2010年12月31日

輝け!nbm Awards 2010!(書籍編)

今年の年末は、人の分を先に片付けていたので自分の年賀状作りが遅くなっちまいましたが、突貫で半日で仕上げ、最低限やることを終了。大掃除もぼちぼちやっていたものの、年末に来てアクシデントや予定外の予定が入りあわただしくて、もうどうでもよくなりました。年なんて、勝手に明けてくれ(笑)

今年最後の記事となりました。
年末恒例の<nbm Awards>をひとつでも片付けておこうということで、書籍編をお送りしようとおもいます。
今年、特に後半は読書が進まず、年間で50冊くらいしか読めてないんじゃないでしょうか。
その中で印象に残ったものを挙げていきたいと思います。
図書館の本を読むのが常なので、自分の感覚で選んだ本ばかりで、今年刊行された作品や話題になった作品はほとんどないと思いますが、あしからず。

<小説部門>
『アルファンウィ』 ラファエル・サンチェス・フェルロシオ(→脳に刺さる活字
活字を読んで、こんなに色彩を感じさせられたことはありませんでした。脳の中に拡がるイマジネーションは視覚だけでなく臭覚にまでも及び、活字を読んで匂いを感じるという不思議な体験をしました。なんとも刺激的な本でした。
『エヴァが目覚めるとき』 ピーター・ディッキンソン(→己を受け入れる
SFを読みたいと言い続けて、もう何年経ったことでしょう。いまだにロクに読めてませんが、その中で唯一読んだSF作品。滅びかけた人類の未来が、チンパンジーの体に精神を埋め込まれた少女に託される。少女の強さに感心。
『シャイニング』 スティーブン・キング(→別物化
読んだのかどうかわからなくなってしまい、読んでみたら、やっぱり読んでた、みたいな(笑)久しぶりに読んだキングは、とても楽しめた。冬、雪に閉ざされた閉塞感、そして狂気。結局は、少年と老人の、特殊な力を持った者同士の絆の物語だったのかな。

<イラスト賞>
『元素生活』 寄藤文平 (→練成される世界
『ラクガキ・マスター』 寄藤文平 (→目で見える世界なんて、限られている
大好きな寄藤文平さんの本を連続して2冊読みました。楽しいイラストがとにかく秀逸。イラストもさることながら、いつもそのユニークな着眼点に感心させられます。『元素生活』では、自分を取り巻く世界が様々な元素で構成されているという事実をわかりやすく教えてくれましたし、『ラクガキ・マスター』では、絵を描くコツを教えてもらいながら、物事の本質を見る物の見方を教えてもらったような気がします。

<ファンタジー賞>
『アナ・トレントの鞄』 クラフト・エヴィング商會(→supercalifragilisticexpialidocious
『ないもの、あります』 クラフト・エヴィング商會(→この機会に、ぜひどうぞ
クラフト・エヴィング商會の2冊には、エネルギー不足で刺激を回避していたときに、ニュートラルな感覚で楽しませてもらいました。いつもながら、空想世界の品物の数々に妙に和みました。

<脳内旅行賞>
『奇界遺産』 佐藤健寿(→THE WONDERLAND'S HERITAGE
芸術やオカルトという人が生きる上で”ムダなもの”について考えさせられた写真集。奇妙なビジュアルは見ているだけでも楽しかったけれども、それ以上に文化・文明というものについて考える1冊となりました。
『世界でもっとも阿呆な旅』 安居良基(→世界でもっとも阿呆な旅
変な地名を訪ね歩くという行為。きっかけはくだらないながらも、観光では知りえない世界の素顔を教えてくれる旅。何も生み出さないムダさ加減と偶発的な出会い。それだけ純粋さが増しているような不思議な旅の数々。

<研究熱心賞>
『大アルベルトゥスの秘法』 アルベルトゥス・マグヌス(→ハズレとアタリ
あまりにとんちんかんなことを真剣に考えて実行しているのがおかしくて、だけど、極たまに真理が含まれていて、とにかくおかしな本。科学とオカルトとの境が楽しいです。
『【完全版】突飛なるものの歴史』 ロミ(→アンソリット 突飛なるもの
雑多で膨大な”突飛なるもの”の羅列。ここまで集められたものを一度に見せ付けられると、そこに意味が生まれてくるのが面白い。今年ひきつけられた”ムダなもの”の集大成といった感じでした。
『自分の体で実験したい 命がけの科学者列伝』レスリー・デンディ+メル・ポーリング(→無茶しやがって…
それぞれの分野の科学の黎明期にあって、体を張って研究を続けた科学者たちの偉業。こういう命知らずの人たちの挑戦があってはじめて、自分たちの生活が成り立っていることのありがたさを知ります。
『生き物屋図鑑』 盛口満(→生きる多様性
様々な生き物を専門的に偏執的に研究する人々の話。どんだけピンポイントなんだよ。あまりのピンポイントさに、地球上には多様で数限りない生物がひしめいていることを教えてくれます。

<よく考えてみま賞>
『毎月新聞』 佐藤雅彦(→豆腐の角に頭をぶつけてみたいおじゃんにできない
何気ない日常の行動の中に、数え切れない意思決定がなされていることを意識させてもらいました。また、わかっているようでいて、本当の意味で理解していないこととか、脳の普段使いから一段深い意味での使い方を考えさせられました。
『絶叫委員会』 穂村弘(→天使的な言葉についての考察
文学的なVOW。言葉というものについて、よく考えさせられた1冊。「でも、さっきそうおっしゃったじゃねぇか!」は秀逸でした。
『思考の整理学』 外山滋比古(→”考える”を考える
頭の中の脳の動きを具体的に目の前に広げられたような面白さがありました。無意識にしていることを意識させられる妙な感覚。わかっているようでわかっていないものです。

<nbm大賞>
『天地明察』 冲方丁
(→必至!<冲方丁『天地明察』本屋大賞受賞記念>○×考察
ライトノベルでも大活躍されている冲方丁作品とあって、時代小説でありながらキャラクターが立っていて、読みやすいものでした。私は小説を読むことが少ないので、こんなに引き込まれた作品は久しぶりでした。本屋大賞は納得。

いつものことながら、雑多なジャンルを読んでいるために、あまり絞り込みきれませんでした。
来年は、どんな本が待ってるでしょうか。
タグ:nbm Awards
posted by nbm at 15:11| Comment(5) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月27日

スリムクラブよ、ありがとう

今年が最後と噂されているM−1。
準決勝に進んだ8組の内、半分くらいは好きなコンビだったから、なんとなく、大体観てしまった。
笑い飯が優勝という結果には納得。個人的にパンクブーブーにはくすりとも笑ったことがないし、一番笑ったのは間違いなくスリムクラブだったけど。

さて、M−1での審査を考えるときに、誰しも納得できない問題点がいくつかある。
まず、M−1というのが漫才の頂点を極めるものなのであれば、コント・スタイルと見做されるものが混在していいのかという問題。
とはいえ、これは漫才、これはコントと明確に切り分けられるものでもないし、難しい。
漫才の定義なんてわからないけど、勝手に考えてみると、ボケとツッコミの存在がある話芸なのではと思う。しかしながら、このボケとツッコミという役割には、意外とバリエーションがあるもんだ。ツッコミの仕方にはいろんなスタイルがあって、正統派ともいうべき相手をどつくツッコミから、すかしたり、例えたり、そのやり方はコンビによって様々。2人同時にユニゾンでツッコミを入れるコンビもいるし、特殊過ぎるけど笑い飯のようにボケ2人でツッコミなしというコンビもある。
それと、漫才は、漫才師としての人格が生きたまま話をするのに対して、コントは役を演じて短いお芝居をするようなものだと思う。
だけどこれも、例えば笑い飯はボケを交代する度にそれぞれが”演じて”いるようなもので、そう考えると笑い飯は漫才ではなくなってしまうような気もする。だけど、自分の感覚ではやはり漫才に見えるんだよな。
先入観ってのも大きくて、実際はどうなのか知らないけれども、今回でいえば、ジャルジャル・カナリア・ピースの3組はコントが得意なコンビに思えるから、漫才をしているのは無理をしているように見えてしまう。できなくはないけど、不自然というか。コントならもっと水を得た魚のように振舞えるだろうに、みたいな。

漫才の場合は、ボケにツッコミが入ることで笑いのシステムが完成するわけで、そのときに大事になってくるのが”間”というもの。
日本人に特有のこの”間合い”を大事にする文化が、お笑いの中にさえ息づいていることには驚くね。
今回でいうと、スリムクラブの間は新鮮だったでしょ?できるだけ笑いの弾数を増やして得点を稼ごうという競争の中で、スロー・テンポと長い間が異彩を放ってた。彼らにすればこの大舞台はダメ元だっただろうから、自分たちのスタイルを貫き通したけど、正解だったね。私は彼らを初めて観たので、また新しいスタイルのヤツらが出てきたなとワクワクした。

ちょっと話がズレたわ。
スタイルの上で切り分けるのが難しいのならば、あとは単純に面白いか面白くないかの判断をするしかないのだけれども、面白いかどうかというのは、多分に個人の感覚の問題であって、審査するのが例えお笑いのベテランさんだろうとも、個人的な感覚というのはどうしようもないよね。もちろん、だからこそいろんな感性をもった複数の審査員が審査をするという形式になっているとは思うのだけれども。
関西と関東ではウケる笑いも違うしね。

そんなこんなで今回について、超個人的な感想をば。
カナリアは論外。でも、いつものようなネタなら嫌いじゃないよ。
ジャルジャルは、頑張ってはいたと思うけど、漫才に見えなかったという点で評価できない。
銀シャリは古典的なスタイルで好感は持てたけど、個人的にはまったく面白くない。
ナイツは銀シャリ同様古典的なスタイルだけど、安定感のある面白さだったと思う。正直、点数がもっともらえても不思議じゃないと思った。
ハライチも個人的には好きだし面白いと思ったけど、ハライチのスタイルも漫才とは見做されないのかもしれないね。
ピースは個人的には大好きだけど、一般受けしないだろうし、やはりコントの方が光ると思う。
パンクブーブーは今まで一度も笑ったことがないので、論外。漫才というスタイルはちゃんとできてるんだろうけど、全然面白くない。あと、何で2回同じネタでやった?理解不能。
笑い飯は以前から大好き。決勝よりも準決勝のネタの方が面白かったけど、作戦としてはあれでよかったんだろうね。浮き沈みの激しい世界で、9年連続で決勝に進出するというのは、実力があるってことなんじゃないのか。ということで、優勝おめでとう。しかし、どこかで無冠の帝王で終わってほしかったような気もする。

そして、スリムクラブ。初見なので、まだ海のものとも山のものともという感じだけど、一番笑わせてくれたのは確か。
昨日の記事で、耳がおかしいという報告をしたのだけれども、スリムクラブに激しく笑わせてもらったおかげで、ちょっと聞こえがよくなった(笑)スリムクラブよ、ありがとう!

でも、真の勝者は誰かと考えれば、銀シャリやナイツのような、観客を選ばない若しくは顧客に合わせてネタが変えられるオーソドックスなスタイルの漫才師が息が長いのではないかと思う。スリムクラブが、そういう系統なのかどうなのか、今後を見守っていきたいと思う。
posted by nbm at 11:54| Comment(7) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月26日

なんか取れた…

先日、外で食事をしていたときのこと。
チャーハンを食べてたら、なんだか固いものが入ってる。卵のカラでも入ってるのか?でもそれにしては、もっと固いものだな。
と、出してみると、それは歯の詰め物だった…

あらら、取れちゃったよ。
どうやら、左の下の奥歯に詰めてあったものが取れてしまった様子。
そういえば、歯医者なんて10年くらい行ってない。別に具合の悪いところもないし、ずっと放置してたな。
さて、どこの歯医者に行こうか。

数年前、ダンナさんが歯の治療に通っていた。そのときは近所の歯医者に行ってたんだけど、そこには行きたくない。
理由は2つ。
ひとつには、たぶんヤブってほど悪い歯医者じゃないし、逆にダンナさんがちょっと特殊な体質だっただけなんだけど、親知らずを抜いてもらったときにひどい目にあった話を聞いたので、自分は何をされるわけじゃないんだけど、なんとなく印象が悪いから。
ダンナさんの骨は異常に硬くて、骨を削る工具が何本もダメになり、1本歯を抜くのに小1時間かかってしまったそうな。その後、出血がなかなか止まらず、骨が見えたままで、塞がるのに何日もかかったっけ。
もうひとつの理由は、ダンナさんがその歯医者に変に懐かれてしまったこと。行く度に、釣ってきた魚をいただいたりとか、車の修理を依頼されたりとか。なんかわからんが、気に入られてしまったようで。こうなると、逆に行きにくい。ちょっと珍しい苗字なので、そこに行けば家族なのはバレバレ。

一通りの治療が終わるまでそこに通っていたダンナさんだったが、しばらくしてまた歯の痛みを訴えるようになり、件の歯医者には行きたくないので、別の歯医者を考えていたところ、友人から紹介されて別の歯医者に行くことにした。
うちからはちょっとだけ遠いけど、腕がいいという評判。
行ってみたら、虫歯などではなく、噛み合わせの問題だということで、少しだけ歯を削ってもらったら、ウソのように痛みが取れたという話だった。
そんな話を聞いていたので腕も信頼できそうだし、私もそこに行ってみようと思った。

車で行けばいいのだけれども、混んでいそうな土曜日。駐車場は数台分しかないみたいだし、周りは住宅街。停められないと困るし、とりあえず自転車で行ってみることにした。運動にもなるしね。
ほんの少し近道になると思い、未舗装の道を選択したら、これがアドベンチャー。深くて巨大な直径5メートルとかあるような水溜りが何度も行く手を阻み、歩行者が置いたであろう水たまりの中の飛び石を渡り歩きつつ自転車を転がすというアクロバティックな技術が必要だった(笑)一度、片足だけ水溜りに落ちたが、さほど深くはない場所だったので大事には至らず。ふぅ。しかし、思いの他時間がかかり、少々遅刻してしまったわ。失敗、失敗。多少遠回りでも普通に舗装路を行けばよかった…。

中に入ってみると、小さいわりに最新鋭の設備が整っているし、働いている人の人数も多い。
電話して予約をしたときに、取れた詰め物を持ってきて下さいとのことだった。
抜かりなく取ってあるし、持って行く。問題なければそのまま詰めましょう、と。どうやら、問題はないようで、そのまま取れたものを詰めてもらう。年末だし、これで一から型を取って詰め物を作り直すことになったら、年明けまでしばらく穴が空いたまま過ごすハメになるとこだった。よかったよ。

ついでに、歯の総点検をしてもらう。
虫歯はないようだ。ただ、上の2本の親知らずに磨き残しがあるのと、やはり歯石がついている部分があるとのこと。歯石は当然だよね。何しろ10年くらい歯医者にかかってないからね。どちらにしろ、歯石は取ってもらいたいと思っていたので、ちょうどよい機会になったのかもしれない。
それから、これも気になりながらも放置していたのだけれど、前歯の表面に部分的に詰めたものが変色してしまっているので、これを詰め直した方がよいという話。
あとは、レントゲンを撮ってもらったのでよくわかったんだけど、下の2本の親知らずが真横を向いた形で潜っていて、ちょうど歯列を両サイドから押しているような状態になってる。今まで痛みは感じたことがないけれど、コイツらが骨から伸び出ようと動き出したら、口腔外科で手術するしかないことがわかった。上の親知らずはわりと真っ直ぐ生えてくれたけど、下はどうにもならんな。このままおとなしく埋まっていてくれることを祈るのみ。
虫歯はないけど、前歯と歯石取りで、あと数回は通うことになりそう。

しかし、10年という歳月のせいなのか、歯医者には見たこともない設備がたくさん。
座る椅子は電動で背もたれが倒れ、目の前にはPCのモニター。先生はポケットの中でマウスを操作して、モニターに自分のレントゲン写真が出てきた。ちなみに、患者さんのリストがアイウエオ順だったので、私のデータとダンナさんのデータが並んでる(笑)
口をゆすぐぬるま湯は紙コップを置く度に自動で注がれ、いつでもゆすぎ放題。
レントゲン撮影の機械は、頭の周りをグルッと回って撮影してくれる。レントゲン写真は、先生が1枚プリントアウトしてくれた。
小さな空間に最新鋭の設備がぎっしりつまってた。

歯自体は丈夫で、虫歯がひどくて痛みに苦しんだというような経験はないし、今のところ歯周病とかもないようだ。
ただ、歯並びがひどいので、歯磨きは一苦労。近年は電動ハブラシのおかげで、手で磨いていたときよりは磨き残しが少なくなった感じがしてた。その電動ハブラシがどうやら寿命のようで、振動が弱くなってきてしまったので、ちょうど買い替えを考えているところ。

歯の治療は続くとはいえ、別に痛いところや不具合があるわけでないので、日常的に気になるところはない。
と思ってたら、今度は右耳の調子が悪くなった。たぶん、耳の奥に耳垢がとどまっているだけだど思うんだけど、物を食べたりすると、耳の内部で音が篭っているような感じで、気持ちが悪い。自分で発する声がくぐもって聞こえるので、鼻声のように感じる。自分で取れるような浅い部分でないので、耳鼻科に行かないと治らないかも…。
以前に、耳の奥で拍動音というか、血流の音というか、が聞こえるようになったことがあって、ビビって耳鼻科に行ったら、鼓膜に耳垢がくっついていただけだったということがあったのだけれども、今回もたぶん同じようなことなんだと思う。
耳掃除はお風呂上りに軽くしている程度なので、やり過ぎでもやらな過ぎでもないと思うんだけど、耳垢を取ってるつもりで中に押し込んでいるのかもしれないな。
汚い話で恐縮です…。
この年末に来て、面倒だなぁ。
posted by nbm at 17:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月24日

ジャンクを求めて…

このところ、お休みごとにちょっとしたドライブに出かけている。
この前の日曜日は調布へ。オークションで落としたジャンク・ギターを引き取りに。
「おぉ!JAXAだ!」とか騒ぎつつ、神代植物公園にはもっと花の咲く季節にいつか来たいと思いつつ。この辺ではまだ珍しいコメダ珈琲店を見かけて、帰りに寄ろうかと考えつつ、帰り道は違う道を通って寄れなかったり。そして、西東京市から延々と沿道にはFC東京のフラッグが飾られてる。調布のフラッグには、ドロンパと鬼太郎が仲良く混在してるんだな。お昼ごはんを食べる所を探して彷徨っていたら、「ハンバーグ大魔王」を見つけて咄嗟に入ってしまった。入り口では、おそらく等身大の”おとたま”が出迎えてくれる。お子様ランチが”つぼ”の形になっていて羨ましい(笑)会計をすると、レジのメッセージに「また来るでごじゃるよ〜」とあった…。

そして昨日。
毎食カロリーや栄養バランスをバッチリ計算して健康的な食事をしているうちでは、外食はジャンクなものと相場が決まっている。
昨日は、突然「”かかしラーメン”が食べたい!」というダンナさんの要望により、所沢へ。
”かかしラーメン”と言っても、ご存知ない方が大半であると思われる。説明しよう。かかしラーメンとは、”山田うどん”のラーメン・ブランド。いや、”山田うどん”がわかんないよね?”山田うどん”とは、埼玉ではとてもポピュラーな所沢を拠点とするうどんチェーン店。知らなかったんだけど、今は川崎フロンターレのスポンサーってことで、サッカー・ファンならご存知かしら。記憶が定かではありませんが、以前は”カントリーラーメン”と呼んでなかった?所沢本店では、特別メニューのようにこのラーメンがありました。今はないかも。はるか昔、幸楽苑とか日高屋のようなチェーン店が存在していない頃のことです。
さて、この山田うどんが展開するラーメンは一時期なくなって幻のものと化してましたが、数年前に「かかしのラーメン」として店舗展開が再開した様子。ということで、行ってみる。
基本のしょうゆラーメンを注文したんだけど、ちょっとトロみのあるスープで体があったまること。ジャンクなんだから味云々を語るのは野暮だけど、値段を考えれば十分美味しい。昔の味はすでに憶えてないけど、とりあえず満足。
あとは、先日壊れてしまったものの後釜に、どうでもいい事務用椅子を求めてリサイクル・ショップを巡る。いや、椅子は建前で、ギターを見て廻ってるんですけどね(苦笑)

今日のダンナさんは、ギターのボディだけ4つをまとめて仕事場に持って行く。仕事の合間に、キャビティ内に導電塗料を塗るのだとさ。
え〜、ジャンク・ギターをいじるのにハマってから、6本くらいは完成しているかな。おうちに全部で何本ギターがあるのかは、10本を越えたところから数えるのをやめました(苦笑)
完成したうちの1本のジャズマスターもどきが、徹底的に作りこんだため、ノイズレス・ギターになった。
キャビティ内(ピックアップが入る穴)に導電塗料を塗り、アルミテープを貼ったもの。ネック側を止めるビスの穴にまで導電塗料を塗ったとのことで、そういった処理がノイズレスに効果絶大だったらしい。他にも、ネックとボディの接地面を念入りに鑢がけして、木同士が吸い付くほどに設置面の精度を上げたので、サステインが伸びることにつながったのではと推測してる。その他様々に細かく手をかけていたようだったけど。その作業も本職のギター職人さん顔負けの丁寧さでやっているからこその仕上がりだと思われます。そうやって、ゴミのようなギター1本1本が生き返っていく様を見ているのは面白いです。
ってことで、まず導電塗料を塗り塗りしようとボディをごっそり持って行ったというわけ。

夏からこっち、ロクにギターを弾いてません。
この夏の酷暑は、ギターを弾く元気もなくなりましたが、その余波が続いたままのようで、なかなかギターと向き合えず。でも、弾きたい気持ちは萎えてないので、またちょっとずつ触れていきたいな。
posted by nbm at 12:14| Comment(2) | TrackBack(0) | どうでもいいこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月22日

地震・雨雲・実の母

完全に後出しだけれども、あれは一昨日12月20日の午前中だったと思う。
”ぐるん”が来た。ごく短くて、前回の11月30日(→過去記事ぐるん)よりも弱い感じだったのだけれども。
しかし、この日体に感じるような地震はなし。自分の体が地震の前兆として何かを感じているのかと、おもしろがり始めたところだったので、「やっぱりそんなことはないよな」と自嘲してた。経験上、”ぐるん”がくると、大抵、数時間後その日のうちに有感地震が起きてたけど、それが何事もなく過ぎたのだからね。
でも、やっぱりそれは来た。

12月22日 2時20分
震源 父島近海(北緯27.5度 東経143.4度)
M7.4 深さ約10km 最大震度4

2日以上のタイムラグがあったから、こじつけです、きっと(笑)このあたりは震度1程度。
でも、こんなに短い期間に何度もぐるんに襲われることはあまり記憶にありません。疲れてるんですよ、きっと。えぇ、そういうことにしておきましょう。

しかし、地震以上に、昨日、気味が悪かったのは雨雲です。
昨日、この辺りは、夜になってから雨が降り始めました。
雨雲の動きは、順当なら西から東へと流れ、他に南から北へなどもありますが、とにかく風に乗って動いていくわけですよね。
いつも気象庁のサイトなどで、雨雲の動きを観察してますが、昨日の激しい雨を降らせた雲は突然平地で広範囲に湧き上がり、同じところに何時間も居座ってました。夏場などは、秩父や多摩の山でもくもくと湧いた雲が、あまり移動せずに激しい雨を降らせることもありますが、こんな季節にしかも平地でなぜ雨雲が?ちょうど国道16号を中心にしてそれに沿ったような形で、埼玉から東京を縦断するような塊がずっと動かない。サイトの画面上だと、一番激しい雨の地域は赤い色で表示されますが、この赤い範囲が平地で広範囲に突然現れ、何時間も動かぬままでした。こんなタイプの雲は珍しい。
なんでこんなことになったんだろか。

先日来、毎年恒例、年賀状を作成し印刷するという任務が続いてます。
実家の分を終え、義母の2バージョンも昨日終えました。今回は、自分たちの分が一番後回し、まだ何も手をつけてません。
義母が来てくれると、家の中が綺麗になっていいわ(苦笑)けど、昨日は一日部屋を片付け、掃除をして、そして結構注文のうるさい義母の希望を聞きつつ年賀状作成をしたら、疲れ果てました…。久々に血の気が引いている感覚。
今日はそんな疲れた体を引きずって、実家に行かねばなりません。体も重いが、心も重い。憂鬱…。
posted by nbm at 11:52| Comment(2) | TrackBack(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月21日

”考える”を考える

何がきっかけだったのか忘れてしまったけれども、外山滋比古さんの『思考の整理学』という本を知り、図書館に予約した。1980年代に書かれた本であるというのに、予約は数人順番待ちで、現在でも読まれ続けている本なのだなと思う。それとも、どこかで大々的にとりあげられたんだろうか。

”考える”ことについて考えている本。
あまりに”考える”ことを考えているため、すでに私の頭の中では”考える”という言葉がゲシュタルト崩壊をしている。「カンガエル」って何だっけ?(苦笑)

世間では、”断捨離”などということばが流行っていて、モノを捨てることで生活も思考もスッキリさせるという荒行が、特に女性の間でもてはやされた年だった。
この『思考の整理学』の中で、一番印象的だったのは、知識もモノと同様に、整理して”捨てる”べきものがあるはずだという考え方だった。一瞬、”捨てる”べき知識なんてあるんだろうかと疑ったのだけれども、よくよく考えてみると、自分は日常的に”捨てる”行為を無意識に行っているために、自覚がないだけだったことに気づく。
つまり、それは夢の話。人間の記憶は、夢を観る中で整理されていると考えられている。私の夢は、幾分スピリチュアルなものを除くと、毎回前日に見聞きしたことがランダムに組み合わされているだけのつまらないもので、夢は記憶の整理作業であるという説をそのまま裏付けるようなものがほとんど。それと、自分の脳は、無意識に無数の引き出しに区切られていて、何かのデータを取り出す際には、あの引き出しからこれを取ってきて…とやっている感覚がある。自分は無意識のうちに、記憶つまり得た知識を取捨選択して整理しつつ引き出しにしまっている自覚があるのだ。
言われてみれば、”捨てて”いるな、と。

もうひとつ、面白かったのは、”寝かせる”という方法。
アイデアは思いついてすぐに使うのではなく、しばらく取っておいて自然発酵させるという話。素材をいくつかとっておくとする。その素材同士をくっつける作用をするモノが、素材を”寝かせて”おくとひらめくのだ、と。
時間を置くというだけでなく、まったく異質のジャンルに触れることでセレンディピティが起きることもあるし、”見つめる鍋は煮えない”ということわざも面白い。
素材同士が頭の中で拡散して、媒介となるものを見つけ結び合い、発酵していくことで考えが煮詰まっていくというわけ。そこには時間と、異質なものとの触れ合い、そして”考える”こと事態から一旦離れるということが有効なのではないかというのだ。
一晩寝ないで考えに考え続けるよりも、意外と一晩寝た翌朝に解決策が浮かぶものなのだとさ。

一方で、時代を感じさせたのは、物理的なデータの整理方法について。
今やコンピュータがその役割を担っているわけだけれども、この本が書かれた当時はまだ一般的でなかったわけで、ノートやカードを作って、データを整理する方法が紹介されている。
本から抜き出して書き付けたようなものを、内容ごとに整理し、時間や出典をメモして、ある程度時間が経ったり、テーマが変われば、分類しなおしたり捨てたりする。
今、コンピュータがやってくれることを、すべて手動でやっているわけだよね。これは大変な作業だ。でも、その作業自体が目に見え手で触れられるというのは、知らぬ間に整理されているコンピュータとは違って、もっとリアルに脳に働きかけてくれるんじゃないだろうか。
コンピュータの中に蓄積されたデータが、それぞれどの階層に存在していて、どう関連し合っているのかなんて、考えないけれども、これがノートやカードだったら、その整理の仕方さえ自分の頭の中になきゃいけないわけで。自分の頭の中での位置づけもわかった上で、それぞれの素材を使って物事を考えることができるとすれば、どこかで何か違う作用が影響してくるような気がする。著者の頭の中は、ちゃんとツリー構造になっているんだもの。
必要な資料を集めるにしても、関連書籍を集めてきて片っ端から読まねばならなかった時代に比べれば、コンピュータを使えばいとも簡単に資料が収集できるよな。ま、浅いけどさ。

本はたくさん読んで、ものは知っているが、ただ、それだけ、という人間ができるのは、自分の責任において、本当におもしろいものと、一時の興味との区分けをする労を惜しむからである。
たえず、在庫の知識を再点検して、すこしずつ慎重に、臨時的なものをすてて行く。やがて、不易の知識のみが残るようになれば、そのときの知識は、それ自体が力になりうるはずである。

これが、この本の中で、私に突き刺さった文章。耳の痛い話だわ。

もうひとつ面白かったのは、既知と未知の話。
これを読書を例に考えているのだけれど、既知の事柄を再認識することと、まったく新しい未知の世界を知ることの間にはかなりの違いがあることがわかる。
”知らない”ことを”解釈”し”わかる”という過程には、飛躍的な想像力が必要であるというわけだ。未知のものに対しては、まずは自分の中にあるデータに照らし合わせてみるしかないけれども、それでも理解できなければ、想像するしかないわけで、ここ重要だよね?考えれば考えるほど、この想像力って力は不思議な力だ。
自分が普段無意識にやっていることを、こういう風にメカニズムとして説明されると、人間ってけっこうすごいことしてるんだなと感心してしまう。

他にも、たくさん面白いテーマがあった本だった。
自力で飛ぶことができないグライダー型人間と飛行機型人間の話。
基礎から教えずに、いきなり難解なものから教える漢文の素読の話。
知識の倉庫と発想の工場の話。そして、工場を在庫整理して、頭を効率的に働かせるための”忘れる”作業の必要性。
ロゲルギストや月光会など、三人寄れば文殊の知恵的な話。
インブリーディング(inbreeding)に対するブレイン・ストーミング。
日本人が使いたがる「I think…(〜と思われる)」。

古い本ではあるけれども、脳科学とは別の文学的なアプローチから、自分の頭の中の”考える”というメカニズムを「ほ〜れほれ」と見せられたかのように感じた不思議な本であった。
レクター博士に開頭されたかのような体験をしたい方には、ぜひにとオススメします。
posted by nbm at 11:50| Comment(5) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月20日

頑迷

今日は、単なる愚痴です。
勝手に書いて発散するだけなので、読んでも気分が悪くなるような内容になることをご了承ください。
ココから先は、それでもよい方のみどうぞ。




実母が、また自転車に乗っていて怪我をしました。
もう80歳になろうとしている母ですし、去年の今頃も自転車ごと倒れて肋骨を折り、その傷がまだうずいているような状態でした。
交通が不便な所に住んでおり、スーパーなども遠いという環境なので、自転車は必要ではありますが危険すぎるので、以前から三輪自転車を勧めて購入させたのですが、乗る前から怖がってまったく乗ろうとせず、三輪自転車は放置状態。普通の二輪の自転車に乗り続けていました。それで、去年の事故。(→過去記事やっちまったな
そして、今年もまたやりました。
今年の3月頃、実家に行った際に、無理矢理に三輪自転車を練習をさせたときには、ロクに乗りもせずに怖いと言い訳し、無理に練習させていると今度は「練習するのが恥ずかしい」と言い訳してました。結局、面倒なだけなんです。それがどういう状況に繋がるか、本当の意味で理解しようとしませんでした。

去年の事故に関しては、単に事故というだけでなく、とんでもない問題をはらんでいたもので、本人の自覚以上に、家族がみな絶望の縁に突き落とされました。(→過去記事【認知症】そして【依存症】
その頃から、母が表面的には見せない、心の闇を持っていることに気づきはじめました。
年齢的に頑迷になっているだけなのかもしれませんが、とにかく人の忠告が聞けない。何か言う度に、自分のことを正当化し、人のせいにすることで自分を守るようになってしまいました。

今回、母が自転車に乗って怪我をしたのは、どうやら私のせいらしいです(苦笑)
毎年実家の年賀状を私が作成しているのですが、先日、その関係で電話で母と話をしていると、父の血圧の薬の話になりました。どうやら、処方量を間違えられたようで、10mg1錠と5mg1錠を合わせて2錠で15mgなければならないのに、5mgの錠剤が足りず、じゃあ10mgだけでいいだろうと勝手に判断して飲ませているというのです。血圧を安定させるために、調整されている薬量だと思うから、勝手な判断で飲ませてはいけないと注意し、主治医や薬局に確認するように言いました。それで、確認したら薬を取りに行くことになり、その道中で怪我をしたらしいのですよ。
自転車で転び、膝の皿を割って、医者に連れて行ったことなど、状況は兄からのメールで知らされたのですが、移動に松葉杖をつくような簡単に動けない状態なのにこちらから電話をしたら、電話に出るのにも苦労するだろうなと思ったので、こちらからは母に電話をしませんでした。
すると、私が外出中に母から電話があり、ダンナさんが話を聞いたわけですが、私に注意されて薬を取りに行ったら怪我をしてしまったというような口ぶりが気になったという話でした。はっきりは言わないものの、私のせいで怪我をしたと思っているようです。

この土・日は、兄たちが面倒を見てくれることになっていたので、もし必要なら今日は私が実家に行かなければならないかなと、母に電話してみたところ、今日のところは必要ないというので数日後に行くことにしたのですが、どこかで私のせいで怪我したと思っているのがミエミエで、いつもなら言うであろう「迷惑をかけてごめんね」というような言葉は一切ありません。「とにかく、なるべく動かないようにね」と言うと、「動かないわけにいかない」とキレ始め、そこからケンカになって、仕舞いには怒った母に電話を切られてしまいました(苦笑)
認知症である父と2人で暮らしているため、父の相手をしながら、母が家事のすべてをやらねばならないことは、私もわかりきっています。それでも、なるべく動かないようにと言っただけなんですが、そこで素直に「そうだね、そうするね」と返せないものなのか。

はっきり言って、私はこの母が嫌いです。
昔からあまり好きではなかったけど、ここ数年で様々に苦しめられ、ほとほと嫌いになりました。それでも、最近はわりと良好な関係を保っていたのですが、今日は久々に私もキレました(苦笑)
母が電話を切ったのは無理もないのかもしれません。母には誰もそんなことを言わないので、私は去年のあの日から、誰も母に強く言わないようなことを敢えて私が言おうと決めてます。
嫌いなので、別に嫌われても構わないし。
とにかく、母が人からの言葉に耳を貸さない頑迷さが元凶なのです。

素直に忠告を聞いてくれていれば…。
詐欺に繰り返しひっかかって財産を失くすこともなかったし、2度も自転車で転んで大怪我することもなかったし。

なぜに不便な所で誰の世話にもならず住んでいるのかと不思議に思う方もいらっしゃるでしょうが、去年怪我をした段階で、兄の家の近くに引っ越すという話がありました。それをダメにしたのは、私たちの忠告を聞かず、全財産を繰り返し詐欺につぎ込んでしまった他ならぬ母自身です。そんなものにつぎ込みさえしなければ、引っ越すための資金には困りませんでした。
年金は十分にもらっているため、やろうと思えば、便利な所に賃貸で住むことも可能だと思うのですが、再三言っても家計をきちんと把握することをせず。私が極簡単なレシートを貼るだけの家計簿を買い与えても、見向きもせず、いまだに、家計の収支を把握しないままに生活してます。たまりかねて、固定費は私が通帳から家計簿に書き出し、レシートはきちんともらって整理しておくように伝えても、それさえやらず。家計簿をずっとつけろと言っているわけでなく、まず月間・年間の収支状況を把握しようと言っているだけの話なのですが。私に見せるのは、父の年金と生活費の関係する通帳だけで、自分の年金とその使い道がわかってしまう通帳は絶対に見せません。
通販で買うムダなもので、実家はゴミの山。
足腰が弱ってきているのだから、なるべく邪魔なものを減らして、空間を広くしようと何度言っても聞かない。ゴミで捨てられていたものを、「まだ使える」と自分は使う当ても無いのに拾ってくる始末ですし。

よかれと思って言ったこと・したことが報われないものだというのは、常に自分に言い聞かせていることなのですが、報われないばかりだと本当に悲しくなります。
前回怪我をしたときも、虫の知らせではないけれど、そこで何か気づかせてくれるようなチャンスをもらったのにもかかわらず、怪我をしてでも詐欺集団にお金を振り込んでしまった…。欲に目が眩んで思いとどまってくれなかった。
今回も、怪我をしたことで、もう自転車に乗ってはいけない年齢で、そのために具体的にどうしたらいいのか考えなければならないということに気づいてほしいのですが…。
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2010年12月18日

珍しくドラマ

昨日17日。
年に2回の発売を楽しみにしている怪談雑誌『幽』の発売日。
今回の第14号の特集は、「みちのく怪談」。みちのくで怖い話といえば、遠野が連想されるけれども、ダンナさんの家系は実は遠野と縁が深い。私が常に興味を持っている民俗学でも、遠野という場所は魅力的な所だし。いつかゆっくり訪ねてみたい地である。一方、私の母の家系は秋田県に縁がある。親戚の法要で1度だけ訪れたことがある秋田は、空気が澄んでいてそれはそれは美しい所だった。そういうわけで、あまり旅行に行かない私が日本国内で旅してみたい場所はどこかと聞かれたら、私は沖縄でも北海道でもなく東北地方と答えるだろね。温泉は苦手なんで(長いこと湯船に浸かっていられない体質のため)温泉地でなくてよくて、観光地に行きたいわけでもなく、とにかく、あの鮮烈な清い空気と雪に封じ込められてきたような古い歴史や民俗を感じたいと憧れる。
ま、それはさておき、実話怪談系からちょっとずつ楽しみに読んでおります。

さて、このクール、ドラマをあまり観なくなって久しい私が、2作品を完走しました。

ひとつは、『Q10』
観るつもりはなかったものの、初回が始まる寸前に、「親類が出ている」と友人からメールをもらったので、それじゃあ観るかと観始めたもので。でも、観始めたら、なかなかに面白く、結局最後まで観てしまった。
アニメですっかり侵されている脳には受け付けやすい、アニメを実写化したようなドラマだった。
もちろん、主役の佐藤健はかわいいから観ていて楽しい気分になるし、前田敦子(AKB48)はどうかと思ってたら、これが予想外にかわいかった。というより、ロングスカートを穿かされていたからわかりにくかったけど、彼女のプロポーションのよさに驚いた。まさに、アニメから抜け出てきたようなカタチ。バランスがハンパない。ロボットという役どころがぴったりとハマったのは、これも一因だったと思う。カタコトの言葉遣いが不評だったようだけれども、全肯定するときの「ぱふっ」て言う姿がかわいくて、段々感情移入してしまったよ。木皿泉さんの脚本とあって、ちょっといろいろと盛り込み過ぎた感もあったし、世界系アニメみたいな展開で、アニメ好きとしては平板な感じにも見えたけど、つまらないドラマが多い中では健闘してたんじゃないかな。ま、この”つまらない”ってのはあくまでも私の感覚だけど。クラスメイトたちや薬師丸ひろ子さんなど、配役もなかなか良かったと思うし。私の好きな池松壮亮くんも出てたし。

もうひとつは『SPEC』
これは、私にとっては近年稀にみる面白さだった。『ケイゾク』のスピンオフ的なものだし、堤幸彦を中心とした作品とあって、半分くらい期待して観始めたんだけど、初回は「ん〜どうだろう?」って感じだった。それぞれのキャラがまだ浸透しなかったしね。けど、回を重ねるごとに当麻(戸田恵梨香)や瀬文(加瀬亮)のキャラが立ってきて面白くなっていったし、脇もゲストもハマってきた。野々村係長(竜雷太)にはシビレたな。ストーリーもよく練られていたし。この作品ではコネタもすべらなかった。
最終回の瀬文には、「大山倍達!」で泣き笑いさせてもらった。感動的なシーンで半泣きしながら観てたら、すげぇ笑った。ここでそのポーズとセリフを使うところにチャレンジ精神とセンスを感じるわ。そして、それをやりきった加瀬亮も評価に値する。戸田恵梨香ちゃんも、がんばってたよ。彼女に対する私の評価もずいぶん上がったと思う。自由自在にゲップを出したり、自分の推理を犯人に「聞きたい?聞きたい?」ってかわいこぶったり、当麻というキャラを確立したって感じ。
まだ先を観たいと思わせてくれたドラマだったな。
主題歌も良かった。THE RICECOOKERSね。曲が試聴できる彼らのHPはコチラ。バークリー音楽大学から発生した日本人の3人組って、面白いよね。

実は、もうひとつ、このクールで観ていたドラマがある。
それは、『カイルXY』。まったく興味がなかったんだが、たまたま初回を途中から観たら、ハマってしまった。
シアトル郊外の森で見つかった、記憶を失ったヘソのない青年の話。運動能力も頭脳もずば抜けているが、何も知らない無垢な幼児のような彼を、心理学者とその家族が受け入れていく。
人間というものや自分を取り巻く世界について、ひとつひとつ学習していくカイルを見ていると、人間や世界を客観的に見ることを意識させられる。これが、なかなか面白い。

もうひとつ、石原さとみ『霊能力者 小田霧響子の嘘』もたまに観てたけど、毎回欠かさずというほどではなかったな。石原さとみは、とってもかわいかったけど。

ということで、世の視聴率とはまったく無関係だけれども、めずらしくドラマをたくさん観たクールだった。
日本のドラマは、お涙頂戴の恋愛ものとか、社会問題をリアルに描いたようなシリアスなものだと、もうそれだけで観る気が起きない。マンガをできるだけ忠実に実写化したような作品しか観られない体質になってしまったな。

さぁ、今晩はめずらしく飲み会。忘年会であります。
お酒は飲める方だけど、別に好きなわけじゃないんで、自ら進んで飲むことはない。けど、飲みの席の雰囲気は好きなので、楽しみです。
友人たちと楽しんできます!
posted by nbm at 12:26| Comment(2) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月14日

会社は人で出来てます

忘年会の季節ですね。
会社という組織に属さなくなって、もう10年近く経つので、最近の忘年会事情はとんとわからない。
昨今の職場では、いわゆる職場の上司や同僚との飲み会というものが無くなってきていると聞くけれども、そういう職場はギスギスしたりしないんだろうか。

というのも、私には実体験があるから。
入社当初の私は「会社はお金を稼ぐ場所に過ぎない」と思っていて、仕事をきちんとこなせば文句は言わせないくらいのつもりで、定時にきっかり帰るということを繰り返し、上司や同僚とも必要以上に仲良くしようとは思わなかったし、正直興味もなかった。
しかし、それを続けて数年経つと、職場で孤立している自分に気づくわけです。別に仕事に支障が出るわけじゃなかったけど、やっぱりどこかやりにくい…。
「自分の考え方を変えなければいけない」
そう思い直した私は、積極的に上司や同僚と仕事以外の部分でもコミュニケーションを取る努力をした。
仕事の合間にはちょっとした雑談で趣味の話を聞いたりしつつ、飲み会があれば必ず参加し、女子社員同士ではアフターファイブにコンサートやイベントに出かけたりした。
そんな努力を続けていくと、酒が飲める私は上司のアフターファイブのお気に入りとなり、夜の歌舞伎町を連れまわされるまでになった…(苦笑)
仕事の上ではその効果は明白で、意見交換がしやすくなり、自分の心がけひとつから、とてもチームワークの良い職場になるものなんだなと思うようになった。
こちらから積極的に話しかけると、今まで興味を持てなかった相手にも、それぞれに面白い部分があることに気づき、いかに自分が相手のことを”見て”いなかったかを思い知った。
こんな経験があるもので、いわゆる”飲みニケーション”を失った職場がギスギスしないもんかと心配になるわけさ。もちろん、今は経済状況もあるから飲みに行くのは大変なんだろうけど。

とすれば、他にコミュニケーションを図る機会として考えられるのがランチタイム。
しかし、どうやらランチタイムは一人で過ごしたいと考えている人が多いようで、そのことに私は少なからず衝撃を受けた。
あるところにカキコミされた悩み。毎日毎日、先輩女子社員からランチに誘われ、断るわけにも行かず、それが苦痛だと訴える若手女子社員。
すると、それに同意する人が多数。
いろんな人の意見を見ていると、ほとんどの人が、「お昼くらい自由に一人で食べたい」という。『孤独のグルメ』というわけか…。

自分が所属していた会社では、女子社員は同期同士で集まってお弁当を食べるというのが主だった。
私の場合は、他にも職場の先輩や上司などに誘われて外に食べに行くこともあったし、体育会カレー部の1員だったので、月に1度はカレー仲間と周辺の店のカレーを食べ歩いて(走って)いたので、毎日必ず同期と食べていたわけでもないけど。
年数が経つにつれて、同期も少なくなり、仕舞いには、同期一人と一年先輩の一人と3人でお弁当を食べるようになった。
毎日お弁当を作ってくる子もいたし、周りにはお弁当屋さんがたくさんあった。もちろん、お財布が許すなら外食する店にも事欠かない。昼に出るのが面倒なら、出勤途中にコンビニで買ってくるという手もある。電子レンジはなかったけど、お湯はあるからカップ麺は作ることができたし。
そういえば、職場が日本橋だったので、1度みんなで親子丼で有名な人形町の「玉ひで」から昼に出前を取ろうという話になり、その話が盛り上がって最終的には20人くらい集まったと思うのだけれども、出前された親子丼の美味しそうな匂いがエレベーターに充満し、総務から怒られたっけ。
それから、ランチの出前はNGとなってしまった。
でも、自分の部署での繁忙期には何時間も残業することもあり、そういうときは部でまとめて出前を取り、仕事を一時中断して、夕食にお弁当や中華料理なんかを食べたものだ。
職場によっては、周りに食べる所がないという場合もあるかもね。食堂のみとか、給食が配達されてくるとか、弁当を一人で食べるしかないとか。昼休みでも電話番で席を離れることができないっていう人もいるかも。営業だと、出先で食べることも多いだろうしね。忙しい部署なら、サンドイッチをほおばりながら仕事をする人もいるかも。

ちょっと話がそれたけど。
私は、ひとりで食事をするのが苦手で、特に外食となると「食べなくてもいいか」と思うほど(苦笑)
一人で食事をすると間が持たないので、注文した料理を待っている間とか、どうしたらいいのか困ってしまうし、食べ終わったらすぐに店を出てしまう。
誰か付き合ってくれるなら、それが嫌いな人でなければ、ありがたい話だ。
でも、私のように思わない人が多いのだね。
大学生なんかで、誰かと食事をするのがわずらわしかったり、もしくは一人で食事をして”さびしいヤツ”と見られたくないってことで、トイレで食事をする人が増えてるっていう話も聞いたことがある。どちらにしても、”一人になりたい”ってことなんだよね。

たしかに、人間には、一人になる時間は必要だと思う。
だけど、「一人になりたい時間」が「食事の時間」と重なってきたことが不思議だわ。
上記のような経験をした私にとっては、ランチタイムは休憩時間ではあるけれども、会社にいる時間であって、会社の人とコミュニケーションをとる時間でもあったので。そこには”自分の時間”という考え方は無かった。
それはもちろん、個人の自由なのだけれども、過去の私のように、自分で働きにくい環境を作っていなければいいのだけれど。
もうひとつ不思議に思ったのは、携帯電話が手放せなずに常にメールをして「人と繋がりたい」と思う人が増えている一方で、「一人になりたい」と強く思う人も増えているというのが解せない。この二つは重ならないんだろうか。まったく当てずっぽうだけれども、不思議ときれいに重なるような気がするんだが。

ここからは私の勝手な妄想です。
人間には物理的に侵されたくないと思う範囲がありますね。対人距離というそうですが、45〜50cm以内には他人を近づけたくないと感じる。
満員電車なんかではまったく見知らぬ人に完全に侵されますから、ストレスが溜まるわけですよね。
では、物理的な対人距離の他にも、”心理的な対人距離”とでもいうものがあったとしたら?
携帯電話でのメールなどによって、物理的でなく心理的な対人距離を越えて侵入してくることに対して、無意識にストレスが溜まっていくとしたら?
一方では「人と繋がっていたい」と思いつつ、逆に「一人でいたい」と強く思う瞬間がある。つまり、過剰に人と繋がろうとすることの副作用のようなものではないかと。

別にね、飲み会を推奨してるわけではないんだ。
飲みに行ったって、会話が弾まなけりゃ意味が無いし、逆効果でさえあるかも。
ただ、仕事以外の人間対人間のつきあいを無視したまま仕事をしていても、その方が苦痛だってことが言いたいだけで。
職場の人間とて、仕事上の単なるコマ同士でなく、一人の人として対峙しあった方が、やりやすくなるんだって。
一日のうちのほとんどの時間、顔を付き合わせて過ごさなきゃいけない相手なら、歩み寄った方が雰囲気がよくなって、働きやすい環境が作れると思うんだが。
どうせなら、職場でも気分良く過ごしたいじゃないか。別に「飲み会に行け」って言ってるんじゃありません。姿勢の話です。自らコミュニケーションを絶つなということ。

長々と書いてきたけど、結局は私は職場の人間に恵まれていただけなのかもしれないな。それまでツンケンしていた私を、温かく迎え入れてくれたのだから。
一方で、飲みに連れまわされて上司にかわいがられたことから、無意識のうちに派閥抗争に巻き込まれ、会社を辞めるハメになったんだがな(苦笑)でも、後悔はしてない。
すべてを含めて、会社で働くということは、私に膨大な経験をさせてくれたからね。
posted by nbm at 12:11| Comment(4) | TrackBack(0) | 気になったこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月11日

テンポ116

最近、あまり芳しくない体調のせいか、気力が沸かず、読書も進まないと昨日も書いた。
脳が、情報が入ってくることを拒んでいるような感じ。
いつも、新しい刺激を常に求める傾向にある私にしては珍しいことで、できるだけ刺激を受けないように行動しているような気がする。
考えてみれば、音楽を聴くことも激減している。

ライターのお仕事をしているときは、仕事中に音楽をかけていた方が効率がいいので、何かしら聴きながら仕事をしていた。
私の場合は、文章を書く仕事中に日本語の歌詞が耳に入ると邪魔になるので、インストゥルメンタルか日本語以外の歌詞のもの。テンポが速めのエレクトロニカ系かシンプルなロック。例えば、プログレの変拍子とかだと途中でリズムやテンポが変わってしまうので、ビートの効いた規則正しいリズムで速めのテンポの曲だと調子がよいのよ。まったく無音で作業するよりも、音楽を聴きながらの方が進みがいい気がする。何らかの理由で、途中で作業を中断すると、またノッているときのリズムに戻すのに時間がかかる。
あと、車で実家に行く時。片道小1時間かかるので、アルバム1枚分くらいの感覚なのだけれども、行きはこれから活動しなきゃならないし、意識をはっきりさせて事故のないように気をつけなきゃと思うと、ガンガンなエレクトロニカやロックを聴きながら運転する。んで、用事を終えて少々疲れ気味の帰りは、ちょうど渋滞の時間帯にあたることが多く、眠気を排除するために日本語の曲をかけて歌いながらとか、イライラを押さえるために精神的に沈静化するような落ち着いた曲、例えば静かなジャズなんかをかけることが多い。

いわゆる”ながら”作業をするのは、中・高生の頃からで、試験勉強中も音楽をかけていたし、寝るときには、音楽を聴きながら眠りについたもんだ。
通勤・通学の電車の車内でも音楽を聴いていたけれども、そのときの音楽は”ながら”というわけではないので、単純に気分で聴くものを選んでいたわけだけれども、仕事をするときや運転中にかける音楽は、気分で選んでいるようで、実は自分なりに無意識に効率を考えたものを選んでいたような気がする。

図書館で、『聴くだけで10倍仕事のできる 絶対テンポ116』(片岡慎介 著)という本が目についた。
話半分、いや5分の1くらいのつもりで読んでみたよ。

今も通用することなのかどうか知らないが、ゴルフでは「チャーシューメーン」と言いながらスイングするといいという説があった。私はゴルフをやらんのでわからんが、スイングするときのリズムを体感するのにいい言葉だったよう。
「人間の動作にはすべてリズムがある」という持論の著者・片岡さんに、「ゴルフが上達する音楽を作ってみては?」と勧めた方がいて、プロゴルファーのスイングの映像を解析して、トッププロにはほぼ共通するスイングのリズムがあることを発見する。つまり、「チャーシューメーン」を映像のコマ数から数値化したわけだ。それが、24:30:48。ヘッドが動く時点から、トップまでが24、インパクトまでが6コマ足して30、フィニッシュまでがさらに18コマ足して48なんですと。つまり、24:6:18だから、比率で言ったら、4:1:3のリズム。これが「チャー(4)・シュー(1)・メーン(3)」の正体らしい。
これを音楽的に拍子で捉えると、ヘッドからトップまでの24コマで1拍、トップからフィニッシュまでの24コマで1拍の2拍子なんだけど、インパクトは2拍目の最初の1/4拍、つまり、映像の6コマを16分音符に見立てると、全体を8つに割った5拍目。ちなみに、インパクトってボールに当たった瞬間じゃなくて、その手前の手首がかえる瞬間だそう。

こういった熟練者の効率的なリズムを捉えて、それを応用した音楽を作って聴かせることで、初心者や子どもにもさまざまなことに上達してもらおうという狙いで、音楽を作ってきたとのこと。
そんなことを研究しているうちに、人間が効率的に動く根底のリズムは”テンポ116の2拍子”か、でなければその倍の”テンポ58”だという結論に至ったのだそうで。
テンポ60が1分間に60拍、1拍1秒。テンポ116ということは、その倍近い速さということになるけど、倍数からはちょっとズレてる。
我々が使用している時間の概念は太陽の運行を元にしたものだけど、月の運行を元にした時間を考えると、1分間が約58秒、そしてその倍数が116ってことでしっくりくるんだと。
まぁ確かに、女性は誰しも感じると思うんですが、月の時間はヒトの体と通じている感覚がありますね。それを思うとまんざらウソでもなさそうだ。人間の体内時計も1日約25時間で動いているって言われているし、太陰暦だと1日24.8時間であることから、人間は月のリズムに支配されているのかもね。
著者がテンポ116の裏づけとして挙げているのが、脳波の変化。このテンポの音楽は、他のテンポに比べて、アルファ波が強くベータ波が弱い、よく集中している状態になるのだとか。
ただし、団体で共同作業をするときは少しテンポを落とした方が呼吸が合いやすいとか、テンションを上げたいときにはテンポアップした方がよいとか、そんなこともあるようで。
このテンポ116を応用して、工場で作業効率を上げる音楽を作ったり、お店で回転率を上げる音楽を作ったり、はたまた、子どものしつけのために歯磨きの音楽やおむつが取れる音楽を考案したりしたそう。
ちなみに、活動的にするテンポが116なら、安息のテンポは72。ちょうど脈拍と同じくらいのテンポということらしい。

生活や仕事の中で、リズムやテンポを自ら切り替えることができれば、それも効率につながるという話もあって、休むときは休む、仕事のときはガシガシ仕事をするとか、メリハリをつけるのもリズムやテンポを意識するといいのではという話。
会社員時代、長期休暇の後の出社はなかなかにツライものだったけれども、当時の上司が、「そういうときこそ無理矢理ガシガシ仕事をすると調子が出るぞ」とアドバイスしてくれた。「ホントかぁ?」と疑いながらも、ガシガシとテンポアップして無理矢理仕事をしてみたら、いつもの調子を素早く取り戻せた気がする。それからは、やる気が出ないときに、無理に行動してみるのもひとつのテなんだなと学習した。ちょっと話がズレたかな。

アヤシゲな内容に思えたけれども、冒頭に書いたような普段の自分の音楽のチョイスを振り返ってみると、まったくのウソとも言えない。
もともと茶摘み唄とか田植え唄とか、労働するときにみなで口ずさむ民謡が多く存在してますが、テンポでいうと50〜60くらいだそう。みなで作業をするときに呼吸を合わせ、効率を上げつつ、楽しく作業しようというものだったんでしょうが、まぁ、著者の理論に大体あってる。

ちなみに、著者の片岡慎介さんは、今年の2月にお亡くなりになっているよう。著者について調べてみようと、検索をしてみたら訃報を知った。なんかちょっと気色が悪いな。
posted by nbm at 12:27| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月10日

世界凡て妖(ばけもの)ならざるはなし

このひと月ほどは、体調が今ひとつ。何をする気力も沸かず、何もかもがサボリ気味。読書も進みません。
そんな無気力な私が、大ウケしたのが、『江戸化物草紙』でした。
この本、妖怪・豆腐小僧の絵が表紙になってるんですが、図書館で”怖い本”特集が組まれていて、その棚に並んでいたものです。今年は、河鍋暁斎の美術館に行って妖怪の絵を観たりしていたことから、江戸時代の化物を扱った本は見逃せません。早速手に取りました。何せ、最初のカラーページに暁斎の「化物図」が載ってます。
なんだか著者(校注編者)の名前に見覚えがある…アダム・カバット…?
やだ、カバット先生じゃん!
直接講義を受けたことはないものの、出身大学で教鞭を取っていた方です。当時はまだ教授ではなかったような。
お名前だけは記憶にあったものの、どういったことを研究されていたのか、まったく把握してませんでした。近世の日本の幻想文学を専門に研究されていたようで、中でも、こんな面白いことやってたなら教わってみたかったな。
ロバート・キャンベルさんもそうだけど、日本の古い文学を外国出身の方が研究し、現代の日本人でさえ一般的には知らない江戸時代の風俗を把握していたり、くずし文字をすらすら読めたりするのはどうなんだ?なんかちょっと複雑な気持ち。

さて、この本で取り上げられているのは、主に十返舎一九による絵草紙が5つ。
それから、妖怪に関する専門家による文章もたくさん載っている。前書きに当たる部分で京極夏彦さんが、妖怪は「知る」モノではなく娯しむものだと言っているのだけれども、読んでみると、それがよく理解できる。
草双紙というものは、現代でいうとマンガみたいなもので、子ども向けの草双紙の出版は毎年正月に行われ、お年玉感覚で子どもたちに買われたという話。
でも、内容を見ていくと、秘法館的なセンスで性器を模したキャラクターが頻繁に出てきたりするものもあり、妖怪が妖怪を手篭めにしようとしていたり、明らかに大人向けのものもあるね。
それから、今のことばでいうとパロディというのか、歌舞伎やことわざを元ネタにした”もじり”も多い。当時の文化的常識や流行を知っている方がより楽しめたはず。私などは注釈がなければ、何がどうもじられているのか、まったくわからない。
どちらにしろ、絵を中心に、絵の周りに書かれている文章を読むという作業は、やはりマンガそのもの。セリフや効果音のようなものもあるし、文章が絵で分断されるときには、いろんなマークで「こっちに飛びます」的に誘導されていたりして、細部までこだわって描かれた絵と文章との両方で楽しめる感覚が面白い。

一九が描く妖怪は、一様にユーモラスでかわいらしく、怖さを全く感じさせない。中でも私が気に入ったのは、「化物の娵入(よめいり)」。人間同様に化物同士の間に縁談が持ち上がって、お見合いしたり、結納したり、結婚して子どもを産んだりする。お見合いじじいみたいなヤツがいるし。結納品の狸は、自分のタマタマに包まれた上で水引がかけられてる(笑)嫁入り道具にはそれぞれ足が生えていて、勝手に歩いて行ってくれるし。婚礼の行列を先導する松明をくわえた狐たちがかわいい。
ちなみに、人間の世界でも婚礼の行列は夕方に行われていたのだとか。人間の花嫁行列でも、百鬼夜行のように見えたらしい。昼間に行うときでも、松明や蝋燭を使っていたんだってさ。

妖怪たちは、人間とは真逆のことをするのが良いとされるようで、反骨精神というか何というか、不器量であったり不潔であったり縁起が悪いことが珍重されるように描かれている。一方、妖怪たちが逆のことをやっているのがわかれば、その逆を考えると当時の世間で行われていた習俗が浮かび上がってきて、それも面白い。
何度も登場し、化物たちの親玉とされているのが見越入道。どうやら、巨大化する妖怪らしいのだけれども、一九が描く見越入道は、ろくろ首の坊主のおっさん。見越入道のように見たままが化物のタイプと、狸や狐のように化けるタイプとがいて、”化物”と呼ぶべきは本来狸・狐タイプだったのが、もともと異形のモノたちをも”化物”と呼ぶようになったのではというような話も載っていたり、幽霊を化物や妖怪との関係性でどこに位置づけるかなんて話も載っていて本編の絵草紙もさることながら、専門家の寄せた文章もそれぞれ興味深い。
妖怪側の代表として見越入道が出てくるのに対して、化物から恐れられている人間の代表として、化物退治の英雄・坂田金平がたくさん登場する。きんぴらごぼうのきんぴらさんだね。金太郎として知られる坂田金時の息子に当たるのだそうで。どうやら架空の人物みたいだけど。現代は、坂田銀時の方が有名かもしれないけどね(笑)

一番印象的だったことは、江戸では「野暮と化物は箱根から先」と言われていたということ。
もちろん、そこには江戸っ子の上方への対抗心が隠れているようなのだけれども。化物は箱根から向こうに追いやられるんだそうだ。
そうして、追いやられた化物たちは、化物たちなりに日常生活を愉しんでいる様が描かれてる。
一九は、日本初のプロ作家ということで、売れっ子作家としては、読む人にわかりやすい”受ける”作品を提供することを考えていたようで、まったくその通り。その作品は、単純に楽しめる娯楽作品になっている。妖怪をかわいく描くだけではなく、本当に怖い話も書いたようだし、非常に多作な作家だったらしいので、いろんなものを書いたのでしょうが、今回はかわいい作品ばかりでしたわ。

今まで触れたことのなかった絵双紙の世界。
間近に河鍋暁斎の絵を観たことが、興味の発端だったのだけれども、思わぬところで懐かしい名前に出くわしたりして、その世界からおいでおいでと手招きされたような気がします。
posted by nbm at 17:25| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月07日

勝手に声優アワード2010

本物の声優アワードは毎年3月に発表されるわけですが、今年のアニメはもう把握できてますし、一足先に勝手に<nbm版声優アワード2010>を贈ってしまいましょう。
今年も1クールに30作品前後、1年で少なくとも100タイトルは観ていることになると思いますが、今クールはまだ放送中なので、アニメ作品そのものに対する評価は後日<nbm Awards 2010アニメ編>として発表したいと思います。
当然のことながら、個人的な好みが大きく影響しますし、腐女子系やキッズ向け作品などちょっと苦手なジャンルもありますので、そのあたりはご了承ください。
あくまでも”勝手に”ってことで。
第1回(2006年)から昨年の第4回まで受賞されている方は除いて選びました。代表作として挙げている作品の中には、キッズ向けとか自分が鑑賞していない作品もほんの少し含まれています。敬称略。
では、まいります。

<新人男優賞>
浅沼晋太郎 『四畳半神話大系』(私)
       『生徒会役員共』(津田タカトシ)
ローテンションで絶妙なツッコミ役。この路線に浅沼さんの冷めた声はピッタリでした。
「声優デビュー5年以内」という新人に該当する男性声優さんで、目だった活躍をする人が他に見当たらず、1人しか選べませんでした。
強いて次点を挙げれば、『れでぃ×ばと!』(日野秋晴)の興津和幸
男性声優さんって、なかなか新人さんが育ちにくいかも…。

<新人女優賞>
早見沙織 『そらのおとしものf』(イカロス)
       『セキレイ〜Pure Engagement〜』(結 / 結女)他
金元寿子 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』(カナタ / 空深彼方)』
       『侵略!イカ娘』(イカ娘)

早見沙織は、昨年からある種の社会現象を引き起こしている恋愛シミュレーションゲーム『ラブプラス』でもヒロインの一人で、2009年・2010年と劇場版も作られた『東のエデン』でも主役。声がいいし、歌が超上手いので、これからも重宝されるでしょう。
他は激戦。その中から、来年以降への期待感を込めて、金元寿子を選出。役名付きの出演作はまだまだ少ないがならも、声の質はピカイチなので、これから伸びること間違いなし。なにせ『ソラノヲト』のカナタにはヤラレたし。今はイカちゃんが大ブーム。
惜しくも落選したひとりが、日笠陽子。『けいおん!!』はいわずもがなだし、『 いちばんうしろの大魔王』『世紀末オカルト学院』『生徒会役員共』も悪くなかったけど、今ひとつインパクトにかけたかな。来年以降に期待!
もうひとり迷ったのが、『けいおん!!』のあずにゃんこと竹達彩奈。『kiss×sis』でもがんばってたし、最終クールに『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』と『えむえむっ!』という2作品で主演しているのだけれども、人気先行で技術がともなっていない印象が否めず。

<助演男優賞>
中村悠一 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』(高坂京介)
       『おおきく振りかぶって 〜夏の大会編〜』(阿部隆也)
       『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』(鏑木アキラ)他
櫻井孝宏  『裏切りは僕の名前を知っている』(ルカ=クロスゼリア)
       『黒執事II』(クロード・フォースタス)
       『おとめ妖怪 ざくろ』(総角景)
       『それでも町は廻っている』(磯端ウキ)他

中村悠一は、『侵略!イカ娘』『荒川アンダー ザ ブリッジ』『FAIRY TAIL』などでも起用されていて、とにかく名前を見ることが多かった。声を使い分けるタイプではないものの、なぜか役によって違って聴こえる不思議なタイプ。
櫻井孝宏は、腐女子系作品のイケメンから、ヘタレ、しまいにはメイド服姿の婆さんまで演じるという幅の広さに感服。
他に、日野聡も目立っていたような気もするんだけど、日野ちゃまは最近落ち着いた声路線でちょっと一本調子なので残念ながら落選。
もうひとり候補に挙がっていたのが、最近富にエキセントリックな役や人でないもの系に重宝されている岡本信彦だったのだけれども、昨年新人男優賞を受賞しているので敢えてはずした。

<助演女優賞>
花澤香菜 『Angel Beats!』(天使 / 立華かなで)
       『海月姫』(倉下月海)
       『デュラララ!!』(園原杏里)
       『おとめ妖怪 ざくろ』(薄蛍)
       『セキレイ〜Pure Engagement〜』(草野)他
高垣彩陽 『伝説の勇者の伝説』(フェリス・エリス)
       『そらのおとしものf』(五月田根美香子)
       『みつどもえ』(丸井みつば)他

花澤香菜の場合は、どの作品の名前を挙げたらいいか迷うくらいの出演数。声に恵まれながら、演技も上手いし、使われない方がおかしいけど、尋常じゃない使われ方。『文学少女』『いばらの王-King of Thorn-』と劇場版2作品に主演していることから、主演女優賞でもよかったかな。『変ゼミ』はちょっとショッキングだったけど(笑)
高垣彩陽は、声優ユニットであるスフィアの一員。ソロでも歌っていて、音大仕込みの歌には定評がある。スフィア4人のうち2人はすでに新人賞を受賞済み。新人賞でもよかったかもしれないが、主役よりも脇役を多彩に演じている印象。
伊藤かな恵も頑張ってたけど昨年新人賞を受賞してるし除外。小見川千明も地味に活躍してたんだけど、もう一声って感じ。

<主演男優賞>
保志総一朗『戦国BASARA弐』(真田幸村)
       『そらのおとしものf』(桜井智樹)
       『裏切りは僕の名前を知っている』(祗王夕月)

なんと言っても、『そらのおとしもの』の智樹のはじけ方が凄まじく、また、発声前に独特のブレス音が入る「っ親方様〜!」を連発するアホな幸村にも笑わされてしまい、かと思えば、『裏僕』ではけなげではかない夕月ちゃんをしっとりと演じるという風で。インパクトとしてはこの人の勝ち。
もう一人、特に『バカとテストと召還獣』のハイテンションさが良かった下野紘が候補だったのだけれども、惜しくも落選。

<主演女優賞>
悠木碧   『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』(ノエル)
       『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』(ミナ・ツェペッシュ)
       『それでも町は廻っている』(辰野俊子)  
       『夢色パティシエール』(天野いちご)他
2008年の『紅』(九鳳院紫)のときにその演技力にびっくりし、それからずっと注目していた人。『あにゃまる探偵 キルミンずぅ』(御子神リコ)みたいなロリキャラをやりつつも、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』では声のトーンを押さえたキャラ。こういったキャラは、実は実力のある声優さんでないと活きないというのを思い知らされた。かと思えば、『それでも町は廻っている』ではフツーの女子高生。同じ年に2作品で吸血鬼の女王を演じ、また、キッズ向けの『夢色パティシエール』でも主役。弱冠18歳にして、ベテランの風格。

<歌唱賞>
黒崎真音  『学園黙示録 HIGHSCHOOL OF THE DEAD』
       『とある魔術の禁書目録II』

彗星のごとく現れた新人さん。1クール分で毎回違うエンディング12曲を歌った。その後、早速『とある魔術の禁書目録II』のエンディングに起用される。パンチがあるけど、嫌味がない。今や激戦のアニメ界だけれども、これからがんばって欲しい。

<特別賞>
立木文彦

この人のナレーションを聴かない日はないんじゃないかというくらいナレーションをされてた。
アニメを中心に声優さんを見ている自分にとっては、「アニメ声優さんがナレーションもしている」という風に受け取ってしまいがちだが、いろんなお仕事をされているわけで。
他にも、中井和哉大塚芳忠もよく聴くような。好きな声が耳につくだけかしらん。
また、おっさん世代の声優さんがやけに元気だった印象が。アニメ作品内ではじけているおっさん声優多し。その代表としての意味もあります。

<nbm賞>
津田健次郎

もともと俳優としても活躍されている方なのだが、『バカとテストと召喚獣』のナレーション/先生役で耳に引っかかり、『薄桜鬼』(風間千景)ではすっかりメロメロになってしまった。
というわけで、個人的な賞の中でも個人的過ぎる賞をさしあげます(笑)

ということで、本物の声優アワードとどのくらい重なるものが出るかわかりませんが、これは予想でなくあくまでも”勝手な”選出なので、あんまり無いと思います(苦笑)
posted by nbm at 12:24| Comment(6) | TrackBack(0) | コミック・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月04日

SPEC

NHKの『サイエンスZERO』で、「五感の迷宮」というシリーズが放送された。シリーズ最後の「第六感」の回のみ観てみたよ。

直感はなぜ当たるのか。
ひとつには、経験を積み技能(スキル)が上がると、行動と知覚の結びつきが精密になってくるから。熟練のワザってやつだね。番組では、ヒヨコの雌雄を鑑定する人を取り上げてた。素人にはほとんど見分けのつかないヒヨコの雌雄をたった0.5秒で見分け、ほぼ間違いはないそうだ。脳科学的には、何かに熟練すると、小脳にその機能が移ることがわかっているという。
もうひとつは、願望や疑惑によりアンテナを張っていると、予想をしていたことの手がかりを敏感に拾うから。子どものウソや旦那の浮気を見破ったりする、いわゆる”女の感”はこっちだね。

しかし、”直感的判断の後付け再構成”というのがあって、物事の原因と結果をまとめて記憶しておくことは後々役立つわけだけれども、あらかじめ感じていた予感が実際の結果と違うと、逆に予感の方を結果に見合うように記憶の中で書き換えられてしまうということが起きるらしい。予感を書き換えてしまっているのに、「予感が当たった」と思いたいわけだね。
予感が当たらなかったことは印象が薄いので、予感が当たったときのみが記憶に残っていくことになるらしい。
「予感が当たった」と感じたことが、すべて実際に”当たっている”わけではないかもしれないってことだ。

直感を働かせるときに、人間の脳の中ではどういう反応がおきているかというと、
側座核→眼か前頭皮質→島皮質→運動皮質等と強く反応する部分が移っているらしい。
側座核は、進化的にみて原始的な場所で、人が好き・喜ぶものに反応する。
眼か前頭皮質は、無意識な気持ちと体の反応を繋ぐ部分で、判断が厳しいときにより強く反応する。究極の選択をするときには、ここが激しく反応するというわけね。
島皮質は、好きなこと、いいこと、逆に痛みや不快感などの感情を司る部分だそうだ。
そこまでのプロセスを経てやっと、ボタンを押すために運動皮質が働くとか具体的な行動に出ることになる。
例えば、好き嫌いを選択するときなど、選択していること自体を自覚する以前に、脳はいろんな判断をしているということらしい。

ここまでは、別段不思議なことではないね。

ここからはちょっと面白かった。
座禅を組み集中すると、客観的に自分の頭上から自分の姿を見下ろせるという人の脳について、直感と脳の関係性を研究している学者さんがいる。俗っぽい言葉で言えば、幽体離脱だね?
この方が座禅を組んでいるときには、前頭前野内側部の活動が活発になるという。
たとえば、表情だけで他人の気持ちを読み取るような、直感的に相手の心の状態を理解することにつながるはたらきをする部分だと言われている部分。
その一方で、このとき、大脳の働きが沈静化し、言語機能や理性的な判断機能が落ちているそうだ。
なんでもそうだけれども、脳の働きをどこか一部に集中させようとすると、他の機能を遮断してでも使いたい機能をめいっぱい働かせようとする傾向にあるね。
この場合も、直感的な部分を働かせようとするから、他がお留守になるわけか。

興味深いのは、直感をはたらかせようとするときに前頭前野内側部の活動が活発になるということ。外側から見ると、眉間の部分に当たる。
ここって、いわゆる”第三の目”とか、アージュナー・チャクラとか、仏の相好で言えば白毫、ヒンドゥーの人々がビンディをつける場所。
偶然といわれればそれまでなのだけれども、古くから直感を司る部分のように言われてきた場所が実際に強く反応しているというのは、偶然では済まされないような。
以前、おそらく人格障害を抱える友人とのことで対応に非常に悩み、数時間集中して彼女に送るメールの文章を試行錯誤していたとき、眉間の辺りが熱くなり、まさに「脳みそのココをフル稼働させているな」というのを実感したという体験があるのだけれども、そのときは何も直感的なものを必要としたわけではないけど、脳のココを使っているという感覚を感じたのは初めての体験だったので、そういったことを自覚できることがあるものなのかという発見があった。
つまり、直感を鍛えるために、眉間を意識するという修行を積めば、意識的にその部分の活動を活発化させることが可能なはず。
精神修養のために座禅をやろうという人は多いと思うけれども、たしかにセルフ・コントロールの訓練にはなるのかもしれない。

もうひとつ、番組内で気になったのは、潜在知に何をどのくらい溜めておくかで、直感の使い道が変わるというようなこと。
潜在知というもの自体がちと説明不足でわかりにくく、つかみきれないままなのだけれども。
つまり、人が経験し内部に蓄積してきたことが、たとえ自覚できる部分で忘れ去られたとしても、無自覚な部分では生きていて、様々な意思決定に影響していくということなのだと思う。たぶん。
科学者などが、問題にぶちあたったとき、研究から離れて散歩をしていたら解決策をひらめいたとか、そういう場合には、この潜在知が役立っているということになるらしい。
そして、潜在知というものは、年齢を経るにしたがって増えていくものであるから、年齢を重ねれば重ねるほど、有効に使っていけるはず。
ここは、ムダとしか思えないようなことに時間を費やし、しかも触れた内容をそばから忘れている私のような人間にとっては、とても励みになる理論であるね。そうやって、自分を正当化するのも大概にしておいた方がいいけど(苦笑)

ある朝のこと。
「今朝は卵かけごはんにしよう」と思って起きる。
朝の献立は、目覚まし時計と格闘しながら、ぼんやりと頭の中で整理することが多い私。前日から大体考えていることも多いけれども、その場合も、半覚醒から完全に起きるまでの間に頭の中で具体的にイメージする。その日も、そうやって、「卵かけごはん…むにゃむにゃ…」みたいに考えながら半覚醒していて(だけど言葉には出してない)、しばらくしてから起き、朝食の支度をする。
すると、起きて来たダンナさんが、「あっ!卵かけご飯だ!なんで卵かけごはんが食べたいってわかったの?」
「いや、別に、なんとなく…」

この”なんとなく”というのが直感の正体であるのはわかるのだけれども、偶然とは思えない頻度で、うちではこういうことが起きるので、この”なんとなく”がどこからきているのか知りたいんだけど。
でも、別にダンナさんの顔に書いてあるわけでもなく、「○○が食べたい」というのを聞いた覚えもなく…、朝ごはんのルーティンが決まっているわけでもなく…。
ダンナさんも半覚醒状態にあったのかもしれなくて、半覚醒状態同士で、テレパシーでも交わしてたんだろか。
「卵かけごはんが食べたいんだけど…」
「了解、了解」
みたいな…(笑)

予知夢を何度か観たこともあるし、私はもしかしたらSPECの保持者かもしれないので、公安零課に消されてしまうかも…(笑)
posted by nbm at 16:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 不思議な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月02日

別物化

先日、映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』がテレビ放映されてました。字幕版は観たことがありますが、声優さんがあまりに豪華だったので、もう1回観ちゃいました。
ライラ役には世間に”釘宮病”を蔓延させている(極一部の世間だけど)釘宮理恵、パンタライモンは水田わさび(現・ドラえもん)、ライラの友人の少年2人は、少年声には定評がある小林由美子と”ナルト”でお馴染みの竹内順子。コールター夫人が『攻殻機動隊』の”少佐”田中敦子だと思ったら、鎧熊のイオレク・バーニソンは同作の”バトー”大塚明夫。かと思えば、そのイオレクの宿敵イオファー・ラクニソンが”シロさん”大塚芳忠だったため、鎧熊同士の戦いは大塚vs.大塚という豪華さ。(芳忠さんの代表作を『荒川アンダー ザ ブリッジ』の”シロさん”としたのは、単に好みの問題です)声優マニアとしては、妄想膨らむあまりにも素敵な配役だったため、楽しんでしまいました。
劇場公開版・DVD版の吹き替えは観てないけど、こっちの方が断然良かったはず。テレ朝えらい!

さて、この『ライラの冒険』は、フィリップ・プルマンによる3部作の児童小説なわけですが、順調に映画化が進行しているのかと思っていたら、1年前の段階で、すでに続編の制作中止が決まっていたそうで…。残念。
内容的に無神論というか反キリスト教ととられても仕方ないものになっているので、全米カトリック連盟がボイコット運動を起こし、アメリカでの興行成績も振るわなかったということで。
これから画的にも、筋としても面白くなるのになぁ。

原作を読んでいる私には、その世界観やあらすじがわかっているので、単純に映像を楽しめたのですが、テレビ放映版はだいぶカットもされているようで、某サイト実況スレッドでは観ている人たちの大半が話について来れない模様。つまらないという感想もチラホラ。
そうだよねぇ。付いて来られないよねぇ。
つまらないと言っている人たちには、ぜひとも原作を読んで欲しいわぁ。これは本当によくできたファンタジーなのよ!
映画化した段階でも、部分部分を切り取ってつなぎ合わせるようなことになるから、ご都合主義的な展開に見えるのは致し方ないのよね。でも、原作はもっともっと複雑な葛藤があって、そんなに単純じゃないんだよ。
そういった背景を知った上で観ていると、映像で足りない部分が脳内で補完されてしまうから、疑問を持たずに単純に映像を楽しめるってことになるんだろうな。
(→『ライラの冒険』についての過去記事暗黒物質

ってことで、原作と映像作品との関係について、最近もうひとつ気になった作品があったので書いておきます。今回はモロネタバレなので、『シャイニング』を未読・未見の方はご注意ください。

スティーブン・キングのホラー小説は、古いものはほとんど読んだと思っていたのだけれども、『シャイニング』はキング作品の王道のはずなのに読んだような読んでないような…と思い、読んでみた。
すると、だいぶ忘れている部分があるものの(っていうか、ほとんど忘れてるけど 笑)、どうやら読んだことがあるようだわ。

読んだことがあると気づいたのは、トピアリーが動いて人間を襲うというくだり。「そうそう、そうだったわ」と読んでいた。
ところで、スタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』も当然何度も観たはずだけど、トピアリーが動く場面なんてあったっけ?

そこで、もう1度『シャイニング』を見直してみましたよ、YouTubeで。字幕がないから言ってることがようわからんが…(苦笑)いいのさ、映像がチェックしたかっただけだから。
あれれ?トピアリーは動いてないね。っていうか、トピアリー自体が出てこない。生け垣で作られた巨大迷路にすり替わってます。こっちもこっちで、そういえばそうだった(笑)

スティーブン・キングは、このキューブリック版の映画が気に食わなかったらしく、自分で一から映像作品を作り直しているのですが、そちらは未見です。このキング版では、トピアリーが動く場面があるようなのですが、観てないので知りません。
となると、「トピアリーが動く」場面を記憶していたんだから、原作を読んだことになるはず。これねぇ、私の脳ってほんとにテキスト脳なんですよね。元ネタが映像だとしても、記憶するときにはテキスト・データで記憶されることがほとんどなもんだから、こういうことになるんです。「トピアリーが動いた」という記憶が、文字なんだか映像なんだかわからないんですからね。そんなばかなと思われるかもしれませんが、映像の記憶が残らない性質なもんだから、逆に観てないのに観たような気になったりすることもありますし、厄介です。
『シャイニング』の”シャイニング”って何だっけ?と思ってたので、重症です。この”シャイニング”とは、作中に出てくる黒人コック・ハローランが、超能力めいた力を”かがやき(Shining)”と呼んでいることからきています。
ついでに、知らない方のためにあらすじを書いておきますと、アル中から暴力沙汰になり高校教師をクビになった作家志望の男、ジャック・トランスが、妻と幼い息子ダニーを連れて、冬場に閉鎖される山の中のホテルに管理人として滞在するところから話が始まります。由緒あるそのホテルには、様々な亡霊がとり憑いていて、ジャックはそんな”ホテル”にとり憑かれ、妻子を殺そうとするのですが、息子ダニーには強い”かがやき(Shining)”があって、その能力で”ホテル”から逃れようとするというお話。

さて、原作小説と映像化された作品が乖離してしまうというのはままあることですね。今回は、原作小説を映画化したケースに限って話を続けます。
まず、映画には尺がありますから、1時間半からせいぜい2時間くらいに収めなければなりません。映画2本分に分けるなんて手法もなくはないですが。1冊の本を脚本化するには当然切った貼ったが必要で、ポイントポイントを押さえて強引に繋げると、前後に齟齬が生じたりして、そのための誤魔化しを必要とすることもあるでしょう。
活字と映像というまったく違った性質の媒体で表現するわけですから、映像にしたときのインパクトを優先させることも多いと思います。
あとは、よく言われることですが、配役のイメージですね。これと似たもので、撮影の都合や監督の意向などで舞台設定の変更も考えられます。
映像では伝えられないことというのもあります。代表的なのは”匂い”ですね。たとえば、『シャイニング』では、ハローランが”かがやき(Shining)”を感じるときには、必ず強いオレンジの匂いがすることになってますが、映像で伝えることは難しい。というわけで、映画の中で”かがやき(Shining)”が発動するときには、生理的にイヤ〜な黒板を引っかく系の効果音が流れます。

原作を読んでからキューブリック版を観ると、細かいところでいろいろと違いがあって、キングが気に食わないのも当然かなと思えます。でも、私は映画は映画で好きですよ。
映画『シャイニング』といえば、と代表的に思い浮かぶ印象的な場面は、ほぼキューブリックが勝手に創ったものと言っていいほど。ジャケットにも使われている、ジャック役のジャック・ニコルソンが、ドアの一部をぶち破って顔を覗かせるシーン。映画では斧を振り回してますが、原作ではロークの木槌です。ロークとは、クローケー(クロッケー)に似たゲーム。この辺は、一般的になじみが薄いスポーツだろうし、見た目にわかりやすい斧に変更されたんだろうな。この作品の象徴とも言える、エレベーターの扉から血の海になるシーンも、双子の女の子も、原作にはなかった表現だと思う。逆に、キューブリックの映像センスが際立つね。
ジャックの前任の管理人が自分の妻子を殺して自殺しているのだけれども、映画では、その前任者が単純にジャックにとり憑いて同様に妻子を殺そうとしているという風に見える。けれども、原作を読むと、”ホテル”が欲しているのは息子ダニーの”かがやき”であり、それが”ホテル”の亡霊たちにとって何らかのエネルギー源になるようだ。だから”ホテル”は「ダニーが欲しい」わけで、ジャックはそのための駒でしかない。それに気づいたジャックは、アル中の職を失ったダメ人間なわけで、息子への嫉妬心のようなものもあり、”ホテル”の意思と自分の意思とが相俟って息子を殺そうとする。
ハローランが助けに来るまでの顛末も、映画版では省かれてる。ハローランは、ダニーがテレパシーで送ったSOSを受診してマイアミからデンバーの雪山へと駆けつけてくる。その間、”ホテル”の妨害がマイアミまで及び、ハローランは何度も窮地に立たされる。一方で、窮地を救う人々に助けられるが、その人たちはほんの少しだけれども”かがやき”を持つ人々だった。
原作と映画とでは、ラストシーンもまったく違う。ラストに関しては、映画の方がやっつけでお粗末ね。

映画では、全体的に、ジャックが”ホテル”にとり憑かれていく過程が映画ではわかりにくい。
活字を読む上で、”行間を読む”という言い方をすることがあるけれども、活字で”行間を読む”よりも、映像の”コマ間を読む”方が難しいような気がする。っていうか、できない。そのことに突っ込んでいくとまた長くなりそうなので今日はやめとくけど。
映画よりも活字の方が、作品世界を丁寧に描けるのは、時間を大きく使うことができるから。活字に時間制限はないからね。事が起こるまでのいわば前奏部分が長い話というのは、前奏部分を読んでいる間はどこかもどかしいのだけれども、いざ事が起こると、その長かった前奏部分が効いてくる。
『シャイニング』も前半部分(文庫本でいうと上巻)では、トランス家のあれこれについて丁寧に描かれているだけで、これといったデカいことは起こらない。伏線というか、なぜにそうなっていくか根本的な背景が書き込まれているわけで。私が読んだ本の中で、これを一番強烈に感じたのは小野不由美の『屍鬼』だったな。あれも、クソ長い話で分厚い上下巻から成る本だったけれども、上巻ではのろのろと延々死人が続く村の状況が語られていくだけでひどくもどかしい思いがしたもんだ。そういえば、あれはキングの『呪われた町』へのオマージュだったっけ。

さて、話が長くなったので、この辺で切り上げようと思うのだけれども、『シャイニング』は、ちょうど厳しい冬を迎えようとする今頃の季節から始まる物語。今の季節に読むにはちょうどよい話だった。私は原作小説も映画も特に怖いとは思わないけれども、双方好きな作品ではある。
この小説の中には、スズメバチの巣を撤去するエピソードがある。殺虫剤を使って巣ごと退治したつもりで、生き残っていたスズメバチにダニーがしこたま刺されるという事件が起きるのだけれども、季節だけでなく、偶然に、うちでもスズメバチ被害者が出るという展開になり、変な符合にちょっとイヤな気分になったわ。
スズメバチも小説の中ではわりと強調されるモチーフなんだけど、映画には出てなかったね。
posted by nbm at 10:01| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月01日

ぐるん

気になったので、メモ。

昨日の地震はちょっとびっくりしました。
11月30日 12時25分
震源 小笠原諸島西方沖(北緯28.4度 東経139.7度)
M6.9 深さ約480km
このマグニチュードとこの深さ。
小笠原諸島は東京都内といえど、震源地は距離的には東京から考えると九州くらい離れた場所。深いところで発生した地震なので、遠くが揺れることになったんでしょう。震源に近いところよりも遠くの方が大きく揺れる異常震域ってやつですね。関東から東北あたりにかけて広範囲が揺れました。
しかし、このマグニチュード。深くて遠くてよかったです。これが都内直下の浅い所で起きてたらと思うとゾッとします。
首都圏で被害が出るような大きな地震が起きないのはありがたいことですが、大きな地震が起きない状態が続くということは、逆に言えば、これから起きる可能性がどんどん高まっているはずで、ここ数年の日本の様々な状況を考えると、どうも危機感が高まってきます。
そんなところに昨日のこの地震。心配です。

デンパなことを書きますが、私のカラダはどうやら地震の前ぶれを感知するらしいです。
いつも必ずというわけではないのですが、大き目の地震がくるときに、事前に察知することがあります。
それは、瞬間的な回転性のめまいです。
めまいでなく耳鳴りがするときもあります。
しかし、耳鳴りがしても何も起きないことがあるのに比べ、瞬間的なめまいは100%と言っていいほどの確率で、その後にある程度大きな規模の地震、震度でいうと3〜4程度が起きます。
昨日も、この瞬間的なめまいが起きました。私はこれを”ぐるん”と呼んでます。頭がぐるんと一回転するような感覚になります。昨日の”ぐるん”は、いつもより強くて短い感じで、よく体験する”ぐるん”とは少々趣の違うものでした(笑)
大抵、この”ぐるん”があると、数時間後、その日のうちに地震が起こるといった感覚だったのですが、昨日は10〜20分後くらいに地震が起きて、びっくり。いつもとはちょっと違った感覚だったので、”ぐるん”じゃないかも(つまり地震は起きないかも)と思って油断しました。

ですが、地震が起きるときに必ず”ぐるん”があるわけではありません。
”ぐるん”があれば、地震は起きるけど。
というわけで、予知にはならないんですけどね。参考程度にしか。
このめまいは、どうも耳鳴りと関係しているような気がするので、たとえば低周波とか、何らかの前兆を内耳かどこかで敏感に感じ取っているのだと想像しているのですが。

”ぐるん”がきて、気構えができたとしても、そのほかにできることはありません。
近々地震が起きるのはわかるけど、それがいつだかわからんし、震源がどこかとか、規模もわかりません。
あとは、日ごろの備えをするのみ。それしかないもんね。
posted by nbm at 11:13| Comment(4) | TrackBack(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする