2014年07月10日

「デレッキ」と「てんこしゃんこ」

既にひと月以上続いている夜のウォーキング。歩いているといろいろな光景を目にするのだけれど、たまに見かけるおじいちゃんがいる。
夜も遅いというのに、自宅前の鉢植えが気になるようで、懐中電灯片手に何やらゴソゴソとやっている。観ていると、特に何もないようで、もしかしたら失礼ながら認知症なのかもしれないと思う。何か片付けたいなら、どう考えても昼間明るい時間帯にやった方が効率が良さそうだ。それを夜も更けてからやる理由があるのだろうか。何かしらの夜行性の虫とか?それにしても11時頃というのは遅すぎないか。
で、そのおじいちゃんが懐中電灯とともに手に持っているのが、いわゆる「火ばさみ」というやつである。
金属製のドデカいピンセットのようなもの。何かしらを挟む道具。
それを見て、ダンナさんが「あれ、何て言うんだっけ?」と問う。
私が「デレッキでしょ?」と答えると、しっくり来ない様子。
「じゃ、トング?」と言い直すと、「それだ!」と。
人には簡単なのになかなか覚えられない単語というのがたまにあるけれど、ダンナさんの「トング」がそれで、時折聞かれることがある。

私の中では、アレは「デレッキ」であって、「トング」ではない。
「トング」は、先端が丸みを帯びていて、すべり止めのためか金属が波打っている感じ。軽い。食品に使うことが多い。用途によっては、氷用とかパスタ用とか、少し形状や材質が違うものもある。
「デレッキ」は、先端まで直線的なラインで、ずっしりと重量感がある。こちらは、炭とかゴミとか屋外で使うようなことが多い気がする。私の頭のなかでは、十能とセット。
しかし、どうも「デレッキ」というのは一般的な呼び名ではないようだ。
冷静に考えてみると、アレを「デレッキ」と呼んでいたのは母で、それ以外の人が「デレッキ」と発するのを聞いたことがないような気がする。

あらためて、「デレッキ」を調べてみた。
「デレッキ」とは、オランダ語の「dreg」が語源とも言われ(諸説あり)、主に先端がL字に曲がった火掻き棒のことを指す言葉。北海道地方の方言という位置づけらしい。寒い北海道ならでは。石炭ストーブの付属品的なものらしい。「デレキ」とも言う。
本来は、先端がL字型の火掻き棒を指していたのが、用途が似ている「火ばさみ」も同様に「デレッキ」と呼ばれるようになったのだろうか。
どうやら、青森県や岩手県など東北北部では「火ばさみ」=「デレッキ」と思っている方が見受けられる。
北海道では「火掻き棒」=「デレッキ」で、東北北部では「火ばさみ」=「デレッキ」という感じ。

さて、我が母は新潟県佐渡の出身だが、戦時中に疎開していた先が秋田県だった。
戦後もしばらく秋田で生活していたようなので、ここで覚えた言葉なのかもしれないと想像。

「デレッキ」は、東京・埼玉で生まれ育ったダンナさんには、通じない言葉なわけなのである。

ウォーキングをしながら、ダンナさんとそんな話をしていたら、出てきた言葉がある。
「てんこしゃんこ」
これは逆に、ダンナさん以外からあまり聞かない言葉だ。
ダンナさんによると、お父さんがよく使っていて、自分も使うようになった言葉だという。ちなみに、お父さんは、東京出身。

「てんこしゃんこ」を調べてみると、東京方言らしく、「食い違い、行き違い」という意味と、「だめになる」という意味とあるらしい。また、麻雀用語でも使われているらしい。
ダンナさんは、簡単に言うと、「交換する」というような意味合いで使うことが多いのだが、ニュアンスがかなり微妙だ。
自動車を整備することも仕事の一部であるダンナさんだが、部品を交換するときに「てんこしゃんこ」と表現することがある。ただし、ただ古い部品を新しい部品に替えるとか、部品ひとつだけの交換のときには使わないし、全部取り替えるなら「全とっかえ」になる。
A車のひとまとまりとB車のひとまとまりとを交換し、尚且つ、A車でもB車でも、交換した部品たちがそれぞれに交換後に交換前よりも良く働いてくれる状態になるときに限って「てんこしゃんこする」ことが成立するようだ。
とはいえ、ダンナさん本人によると、「それが本来の意味での使われ方ではないかもしれない」とのこと。
ちなみに、「だめになる」という言い方を考えると、「おシャカになる」という言い方の方がしっくりくる。

「あべこべ」という言葉があるが、これは「間違っている状態」を指しているように思う。
「てんこしゃんこ」には、この「間違い」のニュアンスはなく、交換前の状態についてもなんとなく肯定的で、交換後も変わらないかそれ以上の状態になるようには感じる。
関西の方では、「てれこ」という言葉があるが、ニュアンスとしてはこれに似ているような気もする。が、「てれこ」は、本来「交互にする」という意味のようなので、やはりちょっと違うか。

「てんこしゃんこ」を標準語に言い換えてみると……
と考えてはみるのだが、うまく言い表すことができない。だからこその方言なのだと思う。微妙なニュアンスを伝えることができるのが、方言の良さだ。

誰かがポツリと言い出した言葉が、段々と地域に広がる。最初は意味もよくわからずに使い出した言葉が、人から人へと伝わって周知されるようになっていく。
ところが、それが一定の地域を出て行かない場合がある。山や海を越えられないという物理的な障害がなくても、土地に言葉が留まってしまうことがあるのが不思議だ。
posted by nbm at 10:53| Comment(8) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月20日

「いってらっしゃい」は呪いの言葉

昨日は、とある作業をしに実家に行っていた。
道路の混雑状況などにもよるけれど、実家までは車で片道小1時間ほどかかることもある。運転が好きではない私にとっては、緊張を強いられる辛い道のり。
出かける際には、「絶対に事故を起こすことも巻き込まれることもなく、無事で帰ってくる」と確信してというか、自己暗示をかけるというか、とにかく無事で帰ってくる自分を想像して、それを現実にしようと決意して出て行く。大げさかもしれないけれど、私にとって、車を運転するというのは、それくらい覚悟のいることなのだ。別に運転がヘタなわけじゃありませんよ(笑)嫌いなだけです。決意だけでなく、もちろん細心の注意を払いながら運転します。

これに関連して。
うちでは、ダンナさんが毎日お昼を食べに帰ってくるので、「いってらっしゃい」も「お帰りなさい」も、1日に2度言うことになる。
「お帰りなさい」は、無事に帰ってきたことを喜ぶ言葉。それよりも問題は、「いってらっしゃい」の方。
以前から、この「いってらっしゃい」を言うときには、無事で帰ってくるようにと念を込めて言ってきたのだけれど、危険な作業を日常としているダンナさんなので、怪我がないようにと祈って。
これも、上記と同じように、「絶対に無事で帰ってくる」という確信を込めてというか、その未来が既に確定しているかのような心持ちで言っている。

勝手にそういう実践をしていたところ、それを後押ししてくれるような文章を読んだことがあり、やっぱりそういうものだったのかと合点がいった。いつか記事にしようと思いつつ、長い間あたためてしまったけど。
それは、怪談専門誌『幽』15号(平成23年8月発行)の加門七海さんの連載「お呪い日和」の中で語られていたこと。言霊について書かれた文章だった。
実は、この言霊を用いたマジナイを我々は日常的に行っている。
その典型のひとつが「いってらっしゃい」だ。
「いってこい」「いってきなさい」も同様で、これは「行って、(帰って)来い」という意味になる。つまり、「いってらっしゃい」は、目的地に行ったのち、無事に帰ってこいという、半ば命令的な意味を含んだ引き戻しの呪言なのである。


ある種のイメージトレーニングのようなものなのかもしれない。
でも、そう考えると逆に、スポーツ選手もマジナイを行っているのかなどと解釈してしまう(笑)

古くは、『万葉集』で山上憶良が、大和の国は「言霊の幸(さき)はふ国」と言っているのだそうだ。言葉に宿った魂が幸いをもたらす、と。
この頃からすでに、声に出した言葉が現実に影響を与えると考えられていた。
言霊のタマは魂のこと。魂は浮遊するものであるから、言葉は単なる音というだけでなく、浮遊してコト(事)に影響を与えるという解釈ができるらしい。
音という物理現象が、空気中の分子をコツコツぶつけて次々に伝わっていくものだというのを考えると、浮遊した言葉の魂が物理的に相手に届くような気がしないでもない。

加門さんは、この言霊についての文章をこう結んでいる。
言葉は危険であり、重宝であり、容易に吉凶を自他に招く。
それをマジナイとするときは、真実を告げるのではなく、真実を呼び込むものだというのをきちんと意識すること。
それが適えば、言霊の力は計り知れないものとなる。


口から出てしまった言葉を戻すことはできないから、慎重にせねばとも思うし、ここで言わねばどこで言うというタイミングを逃してはいけないとも思う。
書き言葉よりも話し言葉の方が苦手な私にとっては、常に大きな課題だ。

マジナイ、ノロイ。「呪」という漢字の成り立ちを調べてみた。
「兄」の部分は「祝」の省略形で、神にいのること。それに「口」がくっついて、人に災いを下すことを神にいのるという意味らしい。「口」をくっつける、つまり言葉を発するだけで、ポジティブな「祝い」から「呪い」というネガティブな意味に変わってしまうのが面白い。
元来、善いことは言わない方がよいとされているから、こういうことになるのか。
古来から、言葉に出して言い立てる行為である「言挙げ」は忌むべきものとされてきたのだそうだ。その内容が天に照らして少しでも間違っていると命を取られることにもなりかねない。だから、言葉にして意思表示することには非常に慎重になってしまったということらしい。
「不言実行」なんていうとカッコいいけれど、きちんと言葉で主張できない文化は、国際的には理解されにくい。そういう素地は、すでに万葉の時代から作られていたのだった……

余談だけれど、同じ文章の中に、「わざと悪い言葉を用いて、魔から身を守る方法」についても書かれている。
人に贈り物をするときに「粗品」とか「つまらないもの」などという言い方をするが、これは「すばらしいもの」と言ってしまうと、眠った子を起こすように通り過ぎるモノまで引き寄せてしまうため、モノがついたままの品を相手に贈らないようにする配慮だという。ここでのモノとは、悪いもの、魔物のこと。
ただの謙遜かと思いきや、そんな裏設定があったのかと。
自分の息子を「愚息」などというのも、同様の意味が含まれているらしい。

加門七海さんのこの「お呪い日和」は非常に興味深く、水引や千羽鶴やゆびきりなど、日本では身近にマジナイが生きていることを再認識させられる。

こうして、私たちは知らず知らずのうちに、自然と魔除けの作法をを行っているという話。
この話を読んでからというもの、私の「いってらっしゃい」にはより強力な念が込められることになりましたとさ。
posted by nbm at 11:55| Comment(5) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月25日

通じない?

先日のこと。
台所の流しの前でダンナさんがキョロキョロ。どうやら、さっきそこに自分が置いたはずのコップを探しているらしい。
「あぁ、コップなら片しちゃったよ」と言うと、納得した様子で、新しくコップを出してきた。

自分で言って気が付いたのだけれども、「片す」というのは方言なんだよね?「かたづける」という意味ですが。どういうわけか、特に”食器を”かたづけるときに使うような気がします。部屋をかたづける時にも使うけど。
自然に出てきた言葉だし、ダンナさんには普通に通じているので、あまり違和感を感じたことがなかったのだけれども、確か方言だと聞いたことがあるような。
方言と意識しないで使ってしまう言葉というのは、ままあることですよね。
生まれも育ちも埼玉県という私にとっては、大学に入学し色んな出身地の友人たちと話すことで初めて、言葉の地域差を感じる経験をしました。
福島県出身の友人がある日、「これ、ねばせばいいの?」と言いました。
「”ねばす”って、何?」とツッコむと、そこで彼女は初めて”ねばす”が方言であることを知ったようでした。
”ねばす”とは、のりで貼ることを言うのだそうで。
この”ねばす”という言葉が、響きも意味もとてもユニークだったので、特に印象に残ったのですよ。
”のりで貼る”って言うより、雰囲気があって、いい表現だなぁって。
こういった、細かいニュアンスを含む言葉が、方言にはたくさんあるじゃないですか。標準語で言い換えようと思っても、なかなか伝わりにくい微妙なニュアンスというのが、方言の魅力なのだと思います。
私は埼玉育ちといっても、両親が佐渡出身なので、両親のイントネーションを受け継いでます。基本的には標準語で話しているつもりでも、どこかで関西系のイントネーションになるのです。
東京出身のダンナさんからは、その度に指摘されてきたわけですが、そうやって指摘されないと、イントネーションの違いも自覚できないもんです。

さて、「片す」について。あらためて調べてみたら、これがけっこう複雑そうで。
辞書によっては、特に方言という注釈がついてないものもあるらしく、もはや標準語に含まれているということなんだろうか。でも、地域によっては通じなかったりするんですよね?
ちなみに、博多弁では、「片す」は「仲間に入れる」という意味になるそうで、全然違いますね。
Wikipediaによると、西関東方言の中に「片す」という言葉が入ってます。「栃木県南西部(足利市付近)、千葉県(一部除く)、東京都の多摩地域、山梨県の郡内地方(笹子峠以東)、群馬県・埼玉県・神奈川県のほぼ全域で話される日本語の方言群」ということらしいです。
ここで西関東方言の例に挙げられている言葉は、確かに生まれ育った地域で地元の人たちが使っていた記憶があります。同級生が、「来(こ)ない」を「来(き)ない」と言っていたのは印象的でした。
ただ、「片す」を使う地域がすべて、同様に西関東方言の他の言葉を使うわけではないし。
インターネット上の意見を見てみても、実に様々で。Wikipediaには東京では多摩地区とあるけれども、東京下町でも使うという人もいれば、同じ東京でも聞いたこともないとか東京の方言ではないと断言する人もいるし。神奈川県でも地域によるよう。埼玉の山間部では使われていないという人も。ん〜、限定的で複雑。「片す」に関しては、どちらかというと西関東よりも東関東に分布してるんじゃないのか?

これ、もしかして、大元の流れが別々なんじゃないだろうか。
ひとつは、古い言葉としての「片す」。「かたづける」という意味では、歌舞伎「三千世界商往来」の中で使われているそうで。また、江戸時代の植木職人さんたちが、仮植えすることを「片す」と表現していたという話がありました。植木職人さんたちが広めた言葉だとするならば、東京の下町とか、江戸時代から植木職人がたくさんいた現さいたま市・川口市あたりに広まったのかも。
もうひとつは、方言としての「片す」。
ルーツの違う言葉だけど音としては同じで、今の分布で見ると複雑な地域で使っていることになる、とか?
それにしても、ちょっと分布が複雑過ぎます。ナゾ。

普通に誰にでも通じると思って使っている言葉が、地域限定だったとわかったときの衝撃ってありませんね。
他の地域の人から指摘してもらわないと、なかなか気づけないしなぁ。
posted by nbm at 18:13| Comment(4) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月16日

妖怪爪切り隠しとゼロ

大学時代、履修登録をして、途中で捨てた授業はいくつかあったけれども、ちゃんと取る気で単位を落とした科目がひとつだけあった。それが、言語学。
記号と言語との関係性が、当時の私にはなんだか難しくて、よく理解できなかった。もはや数学のようで。

NHK教育テレビ『Q〜わたしの思考探究〜』、ピースの又吉直樹が出演した「言葉とは何か」という回を観た。
「自分の思いをコトバで、どこまで正確に伝えることができるのか? そもそもコトバの正体とは、何なのか?」といった又吉の疑問に、言語学者の町田健が答えていく。
”死神”のような風貌の又吉は、太宰治の大ファンで、文芸書好きで知られる芸人。文筆家せきしろさんとの共著で、自由律俳句集を2冊出している。とにかく、言葉へのこだわりは人一倍強い人であるのは想像がつく。

日本語は、ひとつの現象を言い表す言葉が多種多様な言語だ。
たとえば、雨。霧雨、小雨、大雨といった程度の問題から、五月雨、時雨など時季的な表現、他にも小糠雨や驟雨など、雨というひとつの現象が細かく分類されている。こういう風に事物・現象を分けることを”分節化”というのだそうだ。

この”分節化”をするにあたって、前段階として必要なのが、”範疇化”という作業。
たとえば、小さな子供に”いす”という言葉を教えるとする。座っているいすを指して「いす」というのは簡単だけれども、他の形のいすもいすだということを教えなければ、いすの意味を正しく伝えることができない。いすという集合をいすと認識させなければいけないわけだ。まず、こういったグループ化・カテゴリー化の概念を作り出し、事物・現象を分類した上で、初めて”名づける”ことができるようになる。

何かに名づけることで、共通認識が生まれるってことなんだよね。
又吉さんは、ネタを考えているときの話から、”妖怪爪切り隠し”について語っていた。
ふと爪切りが見当たらなくなることがある。自分では置いたつもりのない場所から、それは出てくる。もしかしたら、これは”妖怪爪切り隠し”の仕業なのか、と。こういった認識が広がり、共通のものとなれば、”妖怪爪切り隠し”は存在するという認識は当たり前のものになるかもしれないというわけ。
今現在、認識されてる妖怪なんて、本当にこんなものなんだと思う。ある現象が起きて、それになんとか納得のいくように説明をつけたいわけだよね。

さて、ここでいきなりだけど、最近、アニメ『コードギアス 反逆のルルーシュ』を1期・2期と続けて観た。キャラクター原案がCLAMPってことで、絵柄のかわいらしさに惑わされてしまうけれども、作り込まれた世界観や練りに練った構成には唸るしかない完成度。非常に残酷で胸を抉るような話だった。
神聖ブリタニア帝国の植民地となっている日本。主人公ルルーシュは、普通の男子高校生なのだけれども、実は妹ナナリーとともにブリタニア王の血を引く王族。母を見殺しにした父ブリタニア王を憎み、溺愛する妹ナナリーを守りたい一心で、ブリタニア王と敵対する心を持っているルルーシュ。そんな彼が突如として”ギアス”という特殊能力を授かり、人を意のままに操ることができるようになったことをきっかけに、ブリタニア帝国に反逆する黒の騎士団を率いる身となる。
そのとき、彼はルルーシュとしてでなく、仮面を被り、正体を隠して”ゼロ”と名乗る。

この”ゼロ”こそが、共通認識の記号。
ゼロとして全世界に認識されるため、ゼロの扮装さえしていれば、中身がルルーシュでなくても、それはあくまでも”ゼロ”として認識されるわけだ。それを利用した作戦も何度か出てくる。
ブリタニアにとっては敵、植民地支配されている日本人にとっては救世主であったりする。
最初は、ブリタニア皇子としての顔を隠さなければいけないという理由だったのだと思うのだけれども、途中から、”ゼロ”という存在が一人歩きしていくのが面白い。
とても面白い作品なので、これ以上内容は語らないことにしておきましょう。

”名づける”という、共通認識を作る作業について、たまたま同時期に目にした”妖怪爪切り隠し”と”ゼロ”とが、私の脳内でつながったのでした。
そして、”名づける”ことの重要性について考えさせられたし、言霊信仰が生まれるということも納得できる気がした。

又吉さんと町田先生の話に戻ると…。
こういった分節化を進め、”言葉の網の目”を細かくしていくことが、語彙を増やすということになるわけだ。
又吉さんは、人同士のコミュニケーションにおいて、どうしたらより深く意志の疎通ができるのかと町田先生に問う。
先生が答えるには、ひとつには語彙を増やすこと。しかし、これには相手も語彙が豊富でなければ通じない方法であるので、もうひとつの方法が、比ゆを使うこと。
簡単そうで、難しい…。

余談だけれども、日本語には、一人称を表す言葉が多いことが話題となっていた。
それは日本人が場の感覚を大切にしているからではないかということだった。その場面に応じて、一人称を使い分けているということ。
もうひとつ、別の話。
人間は、明確に分節化できないものを”気味が悪い”と思う傾向にあるということ。たとえば蝙蝠のように、鳥のように見えるけど獣のようでもある、とか。この境界線の曖昧さが認識の難しさを感じさせ、そして敢えてそれを表現することが芸術につながっているのではないかという話。

ことばが現象を生み出しているわけじゃないんだけど、そんな錯覚に陥る。
言語学者ソシュールいわく
言語があらわれないうちは、何一つ分明なものはない。

posted by nbm at 11:39| Comment(10) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする