2012年09月28日

秋の本祭り

どうにも集中力が失われて、夏場に書きかけた記事が溜まっております。
本に関する記事が多いので、それをまとめて読書の備忘録といたします。



『いつか僕もアリの巣に』 大河原恭祐
特技は、アリの解剖という著者が「自然に対して新鮮な感動を失ったら良い研究はできない」というポリシーのもと、アリ研究について書いたアリ愛に満ちた本。老眼には厳しい、アリ図鑑付き。ルーペ必須。
2007年12月現在、日本で記録されているアリの種類は275種類、世界では、1万種以上もいるのだそうだ。
アリに関する様々なエピソードが綴られているので、いくつかご紹介。
ある種のアリに果肉を掃除してもらうと、動物の食いさしの果実が腐らず、カビも生えないのだそうだ。抗菌性物質を使っているのかもしれないとのことだが、まだ研究途上で不明。
アリの背中には翅芽痕という部分があり、女王候補にあるそれをかじり取ってしまうと働きアリになってしまう。ところが、人間が人工的に切り取ってもそうはならない。なんで?
他に、ドロドロな愛憎劇みたいな側面が多々あって面白い。
例えば、多女王制でも、まるで財産・権力争いのように、最終的には女王が1匹になるまで殺し合うことがあるそう。
出戻り娘というのもあって、巣がご近所なら、母が娘に餌を届けたりする。
女王の仕事は産卵だけでなく、子供のお世話もするのだそうだが、そんなふりをしつつ、
巣の中を歩き回って女王物質を振り撒き自分の健在をアピールする。接触しないといけないので、握手してまわっているようなものだとか。
無翅オスがいるキイロハダカアリでは、ハーレム欲しさに弟を殺す兄貴や、生き残るために妹のふりをする弟がいる。
こんな感じで、研究者のフィールドワークやアリ飼育のエピソードなども語られつつ、アリワールドが展開される。
表紙のアリくんたちのリアルさに、そんな本を置いていたことを忘れていて、手で払おうとしたのは私です(苦笑)



『マイクロワールド』 マイクル・クライトン&リチャード・プレストン
マイクル・クライトンの未完の原稿をリチャード・プレストンが大幅に加筆して完成させたという作品。
身長2センチほどに縮められてしまった大学院生たちが、持てる知識を総動員しつつハワイの大自然の中でサバイバルするお話。

まえがきにはこんなことが書かれている。
2008年、博物学者デイヴィッド・アッテンボローが表明した懸念について。現代の学童が、身近な自然に見かける植物や昆虫を識別できないのは、自然の世界で遊ぶ経験がないからだ、と。
また、環境保護を意識するのはいいのだが、自分がよく知りもしないものを保護するように教え込まれている、と。
問題は、当人たちが”理解しているつもりでいる”点にある。このままいけば、いま以上に自然から隔絶された学童の新世代が出現しても不思議ではない。それは極論だとしても、すくなくとも学校では、”どんな問題にもかならず答えがある”と教わるはずだ。しかし生命には、不確実、神秘性、不可知の側面が多く、子供たちがそれを発見できるのは、現実の自然界をおいてない。自然のもとで遊ぶ機会がたっぷりとあれば―甲虫におしっこをかけられた経験があれば―指先に蝶の翅のカラフルな鱗粉がついた経験があれば―イモムシが糸を吐いて繭を作るのを観察したことがあれば―その子はきっと、神秘と不確実の感覚を身につけたおとなになれるはずである。観察すればするほど、自然界は神秘的に見えてくるし、自分がいかにものを知らないかまざまざと実感する。そしてその子は自然の美しさとともに、豊穣さ、浪費性、攻撃性、残酷さ、寄生性、暴力性などを、身をもって知ることになるだろう。そういった側面は、教科書ではとうてい伝えきれないものだ。

もともと動植物に興味があり、自然に割と恵まれた環境で育ってきた自分は、図鑑を見ると同時に身の回りの自然に直接触れてきた。雑草の名前は図鑑が教えてくれるけれど、この草は白い汁を出すとか、これは噛むと酸っぱいとか、この茎はストロー状の空洞だとか、遊んだ中で得た知識は多い。本に書いてあったことを自分で試してみることもあった。カエルのお腹を撫でて催眠術をかける、とか。
私は親が共働き、兄たちは歳が離れていたために一緒に遊んだ記憶はなく、ひとり放置されて育ったのだけれど、自分が自然豊かな場所で育ったことは、生活するには不便だったけれども、大きな財産となっていると、今になって思う。
自然界と相互作用するにさいして、われわれは絶対確実という概念をあきらめる必要がある。これは今後もつねにそうだろう。

こういう感覚も、肌で感じて理解しているというか、自然は人間の意のままにはならないということは、大前提として持っている。
異常気象とか大地震とか津波とか、人間の力ではどうにもならないことにさらされている今、こういう感覚は大事なのではないかと思う。
マイクロヒューマンとなって、ハワイの大自然に放り込まれたうちのひとりが、自然の危険に触れるにつれ、こんなことを考える。
十中八九、自分はこの冒険の旅(クエスト)で死ぬだろう。自然はやさしくもなければ好意的でもない。自然界に慈悲などというものは存在しない。努力したからといって、かならず報われるわけでもない。生きるか死ぬか、ふたつにひとつだ。この六人が六人とも、だれひとり生き延びられないかもしれない。自分はこんな場所で消えてしまうんだろうか。

本来、生きるって、そういうことだよね。

科学的に興味深い話はいくらでもでてくる。
南アメリカ原住民が狩猟に使う毒クラーレ。
昆虫を模した六脚の移動用ヘクサボット。(マイクロワールドの悪路を進むには車輪は役に立たない)
マイクロ化された人間の耳に聞こえる人の声。
マイクロ化されたときの質量や重力の感覚。
強力な電磁波が人を縮めるという設定なんだけど、なんかワクワク。
縮小された原子と通常サイズの原子との相互作用はどうなるのか。水の粘度や匂いを感じるときなど。
マイクロ酔いという副作用のようなものがあるのだけれど、この原因の謎。
代謝が速くなるから、心臓は速く拍動する。これは、”ゾウの時間ネズミの時間”?
そして、「本来ハワイに蛇はいない」というのは知らんかった。色々と刺激され、また勉強になった。



『考えの整頓』 佐藤雅彦
雑誌「暮しの手帖」2007年1月から2011年5月までの連載に加筆したもの。
まず、こんな問いかけをご紹介。
大学で同僚の桐山孝司教授からの以下のような問いがあったという。
1−1=
4−1=
8−7=
15−12=
では次に、12から5までの間で、頭に浮かんだ数をひとつ選んでください。
答えは後ほど。

「敵か味方か」
人間というか生物にとって、山奥や戦場で出くわした見知らぬもののどんな情報を一番得たいか。それは、簡単である。真っ先に得たいのは、相手の所属でもないし、正確な名前でもない。ひとつだけ知りたいとしたら、ただ、その相手が「敵か味方か」である。


「言語のはじまり」では、脳学者で言語の起源を研究している岡ノ谷一夫さんによることばの定義を紹介。
『象徴機能を持った単語をある順序で組み合わせることによって、世の中の森羅万象との対応をつけるシステム、それがことばである』


「一敗は三人になりました」
人と人とのコミュニケーションにおいて、伝える内容は、簡単で分かりやすい方がいいかというと、あながちそうとも言えないのではないかと私は思っている。もちろん、ひとりよがりの小難しいだけの文章ではコミュニケーションが取れないのは当然であるが、最近の何でも分かりやすく伝える、教えることを良しとする傾向は、人間に本来備わっている「推測する力」、「想像する力」、「創造する力」を考慮に入れない方向性で、それが却って教育や放送文化などを貧相なものにしているのではないかと案じている。


他にも、例えば、ポール・オースターの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」の話などは面白い。
聴取者の稀有な体験や物語をラジオ番組で紹介するというこのプロジェクトでの一話「ファミリー・クリスマス」。不況下のアメリカ、貧しい一家のクリスマスプレゼントの話。
クリスマスの朝には、ツリーの下にプレゼントの山。数ヶ月前に失くしたと思っていたショールや帽子、スリッパなど。実はこれ、末弟がこつこつ隠していたもの。一度なくして諦めたものが出てきた「差」が喜びを生む。絶対に使ってもらえるものという確証付きプレゼント。

いきなり核心に行くのではなく、輪郭を歩いたように造られた文章が並ぶ。自分のあやふやな考えのまわりをぐるぐる周りながら、自分の考えを整理整頓した過程を記したという1冊。

さて、最初の問の答えは「7」?
これは、”無意識の引き算”と呼ばれているそう。
数学者キース・デブリンが著書『数学する遺伝子』で語っていることで、一旦引き算モードになると、無意識に引き算してしまうのだそうだ。



『道化師の蝶』円城塔
伊藤計劃から派生して、ちょっと前から興味があった円城塔。芥川賞受賞ということで、これを機に読んでみた。
表題作品の最初に出てくるのは、「飛行機内で本が読めない」という話。
着想は速度によって体から離れる

というのだけれど、入院中に本が読めなかったことを思い出した。どうにも集中力が続かず、活字の上を目が上滑りする感覚でダメだった。結局、軽い雑誌を読んだり、お絵かきロジックパズルをしたりして過ごしたのだけれど、飛行機内で本が読めないことと、どこか共通しているような気がする。別に、入院中は速度は感じないわけだけど。
入れ子のようになった構成のファンタジーで、私はすごく好きな作品。
「わっは!これ、どうなってんの?!」とか思いながら、でもそれを突き止めることなく流して読んだのだけれど、とても楽しかった。敢えて読み返しもせず。忘れた頃にまた読んで、また「これ、どうなってんの?!」と楽しみたい。

もう一篇の「松ノ枝の記」も仕掛けが面白い作品。
エレモテリウムの骨格標本について、こう書かれている。
凶暴だったのかは無論知られず、知りようもない。確実なのは骨があったという事実に限られ、現在残る生き物との類推からおおまかな推測ができるだけだ。実は蛍光ピンク色の毛皮を着ていたのかも知れないし、眼窩としか見えない穴には触手が収まっていたかも知れない。脳は頭にではなく、腹部にあったかも知れず、頭が尻尾で尻尾にしか見えない方が実は頭だったのかもわからない。

こういう、アホな可能性を考えてしまうところに魅力を感じる。なぜなら、私もそう思うから(笑)
”コリヤー兄弟”とか出てきて、興味本位で検索とかしてみたら、「実在しとったんかい!」ってなって。そんなものが随所に散りばめられている宝探し的な楽しみ方もできる一作だった。



ついでに、思い出せるものだけでも、さかのぼって簡単にメモしておこう。

『バールのようなもの』 清水義範
パスティーシュというジャンルを得意とする方らしいが、立川志の輔さんが本を紹介する番組で挙げられていた本で、そういえばずっとタイトルは気になってたけど、読んだことがなかったなと。表題作をはじめこの中の何遍かは、立川志の輔さんによって落語化されているらしい。
表題作の他にも、「秘密倶楽部」、「みどりの窓口」、「新聞小説」など名作揃い。なるほど、読んだことのないタイプで、楽しんだ。

『時の地図』 フェリクス J.パルマ
スペイン文学といえば、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』を途中で放り投げたままなのに、先にこっちを読んでしまった。別に無関係だけど。
タイム・トラベルを題材にしたエンターテインメントといった趣。H・G・ウエルズとか出てきちゃって、時間軸をあっちに行ったりこっちに行ったり。
文芸作品とかSFとか期待して読んでしまうと肩透かしかもしれないけど、最初からエンターテインメントだと思って読めば楽しめると思われ。

『川の光 外伝』 松浦寿輝
オリジナル『川の光』が、衝撃的なくらい良い出来だったので期待してしまったのがいけなかった。
これはちょっといただけない。『川の光』に出てきた動物たちが、再び登場してくれるのはよいのだけれど、ちょっとファンタジーに片寄り過ぎてる。どうせなら、もっとリアルな世界を書いてもらいたかった。
どうやら、『川の光2』という続編でゴールデンレトリバーのタミーの少女時代を書いているらしいので、リアルな世界での話はこちらに任せてということなのかもしれない。でも、『川の光2』には期待。読売新聞に連載中らしいが、本にまとまったら読もうと思う。
『川の光』については、過去記事川の光を求めてをどうぞ。文字色が一部見にくい記事ですが、申し訳ありません。

『エス』 鈴木光司
『リング』の貞子の話をもとに、『エス』から始まる新たな3部作を作るつもりか?『リング』『らせん』までは良かったけど、『ループ』にきて「?」となったので、貞子ネタをひっぱる形で「まだ続くんかい!」とツッコミを入れたくなるんだけど、これはこれで面白いかも(笑)
映像制作を生業とする主人公のもとに、謎の動画データが持ち込まれるところから話は始まる。これは、ある男が首吊り自殺する様子が映ったものなんだけど、不自然極まりないってことで、真相を突き止めようとするのだが……
あとはネタバレになるのでやめときます。
『リング』シリーズを読んだ人なら、楽しめるのではないかな。できれば、過去のシリーズ作品を読み返してから直後に読んだ方がいいかも。私は、もうみんな内容を忘れてたので、わかりにくいところが多々あり。

珍しく小説を多く読んでいるこの頃……
posted by nbm at 12:10| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月25日

2012年9月20日からの地震メモ

2012年9月20日からの地震メモです。

千葉・茨城近辺の有感地震は以下のとおり。
2012年9月21日15時1分頃  茨城県北部  M3.1 深さ約70km 最大震度1
2012年9月22日6時48分頃  千葉県東方沖 M3.6 深さ約10km 最大震度1
2012年9月22日12時56分頃 茨城県北部  M2.9 深さ約10km 最大震度1
2012年9月22日15時22分頃 茨城県北部  M3.8 深さ約10km 最大震度2
2012年9月23日3時40分頃  茨城県沖   M3.4 深さ約40km 最大震度1
2012年9月25日1時12分頃  茨城県南部  M3.5 深さ約50km 最大震度2

この地震メモは不定期ですが、1週間から10日くらいずつの記録を心がけてます。
前回は9月19日14時59分頃の茨城県沖(M3.4)まででした。翌20日、このエリアでは有感地震ゼロ。それから、22日は何回か有感地震があったものの、非常に少ない状態が続いてます。
このところ、茨城県北部と千葉県東方沖は、深さ約10kmで揺れていることが多いです。茨城県北部に関しては元々深さ約10kmで揺れるのがほとんどなのですが、千葉県東方沖は今年3月あたりから深さ約10kmで集中的に揺れているのが気になります。
この数日は微振動を感じることも多いので、どこか不安を感じているだけかもしれませんが。

昨年10月、房総半島沖で通常とは異なる地殻変動が観測され、房総半島沖のフィリピン海プレートと陸側のプレートの境界面で発生しているスロースリップが起きていることが確認されました。これが起きていたのが、深さ10〜20kmの辺りです。
その後、千葉県東方沖震源で震度4以上となった地震は、以下の2回のみ。
2012年2月29日23時32分 千葉県東方沖 M5.8 深さ約20km 最大震度4(当地 震度1)
2012年3月14日21時05分 千葉県東方沖 M6.1 深さ約10km 最大震度5強 (当地 震度2)
この大きめの地震の前には、同地域での有感地震の空白があります。
2月29日のときは1週間、3月14日のときは2日の空白の後でした。
今回は、9月22日以降、千葉県東方沖での有感地震がまだありません。ちなみに、無感地震もないようです。
もちろん、1週間以上、間があいても何もないこともあります。空白と頻繁に揺れる状況とは、どちらも大きな地震の前触れとなりうるので、素人に判断できるようなものではありませんが、この空白はよくない兆候のような気がします。

ちなみに、昨年10月以降の茨城県北部震源で震度4以上は、以下の3回でした。
2011年11月20日10時23分 茨城県北部 M5.5 深さ約10km 最大震度5強
2012年2月19日14時54分  茨城県北部 M5.1 深さ約10km 最大震度5弱 (当地 震度2)
2012年3月10日2時25分  茨城県北部 M5.5 深さ約10km 最大震度5弱 (当地 震度1)
茨城県北部は面白いもので、立て続けに揺れる癖があるようです。空白が開いてからドーンとくるというパターンにはなりません。

震源が浅いと震度が大きくなりますから、深いところで揺れてくれた方がありがたいのですが。
posted by nbm at 11:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月24日

究極の選択 2題

連休というと、ダンナさんは大概おっさん軽音部に出かける日がある。昼から出かけて、午前様もしくは朝帰りになるのが常なので、こういう日は私にとって、映画DVDを観るチャンス。
なぜって、普段はアニメばかり観ていて、映画を観るヒマがないから(苦笑)ちなみに、このクールは数が多く、週に35作品!5分間のミニアニメも何本かあるけど、それを除いても30作品は観ている。
ということで、今回はなんとか映画を2本を観ることができた。3本は観るつもりだったのに、片方が長い作品だったのでムリだった……
双方とも古めの作品ではありますが、少々ネタバレありかもなので注意。

『運命のボタン』(2009)
テレビで放映していたので、なんとなしに録画しておいた。
事前知識として、家に届いたボタン装置を、押せば100万ドルがもらえるが、知らない誰かが1人死ぬとして、そのボタンを押すか押さないかという話だということだけは知っていた。100万ドルというと、今のレートだと1億円にもならないだろうけど、舞台設定の70年代当時だと3億円くらいの価値があったかも。
決断までの猶予は24時間。ボタンを押さなければ、それは回収され、プログラムを書き換えられて別の人の元へ届くという。
んで、キャメロン・ディアス演じるノーマは、お金に困ってることもあって、ボタンを押してしまうわけね。ポチッとな、と。
単純に「知らない誰かが死ぬ」だけだったら、ボタンを押さなくたっていつでもそういう状態なわけだし、それで大金がもらえるならそれでもいいかと思ってしまう、とか。ボタン装置を分解してみても空っぽで、どこかに何かがつながっていそうな構造でもないし、ボタンを押せば誰かが死ぬなんてそんなことあるわけがないと思うから押してしまえ、とか。たとえ大金が手に入るとしても、自分の行為が元でどこかで誰かが死ぬなんて絶対にイヤだと拒否する、とか。
想像できる反応は、大体そんなパターンでしょうか。
でも、「100万ドルがもらえる」というのが仮に本当だとして、それによって人が死ぬかどうかを置いておいたとしても、それだけで済むとは到底思えないですわな。「ボタンを押す
という行為だけで済むはずがない。そこには何かしら”代償”があるはず。そう思って然るべき。

これが、思っていた以上にトンデモ映画で、私は好きです。
たぶん、評価がパッカリ分かれるタイプの映画でしょうね。
まず、70年代を設定したことが評価できる。リチャード・マシスンが原作を書いた時代と合わせたんだと思うけど、この作品には欠かせなかった。
主人公ノーマの夫アーサーは、NASAに所属し、宇宙飛行士を目指しているという設定。ヴァージニア州が舞台だということなので、おそらく設立されたばかりのラングレー研究所近辺が舞台になっているのだろうと思われる。作中に出てくる殺人事件の加害者がラングレー所属だと言ってるし。ラングレーといえば、NASA最古の研究私設。宇宙開発事業がこれから発展していくであろう希望に満ちている頃だったのではないかな。
そんな時代設定の中、特に印象的だったのが、アーサー・C・クラークの第三法則。アーサーが地下室に蒐集している火星関連グッズの奥に美麗なポスターが貼られている。アーサー(主人公ノーマの夫)と作家のアーサー・C・クラークとは友人という設定だった。あれは誰か有名な画家の絵なのか、それともSF的な何かの挿絵なのか、雰囲気的にはギュスターヴ・モロー的。人なのか神なのか、描かれている中心の2人は、右側の方がが明らかに上位者だけど、異形にも見える。左には剣を構えているように見える人も。その絵の下にクラークの第三法則の一文が書かれている。
作中のセリフ通りに書くと、
「高度に発達した科学技術は魔術と区別がつかない」
ポスターの絵がはっきりとは見えないので何とも言えないが、はるかに発達した文明をもつ存在に対しての畏怖のようなものを表した構図だったのかもしれない。
マシスンの原作やこの映画をご存知ない方からすると、一体何の話をしているのかと思われるかもしれないが、つまりはそういうことです。
大体、特別な通信機能があるようにも見られないただのボタンを押して、「ボタンを押す」という行為が実行されたことが謎の紳士にわかったり、それによって「他の誰かが命を落とす」ことになる仕組みは、どうやったら実現できるのかということで。”高度に発達した科学と魔術は区別がつかない”ことになるわけですね。
人間よりも高次の存在があって、人間の生き死にはその高次の存在によって左右されてしまうという……
バカバカしいとか理不尽だとか、そんなことはわかりきっているのです。相手は、人間の理解を超えた魔術のような存在なわけですから。
『フォーガットン』(2004)なんかを連想する方も多いかもしれませんが、私は『ギャザリング』(2002)を思い出した。ちょっと毛色は違うけど。
監督のリチャード・ケリーは、『ドニー・ダーコ』(2001)という面白い作品を撮ってる人なのですが、個人的にはこの人のセンスが好き。『ドニー・ダーコ』がまた観たいな。



『ダークナイト』(2008)
『ダークナイト ライジング』(2012)もとっくにできてるってのに、観よう観ようと思いつつ、ずっと観そびれてきたものをやっと消化。そしたら長い作品だったのを忘れてた。2時間半。
こちらは、クリストファー・ノーラン監督作品ということで、安心して観られると思って観た。クリストファー・ノーラン作品は、処女作『フォロウイング』(1998)からこっち、ほとんどの監督作品を観ている。
実は、アメコミのヒーローものが苦手で、あまり魅力を感じないのだけど、どういうわけかバットマンだけは別。中の人が生身の人間で、金に任せてとんでもない装備を作って装着してるのと、コウモリというダークな雰囲気の象徴が気に入ってるんだと思う。
ティム・バートンは好きな監督さんの一人だけど、ティム・バートンの『バットマン』シリーズは、私の苦手なアメコミ・ヒーロー臭が強められた感じで、あまり好きじゃなかった。それでも、ティム・バートンが監督してマイケル・キートンがブルース・ウェインを演じてるうちはまだよかったんだけど。
でも、クリストファー・ノーランの描くバットマンは、アメコミ臭が消えていて、個人的にはその世界観がしっくりきた。

配役も良かったね。クリスチャン・ベイルはどうでもいいんだけど。まぁ、悪くない。どうせ出番の半分はマスクかぶってるし。アクションは格闘シーンだけは自分で演じたみたいだけど、吹き替えのスタントマンさんだったりするときもあったかもしれないし。
バットマンを支える二人にマイケル・ケインモーガン・フリーマン、刑事役のゲイリー・オールドマンアーロン・エッカートのトゥーフェイス。
クリストファー・ノーランは、つくづく配役のうまい人だ。
しかし、なんといっても圧巻は、ヒース・レジャーのジョーカー。
顔だけでなく心に傷を負った人間が暴走する狂気。それでいて冷静さを欠いていない。どこか1本筋が通ったことを言っているようにさえ感じてしまう。ダーク過ぎるけど、ユーモアも忘れていない。特に、鉛筆を消してみせるシーンなんかは、とてもよかった。
犯行ごとに集めた手下を容赦なく使い捨てにする。そんな手下をどうやって集めるのかと思うが、彼に会ったら心酔する人間なんてたくさんいるのだろうとも思える。ジョーカーは、金に興味があるわけでもなく、人が殺したいわけでもない。ひたすら悪いことをして楽しむ。中でも、人を悪に引きずり込むのが最高に楽しいらしい。
バットマンを悪に染めるために自分を殺させようとするが、バットマンは決して悪に墜ちることはなく。逆に、バットマンは自分を楽しませるおもちゃだとして、決して殺さない。
クリスチャン・ベイルはかわいそうだけど、これはヒース・レジャーの映画だった。ヒース・レジャーの演技はそれはそれは凄まじく、これで命を削ったとしても不思議はないと思うほど。あのジョーカーはジョーカーであってヒース・レジャーではないけれど、同時にどうしようもないくらいヒース・レジャー自身だったのではないかと思う。
普段は、役から演じている役者本人を感じてしまうと興醒めなんだけど、今回のジョーカーばかりは背後にヒース・レジャーを感じて泣いた。
亡くなって、もう4年以上も経つのか。

人は、ダークサイドに堕ちたり、狂気の中に逃げ込んだりした方が、生きるのが楽だと思うこともあるんだろう。そういう方向に行かない人は、自ら死を選ぶのかもしれない。
強い清廉な意思を保ったまま、老いて死んでいく人間というのは数少ないのではないのか。
恥ずかしながら、『ダークナイト』の”ナイト”は”夜”のことかと思ってた。”騎士”だったんだね。ダークサイドに堕ちた人の矜持を守るため、人々の心の中の正義を守るため、罪を被り、敢えて自らが”ダークナイト”となっていくってことか。
すべては秩序を守るためなんだよな。その辺が、しっくりとこない。バットマンが、どんどん自分で自分の首を絞めていってるような。



『ダークナイト』では、トゥーフェイスがコインの裏表で何かと運試しするからか、こちらも『運命のボタン』同様に究極の選択をする場面多し。
トゥーフェイスは左半分が火傷で溶けていたけれど、『運命のボタン』でボタンを持ち込んでくる謎の紳士も顔の左下が溶けて無くなってた。なんだ、この共通点?
すっごいこじつけだけど、『運命のボタン』の監督リチャード・ケリーのデビュー作にして出世作『ドニー・ダーコ』に主演したのはジェイク・ギレンホールで、その姉マギー・ギレンホールは『ドニー・ダーコ』にジェイクのお姉さん役で出演してる。で、『ダークナイト』のヒロインは、このマギー・ギレンホール。ヒロインとしての評価はかわいそうなくらい低いけど。う〜ん、確かに難しいな、このヒロインの人選は。美人じゃない方がいいんだよな。美人だったら、普段ブラフにブルースが周りに侍らせてる女性と変わりがなく見えちゃう。クール過ぎず、甘過ぎず。たぶん、配役の方向性としては合ってるんだと思うけど。
しかし、まったくバラバラに選んだ2作品が、なぜかどこかでつながっているような気がする。

今回の2作品は、エンターテインメント作品かと思いきや、お生憎様というような作品でした。
『運命のボタン』は、「金返せ!」と思う人から、「こういうトンデモ展開好き!」っていう人までいるでしょうが、エンターテインメントとは言い難い。
『ダークナイト』は、ヒーローものの超大作であることは確かなんだけど、間違えても映画館デートでカップルがキャピキャピ楽しめるような作品ではないし。デートで観た人は、微妙な空気になっただろうな(苦笑)
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2012年09月23日

オトシモノ

いつまでも暑い日が続いていたのに、そこは「暑さ寒さも彼岸まで」を忠実に守るかのように、急激に涼しくなりましたね。
この夏の暑さ、残暑のひどさについては、そのうち記事にまとめたいと思っています。
涼しくなってきて、毎年恒例の夏の微熱もようやくおさまってきたかと思っていたのですが、涼しくなったというのに、ここ3日はまたも微熱がぶりかえしていて、ひとりダラダラと汗をかいてます(苦笑)気温は下がったのに何故?

昨日、スーパーに買い物に出かけたら、スーパーの裏手の搬入スペースに止まっていたトラックのドアの取っ手のすぐ上に
「私は事故を起こしません」というステッカーが貼ってありました。
幅が3cmくらいの白いテープに、黒い文字で書かれたステッカーで、手作り?と思うほどシンプル。
他の人へのアピールというよりは、自分への戒めなのだろうなと想像できます。乗り込む度に目にするでしょうから。
前回の記事に通じるものを感じて、面白いなと思っていると……

そのトラックのすぐ前辺りに、小さな紙片が落ちている。
それは名刺でした。しかも写真付き。
前回の記事では触れなかったのですが、加門七海さんの「お呪い日和」には名刺について書かれていたくだりもありました。以前に、某知事の名刺を県職員が折るという行為が報道されたことがありましたが、その話です。
「人の名前を書いた紙を折る」というのは、非常に呪術的な行為だというわけです。なんとなく感覚的に嫌な感じのする行為ですよね。自分の名前が書かれた、いわば自分の分身のような紙を折られるというのは、よい気持ちはしないでしょう。
落ちている名刺を見たときに、ふとそのことを思い出したのです。
しかもこの名刺、ご丁寧に写真まで付いているし。余計に粗末にしてはいけないように思えます。それが無造作に落ちているのですから。
捨てられたものでなく、せめて単なる落し物であって欲しいと思いました。
でも、要りもしないものを売りつけようとする営業マンの名刺とか、数々捨ててきたよなとも思うのです。ただ、別に何か呪いをかけたつもりもないので、単にごみ処理場でお焚き上げしたとでもいうことにしておきましょう(笑)

さて、それからの道道、落ちているものが気になってしまいまして。
微グロですみませんが、小さな犬のフンやら原型をとどめていないバッタの死骸やらが目についてしまいました。
で、スーパーでレジに並んでいると、隣の開いてないレジの足元にコロンとひとつだけジャガイモが……
お客さんが落としていったものでしょうか。
ただ、そこのスーパーではジャガイモをバラ売りしていることはほとんどありません。みんな袋に数個ずつ入ってます。なぜにひとつだけ落ちていたのか不思議。

おかしな落し物をよく見かける日だなと思っていたら、マンション近くの路上で極めつけを発見。
トンボでした。トンボなんだけど、私はこれまで見たことがない種です。
買い物袋で両手がふさがっていたので、携帯電話で写真を撮ることができなかったのが残念。
全体的に赤いように見えたので、この季節では定番のアキアカネかと思いましたが、近づいてみると様子が違う。翅が根元から半分くらい褐色に染まっていて黒い紋は無いに等しく、顔のあたりは少し黄緑色をしてました。アキアカネなんかよりも少々顔がゴツいような。大きさも大きめに見えます。
家に戻ってから調べてみると、キトンボの仲間のようです。
こちらの「生き物研究室」さんの写真がわかりやすい。
ネット上で色々と写真を見てみると、個体によって黄色みが強かったり赤みが強かったりするようですね。私が見た個体は、体は赤で顔は緑がかってました。
半分褐色に染まった翅や鮮やかな体色が美しいトンボでした。
弱っていたのか地面に張り付いていて、「止まっている」というよりは「落ちている」ように思いました。
荷物を置いてからデジカメを持って戻ることも頭をよぎったのですが、微熱ではぁはぁしているので、そこまでの元気はなくて。すでに飛んでいってしまっているかもしれないし。

そんなに下ばかり向いて歩いていたのか、いろんなオトシモノを見つける日でありました。
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2012年09月20日

「いってらっしゃい」は呪いの言葉

昨日は、とある作業をしに実家に行っていた。
道路の混雑状況などにもよるけれど、実家までは車で片道小1時間ほどかかることもある。運転が好きではない私にとっては、緊張を強いられる辛い道のり。
出かける際には、「絶対に事故を起こすことも巻き込まれることもなく、無事で帰ってくる」と確信してというか、自己暗示をかけるというか、とにかく無事で帰ってくる自分を想像して、それを現実にしようと決意して出て行く。大げさかもしれないけれど、私にとって、車を運転するというのは、それくらい覚悟のいることなのだ。別に運転がヘタなわけじゃありませんよ(笑)嫌いなだけです。決意だけでなく、もちろん細心の注意を払いながら運転します。

これに関連して。
うちでは、ダンナさんが毎日お昼を食べに帰ってくるので、「いってらっしゃい」も「お帰りなさい」も、1日に2度言うことになる。
「お帰りなさい」は、無事に帰ってきたことを喜ぶ言葉。それよりも問題は、「いってらっしゃい」の方。
以前から、この「いってらっしゃい」を言うときには、無事で帰ってくるようにと念を込めて言ってきたのだけれど、危険な作業を日常としているダンナさんなので、怪我がないようにと祈って。
これも、上記と同じように、「絶対に無事で帰ってくる」という確信を込めてというか、その未来が既に確定しているかのような心持ちで言っている。

勝手にそういう実践をしていたところ、それを後押ししてくれるような文章を読んだことがあり、やっぱりそういうものだったのかと合点がいった。いつか記事にしようと思いつつ、長い間あたためてしまったけど。
それは、怪談専門誌『幽』15号(平成23年8月発行)の加門七海さんの連載「お呪い日和」の中で語られていたこと。言霊について書かれた文章だった。
実は、この言霊を用いたマジナイを我々は日常的に行っている。
その典型のひとつが「いってらっしゃい」だ。
「いってこい」「いってきなさい」も同様で、これは「行って、(帰って)来い」という意味になる。つまり、「いってらっしゃい」は、目的地に行ったのち、無事に帰ってこいという、半ば命令的な意味を含んだ引き戻しの呪言なのである。


ある種のイメージトレーニングのようなものなのかもしれない。
でも、そう考えると逆に、スポーツ選手もマジナイを行っているのかなどと解釈してしまう(笑)

古くは、『万葉集』で山上憶良が、大和の国は「言霊の幸(さき)はふ国」と言っているのだそうだ。言葉に宿った魂が幸いをもたらす、と。
この頃からすでに、声に出した言葉が現実に影響を与えると考えられていた。
言霊のタマは魂のこと。魂は浮遊するものであるから、言葉は単なる音というだけでなく、浮遊してコト(事)に影響を与えるという解釈ができるらしい。
音という物理現象が、空気中の分子をコツコツぶつけて次々に伝わっていくものだというのを考えると、浮遊した言葉の魂が物理的に相手に届くような気がしないでもない。

加門さんは、この言霊についての文章をこう結んでいる。
言葉は危険であり、重宝であり、容易に吉凶を自他に招く。
それをマジナイとするときは、真実を告げるのではなく、真実を呼び込むものだというのをきちんと意識すること。
それが適えば、言霊の力は計り知れないものとなる。


口から出てしまった言葉を戻すことはできないから、慎重にせねばとも思うし、ここで言わねばどこで言うというタイミングを逃してはいけないとも思う。
書き言葉よりも話し言葉の方が苦手な私にとっては、常に大きな課題だ。

マジナイ、ノロイ。「呪」という漢字の成り立ちを調べてみた。
「兄」の部分は「祝」の省略形で、神にいのること。それに「口」がくっついて、人に災いを下すことを神にいのるという意味らしい。「口」をくっつける、つまり言葉を発するだけで、ポジティブな「祝い」から「呪い」というネガティブな意味に変わってしまうのが面白い。
元来、善いことは言わない方がよいとされているから、こういうことになるのか。
古来から、言葉に出して言い立てる行為である「言挙げ」は忌むべきものとされてきたのだそうだ。その内容が天に照らして少しでも間違っていると命を取られることにもなりかねない。だから、言葉にして意思表示することには非常に慎重になってしまったということらしい。
「不言実行」なんていうとカッコいいけれど、きちんと言葉で主張できない文化は、国際的には理解されにくい。そういう素地は、すでに万葉の時代から作られていたのだった……

余談だけれど、同じ文章の中に、「わざと悪い言葉を用いて、魔から身を守る方法」についても書かれている。
人に贈り物をするときに「粗品」とか「つまらないもの」などという言い方をするが、これは「すばらしいもの」と言ってしまうと、眠った子を起こすように通り過ぎるモノまで引き寄せてしまうため、モノがついたままの品を相手に贈らないようにする配慮だという。ここでのモノとは、悪いもの、魔物のこと。
ただの謙遜かと思いきや、そんな裏設定があったのかと。
自分の息子を「愚息」などというのも、同様の意味が含まれているらしい。

加門七海さんのこの「お呪い日和」は非常に興味深く、水引や千羽鶴やゆびきりなど、日本では身近にマジナイが生きていることを再認識させられる。

こうして、私たちは知らず知らずのうちに、自然と魔除けの作法をを行っているという話。
この話を読んでからというもの、私の「いってらっしゃい」にはより強力な念が込められることになりましたとさ。
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2012年9月14日からの地震メモ

2012年9月14日からの地震メモです。

千葉・茨城を中心にした有感地震は以下のとおり。
2012年9月14日2時22分頃 千葉県北東部 M5.1 深さ約40km 最大震度4 (当地 震度2)
2012年9月14日2時45分頃 千葉県北東部 M3.8 深さ約40km 最大震度2
2012年9月14日10時46分頃 新島・神津島近海M3.1 深さ約10km 最大震度1
2012年9月14日16時18分頃 茨城県沖 M3.7 深さ約40km 最大震度1
2012年9月15日2時48分頃 房総半島南方沖 M3.8 深さ約60km 最大震度1
2012年9月15日8時10分頃 茨城県北部 M2.4 深さ約10km 最大震度1
2012年9月16日1時9分頃 千葉県東方沖 M4.5 深さ約10km 最大震度3
2012年9月16日6時55分頃 千葉県東方沖 M3.2 深さ約10km 最大震度1
2012年9月18日17時13分頃 茨城県沖 M3.5 深さ約50km 最大震度1
2012年9月19日4時11分頃 千葉県北東部 M3.7 深さ約40km 最大震度1
2012年9月19日13時47分頃 千葉県南東沖 M3.8 深さ約60km 最大震度1
2012年9月19日14時59分頃 茨城県沖 M3.4 深さ約40km 最大震度1

昨日の午前中まではお天気が崩れ、今日は晴れているわけで、これはくるパターン?
昨日は屋内にいたので気づきませんでしたが、夕方に光の色が面白いと思っていたら、虹が出ていたようですね。雨上がりだから当然といえばそうなのですが。
いろいろと出揃ってきているので、少し大きめの震度5程度のものが来てもおかしくない雰囲気になってます。これで何もなかったらおかしいくらいの宏観現象があり、それが収束した感じなので。さあ、どうなるでしょうか。またも、「何もなかったね」で済めばよいのですが。ただ、そうなると、またエネルギーを溜め込むだけという見方もできるので、なんとも。

この間のM5以上は以下のとおり。
2012年9月14日 2時22分頃 千葉県北東部 M5.1 深さ約40km 最大震度4 (当地 震度2)

しばらく前からの宏観現象から、もう少し規模の大きいものが上記のM5.1の地震の後に控えているような気がしてなりません。
posted by nbm at 10:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月13日

2012年9月1日からの地震メモ

2012年9月1日からの地震メモです。

千葉・茨城を中心に有感地震は以下のとおり。
2012年9月1日11時58分頃 茨城県南部 M3.1 深さ約50km 最大震度1
2012年9月2日1時38分頃 千葉県東方沖 M3.6 深さ約10km 最大震度1
2012年9月2日11時14分頃 茨城県沖 M3.8 深さ約30km 最大震度1
2012年9月2日13時33分頃 茨城県沖 M3.9 深さ約50km 最大震度3
2012年9月3日7時17分頃 茨城県沖 M3.8 深さ約50km 最大震度2
2012年9月3日18時30分頃 栃木県北部 M3.6 深さ約90km 最大震度1
2012年9月4日12時41分頃 茨城県北部 M3.7 深さ約10km 最大震度2
2012年9月5日1時26分頃 茨城県北部 M3.5 ごく浅い 最大震度2
2012年9月6日3時20分頃 茨城県北部 M3.7 深さ約10km 最大震度3
2012年9月6日4時16分頃 茨城県北部 M3.2 深さ約10km 最大震度1
2012年9月6日5時33分頃 神奈川県西部 M3.5 深さ約20km 最大震度2
2012年9月7日6時5分頃 千葉県北西部 M3.6 深さ約90km 最大震度1
2012年9月7日14時36分頃 茨城県沖 M3.6 深さ約40km 最大震度1
2012年9月7日15時17分頃 茨城県沖 M4.2 深さ約30km 最大震度2
2012年9月9日0時49分頃 千葉県東方沖 M4.0 深さ約10km 最大震度1
2012年9月11日2時58分頃 茨城県北部 M3.0 深さ約20km 最大震度1
2012年9月11日5時49分頃 茨城県北部 M2.9 深さ約10km 最大震度1
2012年9月11日8時17分頃 茨城県沖 M4.4 深さ約20km 最大震度2
2012年9月11日19時27分頃 千葉県南東沖 M3.5 深さ約70km 最大震度1
2012年9月13日0時38分頃 茨城県沖 M4.3 深さ約40km 最大震度3
2012年9月13日3時7分頃 千葉県東方沖 M2.6 深さ約40km 最大震度1
2012年9月13日8時32分頃 茨城県沖 M3.9 深さ約20km 最大震度1

全体的には非常に少ない印象です。
茨城沖の規模が微妙に大きめになっているのが気になります。
この間、有感地震どころか、無感地震さえ何時間も止まるようなことがありました。
エネルギーを溜め込んでいると考えると、あまりよい傾向ではないと思われます。
日本国内でも、ある地域が頻繁に揺れると、他の地域がお留守になることがありますが、日本が揺れないときに、下記のように海外で大きな地震が起きることが多いような気もします。

この間の海外の大きな地震は以下のとおり。
2012年8月31日21時48分頃 フィリピン諸島 M7.6
2012年9月5日23時42分頃  コスタリカ   M7.6
2012年9月7日12時20分頃  中国南西部   M5.6
2012年9月7日13時17分頃  中国南西部   M5.6

どれも被害が出ていますが、特に中国では大変なことになっているようです。
死者は80人を超え、被災者は74万人超。
中国で被害が出るような大きな地震が起きるというのは、日本にとっても良くない傾向だと思われます。
マグマの流れの影響なのかわかりませんが、環太平洋火山帯に沿うように、太平洋の南のニュージーランドから順にインドネシアやフィリピンを経由して中国へと、連動して大きな地震が起きるように見える一連の流れがあり、それが中国まで達すると次は日本の番です。
これが、こじつけで済むことを祈ります。

様々な宏観現象も増えているように思います。
宏観現象は、いつも玉石混交の状態ではありますが、それでも何かありそうだと思わせる雰囲気になってきました。
個人的には、めまいや耳痛などが頻発していて、そのわりには何も起こらない日々が続いてます。
何らかのエネルギーが溜まっていて、徐々に放出されている感じで、まだそれが爆発的な放出に至っていないような感覚です。
以前から思っていることなのですが、「くしゃみを我慢しているような状態」といいますか、起きそうで起きない状態が続いているのではないかと。
それがいつ起きるのか。
ただ、結局起きないで済んでしまう場合もあり、その辺を見極めることができません。
posted by nbm at 10:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月05日

失せ物

一昨日の夜、超久しぶりに”ぐるん”がありました。
これは回転性の瞬間的なめまいなんですけど、ブログの過去記事を見る限り、今年3月20日以来。
一昨日は確かに体調が悪く、終始フラフラしていて、まっすぐ歩けてなかったりしてましたが。
これが来ると、大体2日以内に近県で大きめの地震が起こることが多いです。
いや、ただのこじつけだから気にしないでください(笑)たぶん、単なる寝不足です。
ちなみに、前回3月20日以降、茨城・千葉・東京震源で最大震度4の地震は8回、最大震度5弱が1回ありましたが、ぐるんはありませんでした。当地での震度は1〜3程度。
前回3月20日の後に、大きめの地震はありませんでした(笑)ね、何でもないでしょう。
大体、なんで数日前?何かを感じ取って体が反応しているとしても、何を感じ取ってるっていうんだ?自分で考えたってオカシイ。理解不能です。
でも、今回は、3日前に今まで見たことないような周囲が赤い月暈を目撃したり、テレビの音量が瞬間的に小さくなる症状が出たり、蛍光灯のチラつきが出たりもしているので、何かあってもおかしくない気はしてます。
何もないことを祈りますが。

さて、今年の暑さについての記事を真面目に書こうとデータを整理したりしていたのだけれども、集中力が続かず。
もうひとつ頭にあった別のことを書いてお茶を濁そうと思います。

先日、ユニクロの店内で、ハンカチを落としてしまいました。
汗っかきの私にとってはハンカチは夏の必需品で、吸水力に優れたタオルハンカチを愛用してます。出先でこれがないと、非常に困ったことに。
荷物も持っていたし、試着しようとしていたものをいくつか持っていたので、紛れてどこかで落としてしまったようなのです。試着室の中に落としたかもと見てもなし。
店員さんに聞いてみたり、歩いた覚えのある通路を一通り巡って見たりするのですが、結局見つからず。タオルハンカチの中でもオーガニックコットンのそれは、一番のお気に入りだったので、失くすと残念だなと思いつつ、見当たらないので諦めることにしました。
最後に、レジで会計をする段になって、もう一度別の店員さんにハンカチの落し物がなかったか尋ねてみました。インカムで他の店員さんに探すようお願いしてくれる様子だったのですが、落としたのは自分だし、たかがハンカチに手を煩わせるのもと思い、それを静止して「ありがとうございました」と店を出ました。
店を出て自転車に乗ろうとしていると、裏口から外を回って、最初にハンカチが落ちてないか訊ねた店員さんが走って行くのが見えました。私の横を通ってレジの所へ。なんか持ってます。
レジにいた店員さんに手渡すのが見え、もしやと店内に戻ってみると、それは私のタオルハンカチでした。
どこで見つけたのかは聞かなかったのでわからずじまいですが、見つけてくれてありがとう。途中に居た私を見逃したのはナゾですが、走って届けてくれたし。
たかがタオルハンカチ1枚ですが、愛用品だったので戻ってきてくれて嬉しかったのです。

実は、コイツには前科がありまして。
あれは、2年前。野又穫さんの絵を観に高崎に行ったときのことです。
高崎遠征について、詳しくは、過去記事埼玉縦断!夏の美術館遠征その2高崎遠征外伝
をどうぞ。
ちなみに、野又穫さんの新しい作品5点が、この9月中に恵比寿MA2ギャラリーで見られるそうです。
『ブラインドサイト―盲視の知覚』MA2ギャラリー
興味のある方はどうぞ。

そうそう、前科の話でした。
8月の終わりとはいえ、夏の高崎。その日の気温は覚えてませんが、35度を超える猛暑日だったと思います。
美術館からの帰り、バス停でひとりバスを待っていると、ふと手に持っていたはずのタオルハンカチが無いことに気づきました。
「落とした!」
急いで美術館への道を戻り、バス停までの中間地点辺りで落ちていたコイツを拾ったのです。
猛暑の高崎で、危うくタオルハンカチ無しで過ごすことになる所でした。

このタオルハンカチ。
会社で働いていた頃に、台湾から来ていた同い年の同僚が退職するときにいただいたもの。
もう10年以上使ってることになります。オーガニックコットンで、肌触りがよく、一番のお気に入り。
タオルハンカチといえば、いただきものばかりですが、これは別格のお気に入りなのです。
2度失くしかけて、戻ってきてくれました。

そういえば、お気に入りの帽子を失くしたこともありました。
→過去記事かあさん、僕のあの帽子、どうしたでしょうね。
何度も何度も探したのに、見つからなかったのがわからない。
失くしたときの記憶がないのもわからない(笑)

今も所有する自転車が盗難に遭い、戻ってきたこともありました。
何の変哲もないフツーのママチャリです。
たしか、駅近くの駐輪場に停めて置いたものが失くなっていたのでした。もちろんカギはかけていたけど、壊されたのでしょう。
数日後、見知らぬ方からハガキが届く。
「うちの庭先にある自転車は、あなたのものではありませんか?」と。
自転車に書いてあった住所に連絡してくれたのです。
後日、引取りに伺うと、駅からは何kmも離れている場所で、自転車にしたってよく漕いだよなと感心するくらいの距離がある。
連絡をくれたお宅にはお礼の品を持参し、感謝して引き取ってきた覚えがあります。
どうでもいい自転車なのだけど、こんな風に戻ってきてくれると、不思議と愛着が沸くものです。

ついでに、不思議な話をひとつ。
どこかで書いた気もするんですけど。と探したらありました。
→過去記事♪ブル〜ダ〜イヤ〜♪
大学生時代の話。
友人数人と大学近くの喫茶店に入っていたときのこと。
トイレに行って、席に戻ると、嵌めていたはずの指輪がない……
トイレに置いてきたかと思ってすぐに行ってみるのだけど、見つからず。
ちなみに、私の後にトイレに入った人はいない。
私は無精なので、手を洗うときに指輪をいちいちはずしたりしないのに、なぜかはずしたらしい。
洗面台の上に置いたような気もする。
トイレにはバッグを持って入ったので、バッグの中も隅から隅まで探したけれど、見つからず。
変だなと思いながらも、2千円もしないようなお安いシルバーリングだったので、「ま、いっか」と諦める。
しかし、数日後、そのときに持っていたバッグの中からその指輪が出てきた。自分は普段使っていなかった外側の薄いポケットから。
指輪は結構太めなので、その薄いポケットに入っていたら、外から見てもふくらみがわかるはず。
あのとき、普段使わないそのポケットの中も当然探したけど、見つからなかった。
私にしてみれば、姿を消した指輪が、こっそり自力で戻ってきたみたいな感じなんです。
んで、上記の過去記事を書く際に、この指輪の写真を撮ろうとしたんですけど、なぜかデジカメが動作しなくなり……結局写真が撮れませんでした。ということは、コイツは写真を撮られたくない(?)んだろうから、今回も撮りません。
この指輪、今も所有はしてますが、身に付けることはありません。
もともと、表参道の露天で買ったものなので、出処もよくわからず、不思議な雰囲気をまとった指輪です。
ちなみに、指輪を失くしたお店の名前は、「まほうつかいのでし」。
何かの魔法にかかったんでしょうか(笑)

この指輪のように、モノが失くなって戻ってくるみたいな体験はこれきりなのですが、納得がいかず、ずっとモヤモヤしてます。
ひょんなことから、佐藤愛子さんの『私の遺言』という本を知り、読んでみました。
著者の佐藤さんが、何十年もの間、悩まされてきた不可解な現象について書かれた本です。タイトルからは、想像しにくい内容ですよね。
それらの解釈については、目に見えない確認できない世界のことなので、私にはよくわかりませんが、モノが失くなる現象は幾度となく出てくるので、興味深いです。
テーブルの上に置いておいた車のカギやらコードレス電話やらがソファーの中の奥深くから見つかるとか、知らない間に何かが積み上がってるとか、失礼ながら、ご本人が無意識のうちにやってるのでなければ、説明がつきません。いつも誰も見ていないときにモノの移動は起こり、移動した先で発見するらしい。
納戸のダンボールの中のペットボトルが、台所の冷蔵庫の上にずらっと並べられていたこともあったそうな。佐藤さんの娘さんが考えるには、ふわふわ飛んでいくわけではなく、一旦消えて別の場所にひょっこり現れているように思う、と。
でも、私もまがりなりに同じようなことを体験しているので、現象が起きていること自体は否定しません。それが何なのかはまったくわかりませんが。一旦消えて別の場所に現れるという表現もわかるような気がします。
この本の中では、それは心霊の仕業と考えられ、幾度となく様々な形で祓いが行われるわけですが、収束するまで何十年もかかってますね。
失せ物や様々な不可解な現象の原因は置いておいて、アイヌの人たちのことについては、ほとんど知らなかったので、勉強になった部分もあります。

忘れ物は少ない方だと思うんですけども、落し物をすることは多くなったような。歳のせいでしょうか(笑)
”失せ物”というと、どこか妙なニュアンスが含まれている感じがしますね。
ちなみに、人が失くしたものを探すのは得意です。
コンタクトレンズやらイヤリングやら、見つけてあげることが多いです。
家で何かが見つからないときは、バカバカしいですけど「○○ちゃん、どこ〜?」と呼びかけると、大抵のモノが答えてくれます。ありそうなところとなさそうなところが直感的にわかりますから、よく「この部屋にはある気がしない」とか言いながら他を探したりしてます。あれ、何でわかるんでしょうか。気配というか、モノが発している波長のようなものがある気がします。
posted by nbm at 12:26| Comment(2) | TrackBack(0) | 不思議な話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする