲が書けなくなると思ったと。その話を聞いて、このコはすごいコだと思った。そこに気づいたのだから。そして自衛しようと思った。大分を拠点に活動するってのも、アリなんじゃないのかな。
それから数日、今度は『徹子の部屋』での吉川晃司さんの話。言い回しは忘れてしまったけれども、自分が上京したての若かりし頃の映像を観て、阿部真央ちゃんと、まったく同じように思っていたことを語ってた。そんなことを考えていたのか。ちょっと、予想外だったけど。
そして、加門さん。満員電車で知らぬ者同士が密着しなければならない都会。無意識に感覚を遮断しないと、やっていけない。そんな都会を離れていると、段々と感覚が研ぎ澄まされていくのを自覚するそうだ。そして、その状態で情報過多の東京に帰ると、めまいや吐き気に襲われ、しばらくは引き篭もりになるしかなくなるそうで。

常々、自分が思っていたことだった。自分自身は埼玉県ののどかな田園地帯で育ったものの、情報・刺激という面では、東京となんら変わらない環境にあったため、情報過多での身の処し方というのはわかっているつもりなんだけど。大概の人は、情報を遮断する方向で自衛しようとするんだよね。ところが、私はどういうわけか、その情報の海にダイブしてしまうんだ。かぶるくらいなら、自ら浴びてやる!もちろん、満員電車や人ごみでは、無意識に感覚を遮断しているんだろうけど。基本的には、情報や刺激に対してアグレッシブ。刺激に慣れてしまっているから、もっと強い刺激を求めるという刺激ジャンキーになってしまっているんだろうな。感覚遮断と正反対のベクトルに動いた結果なのだよね。それがいいとは思わないけど、自衛より攻撃に出てるってことなのか?だけど、不思議なことに、感覚が麻痺しているとは思わない。自ら研ぎ澄ましているようなところもあるのか。それとも、”刺激”というクスリのせいなのか。長期に渡って地元を離れた経験がない私が、この地を離れたらどうなるんだろうか。
これがねぇ。うまいことに、夫婦揃って、こうなのよね。情報過多への対処が違う者同士だと、うまくいかないと思うわ。近い地域に育つということは、こういう相性というものもあるのかもしれないね。
posted by nbm at 12:11| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月10日

打ち止め(仮)

ごくたまに 僕たまに
夢に破れるひとのカケラが
ヤマのように見える

神様に 仏様にすがり
泣いているひとのカケラが
ヤマのように見える


ふと、数年前のジャパニーズ・ロックが聴きたくなって、CDの山をガサゴソ探す。目に付いた1枚は、キャプテンストライダム『108 DREAMS』。上に紹介した歌詞は、2006年2月にリリースされたこのアルバムの『マウンテン・ア・ゴー・ゴー・ツー』の冒頭部分。1年前の秋葉原を思い出していたときに聴き、なんだか感慨深いものがありました。試聴はコチラ。この曲を初めて聴いたときは、衝撃だった。洗練されたセンスに、タダ者じゃないと思った。それもそのはず、バックにはあの松本隆がついていたわけだけど。それにしても、すごい完成度だと思ったもんだ。アルバムも、ポップな音と毒のある歌詞が、とっても楽しいものだった。『108 DREAMS』は、彼らのメジャー第1弾となるアルバム。常々思っているんだけど、この”メジャー第1弾”ってのが、バンドとしての最高傑作となる場合が少なくないんじゃないかと思う。インディーズでCDをリリースし、地道にライブ活動をしながら完成されていった名曲たちを、一挙に収録しているという場合が多く、完成度が高くなりがち。それとメジャー・デビューという”時”が生み出す勢いが余すところなく詰まる作品となるからかもしれない。このアルバムもそんな1例だと思う。
それにしても、『マウンテン・ア・ゴー・ゴー・ツー』は、名曲だった。2004年にアニメ『NARUTO』のエンディングに使われたことで、ヒットした曲。自分も、それで知ったんだと思う。もう5年も前のことか…。

ジャパニーズ・ロックを重点的に聴き始めたのは、2003年あたりから。きっかけは、アジアン・カンフー・ジェネレーションとマキシマムザホルモンだった。これは、水面下で何かが起きていると思い、ヒットチャートには上ってこない、インディーズの中でメジャーな活躍をしているバンドや、メジャーなレーベルでインディーズ的な活動をしているバンドを追った。ELLE GARDEM、10-FEET、フジファブリック、the pillows、ストレイテナー、the band apart、RADWIONPS、HUSKING BEE、BEAT CRUSADERS、POLYSICS、DOPING PANDA、Smogas、Syrup 16g、People in The Box、the telephones、などなど、お気に入りの音がたくさん見つかった。いまやジャパニーズ・ロック系の所蔵CDは、100枚を軽く超えてる。
だけど今、ジャパニーズ・ロックに”打ち止め感”を感じてる。個人的には、9mm Parabellum Bulletとか、凛として時雨あたりが最終ラインだった。もうこの数ヶ月、「おぉっ!」と心ときめかせるような音に出会うことはない。何を聴いても、どっかで聴いたような…と思う。自分が知らないだけ。そう思いたいんだけど。

