2015年03月05日

生と死をめぐる物語

今日の話題は、『屍者の帝国』伊藤計劃×円城塔

伊藤計劃の遺稿原稿30枚を盟友・円城塔が書き継いで完成させたという作品。フィクションのキャラクターが豪華共演している。
物語は19世紀末のイギリスから始まる。ヴィクター・フランケンシュタインによって屍体を動かす技術が確立され、そうして生まれた屍者があらゆることに利用されている世界。
主人公の医学生ワトソンは、諜報機関に引き入れられて、新型の屍者が開発されているという情報をもとに、カラマーゾフによって築かれているという「屍者の帝国」を探りにアフガニスタンへと向かう。同行するのは、同じ機関に所属する武闘派の巨漢バーナビーと記録専用の屍者フライデー。
道中、アメリカの民間軍事会社ピンカートンに所属する男レット・バトラーと美麗な女性ハダリーに出会い、後に行動を共にすることになる。
「屍者の帝国」で、ヴィクター・フランケンシュタインが最初に創造した特別な存在である「ザ・ワン」の存在を知ったワトソンたちは、その秘密が隠されている「ヴィクターの手記」の行方を追って大日本帝国へ。
新型屍者の秘密を追う彼らの旅は、その後アメリカへ、そして最終的にはイギリスへと帰るのだが、ルナ協会やらノーチラス号やらが出てきて大騒ぎ。

これは、生命誕生の秘密に迫る壮大な物語。屍者化する屍者と屍者化する生者。はたして、魂とはどうやって生まれるものなのか。屍者を創りだしたことで人類に迫る危機を回避することはできるのか。

伊藤計劃の作品は、過去には『ハーモニー』を読んだのみ。(過去記事→人類調和計画
寡作のまま亡くなってしまったため、もったいなくて他の作品が読めずにいた。
昨年11月、「伊藤計劃プロジェクト」として長編3作品が劇場版アニメ化されるという発表があり、それならその前に読んでおきたいと思って、今回『屍者の帝国』を読んだ次第。
ゲーム『メタルギアソリッド』のノベライズを除けば、長編はあと『虐殺器官』を残すのみ。一気に楽しむのはもったいないのだが、これも近く読みたいと思う。
伊藤計劃もさることながら、円城塔も決して嫌いではないので、最後まで楽しんで読んだのだけれど、とっかかりは伊藤計劃であっても、やはりこれはほぼ円城塔の作品であって、伊藤計劃の作品として期待して読むと残念に思うかもしれない。
円城塔作品としては読みやすい方だと思われるのだが、なかなか読み進めることができず、図書館で何度も借り直してやっと読み終えた。他の本も間にはさみつつではあるが、都合3ヶ月くらいダラダラと読んでいただろうか。私のようにアニメ化のニュースをきっかけに原作を読みたいという人が現れて予約されれば、こうした強引な貸出延長は拒否されるのだけれど、ここにきてようやく1名の予約者が出たくらいで、世間ではまだまだ周知されていないようだ。

この本を読んでいると、自らの教養の無さを思い知らされる。
カラマーゾフが出てくるが、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがないので、クラソートキンという名が出てきてもピンとこない。3兄弟の関係性がわかっていた方が楽しめただろうに。
パヴァリア啓明結社がイルミナティの別名であるとか、アメリカの解析機に名付けられたポール・バニヤンという名前、「コンピュータの父」チャールズ・バベッジ、謎の女アイリーン・アドラー、などなど。
特に、「ハダリー」という存在は耳に目にしていながら記憶に留まっておらず、復習が必要だと思ったので、近々ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』も読みたいと思う。

屍者という存在に対しては、人間のあらゆる欲望によって様々な用途に使われていることを記した部分に軽い衝撃を覚えた。おっしゃるとおり、このくだりは著者の想像にほかならないはすなのに、実際に屍者のような存在が開発されて利用可能になったとしたら、こうした使い方をする人間がたくさん出てくるに違いないと思うと、人間の欲望は止めどないものなのだということをあらためて突き付けられた気がする。

屍者を動かすにはネクロウェアというソフトをインストールする必要があるのだが、2進法のコンピュータ言語も含めて言葉というものの力を思い知らされる物語でもある。

この作品の冒頭30枚が伊藤計劃の絶筆ということを考えると、すでに死の病で闘病も長く、おそらくは死期も悟っていたであろう著者によって、明らかに生と死について書かれている作品で、それを著者なりに噛み砕いてSFエンターテインメントに仕上げようと目論んでいたことが想像される。そのまま書き続けられなかったことが残念でならない。

生物が「生きている」というのは、どういうことなのか。
福岡伸一の著書『生物と無生物のあいだ』を思い出す。(→過去記事貝殻と小石)古い過去記事は、背景色が違うときに書いたもので、ところどころ読みにくい文字色になっていますがご了承ください。
「生きている」か否かの定義は、代謝がひとつのポイントになるわけだが、代謝しなくても自己増殖するウィルスのような存在もあるわけで、そのあたりが議論を生むことになる。
結局、生命体にはなぜに初めから死が組み込まれているのかという問題に帰結するような気がする。アポトーシスは細胞単位の話だけではなく、もっと大きな1個体という枠組みにおいても組み込まれていることなのだ。「生きている」とされるものすべてが、いつかは命の終焉を迎えることになっている。ある意味、「死ぬ」ために「生きている」ようなもので、人生は「死ぬ」までの過程とも言えるわけだ。
日々、カウントダウンは進んでいる。しかも、誰もそのゴールを知らない。であれば、1日1日を、1分1秒を有意義に使いたいと思うのが自然だ。
メメント・モリ。カルペ・ディエム。
壮大なSF作品を読みつつ、怠惰な私は尻を叩かれているような思いがした。
posted by nbm at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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