2016年08月30日

愁いのひととき

書きたいネタは溜まりまくっているのに、じっくりPCの前に座る時間が取れず、ご無沙汰となってしまいました。
とりあえず、本の感想から。
何年も続けている「ひとりSFキャンペーン」ですが、先月、牧眞司さんの『JUST IN SF』というSF作品紹介本を読んでから、新たに読みたい本がまたまた増えてしまい、その紹介されていた中から気になった作品を順に読んでいる最中です。
ということでまず2冊。


『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫

ブラッドベリが好きで、一時期は最も好きな作家といえば名前を挙げていたほどだった。
ただ、ダーク・ファンタジーや短編SFは読んでいたものの、ハードSFの中編・長編は読んだことがなく、いつか読まねばと思っていたところ、『華氏451度』の新訳版が出ていると知り、これをきっかけに読むしかないと読んでみた次第。旧訳は読んでいないので実感できないが、かなり表現が変わっているよう。

焚書がテーマというのは知っていたのだけれど、あとはまったく知識なし。
焚書という役目を負う「昇火士」モンターグが、焚書という行為に次第に疑念を持ち始め……というお話。発表されたのは、1953年。もう半世紀以上も前の作品だ。
ブラッドベリ特有の詩的な表現が多く、イメージするのがなかなかに難しい。
読み終わってみると、なんだかちょっと消化不良というか、中途半端な印象だけれど、途中に挟み込まれた警句は心に響く。鳥肌モノの箇所がいくつかあった。

ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。(中略)
不燃性のデータを詰め込んでやれ、もう満腹だと感じるまで”事実”をぎっしり詰め込んでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰め込むんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるようなつかみどころのないものは与えてはならない。


社会学が学びたくて大学に行った身としては、こんなところで「社会学」を挙げられるのは予想外なのだが、たしかに「つかみどころのないもの」ではあるし、だからこそ面白いと思えたのだ。「社会」というものに対して、あらゆるアプローチで迫っていくものの、迫っていくそばからまた新たな問題が湧き出てきて、それらもまた追いかけねばならない。「社会」の全容をつかむことなど到底できないのだから。
そんなことを考えてしまう自分は、『華氏451度』の世界に居たならば、真っ先に燃やされてしまっていたのだろうな。

しかし、ブラッドベリという人は、「時間」というものをひとつの大きなテーマとして描いてきたのかもしれないと思った。
以下は、迷い始めたモンターグと、昇火士の上司との会話での台詞。
「ジッパーがボタンに代わり、おかげで人間は夜が明けて服を着るあいだ、ものを考えるたったそれだけの時間もなくしてしまった――哲学的なひととき、いうなれば愁(うれ)いのひとときを」

そして、主人公モンターグが、逃亡の末に辿り着いた先で、未来を見据えて行動を起こした男たちと出会ったときの印象。
その炎には静寂が集い、その静寂は男たちの顔にも宿っていた。そこには時間もあった。この錆びた線路のそばで樹々の根元に腰をおろして世界を見つめ、その視線で世界をひっくりかえす時間が。

物事を考えるには、時間が必要なのだということを、今更ながら教えてもらった。

私が好きな『何かが道をやってくる』という作品では、怪しげな巡回カーニバルのメリーゴーランドが、若返ったり年老いたり時間を操ることができる装置になっていた。
「時間」というとらえどころのないものと、人間との関わり方は、誰しもが日常的に実感する普遍的なテーマであるし、ロマンを感じる素材でもある。
自分がブラッドベリに惹かれてきた理由は、こんなところにあったのかもしれないと思った。


『12人の蒐集家/ティーショップ』
 ゾラン・ジヴコヴィッチ

もう1冊は、SFと位置づけるのも無理がある気もするけれど、ダーク・ファンタジー的な作品。
ゾラン・ジヴコヴィッチは、旧ユーゴスラビア出身の作家。
東欧の作家の作品を読んだのは、もしかしたら初めてかも。
東欧には、「ファンタスチカ」というジャンルが存在するらしい。日本で呼ぶ「ファンタジー」よりも幅が広く、SF・ホラー・ファンタジー・幻想文学等を包括したジャンルらしいのだ。
だとすれば、私好みの作品がゴロゴロしていそうだ。
この本も英訳からの日本語訳だし、そうそう訳されている作品もないかもしれないが、「ファンタスチカ」は面白い。今後、注目していきたい。
というわけで、この本も「ファンタスチカ」ど真ん中なわけだ。

「12人の蒐集家」は、12人それぞれを描いた12編の短編で構成されている。
どの話にも必ず紫色の何かが登場し、それが不思議な通奏低音となっている。
それと、人物の名前が出てくると、必ず「P」から始まっている。日本語には「パピプペポ」の音は少ないので、読みながら音に引っかかりができて妙な感覚になる。

ところで、最近ネット上で、本を読むときに頭の中で活字を音として再生しているか否かという話題を見かけた。
文章を読むとき、それが誰かの声で脳内再生されているように感じる人は少なくないようだ。
私は、本を読むときは、誰かの声として再生しているとは感じられない。
活字からダイレクトに言葉の意味を理解する。と同時に、状況描写なら、活字がそのままイメージとなって映像化される。右脳で映像や音を再生しつつ、左脳で活字の意味を理解しているような感覚だが、直接的に誰かの声で文章が再生されるとは感じない。
一方で、例えば特定の声優さんの声を脳内で再生しようとすれば、それは簡単に再生できる。
私の場合は、文章を読むことと、声を脳内再生することは、どうも別の回路になっているようだ。
ということで、前述の人名の「P」音も、音として認識している感覚でもないのだが、破裂音的なイメージはあって、それがなんとも言えない違和感で、引っ掛かりと感じられるようなのだ。
この辺りは、読む人によって、感じ方が変わってくるのだろうなと想像すると面白い。

12人目の蒐集家のエピソードで、すべてをまとめて綺麗に終わるのだが、潔いというか元も子もないというか。
こういったところに、戦乱を乗り越え、国を失ってきた人の強さを感じる。作者のことだ。
詳しい経歴は存じ上げないが、想像はつく。
1948年にベオグラードで生まれ、ベオグラード大学で博士号を取得し、同大学で教鞭をとっているらしいので、ずっとベオグラードを離れていないことになる。ということは、紛争を肌で感じてきたに違いない。常に銃弾が飛び交い、遺体が道に転がっているのが普通だというような状況をくぐり抜けてきたのは間違いないのだから。
そんな中で、創作をし、後進に教えるという文化的な作業を続けることは困難だったに違いない。
どうしても、強靭な精神力を感じてしまう。

「ティーショップ」は、ある女性が旅先で時間をつぶすために入った喫茶店でのお話。
登場人物が複雑に交錯していくので、つい相関図を作ってしまった。
想像力を掻き立てられる素晴らしい構成。
計算しないとできない芸当だと思いつつ、気ままに書いていたらうまくまとまってしまったみたいなノリが不思議だ。
読書とひとことで言っても、いろんな楽しみ方があるものだが、文章に翻弄されて、目隠しで手を引っ張られているような、どこに連れて行かれるのかわからない感覚が楽しめる作品。こういう作品は、滅多にお目にかかれない。

ということで、想像以上に楽しませていただいた1冊だった。
ゾラン・ジヴコヴィッチ作品は、日本語訳だと、もう1冊『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』という本があるのみ。しかも、3編しか収録作品がないのに、「ティーショップ」は重複している。
ちなみに、表記が「ジヴコヴィッチ」だったり「ジフコヴィッチ」だったり安定しない。これこそ、この作家がまだ日本で認識されていない証。
とりあえず、他の作品はこれを読むしかなさそうなのだが、勿体無いから忘れた頃に読もうっと。
訳者の方、もっと翻訳をしてください。よろしくお願いします。
posted by nbm at 11:37| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私も昔、ブラッドベリが好きで
大概の作品は読んでいた・・・つもりですが
この本については映画化されているので
映画を先に見ようと思い読んでいませんでした
印象的にはファンタジーなSFととらえる向きも
ありましたが
過去に繰り返してきた人間の行いを
未来に振り分けて描いていると考えています
そこんとこが社会学?
無知ですみません・・・・

にしても
本という人知の集積物を
なくしてしまうことは
現代社会にもありうるのかな
電子書籍なんか・・怪しいですしね

二冊目の考察について
活字を音にするってことは
音読することに近いのでしょうか
確か、幼児のころは
文字を言葉にして発し
それを頭に入れていたような記憶があります
それと
ラジオのように音だけで
頭に入れるという方法ですと
また違う脳を使用するらしいですね

それに加えて
日本語とアルファベットの表記する国では
音が違うと思います
ロシア語などを使用する国民は
自国の言葉があまりにも難しいので
他の言語が簡単に聞こえるのだそうです

Posted by プリュム at 2016年08月30日 20:39
プリュム 様

プリュムさんもブラッドベリがお好きでしたか。
私は映画も未見です。
原作を読んでみて、どのように映像化されているのか観てみたいと思いましたよ。
新訳版では、あとがきで訳者さんが人類の焚書の歴史的なことを説明してくれています。
社会学は頭に○○とつければ、みな社会学になってしまうので、「歴史社会学」とか「焚書社会学」とかなんでも有りです(笑)

SF作品の中には、遠い未来の世界で、書物とか書物を電子データ化して蓄積したシステムとか、よく出てきますね。
どうにかして知識を未来に残そうとするのでしょうね。
ただ、管理する人間がいなくなってしまえばそれまで。
いつかは朽ちてしまうのかもしれません。
人間がいなくなってしまっては、利用する人もいませんしね。

小学校の国語でも音読は重要視されているみたいですね。
あらためて考えてみると、私は音読するときと黙読するときでは、脳の違う部分を使っているような気がします。
○ピードラーニングみたいな教材は、睡眠学習みたいな効果があるのでしょうかね?
私も英語はラジオでFENを聴くことから入ったのですが
英語を聞き取る能力はいくらかついたと思います。

日本語の発音は単純ですからね。
でも、意外と無意識に難しい使い分けをしていたりするみたいですよ。
中国語の四声とかもわかりませんね。
Posted by nbm at 2016年08月31日 01:05
こんばんは。

レイ・ブラッドベリ、書棚に3冊(華氏451、火星年代記、ウは宇宙船のウ)あるのですが、いずれも中途半端な所までしか読み進めていません。
華氏451以外の2冊は短編みたいな感じで、いつ読んでも良いんですが、華氏451は最後の場面がどこだったすらも…(私の悪い癖で、読み終わらない内に新しい本を買ってしまいます)

印象に残っている話としては、「ウは宇宙船のウ」の中にある『無敵』という話で、とある灯台で仕事をする二人の男達と1年の内、決まった日にだけその灯台に訪れるある生物の話なんですが…

その話の設定や悲しさ、台詞なんか「なるほどなぁ」と感じ、一気に読んでしまう位、自分には
面白い話でした。
Posted by kz-1 at 2016年09月09日 00:29
kz-1 様

あぁ、『火星年代記』も未読なんです、私。
いつか読まなければ……

ブラッドベリの短篇集は、手元に8冊くらいあるでしょうか。
それと『何かが道をやってくる』と。
今は、読書は図書館に頼る生活をしていますので、今まで読んできた本はほとんど処分してしまったのですが、ブラッドベリだけは残しておきたくて。

『ウは宇宙船のウ』は、萩尾望都さんの漫画版もあります。
「霧笛」ですよね?
悲しくもロマン溢れるお話ですね。
この漫画版でも描かれていて、とても印象に残っている作品です。

秋の夜長に読み返されてはいかがでしょう。
『ウは宇宙船のウ』は短篇集ですし、どこから読んでもよいわけなので、気になったタイトルから読んでみるとか。

私にとって、ブラッドベリは「十月」のイメージなんですよね。
これからの季節にピッタリだと思います。
Posted by nbm at 2016年09月10日 01:04
失礼しました…仰る通り、『霧笛』です…orz
Posted by kz-1 at 2016年09月10日 23:21
kz-1 様

確かに「無敵」と思えるくらいの生物でしたね(笑)

久住昌之のマンガで、「アーム・ジョー」という腕っ節の強い人を描いた話を想像していたら、「あぁ無情」だったってネタがあったのを思い出しました。
Posted by nbm at 2016年09月12日 02:01
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