この頃、日本語で歌われている歌を聴きたくなる。メロディー重視で音楽を聴く私にしては、珍しい傾向。仕事をしている最中は、どうしても日本語歌詞が耳から入るのが邪魔になるので、英語をはじめ外国語で歌われているものか、インストゥルメンタルしか聴かない。仕事をする日がしばらく続くと、逆に日本語で歌われているものが聴きたくなるというわけなんだけど。どうも、それだけではないような。

この数日、ダンナさんはDTMに興味を持ち、初音ミク関連の曲を聴いてる。今更ながらだけど、いっしょに聴いていると、面白い。ボーカロイドで作った曲を聴く機会がないまま来てしまった私が、最初に聴いたのは、今年の3月。CDショップの試聴機でだった。supercell『supercell』。初めて聴いたときは、耳で不気味の谷現象が起こったのか、長く聴いていられなかった。コチラで聴けます。だけど、この数日、初音ミクをはじめ、数々のボーカロイドの声を聴いているうちに、不気味の谷は越えた模様。色々聴いたけど、やっぱりsupercellのryoという人は、突出してる感じがする。他にも、いい曲を作る人は何人もいるのだけれども、詳しいことはまた今度。
ボーカロイドを使って曲を作るプロデューサーたちは、大概、その作品をタダでまるごと配信してる。どうぞ、楽しんでねって。商業主義とは切り離されたところで、生まれている音楽。純粋に音楽を楽しんでいる精神が、音のどこかに組み込まれているのかなぁ。ボーカロイドの無機質な歌声が、聴き慣れてきたらミョーに心地よく聴こえるのはどうしてなのか。解析中です。
supercellについては、この夏、アニメ『化物語』のテーマに採用され、メジャー・デビューする予定。『化物語』は西尾維新原作作品の初アニメ化。製作はシャフトで、監督は新房昭之という強烈な組み合わせの話題作なので、注目度は最高に高い作品です。

ジャパニーズ・ロックへ向いていた情熱は、今行き場をなくしているのですが、DTMの世界がその位置にクルだろうか。
posted by nbm at 12:20| Comment(6) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月02日

桜高軽音部vs.Mongolian Chop Squad

バファリス、かわゆす〜。
先日から、大人気なのか混雑中ってことで、なかなか辿り着けなかったバファリンのバファリス・サイト。頭痛のタネを書き込むと、リスのバファリスがそれをボリボリと食べてくれて、やさしい言葉をかけてくれます(笑)いくつかテキトーに頭痛のタネを与えたら、ボリボリ食べてくれました。頭痛のタネが溜まっている方は、ぜひお試しあれ!
コチラ

さて、今日はアニメのお話をば。
このクール、MMQ(萌え萌えキュ〜ン)で爆発的に勢いがあるのは『けいおん!』。軽音楽部の女子高生バンドのお話なわけですが、その人気は様々な商品にまで波及していて、彼女たちが使っている楽器がめちゃ売れしたり、一番人気の澪ちゃんが付けていたヘッドフォンが特定されると、バカ高いのにこれまたバカ売れしたり、ものすごい祭りになっています。フツーの女子高生が8万もするヘッドフォン使うかね?確かに見た目がかわいいんだけども。→AKG K701
で、だ。この爆発的な『けいおん!』人気にあやかろうと思ったのか(←違うと思うけど)、あの『BECK』が実写化されるという話。『BECK』は、ハロルド作石さん原作のマンガなんだけど、私は原作をあまり読んでいないので、アニメの印象が強いです。邪道ですけど。原作は、いつかじっくり読みたいものですが。原作マンガのファンからすると、アニメは許せないものもあるかもしれないけど、アレはアレで、ずいぶん完成度の高い作品でした。『BECK』は、あるバンドの青春サクセス・ストーリー。一見そうは見えないものの、類まれなボーカル・センスを持ったコユキと、帰国子女で伝説のギター<ルシール>を持つ竜介。2人が出会ったことから、BECKというバンドの歴史が始まります。マンガの中では、実際に音を表現することはできないわけで、だからこそ、読者それぞれの中に音が生まれるというものだったと思うのですが、アニメとなると、その音を具体的に表現することになります。最近だと原作も実写映画もアニメも未見なんだけど、『デトロイト・メタル・シティ』なんてのもありましたね。
アニメ版『BECK』の音作りは、かなり力が入ってました。BEAT CRUSADERSのヒダカトオルさんが音楽を担当されていたわけですが、あの膨大な音楽知識と絶妙なセンスを遺憾なく発揮してました。実際に演奏したり歌ったりしているのは、声優さんとは別のミュージシャン。アニメだからこそできるワザですね。コユキは、HUSKING BEEの平林一哉さん。ラップを担当する千葉くんは、YKZのTATSUZOさんでした。他にもバンドとしての楽曲には、BEAT CRUSADERSはもちろんのこと10-FEETTYPHOON24など、錚々たるメンツ。いまだによくサントラを聴いてます。名曲ぞろい。
それを思うと、実写化はどこまでできるだろう。誰が関わるとか詳しいことはわかりませんが、製作サイドは音楽に力を入れると名言しているようですけども。それに、演奏シーンはどうするんでしょう?竜介役に水嶋ヒロ、コユキが佐藤健。う〜ん、わからんでもないが、どうなんだ、この配役は?流行りのイケメンにすればいいってもんじゃ…。だけど、千葉くんの桐谷健太ってのはなんか頷ける(笑)平くんが向井理なのも許そう。だけど、サクは…ないな。監督が堤幸彦ならば、ここで思い切り本家の格闘家・桜庭を投入とか(笑)みんなで楽器を練習中だそうだけど…。原作は長いし、どの部分を切り取って映画にするのか。配役を見ると、ちょっと董が立ってる気がするから、中学生時代はムリね(笑)

ちなみに、アニメ版の演奏シーンでは、ほぼ映像と同じ楽器を使い、動きはモーション・キャプチャーを駆使し、本当の指使いを再現していました。細かいツッコミを入れたらキリがないかもしれないけど、それまでの楽器演奏シーンとは一線を画すものがありました。
楽器演奏シーンといえば、『涼宮ハルヒの憂鬱』での、文化祭での長門の演奏シーンが伝説となっているのですが、あまりの細かい描写に、アニメーターさんの魂を感じるわけです。しかし、同じ京都アニメーション製作の『けいおん!』では、演奏シーンにあまり凝っていない様子。演奏シーンを流すべきところで、PVのような映像が流れたり、学校の景色が映ったりしてます。いかに京アニとはいえ、楽器の演奏シーンを作るのが、めちゃくちゃに大変な作業であることを証明しているような気がします。まぁ、MMQだから、いっか。
posted by nbm at 11:21| Comment(4) | TrackBack(0) | コミック・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

そこにいるのは…私

そーだ!
ブログには書いていなかったと思うのですが、ちょっと前にPCが新しくなりました!ダンナさんが夜なべして作ってくれたのです。実は2台組み上がってまして、今もう1台新しく組んでいるので、新しいものが全部で3台できあがることになっております。既存のものを合わせると、都合5台になりますか。ニュー・マシンの1台はメイン・マシン、もう1台は、ハードディスク・レコーダーで録り切れないアニメを録画するための専用機。あともう1台は…何するんだろ?サブ機?ま、いいや。新マシンは、とっても快調でありますよ。

昨日は熱が高めで、食っちゃ寝食っちゃ寝していた休日だったのですが、夕方頃に面白い体験をしました。幽体離脱しかかった!
といっても、非科学的なものではありませぬ。
先日、夢についての記事を書きました。明晰夢は、私があえて踏み込まないものだったのですが、夕方、覚醒に近い状態で観ていた夢で、「これは夢だ!」と気づいてしまったのです。なぜかと言えば、自分が布団に寝ている姿を空中から見ている視点だったから。自分の全体像を、鏡も使わずに、自分から離れて見るなんてことは現実には不可能なことですからね。そんなこと、夢の中では当たり前なんだけど、なぜだか気づいてしまいました。「おぉ!明晰夢だ!」と喜んだ私は、次の瞬間夢の中で2人に分裂していて、”寝ている私”と、隣の部屋の椅子に座って”寝ている私を見ている私”とになりました。「おもしろいぞ、これ」と椅子に座っている私にの方に意識を集中していくと、寝ている私の方の頭から、何かが抜けていくような感覚が!頭の両脇を誰かが両手で押さえていて、頭から何かを引き抜こうとしているような感覚がありました。ミョーな感覚だったので、なんとなくヤバいと思い、何度か試したものの途中でやめてしまったのですが。あれを続けていたら、”寝ている私”から何かが抜けて…。
俗に言う幽体離脱というのは、こういうことを指すのではないかと思ってみたりして。
頭をどう引っ張られていたかと言うと、寝ている私の頭頂部側に誰かが居て、両手で私の頭の両脇を持って、頭頂部側に引っ張る感じでした。相手の指先が私の顎側に向いている感じ。自分でやるにはムリな体勢になるし、誰かがやろうにも、私が寝ている頭側には布団のギリギリまでタンスが置いてあるので、誰かがそこに入り込むことはできません。そうすると、脳が作り出した錯覚か、それで説明できないと、超自然的な何かが…という想像になってしまいますね。頭の皮がツレる感じがしたもんなぁ。
面白い経験をしました。
posted by nbm at 11:08| Comment(7) | TrackBack(0) | 不思議な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする