2015年09月30日

変わらないね

たまには日記的なことを。

9月最後の日曜日。
大学時代の友人たちとランチをすることに。
ニュージーランドから一時帰国した友人を囲んで、9人集まった。場所は恵比寿。
前回会ったのは、2013年のゴールデンウィークだったので、2年半ぶりくらいか。
とはいえ、中には卒業以来初めて会う友人もいたのだが、相変わらず他愛もない話で盛り上がる。
女子大だったわけでもないのに、当時、男子学生とほとんど交流のなかった私達は、女ばかりで楽しく過ごしていた。
個々には男っ気がなかったわけではないのだけれど、語学クラスのクラスメートやゼミ仲間でも、男子とはなぜか付き合いが無かった。
それぞれ記憶している部分が違い、全員で記憶を補完しあって思い出す作業が続く。
それでも、誰も思い出せないこともあったりして、経過した年月の層が重く重なってきていることを実感する。
同じ学科で同じ語学クラスだったメンツが中心なのだけれど、違うクラスのヤツもいれば、中には学科さえ違うヤツもいて、今となってはどうやって仲良くなったのか思い出せない(笑)
ゼミやサークル活動やサークルごと入っていたバイトに割り込ませてもらったりして仲良くなっているのだと思うのだが、細かい部分はもう記憶の彼方だ。
それでも、何年経っても楽しく会える友人たちの存在は、本当にありがたい。

待ち合わせが午後も遅めの時間帯だったので、その前にバッグを買いに行くことにした。
使い続けていた日常使いのバッグがくたびれてしまって、ずっと新しいものを探していた。
候補がいくつかあって、そのうちのひとつで、以前に丸の内で見かけたものが気になっていたのだけれど、恵比寿にも店舗があることを知り、ついでに行ってみることに。
斜めがけできるタイプを愛用しだしたら、もうそれ以外は考えられない。ということで、ほしい形はほぼ決まっている。厚みはないが袋状で収納力がある、ショルダーにも斜めがけにもできるもの。特に、斜めがけにすると身体にフィットする。とても軽い。あとは色と、細かいタイプを選ぶだけ。素材はピッグスキン。
丸の内で最初に目についたのは藤色に近いブルーだったのだが、無難なダークブラウンと迷う。
形は、シンプルなタイプと、取っ手部分が自由に長さを変えて結び変えられるタイプと悩み、結局後者にした。
色も悩んだが、こういうときは最初に目についたものを選ぶのが吉と経験上わかっているので、ブルーにした。
普段使いにはちょっと派手だが、ちょっとしたお出かけには差し色になるし重宝するだろう。行きに使っていたキャンバスのミニトートバッグに代えて、その場で即使うことにした。
もうひとつ、別のところのキャンバス地のショルダーバッグを狙っている。こちらは抑えた色味にしたい。
実は、お財布も探していて見せてもらったのだが、こちらのお店のものは小銭いれ部分がファスナーのタイプが主流で、そこが気に入らない。スナップボタンタイプのものは、色味が地味すぎてつまらない。
コンパクトなタイプがよいので、2つ折りか3つ折り。小銭いれ部分がボタン。余計なストラップや留め金などがついていないもので、色味が綺麗なものがいい。グリーンとかオレンジとか。カード類もある程度収納できないとな。
お財布探しは、まだまだ難航しそうだ。

そして、2日後の昨日。今度は築地へ。
ニュージーランドから帰国している友人が築地に住む友人の所に遊びに行くとのことで、「遊びに来て来て〜」と私もお誘いを受け、急遽お邪魔することに。
互いに引っ越しやメールアドレス変更など行き違いがあって、数年間連絡が取れないでいたのだが、昨年しばらくぶりに再会した友人。彼女は鍼灸師の資格を持っていて、以前も彼女の自宅を訪ねて施術してもらったことがあるのだが、あのときの住まいは人形町だった。
行き掛けに銀座三越に寄って、手土産を用意。白ワインとホレンディッシェ・カカオシュトゥーベのバームクーヘンを持って行った。
訪ねてみると、マンションの高層階で、眺望が物凄い。レインボーブリッジや高層ビルや築地本願寺などが眼下に見える。食事を用意してくれていて、ごちそうになる。柄になくラグジュアリーだなぁ。
前々日にも会っているというのに、3人でまた取り留めのない話をして、時間が過ぎるのが早かった。
時間があったら鍼をやってもらえたらと言っていたのだが、ニュージーランドからの友人が家族と落ち合って帰る時間になり、それならまた次の機会にと思っていたら、彼女を送った後に治療してくれることになった。
私達が3人で楽しんでいる間、義妹さんの案内で銀座を巡っていたご主人と娘さんと新橋で落ち合うという友人を新橋までいっしょに送って行き、築地に戻って治療してもらった。
部屋に戻ると、日が暮れていて、昼間とは一味違った夜景の眺望がまた凄い。
私もそんなに遅くなれないので、わがままを言って短めの時間で30分ほどやっていただいた。
リハビリ期間が終わってしまった四十肩は、完全には治りきっていない。動きのぎこちなさと多少の痛みが残っている状態。なので、肩を治療してほしかった。果たして効果があるものなのか。
首から腰まで鍼を打ってくれる。最初は「反応がにぶいな。手応えがない」と。ところが、しばらく打っているうちに、鍼を刺されるとズンとひびく箇所が出てきて、反応が出てきてくれた。
治療を終えてみると、肩はスムーズに動き、痛みも消えている。一時的に良くなっているだけで、しばらく続けないと完全に良くはならないということだったが、本当に良くなった。効果大。
帰りの電車の中では、身体が内側からぽっぽっと熱くなり、血が巡って代謝がすごく良くなっているのがわかった。
会社も持っていて忙しく飛び回る彼女なので、東京にいる期間も限られているようだし、私も頻繁に通うことはできないけれど、様子を見つつ、また治療してもらおうと思う。

ひとつ面白い話を聞いた。
私の太り方は、典型的なストレス太りだそうだ。
「あんまり食べてもいないのに痩せないでしょう?」と彼女。
代謝が落ちたことが原因だと思っていたが、それだけではないようだ。
精神的なストレスを受けた女性の身体は、ホルモンの作用で脂肪の鎧を纏うことがあるという。文字通りの鎧のように肩から背中にかけて脂肪が付くのがストレス太りの特徴ということで、肩から背中が丸いフォルムになるのだそうだ。私はまさにそれに当てはまる。
彼女は医者の家系なのだが、以前から女性特有の身体の悩みを解消するようなことをやっていきたいという話を聞いていた。女性特有のホルモンの働きなどをよく勉強してきているのだろうし、これまでの経験上わかってきたことなのだろうと思う。
もっと痩せれば骨の負担も減るから肩も身体も楽になると言われたのだが、私の場合は食事を減らすのではなく運動を増やさなければ痩せないようだ。
今は日に1時間以上のウォーキングが日課になっているが、これでは足りないということで、運動を増やそうと思う。
あとは、ストレスを失くすことだというのだが、母の問題から解放された現在はストレスフリーのはずで……
彼女いわく、「痩せられる」と思えば痩せられる、と(笑)
「私にもう鎧は要らない。鎧を脱ぎたい」と念じればよいのかもしれない。
食事は元からバランスとカロリーを考えたものにしている。当然、脂質は抑えていて、これ以上減らすとすぐに便秘になってしまう。ここから摂取カロリーを減らすとなると、炭水化物を抜けば簡単だが、それをやると便秘になってしまったり、脂肪を燃やすエネルギーがなくなってしまって却って痩せなくなるのは経験上わかっている。食べる量を減らすと逆に体重が増えたり、たくさん食べてしまった翌日に極端に体重が減るなど、どうにも謎の反応で自分のことながら理解に苦しんでいた。
本当の本当のところは自分の身体に聞かなければわからないが、思うように痩せられずにどうしたものかと煮詰まったところに光明が差した気がする。

昨日の帰りから今日にかけては、鍼の影響でだるさが続く。
運動はしようと思うが、今日は休養日。
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2015年09月26日

2015年9月14日からの地震メモ

2015年9月14日からの地震メモです。

千葉・茨城を中心に近県の有感地震は以下のとおり。
2015年9月14日 12時47分頃 小笠原諸島西方沖 M4.5 深さ約10km 最大震度1
2015年9月16日 5時53分頃 茨城県南部 M3.9 深さ約50km 最大震度3 (当地 震度1)
2015年9月17日 15時49分頃 茨城県沖 M3.4 深さ約50km 最大震度1
2015年9月17日 23時50分頃 栃木県北部 M2.8 深さ約10km 最大震度1
2015年9月19日 5時5分頃 茨城県沖 M3.9 深さ約50km 最大震度2
2015年9月22日 5時55分頃 茨城県南部 M3.9 深さ約70km 最大震度2
2015年9月22日 15時59分頃 茨城県沖 M4.1 深さ約20km 最大震度2
2015年9月22日 17時56分頃 茨城県沖 M4.3 深さ約10km 最大震度2
2015年9月23日 23時44分頃 栃木県南部 M3.7 深さ約70km 最大震度2
2015年9月25日 5時59分頃 神奈川県西部 M1.6 ごく浅い 最大震度1

全体的に頻度は少なめ。
でも、規模は微妙に大きいものが多いのが気になるところ。


この間のM5以上または震度4以上の地震はなし。


主な世界の地震。
2015年9月16日 4時37分頃 台湾付近 M5.5 深さ約30km 最大震度1
2015年9月17日 7時54分頃 チリ中部沖 M8.3

福岡・苅田港付近に体長約8メートルのマッコウクジラの死骸が1週間ほど前から漂流していたとのこと。
船の航行に支障があるとして港に曳航してきて留めているらしいが、爆発の危険もあるとか。
海外の動画で観たことがあるけれど、腐敗すると体内にガスが溜まるものね。
しかし、マッコウクジラとは……
深海を回遊しているので、通常、福岡県沿岸では姿を見せることはなく、日本沿岸で見られるのは、小笠原諸島付近から東京湾・房総半島あたりと、知床半島・金華山沖あたりだそうだ。
何らかの理由で迷い込んだらしい。
以前からこのブログでは書いていることなのだけれど、ストランディングがあると大きめの地震が発生することがあるのだが、ストランディングがあった地点から離れた地域が揺れることが多い。
例えば、九州でクジラが沿岸に迷い込んだとしても、九州が揺れるのではなく、そこからだいぶ離れた東南海沖や関東近辺が揺れるというようなパターンになっている気がする。
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2015年09月18日

怪しげな大事典

『西洋異形大全 妖精・幻想動物から幽霊・魔女まで』 エドゥアール・ブラゼー

いきなり中二的なタイトルですみません。
主に西洋における異形のものを網羅した百科事典のような形式の本です。大きくて分厚いですが、挿絵も多く、そんなに活字のボリュームはありません。
著者はフランスの民俗学者・民話作家とのことで、特にフランスにおけるこれらの知識が豊富な印象です。
原書のタイトルを直訳すると『驚異大事典』となるらしく、欧米では「驚異研究」という分野があるそうで。
もとは3分冊だったものをまとめて1冊にしたため、内容に重複があったりするのですが、ここまで詳しく民話・伝承に残る異形の存在を網羅したものは読んだことがなく、興味深いものでした。

聞いたことがないようなものも多く、土地土地に特有の存在が土着的にある一方で、離れている地域同士でも似通った存在がいたりして、伝播したものなのか、はたまた同時多発的に発生したものなのか。人の想像力は同じようなものを生むのでしょうか。
日本には妖怪のような存在があるけれども、日本の妖怪とはちょっと趣が違います。日本の妖怪の方が細分化されていてバラエティに富んでいるというか、存在自体に合理的な理由づけを感じます。例えば、気温・湿度の変化などで家鳴りがするのは妖怪の仕業だとか、行灯の油がやけに減っているのは妖怪の仕業だとか。
西洋の異形の者は、人をさらったり、食ったり、流行病など不吉なことをもたらしたりするものが多く、その他の具体的な行動に起因するキャラクターづけが弱いような。
それと、キリスト教布教以前から存在していた異形の者たちが、いつの間にかアンチキリストのように扱われ、キリスト教によって退治されるようになっているものも多く、画一的で面白みに欠ける気がします。
一方で、ハロウィンのような元をたどれば土着的な信仰だったものがたくさんあり、その辺りが日本の八百万の神々と重なる感じがして、興味深いです。

古代からの言い伝えはもちろん、ギリシャ・ローマ神話に端を発するものから、現代Dの小説や映画に登場するキャラクターまで出てくるのですが、その新旧取り混ぜた雑多な感じは、逆に新鮮に感じます。が、映画について所々触れられているものの、その辺りはあまりお詳しくはない様子。

ひとつ面白かったのは、「蟹」の話。
「蟹」は英語で「cancer」と言いますが、「癌」も同じ「cancer」と言うのは不思議だなと前々から思っていました。
ここでひとつ要らんエピソードを。
10年以上前の話。
ある大型書店で、何の気なしに本を見て回っている時、インド系と思われるスーツ姿の男性から英語で話しかけられました。
「あなたは癌なのですか?」と。
ちょうど手にとっていたのが、たまたま癌に関する本だったのですが、
「いいえ、違います。私は癌ではありません」とテキトー英語で答えると、そこからなぜかお茶に誘われました。
ナンパとかではなく、おそらく英会話スクールか何かの勧誘だったのではないかと思うのですが。
後から考えたら、その人は日本語で書かれた本のタイトルを読み取って、英語で話しかけていたわけなので。日本語が読めるなら、日本語が話せるだろうに。
そんな風には全然見えなかったと思うけど、「時間がないので」とお誘いはお断りをしたのですが、その時、
「あなたはとても”open heart”な方ですね」というようなことを言われました。
知らん人から話しかけられることが多い自分ですが、害がなさそうとかヒマそうとかいうのは当然ながら、やっぱり私は常に「開いて」しまっているのだなと痛感させられた出来事だったのでよく憶えているのです。
それはさておき、英語で話しかけられたので、「cancer」という単語が耳につき、その頃からずっと、「蟹」と同じだよなぁと不思議に思っておりました。
で、本題に戻ります。
この本によると、古来、癌は一種の蟹のようなもので、それが病人の器官に入り込んで内側から蝕み、腫瘍を生じさせると考えられていた、と。
弱った病人に蟹が付け入らないように、病人のそばには蟹を惹きつける乾燥肉を置いたとか。
癌で亡くなった人が出たら、その部屋にはバターの塊とベーコンの欠片を持っていかなければならず、そうしないと周囲の人に癌が移ると考えられていたという話も。
患部に蛙を当てて包帯で巻いておいて、それが食べられていたら癌が治るとか、当てた蛙の弱り方で癌の進行を予測したりもしていたのだとか。
とにかく、「癌」の「cancer」は元々「蟹」の「cancer」からきているということに驚きました。
なんだか眉唾な話なので、ネットで調べてみたのですが、癌がヒポクラテスの時代から蟹に似ていると考えられていたなんて話もあったりして、とにかく関わりがあることだけは確かなようです。

もう1点面白いと感じたのは、日本の民俗文化と共通する点が見受けられることでした。
例えば、「辻」。異形のものが「辻」に現れるという表記がそこここにありました。
「辻」は、日本でも境界の意味がありますし、人の往来が多い場所で、何事か起きやすい特別な場所という意味もあります。
それから、「塩」。異形の存在を避けたり、清めたりするアイテムとして使われていました。
これもご存知の通り、日本でも「塩」は清めのアイテムですね。
面白かったのは、「ゾンビ」が「塩」に触れると、自分が死んていることを思い出し自ら墓穴を掘ってその中に没してしまうというもの。映画に描かれるような人を襲う存在ではなく、元々は意のままに動く奴隷のようなものなので、主人としては塩に触れさせてはならないというわけです。

それともう一つは、「死霊(spectres/specter)」について。
「死霊」というのは、死んだときの状態のままで現れる幽霊のことだと。
同じ幽霊でも、死の原因となった傷などがそのままの状態で現れるのが「死霊」ということらしいです。
ちなみに、「幽霊」はフランス語では「revenant」。これは、「戻る」という意味の「revenir」から派生した言葉で、「戻ってきた者」という意味。
というわけで、「幽霊」は生前の体を伴って出現し、歩くことも話すことも触れることもできるとのこと。
一方、「亡霊(pantomes/phantom)」は、この世に戻ってきた死者の霊。殺人・自殺などで非業の死を遂げたものが多く、死にきれない思いから悪意を持ったものが多いと。そして、実体を持たないので、シルエットだけで現れることも多い。
国が違えば言葉の捉え方も違うかもしれないのですが、こういった違いは考えたことがなかったので、なるほどと納得。

あと気になったのは、クリスマスから1月6日の公現節までを特別な期間と考えているパターンがいくつか。
元々は古代ヨーロッパで冬至を祝っていたのが、キリスト教のクリスマスといっしょになってしまったようなのだけれど。古代ローマのサトゥルヌス祭というのもあり、時期的に似ているものがいっしょくたにされた感もあります。
どうやら、日本で松の内(関東では7日まで)とか言っている間、ヨーロッパではずっとクリスマスで、1月6日になってクリスマス終了ということになるらしいです。

フランスを中心とするヨーロッパの人々の考える異形のもののイメージはなんとなく伝わってきた1冊。
少々フランスに偏りはあるものの、なかなか面白い本でした。
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2015年09月14日

2015年8月30日からの地震メモ

2015年8月30日からの地震メモです。

千葉・茨城を中心に近県の有感地震は以下のとおり。
2015年8月30日 17時32分頃 栃木県北部 M2.3 深さ約10km 最大震度1
2015年9月1日 17時51分頃 千葉県北西部 M3.4 深さ約80km 最大震度1
2015年9月2日 16時16分頃 茨城県南部 M3.9 深さ約50km 最大震度2
2015年9月2日 22時56分頃 伊豆大島近海 M3.6 ごく浅い 最大震度2
2015年9月2日 23時19分頃 伊豆大島近海 M2.4 深さ約10km 最大震度1
2015年9月3日 14時2分頃 千葉県東方沖 M3.3 深さ約10km 最大震度1
2015年9月4日 4時52分頃 八丈島東方沖 M4.8 深さ約110km 最大震度2
2015年9月5日 19時35分頃 茨城県沖 M3.8 深さ約40km 最大震度1
2015年9月6日 11時49分頃 茨城県南部 M3.1 深さ約60km 最大震度1
2015年9月7日 18時46分頃 千葉県東方沖 M3.1 深さ約10km 最大震度1
2015年9月8日 21時22分頃 茨城県沖 M3.8 深さ約10km 最大震度1
2015年9月9日 5時22分頃 茨城県沖 M3.4 ごく浅い 最大震度1
2015年9月10日 6時51分頃 千葉県東方沖 M4.0 深さ約40km 最大震度1
2015年9月11日 8時25分頃 茨城県北部 M2.8 深さ約10km 最大震度1
2015年9月12日 5時49分頃 東京湾 M5.2 深さ約60km 最大震度5弱 (当地 震度3)
2015年9月12日 11時44分頃 茨城県沖 M4.6 深さ約40km 最大震度3

久々のモーニング・クエイク……
この日は、午前4時頃に寝たので、寝たかと思ったら起こされたみたいな感覚。
ダンナさんはもっとひどく、5時半くらいまで起きていたらしいので、15分くらい寝られたかどうかで。
一度起こされるとレム睡眠とノンレム睡眠の周期がぶった切られるので、この日はあまりに眠くて使い物にならない1日だった。
揺れの時間は短かったものの、おそらくは最初の縦揺れの衝撃で目覚め、そこから細かくて強い揺れ。
食器棚の中の食器同士がぶつかってガチャガチャうるさかった。
しかし、いつも思うことながら、寝ているような時間帯に地震が起きると、起きているときに輪をかけて何も対処ができない。ただ、布団の中で揺れが収まるのを待つのみ。
例えば、通勤通学などの時間帯に起きれば、交通機関や道路の混乱はひどくなるだろうし、食事を作る時間帯なら火災が心配されたりと、地震発生の時間帯によって被害の状況は変わってくるだろうとは思うけれど、寝ているときというのは本当に無防備だなとあらためて実感。

今回、2つの台風に伴う大雨で鬼怒川が決壊で氾濫するなど大きな被害が出てしまった。
直接関東に上陸したわけではないが、台風通過後に東京湾、その後向かった北海道でも大きめの地震が発生。
やはり台風通過は地震発生と関係があるように思えてならない。気圧の変化は、地面に影響があっても不思議じゃない。


この間のM5以上または震度4以上の地震は以下のとおり。
2015年9月4日 1時51分頃 福島県沖 M5.0 深さ約10km 最大震度2
2015年9月4日 13時49分頃 奄美大島北東沖 M5.4 深さ約10km 最大震度3
2015年9月12日 5時49分頃 東京湾 M5.2 深さ約60km 最大震度5弱 (当地 震度3)
2015年9月12日 22時38分頃 浦河沖 M5.4 深さ約50km 最大震度4


記事を書いている途中で、阿蘇山噴火。
日本はつくづく災害の多い国だな。
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2015年09月11日

自意識過剰とぼやけた記憶

今日は、ピンとこなかった2冊について。

『東京百景』 又吉直樹
まだ芥川賞が決まっていない頃、図書館に予約を入れて読んだ。この時、私の他に予約している人はいなくて、すぐに借りられた。が、返却する頃には芥川賞が決まっていて、10件以上の予約待ち状態になっていた。『火花』なんてひどいことになっていて、予約件数は400件を超えている。
話題の『火花』については、まったくそそられないので読む気がなかったのだが、せきしろさんとの自由律俳句集『まさかジープで来るとは』は秀逸で気に入っている。(過去記事→まさかエスプリで来るとは)ちなみに、本当は最初の自由律俳句集『カキフライが無いなら来なかった』を先に読みたかったのだが、近隣の図書館にはなくて取り寄せになるため、面倒になって読んでいない。リクエストすれば難なく読めるのだけれど。
元々、比較文化みたいなものに興味があり、出身地とは別の地域で暮らす人による客観的な視点で観る地域論みたいなことに惹かれる。もしくは、都市そのものを考察するようなこととか。ということで、『東京百景』には内容的に興味があり読んでみることに。
これは、又吉さんが芸人として東京で生活することになってから、東京の街々で日々感じたことを書き残したもので、私としてはそれぞれの街がどんな風に目に映るのかということに興味があったのだが、自意識過剰なエピソードに終始してしまって、街の特色は前面には出てきてくれなかった。どの街に居ても、そこは「東京」ということで一括りにされてしまっているような。
訪れる街も、芸人さんが集まるような場所や、自宅周辺とテレビ局やお笑いライブ会場との行き来の間のことが多く、バリエーションが少なく似通っていて面白くない。
又吉さんが文芸作品がお好きであることは、それに憧れているような文体がそこここに出てくるのでよくわかるのだけれど、どこかそんな自分に酔っているようなにおいが感じられて素直に届いてこない。
小説『火花』は、きっとこの文芸作品への憧れの部分がもっと凝縮されたような作品だと想像できるので、私には合わないなと思う。
『東京百景』は、もっともっとドキュメンタリーのようなタッチで淡々と書いてくれた方がよかった。というのは、私の勝手な思いなのだけれど。
人としての心の内の葛藤を期待して読むのなら、期待通りの本と言えるかもしれない。
私個人としては、又吉さんの類稀なセンスは、自由律俳句でこそ活きると思う。
今のこの又吉フィーバーがもう少し落ち着いたら、『カキフライが無いなら来なかった』をリクエストして読んでみようかな。

『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ
カズオ・イシグロは、初めて読んだ。初めてのカズオ・イシグロとしては、チョイスが悪かったのかもしれない。
大体、著名な作家の作品を読もうとすると、私はどうやらその作家の作品の中でも異色なものをチョイスするクセがあるらしい。以前、読書家の会社の先輩に指摘されたことである。「なぜ、最初にそれを読む?」と何度もツッコミを入れられたのを思い出す。
今回もその選択が遺憾なく発揮されてしまったようだ。
『忘れられた巨人』は、カズオ・イシグロとしては異色のファンタジー。アーサー王伝説を背景に描かれている物語だ。
村のはずれに住む老夫妻が、いなくなった息子に会いに行くために村を出て旅をする。
人々に忘却をもたらす霧が蔓延している世界なのだが、こちらもその霧の中に迷い込んでいるような、どうにも不透明でもどかしい夢の中のように頼りなげな感覚が続く。
人々に忘却をもたらす霧は雌竜クエリグの吐く息だったり、鬼が出てきたり、まるで剣と魔法の世界のお話でありながら、それは瑣末なことであって、記憶と忘却についての一種哲学的なテーマが隠れている。ような気がする(笑)
途中、騎士だとか、鬼に噛まれた少年だとか、謎の修道院とか、色々と出てくるのだけれど、それよりもそれぞれの記憶の些細な断片の方が重要なのかもしれないと思えてくる。
ブリトン人とサクソン人の対立の構図も見え隠れして、戦乱のキナ臭さも感じさせるのだけれど、わかりやすく顕在化しないままというかくすぶり続けているというか。
ラストもどう捉えていいのやらという読者に判断を委ねるような終わり方で、スッキリせず。
結局、思い出さない方が良かったんじゃねーの?みたいな。
老夫婦の美しい愛の物語みたいなものかと読み始めたのだけれど、それは見事に瓦解するわけで。いや、すべてが砕け散るって感じでもないところがまたスッキリしないところで。
これを余韻と呼ぶ人もいるのかもしれないけれど、私には向かなかったのでした。

やっぱり、くだらない本ばかり読んでいるから、文芸作品的なものは肌に合わないのかも(苦笑)
ストレスが溜まる本が続いたので、ちょっと息抜きしてから、次は長編古典SFに挑むつもり。
読書体力を戻さねば。
posted by nbm at 12:34| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

不確定な未来へ

『ラプラスの魔女』 東野圭吾

東野圭吾作品を読むのは、おそらく『白夜行』以来で久々。著者の80作品目ということで、それまでの作品をぶっ壊すという意気込みで書かれたとか。
私は特に東野ファンではないので、楽しめたのだけれど、「東野作品はこうでなくちゃ」みたいなことを期待して読むと、肩透かし感があるのかもしれない。
今回は、少々ネタバレを含むかもしれないので、未読の方はご注意を。

「ラプラスの悪魔」とは、量子論以前、物理学の仮説上の世界観に登場する絶対的な知性の存在のこと。全世界の原子の位置や運動の状態を知ることができたら、世界の未来を予測することも可能だろう、と。この仮定上に出てくる絶対的な知性の存在について提唱したフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスにちなんで、後にそれは「ラプラスの悪魔」と呼ばれるようになった。”全知”といえば「神」となりそうなものを「悪魔」と表現しているのが面白い。
因果律や運命論といった、およそ物理学とはかけ離れた世界が見えてくるこの仮説上の悪魔が現実に存在したら……というのがこの本の根幹。「悪魔」でなく「魔女」だが。

まず登場してくるのは、羽原円華という少女。小学生の頃に母の実家に行ったとき、そこで竜巻に遭遇し、母を失う。
やがてハイティーンになった円華は、特殊な能力を身につけていた。
一方、2つの温泉地で続けざまに硫化水素による中毒死事故が発生する。他殺も疑われる状況とはいえ、硫化水素ガスを誘導することなど可能なのか。地球環境科学を専門とする大学教授の元に調査が依頼されるが、彼は2ヶ所の温泉地で同じ女性を目撃する。それが羽原円華だった……

しばらく読み進むと、これは『フューリー』(1978)だと思った。
実は、ちょっと前に『フューリー』を観返したばかり。ブラピの戦車もの(2014)の方でなく、ブライアン・デ・パルマ監督の超能力もの。原作は、ジョン・ファリスの小説。
念動力を持った青年ロビンが、誘拐され軟禁される。国家の諜報活動に利用しようと訓練が続けられていた。一方で、同じような能力を持つことに悩む女子高生ギリアンが精神分析研究所にやってくる。実は、元々はロビンが訓練していた研究所だったが、ロビンは既に他の場所へ移されている。能力によってロビンの存在を知ったギリアンは、同じ能力を持つ彼と会いたいと願うようになる。やがて、ロビンを探すロビンの父と出会い、それが実現することになるのだが……
正直、同じデ・パルマ監督の『キャリー』(1976)やデヴィッド・クローネンバーグ監督の『スキャナーズ』(1981)ほどのインパクトがなくて、すっかり内容を忘れてしまったため、「どんなのだったっけ?」と観返したいと思ったわけで。
観てみたら、やっぱり地味だったのだけど、超能力やアクションはあまり前面に出ていなくて、父子愛とか、能力者の悲哀みたいなものが主軸だったことに気付かされた。ちなみに、けっこう笑えるシーンがあったのも再発見だった。
で、能力を持つ希少な存在であるギリアンは、そのことに悩みつつ思春期を送っていて、自分と同じような能力者がいることを知って希望を見出すわけだ。誰も理解してくれない自分の気持ちを共有できるかもしれない存在が、彼女にとってどれだけ救いになることか。
って、ロビンは暴走していき、結局はギリアンの救いにはならないのだけれど。それはさておき。
『ラプラスの魔女』でも、円華にとって、かけがえの無い存在が出てくるわけだ。
『ラプラスの魔女』の主軸は違うところにあると思うのだけれど、全編を貫く円華の想いは『フューリー』のギリアンを彷彿とさせた。

ずっと昔に、タバコの煙など乱流の動きは計算できず予測もできないという話を聞いたことがある。
現在は、スーパーコンピュータなどである程度はシミュレーションできるようになっているようだが、例えば、竜巻の発生が細かく予測できないように、ものによってはまだまだ不確実なのだろう。
作品中に出てくるのが、流体力学に関する「ナビエ-ストークス方程式」。
これが解ければ、乱流の動きを予測することができるというが、やはり未だに解明されていないらしい。

以前に、NHKの『サイエンスZERO』で、「第六感」についての研究が紹介されていたのを思い出す。(過去記事→SPEC
熟練の技とか、女の勘とか、経験則や潜在知が微細な変化を読み解くということは可能なのだ。
それが脳に蓄積されているというなら、某かの方法で人為的にそれを強化して「ラプラスの悪魔」を作り出すことも可能なのではないかと思えてくる。
量子コンピュータを開発するよりも、人間の脳の能力を改変した方が早い気もする。
すでにどっかの国が秘密裏に実験していたりして(笑)

とある登場人物の言葉。
「……大多数の凡庸な人間たちは、何の真実も残さずに消えていく、生まれてきてもこなくても、この世界には何の影響もない――さっきあなたはそういった。だけど違う。世界は一部の天才や、あなたのような狂った人間たちだけに動かされているわけじゃない。一見何の変哲もなく、価値もなさそうな人々こそが重要な構成要素だ。人間は原子だ。一つ一つは凡庸で、無自覚に生きているだけだとしても、集合体となった時、劇的な物理法則を実現していく。この世に存在意義のない個体などない。ただの一つとして」


ちょっと説教くさいし、意味を読み間違えると恐ろしいのだけれど、人間一人一人を原子と捉えると、一人一人が乱流を構成する大事な一要素なわけで、ひとつ欠けるだけでその行き着く先は変化していってしまうのだ。
そういった意味で、絶滅していい種はないし、必要ない人間もいない。
ただ、人間には個々の意思があるから、それだけ未来は不確定なものだと言えるかもしれない。
逆にいえば、未来はいくらでも変化可能だということになる。

私は、未知の領域に一歩踏み込んでいるような怪しげな科学が大好きだから、物語としては多少強引だったし、もう少し登場人物の心象を深く描いてもらいたかったような気もするけど、エンターテインメントとしては楽しめた作品だったと思う。
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2015年09月02日

画鬼とコンテイル君

たまにはと、図書館で雑誌コーナーに立ち寄ると、芸術雑誌の表紙に河鍋暁斎の絵を見つける。
パラパラとめくってみると、今年は河鍋暁斎の絵が観られる機会が様々あるとのことで、そのうちのひとつ『画鬼暁斎−KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル』というのに惹かれる。

河鍋暁斎には以前から興味があり、5年ほど前に埼玉県蕨市にある河鍋暁斎記念美術館に行ったことがある。(→過去記事 画鬼の描く妖かしたち
暁斎の曾孫が自宅を美術館に仕立てたということで、住宅街の中にひっそりとある美術館。
多種多様な絵を描き多作で「画鬼」と称される暁斎の作品の中でも、幽霊や妖怪の絵を集めた展覧会だった。
伝統的な技法を使った絵もいいのだけれど、独特のポップな感覚は観ていて楽しいものがあり、その振り幅の大きい作品群に圧倒されたものだ。

一方、近代建築にも興味があり、ジョサイア・コンドルといえば、かの鹿鳴館を設計するなど日本の近代建築の祖ともいえる人物。
日本文化にも親しみ、河鍋暁斎を師と仰いで日本画を学んでいたという。

この2人の展覧会を開催するのが三菱一号館美術館ということで、これは見逃せない。
復元されたレプリカ建築とはいえ、ジョサイア・コンドル自身が設計した三菱一号館で開催されるとは。

うかうかしていたら、会期も残り少なくなり、行くと決めた日はひどい霧雨だったが、丸の内界隈は地下で移動できるはずと踏んで、行くことに。

雨で地上は歩かないつもりだったのだが、せっかくの三菱一号館の外観を観たいじゃないか。
ということで、行きは地上から向かう。傘をさしていても、あらゆる方向から降ってくる霧雨に、負けじとぐるり周囲を歩いてみる。
丸の内というと、近年は超現代的なビルが立ち並んでいるが、異彩を放つその外観。レプリカとはいえ、堂々たるもの。
外観を楽しんだところで、中へ。

三菱一号館美術館は初めてだったのだが、向かない構造を無理くり美術館にしているので、内部はわかりにくい。レトロで小規模な展示室と展示室の間はガラスの自動ドアで仕切られていて、いちいち自動ドアを通らなければならない。
L字型の建物なので、途中の回廊ではレンガの外壁から特徴的な屋根に至るまでを見渡せる場所があり、雨の中で静かに佇むその姿にはちょっと感動。これが晴れている日だったら、もっと違って見えたと思うと、雨でよかったような気さえした。

印象的だったことをいくつか。
まず、コンドルの設計図の美しさ。1本1本の線が繊細で、華麗。こんな華やかな設計図があるものなのだなと。書き込まれている英字も美しく、デザインの一部のよう。
コンドルの描く日本画も悪くはないのだけれど、あの設計図の美しさを観てしまったら、美的センスがピカ一だったことはわかりきったことで、彼の描く絵も美しいことになるほど納得。
暁斎のスケッチのようなものに、「コンテイル君」と度々コンドルの姿が描かれていて、親しみをもっていたことが伝わってくる。

暁斎の絵では、一番楽しみにしていたのが「鳥獣戯画 猫又と狸」なのだが、つぎはぎされた絵で思ったほど迫力がなかった。期待し過ぎたか。
暁斎の「鯉魚遊泳図」は凄かった。コンドルがそれを模写したような「鯉之図」もあったのだが、迫力が全然違う。かといって、コンドルが下手なわけではなく、暁斎の描く鯉の活き活きとした姿は今にも動き出しそうで、こちらに飛沫がかかりそうな感じがするほどなのだ。
メトロポリタン美術館蔵の暁斎の絵も観ることができた。「カエルを捕まえる猫図」とか「蜥蜴と兎図」とか「栗と栗鼠図」(笑)とか、取り合わせが面白い。動物たちがそれぞれに活き活きと描かれている。
幼少の頃に歌川国芳に師事していたこともあるというが、国芳風味の「暁斎楽画」のコントラストの強い絵も怪しげな題材と相まって魅力的。
「蟹の綱渡り図」とか「風流蛙大合戦之図」とか、鳥獣戯画的な動物が擬人化された絵は隅々まで楽しい。
妖怪系の絵も多いけど、死体の時間経過による変化を描く「九相図」なんてものもあったし、お下劣な「放屁合戦図」なんてのもある。
それに春画もあった。春画コーナーは18禁でロールスクリーンで区切られており、お子様の閲覧にはご注意をというような注意書きがあった。妖怪風にデフォルメしたものは観たことがあったが、暁斎のどストレートな春画は所見。これはこれで興味深い。どこかユーモラスで、いやらしさがあまり感じられなかったのだが、あれで春画として役に立ったんだろうかと要らぬ心配をしたり。

要するに、「何でも描くなぁ、この人」という感じで、しかも何を描かせても抜群に巧い。
1990年代に逆輸入みたいな形で伊藤若冲がブームになって人気に火がついたけれど、今、河鍋暁斎をかつての若冲みたいにブームにしようと仕掛けられているような気がする。
古典的な美しい絵も、ポップだったりグロテスクだったりする現代美術に繋がるような絵もあるから、暁斎を知れば魅力的に思う人は多いだろう。
これだけ多種多彩な作品を数多く世に出しながら、社会的な評価は今ひとつのような気もするから、もっと知られてもいいかなと思う反面、あんまり人気が出ると今後の展覧会に行きにくくなるのも嫌だななどと勝手なことを考える。

帰りに、初めてオアゾの丸善に寄ってみた。
ケチくさい話だが、本を購入するのは図書館で手しにくいもののみ。そして、いただきもののクオカードで購入することにしている。
ということで、クオカードが使える丸善へ。
ここの丸善には初めてやってきた。いくつか書店を回ったが、出遅れて入手できなかった怪談専門誌「幽」23号が、ここには平積みにしてあった。やっと入手できた。
売り場の奥に進むと窓際に椅子が設置されていて、壁一面の窓には鉄道のパノラマが広がっていた。
鉄道好きの人には堪らない空間なんだろうな。椅子は年配の男性たちに占領されていた。

夏休み中だったはずだが、丸の内ではほとんど子供の姿を見かけない。ティーンエイジャーさえも見かけない。
東京駅を起点に長距離移動する家族連れなどがいてもよいと思うのだが、オフィス街で働く大人ばかりだ。
天気が良ければもう少し足を伸ばしたかったのだけれど、地下移動でKITTEや丸ビル・新丸ビルなどをうろついただけで早々に帰ることにした。

秋口になって、興味を惹かれる展覧会がポツポツと出始めている。
そのうちまたふらっと行こうと思う。
posted by nbm at 12:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 芸術 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする