2021年02月25日

輝け!nbm Awards 2020<書籍編>

2020年は、いつにも増して読んだ本が少なかったです。相変わらず、ホラーが多め。
まずは、選外の本で記事にしていないものをメモ的にご紹介。

『山と村の怖い話』平川陽一 山の怖い話は好き。
『ショートショートの缶詰』 田丸雅智 やはり星新一の「鍵」が秀逸。
『着物憑き』加門七海 ホラーを期待すると肩透かし。着物の勉強にはなる。
『山怪 参』田中康弘 このシリーズ、好き。
『居た場所』高山羽根子 奇妙な味わいの話。
『事故物件怪談 恐い間取り2』松原タニシ 前作よりもずっと中身が薄くて残念。
『ぱんつさん』たなかひかる 芸人兼漫画家がおくるシュールなぱんつさんの世界。
『まだなにかある』パトリック・ネス 著 三辺 律子 訳 前半面白いけど後半が消化不良。
『自衛隊防災BOOK 2』特に収穫はなし。
『家が呼ぶ 物件ホラー傑作選』朝宮運河 編 豪華な執筆陣。
『そこに無い家に呼ばれる』三津田信三 「家そのものの幽霊」というパターン。
『うるはしみにくしあなたのともだち』澤村伊智 
スクールカーストと呪いの話。中高生向けで大人が読むと今ひとつ。


少ない中からですが、各賞の発表です。

<装丁賞>
『コドモノセカイ』 岸本佐知子
2020年に読んだ本 その5
子供を主題としたちょっと奇妙なあじわいの短編集。岸本佐知子さんが、海外の作品を編訳している。やっぱり私は、岸本佐知子さんのセンスが好きだ。とてもしっくりと馴染む感じ。名久井直子さんによる装丁も素敵。装丁の大事さを教えてくれる1冊でもある。

<ビジュアル賞>
『新しい分かり方』 佐藤雅彦
2020年に読んだ本 その2
自分の脳が、感覚が、試される1冊。仕掛けがたくさん収録されている体験的な本。人間の脳の認識の仕方や心理的な思い込みなどを意識して体験することができる。
『フジモトマサルの仕事』
→2020年に読んだ本 その3
イラストレーター・漫画家・文筆家。フジモトマサルさんの残した仕事を1冊にまとめた本。数多のイラスト作品が掲載されているが、ほんとうにかわいくて毒があって堪らない。
『THE RESURRECTIONIST 異形再生 付『絶滅動物図録』』 エリック・ハズペス
2020年に読んだ本 その4
「スペンサー・ブラック博士の生涯」と『絶滅動物図録』の2部構成。奇形の研究に生涯を費やしたとされる博士の伝記とその研究の集大成という形態。アホな考えも突き詰めると面白くなる典型。

<視野を広げてくれたで賞>
『BOOK MARK 翻訳者による海外文学ブックガイド』 金原瑞人・三辺律子 編
2020年に読んだ本 その2
海外文学を紹介するフリーペーパーの書籍化。主にヤングアダルト向けに選ばれた本が16作品紹介されている。
書評を参考に読む本を選ぶのも楽しいのだが、自分が知らない世界を教えてもらえるからだと思う。このブックガイドは、そういった意味でとても有益なものだった。

<ホラー賞>
『怪談びたり』 深津さくら
2020年に読んだ本 その5
大学時代に実話怪談をテーマに論文を書いたという著者。出会う人に「不思議な体験はありませんか」と尋ねていくうちに、自身が怪談の語り手となっていった。実話怪談は数多く読んできたが、なんだろう、どこか他と違う。聴いたことがないパターンが多い。

<SF賞>
『息吹』 テッド・チャン
2020年に読んだ本 その1
17年ぶり2冊目の短編集。SFというジャンルにくくられている人ではあるが、それだけでは表せない何かがある。起こってくる事態に対して、常に心の問題を問いかけているように感じられるからだ。
著者の作品の1冊目である『あなたの人生の物語』を読まずに先に2冊目を読んでしまったので、遡ってそれを楽しみたいと思う。

<nbm大賞>
今回は、以下の2冊を合わせてnbm大賞とさせていただきます。
『縄紋』 真梨幸子
2020年に読んだ本 その4
自費出版用に素人が書いた『縄紋黙示録』という本を担当することになった校正者の話。現代の東京は文京区辺りを中心にアースダイバーよろしく土地の記憶を遡る物語。私のようなアースダイバー・ファンには堪らない1冊。考古学的・民俗学的に刺激的なワードがたくさん散りばめられていて、物語は置いておいてそれだけでも面白い。
ちょうど、雑誌「武蔵野樹林」第1号を読んだ直後だったし、KADOKAWAさくらタウンに行ったばかりでもあったし、原付に乗り出して近隣を走ると河岸段丘を感じることも多く、武蔵野台地をまさに肌で感じていたところに読んだものだから、余計に縄紋の昔が身近に思えた。
「武蔵野樹林」第1号
2020年に読んだ本 その4
武蔵野に生まれ、暮らす私にとっては、手元に置いておきたい内容。この地の成り立ち、風景、暮らし。身近でありながら、意識していなかったことを教えてもらう。


2021年に入ってからも、相変わらずホラーは多め。今年も、ホラーで癒されようと思います。
今年は、予約の受け取りばかりでなく、図書館でじっくり書棚を巡って直に本選びをしたい。それができれば、もう少し幅広い分野の本が手に取れるのではないかと目論んでおります。
ラベル:nbm Awards
posted by nbm at 17:25| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月09日

2020年に読んだ本 その5

『怪談びたり』 深津さくら
大学時代に実話怪談をテーマに論文を書いたという著者。出会う人に「不思議な体験はありませんか」と尋ねていくうちに、自身が怪談の語り手となっていった。
実話怪談は数多く読んできたが、なんだろう、どこか他と違う。聴いたことがないパターンが多いし。
例えば「大きな皿」。お気に入りの大皿をふきんで拭いていたときに落としてしまい、割れてしまった。小さなかけらも出ず、綺麗に真っ二つに割れた皿。しかし、その半分がどこにも見当たらなかったという。
物が消えるなんてあり得ない。でも体験している人がいる。私も、指輪がなくなって、知らないうちに戻ってくるという体験をしたことがあるから、現時点で科学的に説明できないことでも、そういうことがあることを知っている。
刃物を呼ぶ振袖の話とか、とある神社で鏡文字の絵馬を読んでしまってから無意識に鏡文字を書くようになった話とか、交差点で幽霊が自分の身体を通り抜けていったときの感触の話とか。まず、「ざざざざざ」という耳一杯の騒音。それは極小の冷たい粒の集合体で、内臓や血を冷やしながら通り抜けていき、最後に体の中身が後ろに引っ張られていくように感じたという。
知らずに体験した現象が、後から説明づけられるパターンも多い。
説明できない奇妙な味わいの話も。「黒い車」についての話は興味深い。夜中に釣り場を目指して山中を車で走っているとき、カーナビの指示通りに進むと怪しげな道の先で朽ちた車と供物の山に出くわす。自分も供物を捧げ、無事帰ることができたが、二度とその道を見つけられないという話。
この話、著者の周りの複数の人が別々に著者自身から聴いたというのだが、著者にはその記憶が全く無いという。
かのスーパーボランティアと思しき人の話も奇妙で面白い。
写真店に勤務していた人の話で、国民的テーマパークの城の前に現れる全身オレンジ色の人影が、現像する度に近づいてくるというのも面白かった。パターンとしてはよく聴く話だが、フィルムを持ち込むお客さんはさまざまなのに、まるでこちらに気付いているかのように近づいてくるというのが不可解だ。
文章が巧く、情景がすっと浮かぶ。挿絵も著者が描いているそうだが、印象的で良い。もっと読みたいと思う実話怪談本だった。

『海の怪』 鈴木光司
『リング』シリーズで知られる鈴木光司の海に纏わるエッセイ。
「怪」とタイトルにあるが、怖い話は期待はずれだった。実話怪談を多く読んでいる身としては、実話であるのに文体が修辞の多い小説調になると怖さが半減することがわかった。小説だと思えば別の話なのだが、どうにも中途半端。タイトル詐欺と言ってもいい。ただ、「怪」などと思わずに、海に纏わる話として読めば、あまり普段触れないジャンルなだけに興味深い。知らない単語もたくさん出てくる。一生行くこともないような国や地域の話だらけで、地図や写真を検索しながら楽しんだ。

『コドモノセカイ』 岸本佐知子
子供を主題としたちょっと奇妙なあじわいの短編集。岸本佐知子さんが、海外の作品を編訳している。
12編あるが、ひとつ既読のものがあったので、それは読まずに飛ばした。
アリ・スミスの「子供」はモダンホラー風。エトガル・ケレットの「ブタを割る」と「靴」は寓話的で、両方とも素晴らしい。
数ページで終わってしまう短いものもある中で、一番長く60ページあるエレン・クレイジャズの「七人の司書の館」は読みごたえがあった。古く、人々に忘れられた図書館の中だけで育つひとりの女の子。ひたすらに静かな時間が流れる図書館の生活を想像するだけで、心が平穏になる。
やっぱり私は、岸本佐知子さんのセンスが好きだ。とてもしっくりと馴染む感じ。名久井直子さんによる装丁も素敵。ある2人のお子さんが大切にしているのであろう宝物が並んでいる写真。まつぼっくりや蝉の抜け殻、錆びた知恵の輪、壊れたブレスレット。これらだけで、子供にしかわからない世界観が存在していることを伝えてくれる。
posted by nbm at 11:50| Comment(4) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年に読んだ本 その4

『歩いて、食べる 東京のおいしい名建築さんぽ』 甲斐みのり
BSテレ東でドラマを知り、原作を読むことに。ドラマは未見。
いつか行ってみたいとか、行ったことはあるけれどじっくり見学したことはないというような建築ばかり。
旧小笠原伯爵邸は、シガールームの外壁タイルがかわいい。


「武蔵野樹林」第1号
以前から読もう読もうと思いつつ2年も経ってしまった。
ちょうど、KADOKAWAさくらタウンのプレオープン中に行ったところでもあり、今読んでいる『縄紋』でも武蔵野台地の話がからんできていて、面白い。やっぱり、この第1号は購入すべきだったな。手元に置いておきたい内容。宮台真司のコラムなども面白いのだけれど、やはり、地理学者による武蔵野台地の解説とか、中沢新一の「武蔵野アースダイバー」みたいな部分が興味深い。2号以降も読んでみようっと。

『縄紋』 真梨幸子
自費出版用に素人が書いた『縄紋黙示録』という本を担当することになった校正者の話。「預言書」だというこの本はどうやら縄文時代について書かれているようなのだが、現代の東京は文京区辺りを中心にアースダイバーよろしく土地の記憶を遡る。
「縄文」でなく「縄紋」。タイトルを見ただけでもう何かありそうじゃないですか。私のようなアースダイバー・ファンには堪らない1冊。校正者を主人公に設定したのも巧い。私も仕事でちょっとした校正・校閲をすることがあるけれど、些細なことも確認して裏を取っていく作業は大変なんですよ。だからこそ、ほんのちょっとのひっかかりが気になって調べないと気が済まないというのはよく理解できる。
雑多な要素を盛り込み過ぎて、まとまりがつかなくなってしまった感はあるが、とても面白い。歴史や考古学的な知識がたくさん盛り込まれていて、知らなかったことも多く、興味深い。
例えば、太田道灌が当初は夢見ヶ崎(加瀬山)に江戸城を建てようとしていたという話。不吉な夢を見て、ここは止めておこうと変更したのだとか。夢見ヶ崎動物公園には行ったことがあるのだが、こういったことを知っていたら、もっといろいろと観てくるのだったなと。
ちょうど、雑誌「武蔵野樹林」第1号を読んだ直後だったし、KADOKAWAさくらタウンに行ったばかりでもあったし、原付に乗り出して近隣を走ると河岸段丘を感じることも多く、武蔵野台地をまさに肌で感じていたところに読んだものだから、余計に縄紋の昔が身近に思えた。
大体、私が暮らしてきた地域は、縄文時代の遺跡が多い。
ただ、変に殺人事件と絡ませなくてもよかったような。SFファンタジーに徹した方がテーマがぶれなかったのではないかと思ってしまう。
文京ふるさと歴史館に展示されている縄文人骨が観てみたくなった。
千葉県に特徴的とされる廃屋墓、漆が塗られた土器や木製品、イノシシが生息していない地域、女体神社、湧き水、移り変わる北極星、そしてアラハバキ。刺激的なことがたくさん散りばめられていて、物語は置いておいてそれだけでも面白い。

『THE RESURRECTIONIST 異形再生 付『絶滅動物図録』』 エリック・ハズペス
「スペンサー・ブラック博士の生涯」と『絶滅動物図録』の2部構成。
RESURRECTIONISTとは、「死体を墓から盗む人、死体盗掘人」「再生させる人、蘇らせる人」という意味だそうだ。
19世紀後半、奇形の研究に生涯を費やしたとされるスペンサー・ブラック博士について、フィラデルフィア医学博物館が収集した日記や書簡をまとめて伝記としたのが前半。博士の研究成果である『絶滅動物図録』には、サテュロスやケルベロス、ドラゴンなどの解剖図が載っている。ちなみに、表紙はセイレンの骨格、裏表紙はガネーシャの骨格が描かれている。
博士の基本的な主張は、ヒトの奇形は、伝説として伝わっている異形の存在の遺伝的な名残によるものであるというもの。
前半の伝記部分では、若くして優秀だった博士が徐々に狂っていく様子が綴られており、興味深い。自分の考えに固執するあまり、躍起になってそれを証明しようと行動が変容していく。子供の頃から、解剖学者であった父に検体不足から死体盗掘を手伝わされていたというエピソードは、後の博士の人生に多大な影響を与えたであろうと容易に想像できる。
人に先んじて進んでしまう人にはありがちだ。成功した人というのは、それがたまたま当たっていたに過ぎないのかもしれない。
時代設定もいい。ヴンダーカンマー華やかなりし頃。医学も科学も微妙に未発達な時代。だからこその物語。記録も、手書きの書簡や日記、そして細密なスケッチ。
ちょっと学術寄りに過ぎるけれども、人魚や河童のミイラやヴォルペルティンガーが生まれた背景を覗き見たような気がする。
『絶滅動物図録』は、ただただ面白い。真面目に骨や筋肉の作りを想像しているところがいい。例えば、ヘビとライオンとヤギという3つの頭を持つキマイラは第三胸椎に相当な負荷がかかっていたはずだとか、3つの脳の支持でどうやって体が動いていたのだろうとか。
アホな考えも突き詰めると面白くなる典型。
一応言っておきますが、真に受けないでください。でも、Wikipediaにスペンサー・ブラックという項があるかもと調べたくなるような1冊。
posted by nbm at 11:42| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年に読んだ本 その3


『ファミリーランド』 澤村伊智
澤村伊智のホラー作品はほとんど読んできたが、初のSF。
作者のいたずら心がそこここに。読んで楽しい極近未来ディストピアの数々。SFはどうかと思ったけれど、イケる。詳しく書いてしまうと面白くないので、ほんの少しだけ書き留めておくことにしよう。
「コンピューターおかあさん」
SFの体をとったホラーと言ってもいい。6編の中で、一番現実化しやすいようにも思えるから、始末に負えない。既に、留守宅のペットを見守るシステムなども実用化されているし、スマートフォンから電気やエアコンの操作もできる。コロナ禍で高齢者施設への訪問の代わりにビデオ通話が導入されてもいる。友人・家族同士で追跡アプリを使い合うなんてことも聞く。遠く離れた地の施設に入居している高齢家族とタブレットで対話し、様々な遠隔操作さえ可能な世界はもうすぐそこにある。この物語では、そこから一歩踏み込んではいるが、実に嫌な世界だ。
「翼の折れた金魚」
意識的に優生人類を作ることが「普通」である世界。自然に生まれた子供は差別され蔑まれるのだが……というストーリー。優生学に洗脳された人間の感覚が恐ろしい。画像を想像しながら読むと、『光る眼』が想起されるのだが、作品中でも『光る眼』と書かれていて、自分の想像が間違っていないことを確認する。ただし、『光る眼』はコメディ扱いになっているということだった。異質なものへの恐怖と、洗脳社会を生きる苦悩。
「マリッジ・サバイバー」
マッチングサイトを利用しての結婚。それが、思わぬ方向へと向かっていく。これも、システムによる監視がテーマ。そこに「匂い」のエッセンスが加わっているところが面白い。
「サヨナキが飛んだ日」
自宅看護用小型飛行ロボット「サヨナキ」が普及している世界。看護だけでなく、日常の様々なことに干渉してくる「サヨナキ」。でも、本当に干渉していたのは……?愛憎が交わっている人間の行動を観るにつけ、そこまではロボットもまだまだ真似できまいと思うと複雑。
「今夜宇宙船(ふね)の見える丘に」
思い介護やそれによる貧困の問題がテーマ。『ソイレント・グリーン』が脳裏をよぎる。ほんの少しばかりの希望が描かれるのかと思いきや、最後の肩透かしには笑うしかない。
「愛を語るより左記のとおり執り行おう」
掉尾を飾るのは、葬儀の話。バーチャル葬儀が当たり前となった時代。亡くなる当人の希望によりリアルな葬儀を行うことになった家族とそれを取材するウェブテレビのスタッフ。手探りのリアル葬儀準備は、てんやわんやの大騒ぎ。これまた、結末に笑う。




『フジモトマサルの仕事』
イラストレーター・漫画家・文筆家。フジモトマサルさんの残した仕事を1冊にまとめた本。
クラフト・エヴィング商會や長嶋有、穂村弘作品など、ロクにお名前を存じ上げないまま、そこここで作品を目にしてきた。それが「フジモトマサル」という方だったのかぁと。
書き留めておきたいことがたくさんあって。
表紙を開くと最初の扉絵は映画版『シャイニング』が隠れていた。ちょうど、この映画を観返したばかりだったので、カーペットの模様にはすぐに気づいた。キツネたちが談笑するパーティーの一コマ。よく見ると、見切れたポスターは『シャイニング』のものだった。映画は相当お好きな方だだったようだ。

「自分が青だと感じている色は他の人の見ている青と同じだろうか」
誰しもが考えることだろうけれど、こんなことから始まり、いろんな面で共感できる感覚の持ち主に思えた。
単なる私の妄想だけれども、もしも知り合いになれたら、いろんなことを話して聴いてみたかったなと思わせる方だった。もっと、早く知りたかった。
だから、これから、フジモトさんの残した作品を読んでいきたいと思った。

インタビューの中で語られていることの一端。
なんだってダウンロードできてしまう今の世の中。
「若い人がかわいそうだと思うのは、すぐ探せちゃうってこと。なんでも比較的簡単に入手できるから、憧れを維持しづらいんですよね」と。
「ぴあ」でチェックして遠くの市民会館で安く上映している映画を観に行ったり、ウィキペディアみたいに一覧で作品を追う方法がない中でいろんな図書館に行ってラベル検索したり。情報は自分からどん欲に取りにいかないと得られない時代の話が懐かしい。
こうやって、自分から取りに行って得る情報や体験というのは、自分の身に刻まれるような気がする。

制作時のエピソードも面白い。画面を逆さまにして上下左右、色やカタチのバランスをチェックするのが常だという。逆さまにすると、歪みやバランスの乱れに気付きやすいのだそうだ。
回文制作も得意とするフジモトさんだが、世界をひっくり返してみることで、気づくこともあるのかもしれない。

寄稿している何人かの人が共通してフジモトさんの印象を「お坊さん」みたいだと言っている。そして、おしゃれな方だったとも。
長嶋有さんが語るフジモトさんのエピソードは、お腹にズシリと響くような感じがする。

四十二歳で死ぬと決めていたというフジモトさん。胃痛が続くのを不審に思って病院に行ったら、盲腸が破裂して腹膜炎になっていたという体験から、死を意識するようになり、四十二歳ぐらいに死ぬと決めておいて、行動しようと思ったのだそうだ。実際に死ぬかは別にして、人生の区切りのつもりだった。四十二歳の誕生日までに仕事を終えるように調整して、その通りにやり遂げ、その1か月後に白血病と診断されたという。その時も、痛風がきっかけでたまたま白血病がわかったということらしい。その時は生還したが、その後再発を繰り返し、四十六歳で亡くなった。
造血幹細胞移植を受けたら、血液型が変わり、花粉症も無くなったという。

「給水塔占い」は読んでみたい。
「岩波国語辞典 第七版」では、表紙に捺された植物の図柄を手掛けたという。
数多のイラスト作品が掲載されているが、ほんとうにかわいくて毒があって堪らない。

posted by nbm at 11:33| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年に読んだ本 その2

『怪奇日和』 ジョー・ヒル
中編ホラー小説集。
読んでいると、「キングににてるなぁ」と思う。っと、待てよ?この人って……スティーブン・キングの息子じゃん。そうだった、そうだった。すっかり忘れてました。
キングっぽいけど、どこか新しい。
記憶を吸い取るポラロイドカメラ「スナップショット」、アメリカ銃社会を濃縮したような「こめられた銃弾」、スカイダイビングのはずが雲にひっかかった男の話「雲島」、恐ろしい自然現象(?)「棘の雨」。
どれも設定が風変りで面白く、比喩表現に光ものがあるのが魅力的。純粋に「ホラー」ではないけれど、奇妙な話であることには違いない。「奇想小説」といったところ。

『新しい分かり方』 佐藤雅彦
ビジュアルとその理解の仕方をひもとく1冊。
自分の脳が、感覚が、試される。
例えば、ページが縦に上からA・B・Cと3分割されていてそれぞれの空間に数字がランダムに書いてある。AとBでは1〜5までが書かれていて、Cの中の空いているスペースに人差し指をおくように指示される。そのうえで、Aの「1、2、3、4、5」、Bの「1、2、3、4、5」と数える。そして、C。Cの空間には実は「4」が書かれていない。すると、自分の人差し指で隠れている部分に「4」があるような気がする。というもの。
こういった仕掛けがたくさん収録されている体験的な本。
人間の脳の認識の仕方や心理的な思い込みなどを意識して体験することができる。

『似ている英語』 おかべたかし・文 やまでたかし・写真
Wたかしによるこのシリーズが好きだ。今回は、意味の似ている英単語を簡単に解説してくれている。
相変わらず、写真と簡潔な文章で、違いがすごくわかりやすい。知っていることも多いのだが、確認しながら読んだ。
途中に挟まれているコラムも面白い。「May I have a large container of coffee ?」とは何か。文字数が「3.1415926」の並びになっているのだそうだ。円周率の覚え方というわけ。このコラムでは「リポグラム」という言葉遊びも紹介されていて、それは特定のアルファベットを使わずに文章を作るというものらしいのだが、引き合いにだされている筒井康隆の『残像に口紅を』を読んでみたいと思った。
もうひとつ、「雷ということばを正確に言い表す英単語はない」というのも新鮮な驚きだった。「thinder」は「雷鳴」で、「lightning」は「稲妻」。英語だと音と光が別になっているようだ。「thunderbolt」といえば光と音はいっしょに表現されるようなのだが、「落雷」というのが日本語訳としては正しいようだし。逆に、「雷」が「ゴロゴロ」と「ピカッ」を同時に表現しているということに気付かされた次第。

『東京の階段 −都市の「異空間」階段の楽しみ方−』 松本泰生
東京山の手は武蔵野台地の東端で、江戸期以来、都市化の過程でたくさんの坂や階段が生まれたという。山手線内だけで、階段のその数、650余.そんな階段を紹介してくれている。
江戸の時代に、尾根道と谷道が作られ、両者を結ぶ形で坂や階段ができていったという。それが今にも残っているので、元々の地形を活かした坂や階段が多いということらしい。
味のある階段がたくさん載っているのだが、あまり馴染みのない地域が多いので、実際に通ったことがある場所はほとんどない。
個人的に東京都内で階段といって思い出すのは、まず渋谷のスペイン坂。高校生や大学生の頃に通っていた。坂に沿っていろいろなお店が並んでいたが、不思議な雰囲気の雑貨店「大中」や、店員さんの制服がエロかわいい「アンナミラーズ」が懐かしい。
もう一つは、六本木駅からほど近い場所。階段を下りる途中にあったスナックに会社の上司に連れて行ってもらったことがある。店の窓から墓地が見えたのを憶えている。面白い場所だった。
本書では、新宿区・文京区・港区あたりの階段が多数紹介されているが、北区・板橋区・練馬区・大田区・世田谷区などは掲載されていない。続編があったら読みたいものだ。著者は『凹凸を楽しむ東京坂道図鑑』という本も出されているようなので、そちらも読んでみようと思う。

『BOOK MARK 翻訳者による海外文学ブックガイド』 金原瑞人・三辺律子 編
海外文学を紹介する瓦版が作りたい。湧き上がる気持ちが形となったフリーペーパーの書籍化。年4回発行の3年分。1回で16作品が紹介されている。主に、ヤングアダルト向けに選ばれた本が並ぶ。各回には、けっこう豪華な執筆者のコラムがついていて、それも面白い。
タイトルにあるように、訳者が自ら紹介しているので、そういう点でも面白い。訳の苦労や訳者ならではの作品の魅力が語られているからだ。
聞いたことのあるタイトルや、いつか読みたいとリストアップしていた本もあるけれど、知らない作品が圧倒的に多い。ちなみに、私が読んだことがあるのは、『ライラの冒険』『紙の動物園』『星の王子さま』『一九八四年』の4冊だけだった。
欧米だけでなく、アジア・アフリカ・中近東など、普段なかなか触れない地域の作品もあって興味深い。
ここからまた、私の読みたい本リストに10冊ほど加わった。読みたい本は増えていくばかりだ。
11号「Listen to Books!」で紹介されている『ルーシー変奏曲』(サラ・ザール著)の訳者・西本かおるさんが、訳しながら聴いていたという曲が気になって聴いてみた。現代作曲家フィリップ・グラスの「メタモルフォシス」。同じ主題が繰り返される全5楽章。脳裏に浮かんだのは、姪のコンテンポラリー・バレエの公演。無機質な主題が繰り返される中で、次第にそれが意味のあるものに変化していくような感覚。
12号「これ、わすれてない?」では戦争がテーマだった。『片手の郵便配達人』(グードルン・パウゼヴァング著)で訳者の高田ゆみ子さんが「自分の頭で考えざるを得なくなる。」と評している。
11号で知った現代ピアノ曲を聴いて得た自分の感覚。12号で改めて問われた自分で考える力。書評を読んでいるだけなのに、単なる本の情報だけでなく、得るものが大きかったなと思わされた。
金原瑞人さんのホームページに各号が紹介されている。置いてある書店や図書館も少ないし、置いてもすぐに無くなってしまうらしい。敢えてリンクは付けないが、興味のある方は覗いてみては?
posted by nbm at 11:24| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年に読んだ本 その1

輝け!nbm Awards 2020<書籍編>を開催しようと思ったら、2020年は本の記事を上げていないことに気付いた。
もったいないので、とりあえず上げておくことにする。

『見るだけで語彙が増える 英単語の語源図鑑』 
清水建二・すずきひろし 著/イラスト:本間昭文
「接頭辞+語根+接尾辞」という構成に目を付け、語源から英単語を解説してくれる。同じ語源を持つ単語を関連付けていっしょに覚えられるのと同時に、語源を知ることで単語の正確な意味やニュアンスを学ぶことができるという一石二鳥な内容。イメージしやすいイラストで表現しつつ、例文を挙げてくれているので、幅が広がる。とても素晴らしい。
例えば、「足」を表す「ped」という語根の章で紹介されていた「pedigree」という名詞。ドッグフードのペディグリーチャムのペディグリーねと思いつつ。「家系(図)、血統、歴史」を表す言葉だが、「gree」は鶴。鶴の足のようなものから、つまり鶴の足が家系図に似ている所からできている単語だとのこと。
この単語もこれが語源だったのかと何度も驚き、なるほどなるほどと納得しながら読み進んだ。一度読んだだけでは膨大な分量が頭に入るわけもなく、手元に置いておきたい1冊。すでに続編も出ているので、こちらと合わせて入手したいと思った。


『息吹』 テッド・チャン
「商人と錬金術師の門」
カイロやバグダッドが舞台となっていて雰囲気がアラビアンナイトだが、入れ子構造の寓話的な物語であることもアラビアンナイト。1対のゲートを利用した時間旅行ものでありながら、運命を変えることはできないというのがミソ。なぜかO・ヘンリーの「賢者の贈り物」を思い出す。ところどころに哲学的な言葉が散りばめられていて、かみしめながら読む。
物理学者キプ・ソーンが考案した「相対性理論と矛盾しないタイムマシン理論」に基づいて書かれている。過去を変えられず、単一の時間線しか存在しない。
訳者・大森望による解説を引用すると
二つの口の片方を高速に近い速度で移動させてからもとに戻すと、ウラシマ効果で時間が遅れるので、入口と出口で時間の差ができる。そのため、片方から入れば過去へ、もう片方から入れば未来への時間移動が実現する

表題の「息吹」
機械の体で人口の肺を交換しながら生きる種族の物語。自分たち種族の体についてのある秘密に気付いた学者が、その事実を明らかにしていく。
学者が語っている対象が面白い。
「予期される未来」
たった4ページの短編。”予言機”のパラドックス。脳科学の問題だ。
「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」
この一冊の中で一番長い。動物園に勤めていたアナの転職先は、仮想世界で”ディジエント”と呼ばれるペットのようなデジタル生物を飼育する仕事だった。その仮想世界を運営する会社が立ちいかなくなると、ディジエントを引き取ることを決意する。そこから派生する様々なことがリアルに描かれていく。とにかくリアル感がすごい。例えば、ディジエントに筐体を与えてをリアル世界に出すこともできるのだが、彼らがリアルな人間を見て「毛が生えている」と驚く。いろんなものに触りたがるので、指先のタッチパッド部分が摩耗してすぐに交換する羽目になるとか。または、ディジエントに法人格を与えることで法的な権利を有するようにするとか。物語がどこへいくのかというのはさておいて、ディジエントたちの反応や、彼らを保存するための様々な方策、デジタル生物の多様な利用方法などが興味深い。近未来を見せつけられているようだった。
「偽りのない事実、偽りのない気持ち」
ドライブレコーダー的なものを人間に搭載した”ライフログ”が当たり前になった世界と、アフリカの文字を持たない部族に宣教師が文字を持ち込む様子が交互に描かれていく。双方の世界で語られる事実と真実。対比が面白い。
「オムファロス」
タイトルのオムファロスというのは、ギリシア語で「へそ」を意味し、創造論でアダムとイブにへそがあったのかという問題で、イギリスのゴスという自然学者が提唱した説がある。アダムとイブにへそは無く、年輪や亀の甲羅なども含めすべてのものが創造されたときに経年した姿で現れたというもの。
これを題材にした物語になっている。
「不安は自由のめまい」
キルケ・ゴールの『不安の概念』より。「不安は自由のめまいである」「不安は、精神が(心と体の)統合を提案し、自由がみずからの可能性を見下ろしながら、支えを求めて有限性に手を伸ばすときに生じる」という部分が元ネタになっている。自由意志についての物語。

所々でインフルエンザによって死亡しただの、人口が減っただのというくだりが出て来てドキっとする。
すべてが情動的。SFなのに感情に重きをおいて描かれるところがテッド・チャンがテッド・チャンたる所以なのだと思った。


『40人の神経科学者に脳のいちばんおもしろいところを聞いてみた』 
デイビッド・J・リンデン
書かれていることは興味深いのだけれど、学者が書いているからか、少々表現が硬く、また専門的でわかりにくい部分もある。
無痛症という病気というかそういう人が存在することは知っていたが、パキスタンには無痛症の部族がいるということは知らなかった。
一番面白かったのは、「脳は過大評価されている」というトピックだ。脳は個人の身体感覚と密接に関わっているため、たとえば、脳を他の人の体に移植できたとしても、脳だけを移植するのでは元の人間を再現できないということ。声の出し方、耳の聞こえ方といったひとつひとつのことが、体のパーツと脳との間のやりとりがあって出来上がっているので、他の人の体に移されても、脳だけでは元々あった個人を再現できず、それはもはや別人になってしまうという話。もっと言えば、この本全体で語られていることのひとつには、社会性とか外部の物事や人との関わり方といったものが脳に影響を与えているとも言えるわけで、自分が考えていた以上に、脳は外部から影響を受けているのだなという印象が意外性があって収穫だった。


『このゴミは収集できません ゴミ清掃員が見たあり得ない光景』 
マシンガンズ滝沢秀一
お笑い芸人としてだけでは食べて行けず、出産を控えた嫁に「金持ってこい」と言われ、副業の就職先を探すも撃沈。困った挙句に芸人仲間のツテを辿って清掃員の仕事にありついたという著者。
内容は想像がつくようなことばかりだったのだが、語り口が軽妙で読んでいて楽しい。
5歳の息子さんが、「大きくなったら、ゴミ屋さんと何やろうかな〜」と言っていて、大人は二つの仕事を持たなければならないと勘違いしているというエピソードが印象的だった。
パルプンテ(自分で言って自分に何が起こるかわからない呪文)を唱えたかのような声優の卵の話とか、「はひざわはん」と呼びかける「はいはま(埼玉)」の人の話とか、笑いが止まらなかった。
ゴミというテーマで語られる様々なエピソードで、あらためて、「世の中、いろんな人がいるなぁ」と感慨に耽ることができる人間愛溢れる1冊。
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2020年02月10日

輝け!nbm Awards 2019<書籍編>

まずは、選外の本を少しご紹介。
2019年はとにかくホラー系をたくさん読んだ。ここに挙げた以外にも何冊も読んでいる。どうもストレスが溜まると、ホラー成分を欲するようだ。SFも読みたいのに、まったく読み進まない。

『心霊電流』 スティーヴン キング
昨年からキングを再び読み始めて、その流れで読んだ。
長い。キングらしい。だけど、特に面白くもない。
『夕暮れをすぎて』 スティーヴン キング
短編集。しばらくキングから離れていたので、もう少し読みたくなる。
『ひとんち〜澤村伊智短編集〜』 澤村伊智
けっこう面白かったが、短編集なので小粒な感じ。
『予言の島』 澤村伊智
これはホラー風味のミステリー。かつて有名な霊能者が残した予言と、とある島で起きた惨劇の真相とは。
『怪談のテープ起こし』 三津田 信三
自殺する間際に録音されたメッセージを題材にしたホラー。「自己責任でお楽しみください」という例の三津田節。
『冥界からの電話』 佐藤 愛子
亡くなっているはずの人から電話が来るという著者の実体験。謎。
『だから見るなといったのに: 九つの奇妙な物語』 恩田陸 他
若手からベテランまでバランスよく集められたホラー・アンソロジー。読みやすく、ホラー好きでない人にもオススメ。恩田陸と澤村伊智が面白かった。
『異界探訪記 恐い旅』 松原 タニシ
「事故物件住みます芸人」が、全国の心霊スポットを訪ねる。膨大な記録。今後も頑張ってほしい。
『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 リチャード ロイド パリー
津波の多大なる被害を受けた大川小学校を外国人の視点から見たルポルタージュ。
『行動経済学まんが ヘンテコノミクス』  佐藤 雅彦・菅 俊一 著/高橋 秀明 画
行動経済学の理論をまんがで説明してくれる。わかりやすい。
『力尽きレシピ』  犬飼つな
日頃の自分とさほど変わらない。あまり参考にならず。でも、料理を面倒だと思う人にはありがたいと思う。


では、各賞を発表していきます。


<ホラー賞>
『恐い間取り』 松原タニシ
著者は、「事故物件住みます芸人」の松原タニシさんである。
数々の実話系怪談を読んできたが、これは何かがおかしい。図書館で借りて読んだのだけれど、何度も読み返したいから購入したいと思う反面、あまりの禍々しさに手元に置いておきたくなくてそれもできないと思う。
事故物件とは別の話も面白い。バイト先だった大阪の千日前商店街にあるラーメン屋での話とか。
「あと5年」の命だと期限を宣告された著者の黒い顔については今後を見守りたい。

『営繕かるかや怪異譚 その弐』 小野 不由美
営繕屋が遭遇する主に建物に関係する怪異の話。シリーズ第二弾。
最初の「芙蓉忌」が印象深い。かつて花街だったという町屋で垣間見る美しい女。悲しい過去があったであろうことは容易に想像できる。
「まつとし聞かば」はキングの「ペットセメタリー」風。
小野 不由美は大好きだ。家に関する怪異の話も大好きだ。このシリーズは続けてほしい。


<SF賞>
『方形の円』 ギョルゲ・ササルマン
私が大好きな画家・野又穫が描くバベルの塔が表紙に使われていたので、思わず手に取った1冊。副題「偽説・都市生成論」。
各国語に翻訳されているこの本自体が、次元を超えてバベルの塔に通ずるアイテムのような気がしてくる。いろんな言語に翻訳され、過去から未来にわたる長大な時間と、数多くの人々に広まることが、これほどリアルに感じられた本はなかった。
「方形の円」という言葉を意味する英語「quadrature of a circle」を検索すると、「円積問題」とある。円と等しい面積の正方形を作図することは数学的に不可能であるらしい。実に素晴らしいタイトル。

『うどん キツネつきの』 高山羽根子
こんなSFってありなのかとツッコミを入れたくなるような物語。しかし、そこには人と人との結びつきが描かれているゆえか、不思議と読まされてしまう。不条理な世界が連続し、素っ頓狂な北欧映画を観ているようだ。
放りっぱなしのラストも多いが、そうすることで物語はどこかでそのままそっと継続しているように思われて、ファンタジーがリアルにつながるように思えてくる。
青森県立美術館にシャガールの「アレコ」という作品が大々的に展示されていることを知る。また、ねぶた祭りといえば想起される山車は「国引き」を題材にしたものだということを知る。
「シキ零レイ零 ミドリ荘」、「母のいる島」、「おやすみラジオ」、「巨きなものの還る場所」。どれもシュールだ。


<文芸賞>
『インソムニア』 高山邦男
これは、タクシードライバーを生業とする人の歌集。仕事中の夜の風景、タクシーの車窓から見える社会の光と闇、自身の両親の闘病・介護、中には恋の歌もある。市井の一庶民の日常が、一瞬、一瞬切り取られていく。全編にどこかダークな色調をまとっていて、タイトルの『インソムニア』はしっくりとくる。
認知症らしきお母さまとのやり取りや、大病を患い死にゆく父のことなど胸に迫る歌もある。
手元に置いて、度々開きたくなるような、そんな歌集だ。

『月とコーヒー』 吉田篤弘
web雑誌に連載された短編を集めた本。
終わりに余韻をもたせた作品が多いと思ったら、寝しなに読むことを前提に書かれたものだったらしい。続きは夢でというわけだ。
あとがきによると、「月とコーヒー」というのは、著者が小説を書く上で指針となっている言葉だそうで、「太陽とパン」でなく「月とコーヒー」。つまり、生きていくために必要不可欠なものだけでは味気ない。そうではないけれども、日常を繰り返していくためになくてはならないもの、とるにたらないものを書きたいと思うのだそうだ。
そんな日常が坦々と綴られていくわけですが、それがなんとも心地よい。
なんでもないお話の中に、スッと心に入りじんわり染み込んでくる言葉が出てきて、しばし本を閉じそれをゆっくり味わうことを繰り返す。そんな楽しみ方をした1冊。
一連の青いインクの話も良かったのだが、「つづきはまた明日」や「セーターの袖の小さな穴」など再生の物語と言えるような話が心に残る。他に、「隣のごちそう」みたいな話も楽しんだ。


<妄想賞>
『みんなの空想地図』 今和泉隆行
小学生の頃から、空想した町の地図を描き続けてきたという著者。路線バスで「未日常」の街並みを旅してきた経験から、自前の都市論に至るまで。
好き勝手に描いていた地図も、人口の多寡や街に暮らす人々の年齢などまでも考慮されるようになる。商業地域の在り方や交通などの問題が架空の都市を舞台にシミュレーションされていくのだ。
「好き」を追求していくと、こんな大人になるという見本。

『妄想国語辞典』 野沢幸司
花粉症じゃなくて風邪 【意味】事実を受け入れない様。
休日出勤の服 【意味】真価が問われる瞬間。
渋谷がつらい 【意味】老いを実感すること。
新人なんでというタクシードライバー 【意味】なんの言い訳にもならないこと。
なるほどですね 【意味】なんの関心もないこと。
ミュージカルとパクチー 【意味】好き嫌いがハッキリ分かれること。

世の中にないコトバを勝手につくり出し、勝手に広めていく企画が1冊の辞典に。
風邪と言い切りたい気持ちは痛いほどわかる。スーツ姿はキリっとかっこいいのに私服がダサいとガッカリ。渋谷は若い頃からつらかった。他の職種なら言い訳になるかもしれないが、タクシードライバーだと許しがたい不思議。「なるほど」と「なるほどですね」のなんとニュアンスの違うことよ。ミュージカルは耐え難いが「雨に唄えば」は許せる。そして、パクチーが苦手でなくてよかったと思う。タイ料理とかベトナム料理とか美味しいじゃないの!


<ビジュアル賞>
『怪異古生物考』 土屋 健 著/荻野 慎諧 監修/久 正人 イラスト
古今東西の幻獣を古生物学の観点から解釈してみたという1冊。
ユニコーンの蹄が二つに割れていたとは知らなんだ。「ルフ」というのが「ロック鳥」の別名であることを知った。因幡の白兎が踏んづけて渡ったのは、マチカネワニだったのではないかなどという説にロマンを感じる。マンモスの牙は内側を向いていて、アケボノゾウは外側を向いているという違いも知らなかった。
ぬえの章では、かつて日本に生息していた大型のレッサーパンダがその招待だったのではないかという話が出てきて笑う。
鬼の章は、物足りない感じで、もっと掘り下げて欲しかった。
久正人さんのイラストが楽しい。

『思わず考えちゃう』 ヨシタケシンスケ
絵本を何冊か読んできたが、こちらは大人向けのエッセイ。
講演の時間稼ぎに使っていた、普段何気なく描いたイラストに解説を加えたものをまとめて本にしてみたということらしい。
「ぼくのストローのふくろ」では、ストローの袋を律義に畳んで捩じるという著者に対して、奥様はくしゃくしゃのままにしている様子からの発想なのだが、私も著者とまるっきり同じ形にストローの袋を畳んで捩じっていた。自分では何の気なしにやっていたことなので、それを突き付けられたようで同士がいてうれしいような、逆に細かい所をつつかれたような複雑な気持ちになる。ストローのふくろの扱いの違いから、著者は「いやあ世界って広いなあ」とか「そういうわからないことって、あるんだな」とか思うわけです。そうですね。

『CIRCUS ヒグチユウコ画集』
大好きなヒグチユウコさんの画集。素晴らしい!の一言。手元に欲しいと思いつつ、本を増やしてもなぁと図書館で借りてみたが、やっぱり欲しい。


<ノンフィクション賞>
『極夜行』 角幡唯介
現代社会の「システム」の外側に出たいと考えた著者は、極夜の中の極夜を旅する冒険に出かける。
命がかかっているのにもっと慎重に対処できないのかとか、いろいろとツッコミどころが多い。けれど、だからこそ冒険家が務まるのだとも思える。いちいち気にしていたら、冒険なんてやろうとも思わないだろうから。
闇が人間の生理や精神にどんな影響を与えるのか。ここは興味深いところだ。
そして、長きにわたる極夜の果てに観る太陽の光。普段、当たり前に太陽の光を浴びている自分にしてみたら、そのありがたみは想像すらできない。


今回の<nbm大賞>は、該当なしといたします。
あまりにもくだらないホラーばかり読み、まともな本を読みませんでした。残念ながら、強烈に心に刺さった本がありません。
といいつつ、今読んでいるのも加門七海さんの『着物憑き』です……
今年はもう少しまともな本が読みたい。2019年を振り返って、切に思います。
ラベル:nbm Awards
posted by nbm at 00:24| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月06日

輝け!nbm Awards 2019<書籍編>っと、その前に

今年も、「輝け!nbm Awards 2018<書籍編>」をと思ったのですが、その前に、昨年の内に書き溜めていた書評をUPしておこうと思います。


『恐い間取り』
 松原タニシ
著者は、「事故物件住みます芸人」の松原タニシさんである。
数々の実話系怪談を読んできたが、これは何かがおかしい。図書館で借りて読んだのだけれど、何度も読み返したいから購入したいと思う反面、あまりの禍々しさに手元に置いておきたくなくてそれもできないと思う。以前に、「新耳袋」シリーズを持ち歩ていたときに軒並み自動改札で引っかかったり、本自体が紛失したりと奇妙なことが起こったのを思い出すと、購入するのを躊躇してしまう。
1軒目からして振るっている。大阪では有名な事故物件に住むと、住んでいる本人だけでなく引っ越しを手伝った友人まで別の場所で同時にひき逃げに遭う。後に、そこに住んでいたことがある別の芸人さんの話を聞くと、住んでいる間は毎年12月に必ずひき逃げに遭ったという。しかも、その方によれば、おかしなことはそこが事故物件となった殺人事件以前からあったとのこと。
2件目。息子が母を殺害したという部屋では、玄関ドアををガチャガチャと開けようとする存在がいたとのことだが、件の息子が出所しており、直後にその息子が無差別に殺人を犯していたということで……これは人こそが恐い系だ。

頭痛、倦怠感、疲れが抜けない、電話の相手におかしな音声が聞こえる、などと、何かと遭遇することはなくとも体調は悪くなり、関わる人にも影響が出るらしい。

実際には住まなかった事故物件も間取りつきで紹介されている。
不動産広告に「霊感の強い方はご遠慮ください」と書いてある部屋には笑う。これは実際には住んでいない物件だそうだが。ネット上で以前に「一人暮らしなのに一人暮らしではないような感覚にさせてくれる部屋」というコピーとオバケのQ太郎のイラストで紹介されていた部屋があったが、それも候補だった部屋として掲載されている。
他に、内見時に飛び降り自殺したケースも紹介されていた。それはひどい。住んでもいないのにそれか。

事故物件とは別の話も面白い。大阪の千日前商店街にあるラーメン屋でバイトしていた時の話もゾッとする。店に入ってきたおばあさんが何かを呟き続けていたというのだが、よく聞くと著者の住所だったという……わけがわからない。

事故物件に住んでいた人が実際に失踪したり精神を病んだり自殺したりしていくのだが、不思議なのは著者はそういう物件には何故か住むことができない。タイミングを逃したり、勘違いして狙いとは別のマンションに住んでしまったり、審査が通らなかったり。まるで何かに守られているようだ。

姫だるまの話も強烈だったし、夜逃げした中国人が残した謎のマントラ、飛び降り自殺現場を見てしまい若い男性たと思っていたら女子中学生だったという謎の話、お仕置きで墓地横の木に縄で括り付けられていた人を助けたのは手のないお坊さんだったという話、伝染する留守番電話、朝霧駅前歩道橋の話、白いマフラーの女子大生(画像あり)など興味深い話が多い。
「あと5年」の命だと期限を宣告された著者の黒い顔については今後を見守りたい。


『方形の円』 ギョルゲ・ササルマン
1975年、チャウシェスク政権下のルーマニアで検閲され削られた形で刊行された本。そして、フランス語版が刊行されたのが1994年。その後、スペイン語版・ドイツ語版や英語版が発刊され、ようやく日本語版に翻訳された。本国ルーマニアで検閲で削られたものを補完した36編の完全版が発刊されたのは、2001年のこと。ちなみに、アーシュラ・K・ル=グインによる英語版は24編。
書店で見つけた時、目を引いたのは、私の愛する画家・野又穫が描くバベルの塔が表紙に使われていたからだった。次いで、タイトルが目に入る。『方形の円』、副題に「偽説・都市生成論」とある。これは手に取るしかないではないか。後に知ったが、各国語に翻訳された本の表紙は、それぞれ異なるがみなバベルの塔が描かれている。
本編後の著者のあとがきなどから、この本自体が次元を超えてバベルの塔に通ずるアイテムのような気がしてくる。いろんな言語に翻訳され、過去から未来にわたる長大な時間と、数多くの人々に広まることが、これほどリアルに感じられた本はなかった。
酉島伝法による以下の解説が素晴らしい。
これらの都市を束の間訪れただけの読者の認識も、変容を免れない。読み進むごろに、架空の都市群とその歴史を介して、自分が普段暮らしている都市やその歴史までもが照り返され、色彩や輝きが、影の向きや長さが変わっていく。

まさにそんな感覚だ。
さまざまな36の都市が描かれている超短編集なのだが、空想の物語のはずなのに、それも各都市5ページほどの情報量なのに、自分が異次元に迷い込みそうになる錯覚が起きる。俯瞰的であり、実体験のようでもあり、不思議な感覚だ。
1972年、イタル・カルヴィーノの『見えない都市』が刊行された。ルーマニアでの刊行は1979年。著者は、同時発生的となったことに、
「アメリカに富豪の親類がいるとわかったシチリア人みたいに喜んだ」と言っている。カルヴィーノと比べると、語り口は淡々としていて、すぐに終わってしまうので、物語性を楽しみたい人には向かないかも。私は、この無機質なまでの語り口が好きだ。
「方形の円」という言葉を意味する英語「quadrature of a circle」を検索すると、「円積問題」とある。円と等しい面積の正方形を作図することは数学的に不可能であるらしい。実に素晴らしいタイトル。


『インソムニア』 高山邦男
郭公のこゑ囚われの身のごとく青になる度雑踏を啼く
新しいデザインのビル出来上がりその前のこと都市は忘れる

私は短く文章をまとめるのが苦手だ。だから、Twitterで簡潔につぶやく人に感心するし、俳句や短歌が読める人にあこがれを抱いている。三十一文字で世界を鮮やかに切り取るその技に感嘆し、酔いしれるのだ。
これは、タクシードライバーを生業とする人の歌集。中学生の頃から歌を詠みはじめ、大学生では短歌会に所属し、社会人となって職を変えていく中でも地道に詠み続けてきたであろうことが滲み出ている。
仕事中の夜の風景、タクシーの車窓から見える社会の光と闇、自身の両親の闘病・介護、中には恋の歌もある。テーマごとにくくられているので、連作を読んでいくと、物語のようだ。市井の一庶民の日常が、一瞬、一瞬切り取られていく。全編にどこかダークな色調をまとっていて、タイトルの『インソムニア』はしっくりとくる。
壊れゆくものがまだあるわが心壊れてしまへもう春だから


認知症らしきお母さまとのやり取りや、大病を患い死にゆく父のことなど胸に迫る歌もある。
そこかしこ不思議に物がしまはれて面白し母の整理整頓
こんな父を初めて見たり母の頭を撫でつつ「明日また来るからね」
父なのか少し迷いて掛ける声待合室の衰へし背に
ありがたうだけは幽かに聞き取れてわづかに父の片手が動く

他にもたくさん、ここに載せたいようで載せたくないような歌がある。良くも悪くも等身大。
今とは違う時に違う心境で読んだならば、別の歌に心惹かれるのかもしれないと思う。手元に置いて、度々開きたくなるような、そんな歌集だ。


『みんなの空想地図』 今和泉隆行
小学生の頃から、空想した町の地図を描き続けてきたという著者。路線バスで「未日常」の街並みを旅してきた経験から、自前の都市論に至るまで楽しませてもらった。
確かに、路線バスというのはほぼ地元民が生活の中で足として使うものであり、鉄道とはまた趣が違い、地元の雰囲気を味わえる交通機関なのかもしれない。自分が知らない地域の路線バスに乗るという行為は、「未だ日常になっていなかった」状態であり、自分の世界と地続きでありながら、未知の世界なのだ。
当初は手書きだった地図も、Illustratorを使用したレイヤー構造のおかげで複雑化していく。Illustratorのレイヤー構造が、多元的に観た街を一元化していくのが面白い。そして、好き勝手に描いていた地図も、人口の多寡や街に暮らす人々の年齢などまでも考慮されるようになる。商業地域の在り方や交通などの問題が架空の都市を舞台にシミュレーションされていくのだ。
巻末の人工100万人ごとに色分けされた日本地図が興味深い。首都圏の人口集中具合が一目でわかる。
「好き」を追求していくと、こんな大人になるという見本。くだらないことも突き詰めていくと、実生活に資するような内容に大きく可能性を広げていくものだという希望を体現してくれているかのようだ。
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2019年01月08日

輝け!nbm Awards 2018<書籍編>

さぁ、昨年の総括を初めてまいりましょう。最初は、書籍編です。


<勉強になります賞>

『マジ文章書けないんだけど -朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術-』 前田安正
→過去記事「輝け!nbm Awards 2018<書籍編>っと、その前に」
女子大生が就活でエントリーシートを書くことを前提に、なぞのおじさんが文章を書くことを指南してくれる。あらためて大人が学ぶ国語についての本を何冊か読み、その中で一番気に入って甥に買い与えた1冊。文章が苦手な人が読むのだろうから、こういうライトなつくりが重要だと思う。
『ピジョンの誘惑 論理力を鍛える70の扉』 根上生也
「鳩の巣原理」についてクイズ形式で教えてくれる。例えば、3つの巣箱に4羽の鳩を入れるとしたら、2羽以上入る巣箱が少なくとも1つはあることになる。この一見単純な原理を、様々な問題に応用して考えていくことができるというもの。5人以上いれば、同じ血液型の人がいることになるし、13人以上集まれば同じ誕生月の人がいることになるというわけ。
最初の方は理解できるのだが、どんどん数学的に難しくなっていき、3分の2くらいは理解できなかった。とはいえ、「鳩の巣原理」がどういうものか、どのような問題に応用できるのかは大体わかり、勉強になった1冊。

<ビジュアル賞>
『本を読む時に何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』 ピーター・メンデルサンド
→過去記事「輝け!nbm Awards 2018<書籍編>っと、その前に」
視覚的な観点から読書という行為を分析してみようという試みがなかなか面白い。普段、無意識にしている行為を詳しく掘り下げて解説されると、人間という生物の奥深さを感じる。
『絶対に出る世界の幽霊屋敷』 ロバート・グレンビル
世界には、「絶対に幽霊が出る」というお墨付きの場所がけっこうあるらしい。写真が主で、そこにまつわるエピソードはあまり詳しくは書かれていないが、特に歴史ある建物は、過去にあった事件などを想像しつつ観るとそれっぽく見える。幽霊云々はさておいて、いわくつきと集められた建物は廃墟も多く、それらが醸し出す雰囲気を楽しめる写真集。
『まぼろしの奇想建築 天才が夢見た不可能な挑戦』 フィリップ・ウィルキンソン
→過去記事「輝け!nbm Awards 2018<書籍編>っと、その前に」
古今東西の建築家や画家などがデザイン・設計したもので、様々な理由から実際に建設されなかった建築物を集めた1冊。これらが建築されていれば……と想像するとワクワクする。
『くらべてわかる淡水魚』  斉藤 憲治/内山 りゅう
姪の夏休みの宿題につきあって川魚を観察したとき、とても参考になった本。ヒレの形や付き方、からだの模様などで川魚の見分けを教えてくれる。山と渓谷社のこの「くらべてわかる」シリーズは、他に昆虫・野鳥・きのこ・葉っぱなどがあり、そちらにもそそられる。
『自衛隊防災BOOK』 マガジンハウス  自衛隊/防衛省協力
さほど目新しい情報はなかったが、人の担ぎ方やロープの結び方などは覚えたいと思いつつも実践しないと身に憑かないものだ。日本は災害の多い国。多くの人がこういった知識を持ったなら、いざというときに役立つとは思う。
『大家さんと僕』 矢部太郎
ご高齢の大家さんが、現代に至っても戦争にまつわるお話をされることが多く、それだけ戦争というものが強烈な印象を残しているのだということを考えさせられる。

<ファンタジー賞>
『RDG レッドデータガール 氷の靴 ガラスの靴』 荻原 規子
シリーズ最終巻から5年ぶりの作品。これまでの出来事を別の視点から描いたりしているので、過去作品を読み直してから読みたかった。
できることなら、このシリーズはもっと読ませていただきたい。
『間取りと妄想』 大竹 昭子
変てこな間取りの家とそこに暮らす人々の物語。何事か事件が起きて……とか、登場人物たちの内面を深く作品などを所望する人には向かない、静かな静かなお話。間取り図もついていて、建物を想像しながら読むのが楽しい。

<SF賞>
『死の鳥』 ハーラン・エリスン
言わずと知れたSF作家ハーラン・エリスンの短編集。現代から見れば、SFとしては古典と言ってもいいかもしれない。フォントを駆使し、凝った構成で描かれた作品が多いので、けっして読みやすいとはいえない。私のお気に入りは、「ジェフティは五つ」。5歳で時が止まってしまったジェフティと普通に年を重ねる主人公との交流を描いた作品。
『月の部屋で会いましょう』 レイ・ヴクサヴィッチ
→過去記事「輝け!nbm Awards 2018<書籍編>っと、その前に」
いい意味で期待を裏切られた1冊。奇妙な設定が、なぜかしっくりとリアルに感じられる。「この設定おかしいよね。あれ?自分の方がおかしいのか?常識って何だっけ?」みたいになる不思議な感覚が楽しめる。

<ホラー賞>
『ドクター・スリープ』 スティーヴン・キング
『シャイニング』の続編が映画化されたと聞いて、続編なんてあったのかと思い、読み始めた。おそらく、キューブリックが映画化した『シャイニング』しか知らない方は、つながりがよく理解できないのではと想像する。本来は、冬のホテルに籠った家族の息子ダニーが主人公の物語であり、『ドクター・スリープ』はそのダニーが大人になってからの話である。キング作品からは離れて久しい。ホラーらしいホラーを書かなくなったから。でも、『シャイニング』の続編となれば読まないわけにはいかない。長い話なので冗長気味ではあるが、30年分ダニーが背負ってきたものを想像すれば、このくらいの分量は必要だったのかもしれない。調子に乗って、その後キングの『悪霊の島』を読んでみたが、こちらは冗長そのものだった。400ページ近い上巻はほぼ何も起きないままに過ぎていく。長い伏線といえばそれまでなのだけれど、これはいただけない。『ドクター・スリープ』はそれなりに楽しんだものの、私の中のキングは『ペット・セマタリー』で終わったなという実感は変わらない。
『その部屋に、いる』 S・L・グレイ
南アフリカ在住の2人の作家によるペンネームがS・L・グレイ。日本人の自分にとっては、かなりの変わり種が描くホラー小説。
ハウススワップのサイトを通してパリのアパルトマンに滞在することになった夫婦。強盗に入られたばかりで気が滅入り、気分転換にと旅行に来たパリで待っていたのは……というお話。強盗に入られたという設定が南アフリカらしいのか。ホラー小説ってのは、主題と無関係なところで不気味なことや不安に思う出来事を描くのが常套手段となっているものだ。この設定は少なからず効いていると思う。全体的には、心理的なホラーなので、ゆっくりと真綿で首を締められるようなじわじわした恐怖感が味わえる。何かが起きないとつまらない人には向かないかも。

<nbm大賞>
『ぼぎわんが、来る』 澤村伊智
『ずうのめ人形』
『ししりばの家』
『などらきの首』
『来る』という映画が公開されると知り、これはもしかしてと調べると、原作は思った通り『ぼぎわんが、来る』。ホラーが好きだとはいえ、近年の新進のホラー作家の作品にはどうも食指が伸びずにいたが、食わず嫌いも何だしなと読んでみることに。
これがなんと、大当たりだった!鈴木光司の『リング』を読んだときの衝撃には及ばないものの、久しぶりの当たりを引いた感覚。著者はミステリーがお好きらしく、仕掛けが施されていることが多い。ミスリードに気づいたときには「やられた!」と思わされた。私はミステリーは好まないが、伏線による内容の仕掛けと1行の文字数にこだわったりする視覚の仕掛けがあり、本当に楽しませてもらった。こういった手法をホラー小説の中で使っているのを、私は他で見たことがない。中身にはあえて触れずにおこう。これらはほぼシリーズになっていて、霊能力を持つ姉妹が出てくる。が、彼女らは神仏を頼ったりせず、そこにも好感が持てる。
どの作品に出てくるとはあえて言わないが、面白い視点があり、唸らされた。人の思考や記憶が細胞を通じて後の世代に受け継がれるのが「有線」接続だとしたら、「無線」はどうなのか、と。大気中や物体中に記憶の保存先を探して浮遊しているものが「幽霊」なのではないか。そんな話だ。こういった視点の面白さも随所にあった。
1冊読んだら、次が読みたくなり、またその次が……となって、立て続けに4冊読了。後がない。もっと出してくれないかな。
ただし、映画版の『来る』は原作とは別物だと思う。きっと、原作を映像化したと思って観てはいけない類の映画だ。願わくは、ホラー畑の監督、例えば中田秀夫や清水崇あたりに撮ってほしかった。折角の良質の素材を……しかし、妻夫木聡をあの役に当てたのは評価する。どれほど原作に沿って描いているか知らないが、原作通りの人物ならばピッタリだ。

ついでに書けば、『来る』を尻目に『ヘレディタリー』を劇場で観た。映画館で映画を観るのは、『キングコング 髑髏島の巨神』(2017)を観て以来のこと。久々にホラーが劇場で観たいと思った。これも内容を書くことは控えるが、もう少し悪魔ペイモンについて勉強しておけばよかったと後悔。知っていれば、もっと理解できた。ホラーと一口にいっても、私が好むのはオカルト作品。これはちゃんとオカルト映画だったから、そこそこ楽しめた。ちょっと笑っちゃったけど、それも込みで。


昨年は、大作を読むことが多く、数が伸びなかった。
後半は現実逃避がひどく、ホラー系ばかりを読んでいた。身にならないものを読むのが私の趣味なので、それでよいのだが、それにしてもひどかった。
今年もそれは尾を引きそうで、まだしばらくはホラーが続く。後は、SF。ま、毎年そんなもんか。
ラベル:nbm Awards
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2019年01月03日

輝け!nbm Awards 2018<書籍編>っと、その前に

あらてめて昨年を振り返ると、ロクにブログを更新していなかったことがよくわかりました。
本について書いた記事は、なんとゼロ!自分で自分にびっくりです。いくつか書いていたつもりが、UPしていなかったようで。
仕事を始めて、時短とはいえ私にとっては時間も体力も大幅に削られてしまい、ブログを書く余裕がありませんでした。というのが言い訳です。

というわけで、年も明けてしまいましたが、まずは昨年の総決算をしておかないといくらなんでも気が済みません。
しばらくはそんな記事が続くと思います。いや、続けられるのか?
こんな更新もしない辺境のブログゆえ誰に向けてというわけでもないのですが、自分の記録として留めておきたいので、やります。

では、書籍編から。と始めたいところですが、書き溜めておいた書評が結構あったので、まずそれを。


『大人のための国語ゼミ』 野矢茂樹
自慢じゃないが、学生時代、国語の成績だけは常に良かった。5段階評価では常に5。偏差値でいうと国語だけはなぜか70ほど。とはいえ、未だに日本語を間違えて使っていることも多いし、母国語ながら難しいと感じることもしばしば。
最近、国語力や語彙力についての本をよく見かけるようになった。この種の本を自分自身もあらためて読んでみたいと思うのだが、就職を控えているのに初級日本語しか話せない大学生の甥が参考にできるような何かよい本はないかという思いもあり、何冊かこういった本を読み始めている。
山川出版社といえば、赤い表紙の日本史の教科書が大学受験の参考書のような扱いだったことを憶えている。その山川出版社から出ているこの本。表紙の<牡牛小像>がすでに教科書然としている。挿絵に漫画を添えて軽さを演出しているつもりかもしれないが、全体的に硬く、活字ばかりの印象で、これでは国語を苦手とする人にはハードルが高いのではないかと危惧するような作り。
ただ、それを乗り越えられる人ならば、論理的に会話したり文章を書いたりすることのヒントにはなると思う。
普段、何気なく話し、書いている母国語について、センテンスごとに分解し、それぞれの関係性を掘り下げて教えてくれる。著者の専門は哲学・論理学とのことなので、表現についてというよりは、文章の組み立てについて説明している。だから、国語力と言っても、豊かな表現力を得たいとか、円滑な人間関係を築くための会話力をつけたいというような目的で読むと当てが外れると思われる。もっと基礎的な国語の読解力や文章を書き話す上での論理的な思考を鍛錬する本。
相手が知らないことをどうすればうまく伝えられるのか。事実なのか、憶測なのか、意見なのか。文章の順序や接続詞の重要性。文章の核の捉え方。そういったことが語られている。
良い点を挙げるとすれば、例文に使われている文章の内容がトリビア的で面白い。例えば、日本の運動会の成り立ち、日本語の「はひふへほ」が古くは「ぱぴぷぺぽ」と発音されていたという推論など。
普段から自分が気を付けていることや無意識に実践していることが多かったけれど、あらためて文章の成り立ちをじっくり考えるというのもためになったとは思う。
大学時代、唯一単位を落としたのが論理学だったという苦い思い出が蘇ったりして……論理的思考は苦手ではないと思っていたのに、記号的な論理学となるとからきしだったな。あれは数学だ。


『マジ文章書けないんだけど -朝日新聞ベテラン校閲記者が教える一生モノの文章術-』 前田安正
女子大生が就活でエントリーシートを書くことを前提に、バイト先のカフェの常連客であるおじさんから文章を教えてもらうという設定。というわけで、前述の本よりはやわらかく、読みやすい。
文章を書くというテーマながら、エントリーシートを書くことを目標にしているため、軽く自己分析をすることから教えてくれる。
格助詞「が」と係助詞「は」の比較とか、能動態を使うと主体となるものを明記しなくて済むとか、「た」は過去を表すだけではないとか、普段は無意識に使っている言葉についてあらためて教えてもらう。
中でも印象的だったのは、SNSは「状況」しか書かれていないことが多いということ。なんとなくという感覚だけで稚拙な内容が多いと思っていたが、その理由を解説してもらってスッキリした。
「状況」だけを書いて、それに伴う「変化」とか「行動」が書かれていないことが多いという指摘だった。
その点がこの本の結論的な部分につながっていくのだけれど、それを踏まえて5W1Hを説明する意識を持ち、特に「Why」について書く意識が大事だと言っている。
読み手が「なぜ」「どうして」と聞きたくなるような部分を先んじて書いていこうということだ。
文法的なことや細かいテクニックは数々あれど、文章を書く時に意識することとして重要なのは、私もそこだと思う。


『神恐ろしや 宮司が語る神社をめぐる不思議な話』 三浦利規
不幸があった場所をふり返らない。
それは、秋田県伊豆山神社の宮司である著者が、お祓いに行ったときに密かに決め事にしていたこと。
実在の神社が実名で語られる話の中には因縁話や呪いの話もあり、実話怪談を語るときにタブーとされてきたことに触れているような気がしてならない。
神職に就くこの方は、仏教で言う「成仏する」という表現でなく、「神上がる(かむあがる)」という言葉を使っている。
中でも興味深かった話は、事故物件にお祓いに行ったら、帰り道の車の運転中にいつの間にか帰り道から逸れていて、向かっていたのは事故物件で亡くなった方の故郷の方角だったという話。バックシートに人の気配を感じ、車を途中で止めて自らお祓いをしたと。
もうひとつは、東日本大震災を予言していたという四口の神の竈の話。塩竈神社の境外末社のひとつである御竈神社にある直径4メートルほどの釜に湛えられている海水は、枯れることなく溢れることもなく、常に赤褐色。ところが、3月11日の午前8時頃、きれいに澄んだ透明な水に変わっていたという話。
宮司さんのぶっちゃけっぷりが面白かった1冊。


『月の部屋で会いましょう』 レイ・ヴクサヴィッチ
岸本佐知子さんが訳しているので、たぶん面白いと思って図書館で借りた。実際は、もうひとりの訳者市田泉さんと、どちらかが訳している短編集。作者は1946年生まれとのことで、古い作品なのかと思いきや、90年代から2000年代の作品ばかり。ジャンルでいうと、一応SF。ほとんどが10ページほどの短編が33編。
私はアメリカ人作家の作品に馴染めないことが多く、実は今回もあまり期待していなかった。ところが、いい意味でその期待が裏切られたのは意外だった。
奇妙な設定ばかりなのだが、不思議と奇をてらっている感がない。こんなおかしな世界を描くのに、何気ない会話とかどこかにリアリティを感じるからなのか。
特に気に入ったのは、ホラー風味の「ふり」、洒落が聞いてる「彗星なし」、身近な不条理SF「セーター」、ゾッとするサスペンス「家庭療法」、強迫神経症的な気分が味わえる「大きな一歩」、尾籠なファンタジー「排便」、コンパクトなスリラー「ささやき」など。
他に訳されているものはないようだけれど、新しく刊行されることがあったら、また読みたいと思う作家を新たに見つけた。


『まぼろしの奇想建築 天才が夢見た不可能な挑戦』 フィリップ・ウィルキンソン
古今東西の建築家や画家などがデザイン・設計したもので、様々な理由から実際に建設されなかった建築物を集めた1冊。
シャンゼリゼ通りに建てられるはずだった凱旋ゾウは、表紙絵にもなっているが、一番のインパクト。裏表紙になっているアイザック・ニュートン記念堂もいい。巨大な球体は内部に宇宙を表現している。巨大な宇宙がこれまた巨大な土台に鎮座している姿は、私の好きな野又穫の空想建築の絵画のようだ。アントニ・ガウディがニューヨークに建てられるはずだったホテルを設計していたとは知らなかった。ホテル・アトラクションは懸垂アーチの曲線が美しい。ビルといえば四角いものとされた当時のアメリカはニューヨークのマンハッタンにこれが建っていたらと想像するとワクワクが止まらない。フリードリヒ通りビルは、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエの設計で、3つの楔形を組み合わせて採光できるように考慮されているのだが、断面を見るとフラクタル図形を切り取ったようだ。透明性を表現したというロシアの第三インターナショナル記念塔もかっこいい。そして、イギリスの建築家集団アーキグラムの真骨頂、ウォーキング・シティ。これがあのマンセル要塞をモデルにしていたという話も面白い。古今に編み出された理想都市の姿も様々で、楽しい。時代を下っていくにつれ、丸いフォルムの有機的な建築が提案されていくのも興味深い。


『本を読む時に何が起きているのか ことばとビジュアルの間、目と頭の間』 ピーター・メンデルサンド
装幀家ピーター・メンデルサンドによる考察。視覚的な観点から読書という行為を分析してみようという試みがなかなか面白い。
まず、<視声範囲>について。
人の目がページの上で見ている場所と、(心の)声が読んでいる同じページ上の別の箇所との距離のこと。
私たちは本を読む時、一度に(一飲みに)
1.ひとつの文章を読み、
2.その先にあるいくつかの文章を読み、
3.すでに読んだ文章の内容を意識上に残しながら
4.その先に起こることを想像する。

本を読むときに、具体的にどんなことをしているのかなんて、考えたこともない人がほとんどではないだろうか。
私たちは、こういった行為を無意識に繰り返して本を読んでいるらしい。
作家が自らの経験や見聞きした経験を秩序化して物語を作る。そして、読者はそれを自分のフィルターを通して読む。読書とは、作家と読者との共同創作的なものというわけだ。

もうひとつ、面白かったことは、「記憶というものは想像上のものから作られていて、想像上のものは記憶から作られている」という趣旨が書かれていたことだ。
これは常々考えていたことだった。オカルト好きとしては、本当に実感している。

有名なものとはいえ海外作品が例に挙げられているので、日本人が同様の内容を書いたら、もっと身近に感じられたかもしれないと思わせる部分が、少し残念だった。



大してなかったけど、一応まとめて6冊分を。
これで心置きなくnbm Awards 2018<書籍編>を発表できます。
posted by nbm at 17:12| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月30日

輝け!nbm Awards 2017<書籍編>

今年も、nbm大賞を発表してまいります。
まずは、書籍編から。
これまでに記事にできていないものは、ここで書いています。


<ビジュアル賞>

『日本の不思議な建物101』 文 加藤純/写真 傍島利浩 →過去記事貯めこんで8冊
「ざわざわ」「うねうね」「パキパキ」などテーマごとに、日本国内の一風変わった建物を紹介してくれる1冊。
目にしたことがあるものもないものもあったけれど、新しいものが追加されているという点で新鮮だった。街を歩けば特徴のない家々やビル群ばかりで画一化された世界であるような気がするが、こんな珍妙な建物もあるのだと思うと希望が持てる。
『翻訳できない世界のことば』 エラ・フランシス・サンダース →過去記事夏から秋の5冊
あたたかみのあるイラストとともに、世界の翻訳しづらい言葉を紹介してくれる本。
言葉にいろんな国のお国柄がにじみ出ているようで楽しい1冊だった。


<反則賞>
『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』 若林正恭
オードリー・若林正恭が書いたキューバ旅行記。
なんだけれども、最後は卑怯な展開(褒め言葉)になる。これをどう捉えたらよいものやら。<反則賞>としたのは、読んだ方なら納得していただけることと思う。
比喩の表現が面白く、芥川賞受賞の某芸人なんかよりずっと文章のセンスがあると私は思う。
最初に書かれているキューバ旅行へのとっかかりは、まるで『ゼイリブ』。若林本人は、『ゼイリブ』を観たことがあるだろうか。失礼ながら、呼び捨てで呼ばせていただこう。商業看板がない町並みを観たいと思ったらしい。キューバを目指した理由はそれだけれはないのだけれど。
数日まとめて休みが取れるとわかった若林は、一人キューバへ旅立つ準備をはじめ、半端な日数のためツアー参加することもできず、本当に一人でキューバへ。
意外と行動力のある男である。宿やガイドも予め頼んであり、観光で行ってもなかなか観られないディープなキューバを体験している。
映画や本などでキューバについていろいろと予習もしていたようで、とても楽しんでいる様子にこちらも楽しんでしまう。
本当に、生き生きとした表現に、若林といっしょにキューバを旅しているような感覚で、予想外に面白かった1冊だった。
若林関連の本としては、『ご本出しときますね?』も楽しい本だった。文筆系トークバラエティとしてBSで放送されていた番組をまとめた鼎談本。毎回、若手売れっ子作家2人と若林の会話のやりとりが興味深いことに加え、各回で鼎談のテーマに沿った作家のお勧め本を紹介してくれるのも楽しい。


<一石を投じる?賞>
『架空論文投稿計画 −あらゆる意味ででっちあげられた数章−』 松崎有理
「よのなかねかおかおかねかなのよ」
真理である。作中に出てくる印象的な回文。本筋とはほぼ関係ないのだが、BGMのように感じられる一文。
主人公は、蛸足大学文学部心理学科を卒業し、直後から母校で助教となった人物。研究者心理の研究をしている。ちなみに、彼はロシア系クウォーターなので金髪碧眼という容姿ながら、生まれも育ちも日本。
彼が、論文制度のあり方に疑問を感じ、友人の作家と組んでデタラメな論文を投稿して査読を通過するかという実験を行う。
例えば、「島弧西部都市において特異的にみられる奇習 ”繰り返し「ぶぶ漬けいかがどす」ゲーム”は戦略的行動か?―解析およびその意義の検証」とか、「おやじギャグの社会行動学的意義・その数理解析」とか。
デタラメ論文は、簡単に査読を通過してしまうのだが、黒服の論文警察から目をつけられてしまう。
実際には論文警察などという機関はないし、これはいってみればSF作品である。しかし、論文制度の破綻の問題は現実のものであり、架空論文投稿も現実に行われたことがあるらしい。1994年、ニューヨーク大学の物理学教授だったソーカルが起こしたソーカル事件がそれだ。
つまり、現実の問題を元に、面白おかしく書かれたSF小説ということになる。
主人公に協力する作家・松崎は著者本人がモデルであろうし、その他に同じ大学の研究環境学の准教授であるブラッククイーン黒野など個性的な登場人物も魅力的。
そして何より代書屋トキトーも出てくるし、ミクラらしき人物も顔を覗かせる。。この作品は、『代書屋ミクラ』シリーズの前日譚なのである。私はこのシリーズが好きなので、読み始めてから関連を知ったのだけれど、嬉しい展開だった。
ちなみに、架空論文はとあるWeb雑誌の企画として考えられたもので、本作はそれを流用して書かれたが、上に挙げたぶぶ漬け論文がサンプルとして著者のサイトに掲載されている。→松崎有理公式サイト『架空論文』特設ページ


<文芸賞>
『江戸前の男−春風亭柳朝一代記−』 吉川潮 →過去記事貯めこんで8冊
春風亭柳朝(5代目)の人生が活き活きと描かれている良作。
落語そのものや落語界の勉強になることはもちろんなのだが、小説として非常によくできた1冊。


<ホラー賞>
『わざと忌み家を建てて棲む』 三津田信三 →過去記事夏から秋の5冊
いわゆる事故物件のようないわくつきの家を集めて建てられた家。そこに住まわされた人たちの手記が、順番に語られる。それらを読むことになった作家と編集者の推測と恐怖体験を描いたホラー小説。
ミステリー風味な部分があまり趣味ではないものの、途中までは恐怖に慄きながら読んだ。
読者への「気配を感じたら、本を閉じ、一旦その場を離れてください」的な注意がじわじわくる。
実話怪談系は今年もたくさん読んだし、ゾンビ本も2冊読んだけれど、他はどれも今ひとつだった。


<いろんな人に読んでほしいで賞>
『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』 田中圭一 →過去記事夏から秋の5冊
著者本人の体験も含め、うつ病の”うつトンネル”を抜けた人たちの体験が描かれている漫画。絵柄は、田中圭一らしく手塚治虫風。
うつに悩む人、周囲にうつに悩む人がいる人、もしかして自分もうつかと考え初めている人、いろんな人に読んでもらいたい良作。


<エンターテインメント賞>
『予言ラジオ』 パトリック・リー
元特殊部隊隊員・サムが、軍隊時代の同僚であったクレアから呼び出しを受ける。クレアが持っていた箱には驚くべき機能が備わっていた。約10時間半後の未来の出来事を放送する番組を受信できるラジオ。このラジオを巡って、とある組織がクレアを付け狙い、サムも巻き込まれていく……
少女たちがある男によって拉致監禁されている場所に急行し、少女らを助けることから物語は始まる。予言ラジオの技術を守ろうとする者、人助けをしようとする者、悪用しようとする者、私物化しようとする者、人の反応は様々だが、それが人間というもの。
SF風味のエンターテインメントとして、とても楽しめた。
実は、サム・ドライデンを主人公とする作品は他にもあるらしく、ぜひ読んでみようと思った。


<SF賞>
『誤解するカド −ファーストコンタクトSF傑作選−』 野崎まど・大森望
野崎まどが脚本を書いたアニメ「正解するカド」はなかなかに秀逸なファーストコンタクトSF作品だったが、それをきっかけに内外のファーストコンタクトSF短編を編んだ傑作選。
筒井康隆の名作「関節話法」に始まり、フィリップ・K・ディック「ウーブ身重く横たわる」など、様々なかたちのファーストコンタクトが描かれているお得な1冊。
ジョン・クロウリーの「消えた」の不条理さ加減とか、シオドア・スタージョンの「タンディの物語」の不気味さが特に良かった。
古典的な作家と新鋭の作家とが競い合うかのように並べられているのも面白い。


<nbm大賞>
『あるかしら書店』 ヨシタケシンスケ
ヨシタケさんの絵本はいくつか読んだのだけれど、どれも発想がすばらしい。ほのぼのとしながらも、すっとぼけた絵もすばらしい。
あの調子で楽しませてくれるんだろうなと期待して読んだのだが、期待を裏切らないばかりか遥かに超越して楽しませてくれた。
町はずれにある「あるかしら書店」。この店は「本にまつわる本」の専門店。お客さんが「○○についての本ってあるかしら」と尋ねると、店のおじさんはたいてい「ありますよ!」と本を出してくれる。そんな書店にいろんな本を求めてお客さんがやってくる。
特に、「想像力のリレー」や、「本のつくり方」(特にたたむ工程が最高)などは秀逸。そして、最後の章「図書館とか書店について」のくだりはじぃんと心に響く。図書館で読んでくれる人をじっと静かに待っている本たちがとってもラブリーな「ラブリーラブリーライブラリー」。今後、書店や図書館で棚に並ぶ本を見る度に思い出すだろう。
本そのものと本を愛する人への愛でいっぱい。途中、何度も笑い、終盤には泣き、最後にはまた笑わせてくれた。
”大ヒット”してよかったね、ヨシタケさん。

今年は、例年になく読んだ本が少なかったことに加え、半数くらいがさほど面白くなかったという年で残念。本に関しては、ブログ記事が書けなかったというよりも、記事にするほど面白い本が少なかったと言えるかも。
それでも、楽しんだ本を上記に挙げた次第です。
ハーラン・エリスン『死の鳥』がまだ途中。
後に控えているのは、やっと入手したバリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』が楽しみ。『涼宮ハルヒ』シリーズを読んでから、いつか読もうと思っていて、やっと入手できました。来年も、地道にSFを読んでいこうと思います。
図書館から借りた本では『大人のための国語ゼミ』野矢茂樹 著)が手元にあります。もう1冊、国語や表現に関する本を読む予定。
実話怪談雑誌「幽 28号」も入手して、ぼちぼち読んでます。
来年は、もう少し高確率でよい本に出会えるといいなぁ。
ラベル:nbm Awards
posted by nbm at 13:25| Comment(4) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月05日

夏から秋の5冊

またまた、溜め込んでいた本の感想を放出。


『翻訳できない世界のことば』
 エラ・フランシス・サンダース
あたたかみのあるイラストとともに、世界の翻訳しづらい言葉を紹介してくれる本。
印象に残った言葉をいくつか挙げておく。

pisang zapra ピサンザプラ(マレー語)
バナナを食べるときの所要時間。約2分。

TREPVERTER トレップヴェルテル(イディッシュ語)
直訳すると「言葉の階段」。あとになって思い浮かんだ、当意即妙な言葉の返し方。

TIAM ティアム(ペルシア語)
はじめてその人に出会ったときの、自分の目の輝き。

poronkusema ポロンクセマ(フィンランド語)
トナカイが休憩なしで、疲れず移動できる距離。約7.5km。

Warmduscher ヴァルムドゥーシャー(ドイツ語)
冷たい、または熱いシャワーをさけて、ぬるいシャワーを浴びる人。
「少々弱虫で、自分の領域から決して出ようとしない人」を言う。

IKTSUARPOK イクロゥアルポク(イヌイット語)
だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。

木漏れ日
木々の葉のすきまから射す日の光。

ボケっと
なにも特別なことを考えず、ぼんやりと遠くを見ているときの気持ち。

言葉にいろんな国のお国柄がにじみ出ているようで楽しい1冊だった。


『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』
 田中圭一
身近にうつ病と闘う友人がいるので、なにがしかヒントになることがあればと読んでみた。
田中圭一といえば、私にとっては「ドクター秩父山」のイメージ。くだらなくて大好き。
近年は、手塚治虫をはじめ、大御所のパロディ作品を描いているという評判は聞いていたが、うつ病で苦しんでいた時期があったことや、兼業マンガ家であったことは知らなかった。
ご本人の体験も含め、うつ病の”うつトンネル”を抜けた人たちの体験が描かれている。

濁った寒天で脳みそが覆われているような感覚、うつトンネルをヌケても繰り返される「突然リターン」……うつ病の友人の話を聴いていてもお馴染みの感覚。
朝起き抜けに自分を好きになる暗示をかけるとか、「突然リターン」の引き金を見極めてコントロールするとか、具体的な対処法もいくつか出てくる。
人により、程度や反応も様々だとは思うのだが、おおまかなヒントになることが提示されるので、少しでも苦しんでいる人たちの助けになればいいなと願うばかり。
ちなみに、田中さんの「突然リターン」のきっかけは、「はげしい気温差」だったそうで。他にも、低気圧なんかが多いらしく、他に体温・ホルモンバランス・血行・胃の調子など体調が引き金になる人も。
もちろん、人間関係など外部の要因が引き金になるケースも多い。

向いていないことをやり続けるなど無理して頑張り過ぎて発病するケースが多かったが、中には原因が思いつかない人もいて、本当に誰にでも可能性がある病気なんだと思う。
私も、両親が同時に倒れ、父が亡くなった時期に、いろんなことを抱え込み過ぎてうつ病になりかけた。いや、もしかしたら、もうなっていたのかも。小説が読めなくなり、大好きな絵画を観ても感動できないことに気づいたときに、心が疲弊仕切っていたことを自覚した。動悸など体にも異常が現れていたので、いろんなサインが出ていたのだよね。
医者には診てもらわなかったが、それからは心身を休めることに徹して、事なきを得たという体験がある。

立ち直るきっかけをくれる人間関係も描かれているが、それも人それぞれで、ケースバイケース。
だからこそ、それぞれの解決策に行き着くまでには、時間がかかるし、医者にも簡単には治せないのが理解できる。正解を探し出すのに、手間がかかるわけだ。でも、治らないわけじゃない。

具体的なことを抜書きするのは憚られる。前後の話も重要で、誤解のないように短く表現するのが難しい。
興味を持った方は、ぜひ直接本書をお読みになることをオススメします。
マンガなので、肩肘張らずに気軽に読めますよ。


『魂でもいいから、そばにいて 3.11後の霊体験を聞く』 奥野修司
タイトルからすると誤解されそうだけれど、著者はスピリチュアルなことには懐疑的な立場の方で、知人の医師から強く勧められて取材を始めたという。取材は一人の人に何度も会って同じ話を聴くというスタイルで、信頼関係を築きながらの取材だったそうである。聴いていくうちに内容が多少は変化するのだそうだが、大筋は変わらず、ただご本人の気持ちの変化が読み取れるのだとか。
「幽霊話」というよりも、「亡くなった方とのコンタクト」といった趣の話ばかり。大切な家族や友人が亡くなって、遺された人たちはどういう形でもいいからもう一度会いたいと願う気持ちは理解できる。願望が現れたような体験の数々。家族しか知らない不思議な符合や、思い入れのある物が反応するといったことが多く語られていた。夢見の話も多い。亡くなった人と遺された人との深い絆があってこその体験といった感じ。
著者はこう言っている。
津波という不可抗力によって突然断ち切られた物語を、彼岸と此岸がつながるという不思議な体験によってふたたび紡ぎ直す。とりあえずつながった物語は、時の経過と共に自分が納得できる物語に創り直されていく。創り直すことで、遺された者は、大切なあの人と今を生き直しているのである。

お子さんを亡くしたご両親のお話をうかがうと、不思議なお子さんだったというエピソードがちらほら。大人顔負けの鉄道マニアだったり、中にはお神楽が大好きだったというお子さんも。軽々しくは語れないのだが、幼くして命を終えることがどこかでわかっていたのではないかと思わせるような。
天皇陛下が慰問に訪れたときに声をかけてくださるまで、誰からも声をかけられなかったという方がいらした。周りも気を使い、ご本人も疲弊しきっておられたのだろうと思う。切ない話だが、陛下の深い思いやりを感じたその方が立ち直るきっかけとなったことは喜ばしいことだ。


『もう生まれたくない』 長嶋有
通勤中にこの本を読んでいたら、ある言葉が気になった。本の中の言葉ではなくて、「常に死を意識しろ」みたいな言葉、なんだっけ?となって。なのに、頭の中には「コギト・エルゴ・スム」が浮かんでしまい、違うって、コレじゃなくて。マ行だよ。大体どんな言語でも「死」を意味する言葉はマ行で始まったはず……でも、どうしても思い出せなくて、頭の中では「コギト・エルゴ・スム」が繰り返されるばかり。だから、違うっての。
そうだ!とひらめき、手近な書店に入ってみる。スマホを持っていない私は、書店で辞書をめくってみようと考えたわけだ。しかし、引く言葉がわからないのに辞書を引こうとは。でも、マ行じゃないのか?とカタカナ語辞典のマ行に当ってみるが、それらしい言葉が見つからず。
と、ここでようやくひらめいた。「メメント・モリ」!せっかく辞典を手にしていたので、あらためて「メ」で引いてみるも載ってない……載せないのか、カタカナ語辞典よ。大体、「死(モリ)を想え(メメント)」なんだから、「死」は「メ」じゃなくて「モ」じゃん。まぁ、たまたまどっちもマ行だけどさ。

って、どうでもいい話なのですが。
事前に何の情報も得ずに読み始めた。初めにパラパラとページをめくっていると、最後の最後に「本作に登場する主な死者と死因」という表記がめにつく。芸能人の死だけでなく、事件・事故の被害者も。なんじゃこりゃ?
とある大学の学生や職員たちの何気ないやりとり。語り手が次々と交代していくその中に、様々な人の「死」が組み込まれ、そういった人の「死」が人と人とをつなげていく不思議な感覚。タイトルと内容がズレているような……
描かれる「死」は、登場人物の周辺の人だったり、有名人だったりするのだが、有名人の場合は時系列がリアルと合致していて、そんなことあったなと思いだしつつ読むことで、自分も物語の世界に組み込まれているような錯覚に陥る。
そう、最後に書かれている「本作に登場する主な死者と死因」には、現実の有名人と物語の登場人物とが同格で列挙されている。死は誰にでも平等に訪れることを念押しされているみたいだ。
「クレヨンしんちゃん」の作者の名前がなかなか出てこなくて、うっすらと思い出したら「白井」だか「臼井」だかわからなくなり、下の名前はなんだっけ?となった。失礼しました。臼井儀人さん。
ちなみに、千葉県には「白井」と「臼井」と両方の駅があるが、路線がまったく違い、よく間違われるそうだ。
内海賢二さんのことは、実際ニュースを聞いてショックだったのを覚えている。私なら、ハガレンのアームストロングを思い浮かべるな。
小保方さんの騒動で、笹井教授が自殺されていたのは、すっかり失念していた。

読み終えてみると、そんなに重い話じゃない。
でも、日常の至るところに毎日のように「死」が存在していることを再認識し、それぞれの「死」との距離感が感じられて、面白い作品だった。


『わざと忌み家を建てて棲む』
 三津田信三
いわゆる事故物件のようないわくつきの家を集めて建てられた家。そこに住まわされた人たちの手記が、順番に語られる。それらを読むことになった作家と編集者の推測と恐怖体験を描いたホラー小説。

三津田信三の本は初めてではないのだけれど、ミステリー風味なのがあまり趣味ではない感じ。
ただ、これは相当に怖い。随所に、読者まで何かが及ぶかもと脅かしがあったりして、「気配を感じたら、本を閉じ、一旦その場を離れてください」みたいに注意されたりする。
なるべく、通勤中など人が多い中で読んだが、途中、本当に怖くて、何度か本を閉じた。
ただの偶然とか、かってな思い込みだとは思うのだが、一度、本を閉じて目を閉じたときに、大写しの赤い目の女性の顔が見え、かなりビビった。
本の中身と関係なさそうなビジュアルだったので、なんでこんなものを見たのかと不思議に思いつつ、そこからまた読み進めると、正に「赤い目」の亡霊が出てきて、本当にビビる。

後半は、さほど怖くはなかったのだが、この本と似た前作『どこの家にも怖いものはいる』を読んだつもりで読んでいなかったようだ。いや、記憶から抹消されているだけなのか。
というわけで、読んでみようと思う。


この他、実話系ホラーを3冊と、落語関係の本を2冊ほど読んでいた。
現在、万城目学の新刊『パーマネント神喜劇』を読んでいて、次は若林正恭(オードリー)のBSでの番組が書籍化された『ご本、出しときますね?』が控えている。
posted by nbm at 17:56| Comment(6) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月08日

トルーデ

「トルーデ」
イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの幻想小説『見えない都市(1972)』の中に出てくる都市の名。
この作品の中では、フビライ・ハンに仕えるマルコ・ポーロが様々な空想都市について語るという。その数、55。
「トルーデ」は、その中の1都市であるらしい。
トルーデの空港に着いたマルコ・ポーロは、出発した都市の空港と何も変わらない景色を目にすることになる。
もう一つの、何から何まで同じもう一つのトルーデに着くのです。世界はただ一つのトルーデで覆いつくされているのであって、これは始まりもなければ終わりもない、ただ飛行場で名前を変えるだけの都市(まち)なのです。


とある本のまえがきにあったこの話。身近に感じていることだったが、それを70年代にイタリアで育った人が書いていることに驚く。
日本の幹線道路沿いの景色は、今やきっとほぼどこも変わらないだろう。いわゆる「ロードサイド店舗」が並ぶだけ。コンビニエンスストア、ファミレス、家電量販店、ホームセンター、チェーンの各種小売店などが繰り返されるだけで、その並びがちょっとずつ変わっているくらいの違いしかないように思える。そして、たまに巨大なショッピング・モールやシネコンが現れたりするが、それさえもどこにでもある。
駅前の商店街を見ても、飲食店やドラッグストアやスーパーばかりだが、どれもチェーン店だ。個人経営の商店や飲食店は淘汰されつつある。
そりゃあ、日常とはかけ離れた景色を観ようと思えば、いくらでもあるが、日常はすでにトルーデに侵食されている。
生活は便利になった。駅前に出れば、そして通りに出れば、何でも揃う。しかし、景色を見ると、単純につまらない。画一化された世界には、閉塞感を覚える。何の発展性も感じられない。世界はこのままゆっくりと終息に向かっていくのだろうなと諦めにも似た気持ちになるのはなぜだろう。

だからといって、便利な生活は捨てられないし、お金も時間も体力もない自分は、本や映像で奇特な景色を求めるというわけだ。
さて、前述のまえがきが載っていたのは、『世界の果てのありえない場所 本当に行ける幻想マップ』という本。作家トラビス・エルボラフと地図作家アラン・ホースフィールドが、日常から激しく逸脱した場所を紹介してくれる。

いくつか印象的だった場所を挙げておこう。

「オーロビル」 ポンディシェリ(インド)
1960年代に創られたユートピア。元フランス領だった土地に、とある思想家とそのパートナーが創りあげた理想世界。
円形の土地の中央には象徴的な建造物、「聖なる母の寺院」マトリマンディが威容を誇る。巨大な黄金の球体。地図で見ると、円形のオーロビルの花の中心に実が結実したように見える。

「プレシディオ・モデーロ」 フベントゥド島(キューバ)
悪名高きキューバの刑務所。円形のパノプティコンと呼ばれる一望監視施設が何棟も建っている。円形の建物内部の中央には監視塔があり、収容者は監視塔の看守から一望できるという寸法だ。
パノプティコンは、功利主義者だった哲学者ジェレミー・ベンサムが考案したシステムで、収容者の福祉も最大限に考慮され、監視が行きわたることで更生・社会復帰につながると考えられていたらしい。
ところが、キューバでパノプティコンが実現されたこの施設では、虐待や拷問が横行していたそうな。

「オラドゥール=シュル=グラヌ」 リムーザン(フランス)
第二次世界大戦で廃墟となり、それがそのまま保存されている村。
ナチス親衛隊第2装甲師団ダス・ライヒに襲撃され、646人が虐殺されたという。
マキというレジスタンス組織がこの地を拠点としていたとされ、ドイツ軍将校がマキに捕らえられたという情報から報復行動に出たということらしい。
70年以上も歴史的悲劇の舞台が保存されているということで、日本にもそうした場所があるが、非常に感慨深い。
ここは以前にも少し記事にしている。→過去記事アーバン・エクスプロレーション

「カルスのアニ遺跡」 カルス(トルコ)
この本の表紙になっているのが、アニ遺跡の聖救世主聖堂。中世にアルメニア人によって作られたアニの街には、千と一の教会があったという。
地震だか落雷だかで半分が失われており、建立から千年ほど経て、それでも毅然と建ち続けている。
周囲にもいくつも遺跡が残っているようで、どれも建築デザインが素晴らしい。

と書いてきたが、実はこの本、あくまでも「地図」であり「写真集」ではないのが残念。
掲載されている写真は各所1枚だけで、しかも白黒のみ。文章中に記述があって観たいと思ったものが映っていなかったりする。
あとはこの地図をもとに自分で行って直接見てきてねと言わんばかり。
そうとなったら、インターネットで調べるのみ。画像検索やグーグル・ストリートビューなどで結構楽しめる。
いくつも知った場所が出てきたが、知らないところもあったので収穫はあった。
イタロ・カルヴィーノの『見えない都市』も、そのうち読んでみることにしよう。

考えてみれば、各種アニメにせよ、日常読むホラーやSF小説にせよ、日常から離れたところに面白みや安らぎを見出している私なので、こういったネタは大好物なのである。
今回も、いい年こいて厨二病的な内容でお送りしたのだが、この本、同好の士には楽しんでいただけるのではないかと思う。
posted by nbm at 15:33| Comment(4) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

貯めこんで8冊

本の感想が溜まってしまったので、放出をば。

『夜行』 森見登美彦
京都の語学学校で知り合った6人の男女。そのうちの一人である長谷川さんは、十年前に失踪しているのだが、十年ぶりに集まった5人が、それぞれに会わなかった時間を語り始める。その話はみな、失踪した長谷川さんと、連作の銅版画「夜行」に関連していた……

森見登美彦作品は、7割くらいは読んでいると思う。
いつものおちゃらけた京都ワールドからちょっと離れて、あまり森見登美彦らしくないようにも思える。最後は京都に戻ってくるのだけれど。
別のレイヤーにある世界と行ったり来たり。そう、世界は曖昧なものなのだよね。
自分の認識している世界の曖昧さに気付かされるという点では、壮大なホラー。


『血流がすべて解決する』 堀江昭佳
細胞に必要な酸素や栄養分を運び、老廃物も運ぶ。ウイルスなど異物が入ってくれば防衛する。体温を保つ。などと様々な役割がある血液。
こういう健康本はあまり興味がないのだけれど、自分が病的に血流が悪いため、何かのヒントになればと手に取った。
著者は、出雲の老舗漢方薬局で漢方薬を処方している薬剤師の方。5万件におよぶカウンセリングで患者さんの悩みを聴いているうちに、気づいたことを書かれている。

まず、血液が足りないことを問題視して、血を増やすことを主眼としている。それには、段階を踏んで対処していくべきだと。
血を作る→血を増やす→血を流す。この順番が大事らしい。
血を作るためには胃腸を丈夫にしてしっかり食べ、血を増やすために質の良い睡眠を取り、温めたり運動をしたりして血液を流す。書き出してみれば当たり前のことなのだが。
鉄分を摂るには、ほうれん草よりも鶏肉の方が効率がよいというのは衝撃的。現代のほうれん草は鉄分をはじめ栄養価が激減しているのだとか。それに、鶏肉に含まれるヘム鉄の方が、野菜の非ヘム鉄よりも5倍も吸収されやすいという話。
「おなかが空いた」と思ったら、「胃腸を掃除中だから食べないで」というサインだというのも、これまでの考え方を覆される。
睡眠の話だと、漢方では、午前0時を挟んだ前後2時間(子の刻)は、体の陰と陽が入れ替わる時間とされ、実際に交感神経と副交感神経が交代する時間。その後の1時から3時が血液を作る時間なので、23時には寝るべきだと。この血液を作る時間というのがあまり説明されていないのでよくわからないが、睡眠と体の内部の働きのタイミングは考えるべきなのかもしれない。


『レモン畑の吸血鬼』 カレン・ラッセル 松田青子 訳
どこかの書評で見かけて、タイトルが気になって読んでみた1冊。
訳者も好みでないので、読み進むのが辛かった。途中で投げ出そうかと思ったほど。
そういえば、この著者の『狼少女たちの聖ルーシー寮』を読もうと思っていたんだよなと後から気づく。
とにかく突飛で、生理的に受け付けないグロテスクさがある。しかし、読み慣れてくると、これも有りかなと思う自分に驚く。
レモンで乾きを癒す老いた吸血鬼、自身が蚕となり糸を繰り出す女工たち、馬に転生する歴代米大統領、中東での戦闘の惨劇が背中の刺青に再生される兵士……
アメリカの庶民のリアルな日常や、短いとはいえアメリカ史と呼ぶべき事柄も、知っているようで知らないものだなと思う。
例えば、開拓民に土地を与えたホームステッド法には、家に「窓」がなければならないという話になっているが、これが事実なのかどうか。
そんな感じで、リアルと非リアルが混濁して、区別がつきにくい辺りが、余計に気色悪い感覚を生み出すのかもしれない。


『日本の不思議な建物101』 文 加藤純/写真 傍島利浩
「ざわざわ」「うねうね」「パキパキ」などテーマごとに、日本国内の一風変わった建物を紹介してくれる1冊。
実際に足を運んで目の当たりに観たことがある建物、前を通ったことはあるけれどまじまじとは観たことがないビル、存在は知っていていつか観に行きたいと思っている構築物も載っていたけれど、ほとんどが未知の建物でワクワク。
たまたま、先日、環八を車で走っていたときに「M2」ビルを発見!この写真集で知ったばかりの建物だ。
巨大なイオニア式の柱が頂きにそびえる威容。いや異様?
しかし、奇天烈である。
今は葬儀場となっているが、元々はマツダの企画開発拠点として建てられたのだそうで。
こういった趣向を凝らした建物の数々は、写真を観ているだけでも楽しい。
ほとんどが都内の建物なので、すぐに観に行けるけれど、古いものは壊されないうちに観ておきたいものである。
とはいえ、大半は2000年代に建てられた新しめの建物。
いつのまにか面白いものが増えていたのだなと思う。


『江戸前の男−春風亭柳朝一代記−』 吉川潮
昨年あたりから、アニメ『昭和元禄落語心中』とかNHK『超入門!落語THE MOVIE』の影響で、今更ながら落語に興味が出てきた。すると、落語ファンであるメル友が、1冊の本を貸してくれた。
それが、この『江戸前の男−春風亭柳朝一代記−』である。
正直な話、春風亭柳朝(5代目)はあまり記憶に残っていないのだが、柳朝の一生を通して、昭和の落語界の様々なことが描かれており、いろんな意味で勉強になった。
『笑点』くらいしか観ていなかった私は寄席に行った経験もなく、落語や落語家の世界についてはほとんど知らない。師匠と弟子との関係は確立されているものの、よその師匠や門下と意外と協力体制にあったり、名跡が一門を越えて入り組んだりしていて、落語界全体での結びつきが強いものなのだなと思う。
柳朝は、江戸っ子を絵に描いたような人。ダンナさんの親類が江戸っ子気質なので、江戸っ子気質について語られている部分は大いに頷ける。「粋」とか「酔狂」とか、そういう感覚がよく伝わってくる。遊び歩くばかりで生活費をくれない旦那に、おかみさんは相当苦労されたと思うのだけれど、それでも働き詰めで柳朝を支える姿には感動すら覚える。
この小説、柳朝が死ぬ場面から始まり、死ぬ場面で終わる。素晴らしい構成で、全編通すとまるで人情噺のようだ。特に、子を持たなかった柳朝夫妻が、友人らの子供にかける愛情が素晴らしい。
親でもなければ子でもない師弟関係というものの微妙さもよく描かれているし、弟子同士の関係も面白いものだ。
落語の素人には、名跡で呼ばれると誰のことやらよくわからなかったり、二ツ目・真打と出世するに連れて名前が変わっていくのでわかりにくい部分もあるが、勉強になったことも多いし、ひとつの小説としても読み応えのある面白い作品だった。


『浮遊霊ブラジル』 津村記久子
内容や作者のことはまったく知らないままに、ただただタイトルの面白さで読んだ1冊。7編の短編から成っている。
肩の力が抜けているというか、すごく軽いタッチで描かれている作品ばかりで非常に読みやすい。
物語消費しすぎ地獄に堕ちた主人公と、おしゃべり下衆野郎の地獄へ堕ちた友人が出てくる「地獄」も面白かったのだが、やはり表題作「浮遊霊ブラジル」が最高だった。
アイルランドのアラン諸島に行く寸前で死んでしまった爺さんが、楽しみにしていた人生初の海外旅行に行けなかったことで成仏できない。物体をすり抜ける霊体では乗り物に乗ることもできず絶望していたが、人にとり憑くことを覚え、その技術を駆使してアラン諸島を目指すというお話。
なんだ?このロードムービーは。なかなかうまくいかないようでいて、意外な助けが入ったり、やはりうまくいかなかったり。
「地獄」にしろ「浮遊霊ブラジル」にしろ、扱っているテーマはホラーなはずなのだが、内容的にはポップでファンキー。ときに吹き出しそうになりながら読んだ。
全体的にサッカーネタが多かったり、南米に偏ったりしている部分が、著者の嗜好を反映しているのだろうなと推測させる。
私はドロドロしたものが好きじゃないので、こういった上っ面のような軽い作風は嫌いじゃない。でも、上っ面を書いているようでいて、実は水面下にあるものに気付かされるというか。「深いなぁ」とも思わないけど、それが逆に親近感だったり共感だったりするのかなとも思う。
というわけで、この方の作品はまた読んでみたい。


他に読んだ本。
SF短篇集『ヴィジョンズ』
宮部みゆき「星に願いを」・飛浩隆「海の指」・木城ゆきと「霧界」・宮内悠介「アニマとエーファ」
円城塔「リアルタイムラジオ」・神林長平「あなたがわからない」・長谷敏司「震える犬」
錚々たるメンバーの割には、どれも今ひとつ……

『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』 ピーター・トライアス
第二次大戦で日独が勝利しアメリカ西海が日本の統治下にある世界を描いたSFということで、豊田有恒の『モンゴルの残光』みたいな歴史改変SFを期待したのだけれど、浅いところを漂っただけで不発。
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2017年01月17日

輝け!nbm Awards 2016<書籍編>

昨年は、主に読書をするのが通勤中という状況になり、こうなると、普段はあまり小説を読まない私も小説をよく読むようになる。なぜそうなるのかは、よくわからない。
昨年は50冊くらいしか読んでいないと思うのだけれど、そのうち約3割が小説で、そのほとんどがSFだった。
記事にしていない本も多いので、まとめながらnbm Awards 2016<書籍編>を発表していきたいと思う。
いつものことながら、新刊はほとんどない。
以下、敬称略。

<絵本賞>
『ぼくのニセモノをつくるには』 ヨシタケシンスケ
ヨシタケさんの本は発想が面白くて、どれにも惹かれる。図書館だと人気で借りられっぱなしで置いていないことが多いのだが、たまたま見つけて借りられたのがこの1冊。
やりたくないことだらけの「ぼく」が、身代わりのロボットをつくろうと思いつく。それには、自分に極力似せるために、まず自分のことをよく知らなければならない。「ぼく」は、自分の特徴について様々に考える。
笑えるけれど、哲学的だ。自分というものについて考えさせられる。
『夏のルール』 ショーン・タン 著/岸本佐知子
ショーン・タンは、大体読んでいる。
少年たちの夏。兄弟が交わすシュールなルール。夏という季節だけが持っている特別な雰囲気が描かれている。
夢の中を描いたような奇妙な景色。流石。
『焚書 World of Wonder』 鴻池朋子
鴻池朋子さんを知ったのは、2009年の夏。上野で観た展覧会『ネオテニー・ジャパン』でのことだった。「惑星はしばらく雪に覆われる」は、雪の中を歩く6本足の狼の造形。その世界観に惹きつけられた。
その鴻池さんの絵本。というよりも画集といった趣だけれど。美しく精緻なドローイングが迫ってくる。モノクロだからこその説得力。

<学術?賞>
『「24のキーワードでまるわかり!最速で身につく世界史』 角田陽一郎 (→過去記事暇つぶしの成果
テレビのバラエティ番組を制作してきた著者が、わかりやすく世界史の概要を教えてくれる。
歴史が苦手な私でも、世界史の全体像が見渡せるような感覚が楽しい。文明や宗教や国家や民族といったものが根っこにあって、お互いが関連しながら世界が動いていく様子が見えてくる。その一方で、稀有な日本という国の存在も再認識できる。
『ヘンな論文』 サンキュータツオ (→過去記事ニッチが大好き
ニッチなことを真剣に日夜研究している人たちが書いた論文の数々。
テレビなどでイグノーベル賞が話題にされることもあるけれど、本当にいろんなことを真面目に研究している方々がいらっしゃるもので。
我々の生活に役立つことなのかと尋ねられれば、よくわからないようなことも多いのだけれど、興味の赴く先に突き進める研究者というのはある意味幸せな人たちだなとも思う。
『偶然短歌』 せきしろいなにわ (→過去記事57577となかなか進まない時間
Wikipediaの説明文の中から抽出プログラムで抜き出された五七五七七。その偶然性。
意外な言葉の羅列を楽しむ一方、未知の扉を開くことにもつながるという一粒で二度美味しい仕様。

<地霊賞>
『墨東地霊散歩』 加門七海 (→過去記事10万+10万+10万=30万
時代ごとに積み重なったレイヤー構造になった土地の歴史を紐解く地霊もの。
なかなか縁のない墨東地域の史実をじっくり読ませてくれた。その後、それを踏まえて実際に足を運んだし(→過去記事両国タイムトリップ)、それでこの地の背負ってきた歴史が自分の中により刻まれることになった。
『東京都三多摩原人』 久住昌之
生まれてからずっと三多摩で暮らしてきた久住昌之が、あらためて三多摩を歩いてみてリポートするという企画。ちなみに、イラストを描いているのは著者の弟の久住卓也。兄弟の仲がよく、この本の中のノスタルジックな思い出話にもちょくちょく登場。
三多摩というのは、ざっくり言えば、23区と島を除いた東京都。23区の一部も三多摩に入っていたし、かつての三多摩は神奈川県に含まれていた。
埼玉県南西部で生活してきた自分にとっては、たとえば県内東部や北部よりもずっと身近な地域。友人や知り合いも多く住んでいる。馴染みはあっても、三多摩は広い。行ったことのない地域や名所は多いし、あらためて歩いてみたいと思わせる。
「江戸」や「東京」というようなイメージからはズレる三多摩。どこかのんびりとしていて、気負いがないので、私は好きなのだけれど。
久住さんが歩いて感じた感覚がニュートラルに伝わってくる。

<ビジュアル賞>
『くらべる東西』 おかべたかし・文/山出高士・写真 (→過去記事暇つぶしの成果
日本の東西の文化の違いを、写真とわかりやすい解説でひと目でわかるように教えてくれる。
生まれてからこの方、埼玉県を出て生活したことがない自分にとっては、こういった比較文化論は興味深いテーマのひとつで、大好き。
『漢字のなりたち[日英対訳]』 白川静 著/アラン・スウェイツ
漢字の成り立ちに関する議論は諸説あるようなのだが、白川静の漢字の成り立ちに対する説明はとてもおもしろいので好きだ。
それを古代文字の表記から簡潔に説明してくれる上に、英語の対訳がついている。解説してくれるのは、14系列100文字ほど。
薄い本なので、絵本感覚で楽しめるし、英語だとこういう風に表現するのだなと勉強にもなる。

<小説賞>
『12人の蒐集家/ティーショップ』 ゾラン・ジヴコヴィッチ 著/山田順子 訳(→過去記事愁いのひととき
東欧の「ファンタスチカ」というジャンルの1冊。
内容も面白かったのだが、「音」としての活字を意識させられたという点で興味深い本だった。「色彩」を意識させられる本はあっても、「音」が印象的な作品は珍しい。原書をそのまま理解できたら、より楽しめるのかもしれないが。
「12人の蒐集家」も「ティーショップ」も、一周まわって元に戻ってくるみたいな構成なのだが、それがなんとなく想像できたとしても、エトランジェ気分で楽しめる。
『未来のイヴ』 ヴィリエ・ド・リラダン 著/齋藤磯雄 訳 (→過去記事古めかしい2冊
「ハダリー(Hadaly)」……古代ペルシャ語で”理想”を意味することば。そう名付けられた人造人間。
小説の世界に初めて登場した彼女は、とある貴族が求めた理想の女性像そのままに創られた。
古い文体で旧字で書かれた1冊なので、読みにくいと拒絶すればそれまでだったのだが、長い時間をかけてなんとか読了した。苦労して読んだ分、思い入れも深くなるというもの。
『中二階』 ニコルソン・ベイカー 著/岸本佐知子 訳 (→過去記事57577となかなか進まない時間
中二階のオフィスに向かうまでの短いエスカレーターに乗っている束の間。ほんの短い間に思い浮かんだことが1冊の本に。
時間が凝縮されている。脳内の時間と現実世界で流れる時間とは違うものなのだ。
内容うんぬんよりも、ひとつの読書体験として、経験してみるのも面白いと思う。
『叫びの館』 ジェイムズ・F・デイヴィッド 著/公手成幸 訳 (→過去記事暇つぶしの成果
オカルトSFスリラー?ジャンル分けするのが難しい本。
複数のサヴァン症候群の能力を統合するですって?そこに過去の連続殺人事件やある特殊能力を持った人間などがからみあって、話は一体どこへいくのやら。心底楽しんだ1冊。

<nbm大賞>
『虐殺器官』 伊藤計劃
寡作のまま帰らぬ人となってしまった伊藤計劃の本は、もったいなくてなかなか読めずにいたのだが、アニメ化を前にして読まずにいられず、ついに最後に残しておいた1冊に手を付けてしまった。
通勤電車の中で読んでいたら、ついつい集中していまい、気づいたら2駅も乗り過ごしていた……驚愕!それほど、話の中に惹きこまれてしまっていたのだ。時間には余裕を持って通勤しているので遅刻はしなかったが、こんなに没入してしまう本は久々だった。小学生時分には、本を読んでいると人の声が聞こえないということはしばしばあったのだけれど、いい大人になってからはほとんど初めての体験だったかも。
現在よりも少し先の近未来。ありとあらゆる場で個人を認証するシステムが発達し、テロを抑えこむことに成功した世界。ところが、後進国では各地で内戦や民族紛争が激化。その影で暗躍している人物が浮かび上がってくる。米軍の特殊部隊に所属している主人公が、その影を追うが……という筋。
SFだけど地続き感のある兵器とか、これから起こりうると感じさせる分岐した未来観とか、現に起きている世界情勢だとか、魅力的な要素はたくさんあるのだけれど、この人が一貫して書いているのは「生命」の問題だと思っている。命を奪う、命を失う、そういったテーマに貫かれているからこそ、惹きつけられる物語になっているのだと思う。
ついに来月から劇場版アニメが公開される。かなりハードな内容なので、アニメ化されたときにどこまで描写するのか疑問。アニメ制作会社が倒産し他が引き受けて完成まで長い時間がかかってしまったが、そんなケチがついたのを跳ね除けて、いい作品になっているといいなと願う。

年末年始に、BSジャパンでオードリー若林がやっている番組『ご本、出しときますね?』がまとめて放送されていたのを観た。近年、人気を得ている作家さんたちのトークは面白い。中でも、私は長嶋有さんの話が面白かった。
その番組では、最後に番組内容に沿ったテーマを扱う本を作家さんが紹介してくれるのだが、私が観ていた回では、岸本佐知子さんがらみの本が多かった。そして、やっぱり自分が好きな路線だと実感する。
今回挙げたショーン・タンも、今更ながら岸本佐知子さんの訳だと知ったし、『中二階』もそうだ。つまり、自分にとっては面白いということだ。今年も岸本佐知子さんが書いたり訳したりした本を読みたいと思う。

今読んでいるのは、『Visions』というSFアンソロジー。
今年もできるだけたくさんの本を読んでいきたい。
ラベル:nbm Awards
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2016年12月26日

古めかしい2冊

『家守綺譚』 梨木香歩
梨木香歩さんの本は、順を追ってゆっくり読もうと思っていた。
とあるところで、家を舞台にしたホラー小説が挙げられていて、その中にこの本が紹介されていたので、まずはこの本から読んでみることに。

100年ほど前の話。
空き家となるはずだった友人の家の管理を任された男が、この家で様々な怪異と出会う。
この友人は湖で行方不明になったきりだったのだが、ことあるごとに掛け軸の中の水辺から舟に乗って現れる。
物書きを生業にする男、時折家に帰ってくるこの世の者ではない友人、物知りな隣のおかみさん、謎多き犬ゴロー。
ひとつひとつの話は短くて、主にこの家の庭に息づいている植物に因んだものになっている。そして、木々や花々を追っていくうちに四季が巡っていく。
「湖」とか「疎水」とか「竹生島」とかが出てくるので、どうやら琵琶湖周辺が舞台となっているようだ。
作者の梨木さんは、滋賀県にお住まいらしい。

以前に、万城目学の『偉大なる、しゅららぼん』について記事にしたときにも書いたと思うが(→過去記事古の力宿る湖)、琵琶湖は古代湖であり、古くから神話と繋がっていたりして興味深い湖だ。
高校生のみぎり、修学旅行で琵琶湖には行っているのだが、あの時はさほど興味もなく。事前に色々と勉強しておけば、その地に立ったときにもっと何かを感じられたのではと思うと悔しい思いになる。
埼玉県人の私が想像するに、滋賀県は埼玉県と似ているところが多いのではないかと勝手に親近感を持っている場所でもある。

さて、肝心の内容はというと、様々な植物と怪異が楽しい。
怪異といっても、おどろおどろしいものではなく、実害がないというかなんというか。
庭のある家であれば、どこにでもありそうな植物たちが、俄然存在感を増す。
イラストも何もないので、草木や花の名前を見ても、どんなものなのかわからないものも多いのだが、画像検索してみると、「あぁ、これね」という感じで見たことがあるものばかりだ。
しかし、ふきのとうに雌雄があるとは知らなかった。
全体的に風情のある物語。時代設定も絶妙だったと思う。

読んだらきっと気にいるだろうと想像していた通り、梨木香歩さんの文章はスッと頭に入ってくる。
私には相性の良いものだと確信したので、他の作品も徐々に読んでいこうと思う。
楽しみがまたひとつ増えた。


『未来のイヴ』 ヴィリエ・ド・リラダン
いやぁ、読了に長い時間をかけてしまった。実に、足掛け1年以上。読み終わった時の達成感たるや、これまでに味わったことがない。まさしく”読了”といった感覚。他に誰も借りないのをいいことに、図書館で断続的に借り続けた。途中で、文庫化されたものを購入しようかとも思ったが、こうなりゃ意地だ。
この本、全集なので厚くて重い。約1kgある。試しに持ち歩いてみたものの、重さで手が震えて読めたものではない。ということで、持ち歩きは断念。
その上、旧字体が多用され、旧仮名使いも見受けられる文章で、読みにくいことこの上ない。
齋藤磯雄さんの訳は美しく、それが悪いわけではなくて、こちらの教養の無さが問題なのであって。
旧字は頭の中で変換しつつ読んだ。これをいちいち辞書でもめくろうものなら、流れが阻害されて前に進めない。たまによくわからない漢字があっても、そこは脳内意訳でスルーだ。

以前から、「ハダリー」という存在は気になっていた。
押井守の『攻殻機動隊』シリーズである『イノセンス』には、「ハダリ」という愛玩用アンドロイドが出てくる。
伊藤計劃&円城塔の『屍者の帝国』(→過去記事生と死をめぐる物語)にも、「ハダリー」という美しい女性の姿をした人造人間が出てくる。
これがどこからきているかと調べてみれば、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』に出てくるらしいとわかり、ならば読んでみたいと思って手にとってみたはよいのだけれど、格闘すること1年以上と相成った。

エワルド卿というイギリス貴族が、友人であるあの発明王と思しきエディソンを相手に嘆く。
美しい女性に恋しているのだが、あまりにも中身がからっぽで我慢ができない。そのことを悲観して自殺してしまいたいと思うほどだ、と。
それはちょうどいいとばかりにエディソンが提案する。
見た目はその女性のままに、中身を教養ある理想的な女性に変える方法がある、と。
それが、「ハダリー」と名付けられた人造人間だった……

エディソンの荒唐無稽な提案に、エワルド卿がなかなかうんと言わず、話が進まない。
しかし、後半のハダリーの仕組みの解説の辺りからは俄然面白くなる。
現代から想像するような無機質な集積回路的や金属質の機械装置ではなく、アナログでどこか有機的な仕組みの数々に胸が踊る。美しく、血の通った女性に見える存在ができあがっていく過程が実に魅力的に描かれている。
そして、最後の種明かしというか裏話はそっちから来るかという変化球だったし、結末はそれ以上の意外性があり、呆気に取られる。
つまり、1886年に発表されたとは思えない、実に前衛的で実験的なストーリーなのである。

注釈にあるのだが、「ハダリー(Hadaly)」とは、古代ペルシャ語で”理想”を意味するとのこと。
ギリシャ神話にあるピュグマリオーンの話がモチーフになっているらしいのだが、ピュグマリオーンは自分が創りだした女性の彫像に恋してしまい、それを見かねたアフロディーテが彫像に命を吹き込んでくれて、妻にすることができたという話。
いつの時代も、男性が焦がれる女性像というものがあり、それを実現させるためには手段を選ばないという情熱が生み出すお話というわけだ。
男性が求める理想の女性像というと、容姿が完璧で、従順な女性とか、教養もあるに越したことはないとかそんなところだろうか。
細かい好みは千差万別だと思うのだけれど。
ハダリーは自分で、性格の設定はどうにでも変えられるというようなことを言っていた。至れり尽くせりだな。

自分が男性だったとして、自分の理想どおりの完璧な女性が作り出せるとしても、それで満足できるものだろうかと訝しむ気持ちの方が強い。
ないものねだりというか、完璧すぎるのもつまらなくなって、また別のタイプの女性を求めたくなるような気がするのだけれど。
逆に女性からして、理想の男性を作り出せるとしても、理想の家を建てるのが難しいみたいに、後からここがやっぱり気に入らないとか不具合があるとか細かい部分が気になってくるんじゃなかろうか。
要するに、自分の想定内で設定した相手だったら、いつか飽きがくるのではないかと。
自分には考えもつかないようなことをしたり言ったりする相手だからこそ、面白みがあるというものだと思うのだけれど、これも好みの問題といえばそれまでか。

SFの名作古典をひとつ読了しただけなのに、大仕事を片付けたような気になる壮大な作品だった。
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2016年11月25日

暇つぶしの成果

すでに昨日のこととなったが
朝起きてすぐに外を確認すると、すでに家々の屋根は白かった……
54年ぶりの珍事というが、11月に雪が降ったというだけでなく、埼玉県南中部ではしっかり積もっていた。4cm程か。ただ、車道にまでは積もっていない。都心でも積雪し、140年間の観測史上で初のことだとか。
当地は高台に位置するせいか、雪が積もりやすい。感覚的には、平地と山間部の中間という感じ。
外では雪が降っているというのに、マンションの室内は15度を超えていた。
一応、寒さを見越してストーブを準備してあったのだが、雪が降っている間は使わずに済んだ。
このギャップは、11月の雪ならではなのかもしれない。
紅葉に雪というのも乙だろうなと想像する。寒いから、観には行かなかったけれど。
さすがに夜になると冷え込んできたため、今シーズン初の灯油ストーブの出番となった。
部屋は暖まるし、お湯を沸かしたりお鍋をかけたりできる優れもの。
夕飯には、おでんを作りましたとさ。


さて、夏からこっち、ずいぶんとブログを書いていないので、どうにもサボりぐせがついてしまったようだ。
ここらで、溜めてあるネタを放出しておかないと、どんどん溜まっていくばかり。
今日は、簡単に読書メモを残しておきたいと思う。


『たてもの怪談』 加門七海
東日本大震災直後にしばらく怪異現象が止んだというのが面白かった。
お化けもびっくりするんだね。
引っ越しでダンボール250箱もの本が移動するなんて、作家さんも大変だな。
大学教授夫人の友人は、やはり本の重さに耐えられる一戸建てに越したと言っていたっけ。
「魔の道」の話は、小野不由美さんの『残穢』に通じるものがあり、恐ろしい。


『翔んで埼玉』 魔夜峰央
埼玉県民としては、読んでおかなくてはと思い、読んでみた。
魔夜先生の埼玉愛を感じる1冊。
作中に登場する魔夜先生が『マカロニほうれん荘』のトシちゃんに見えるのだが、意識していたかどうか真相はわからない。


『「24のキーワードでまるわかり!最速で身につく世界史』 角田陽一郎
テレビのバラエティ番組を制作してきた著者が、わかりやすく世界史の概要を教えてくれる。
昔から歴史の授業が大嫌いだった私は、日本史とも世界史とも最低限の付き合いしかしてこなかった。まるで身についていないというわけだ。
そんな私にもお手軽に世界史の知識が少しでも身につけばと読んでみた。
キーワードごとに解説してくれるのもよい。全体像が見渡せるような感覚。
複雑になりがちな例えば宗教というテーマでも、簡潔にまとめられていてわかりやすい。もちろん、それだけで語れない部分はたくさんあるのもわかっているが、アウトラインを理解するのには充分だ。
文明や宗教や国家や民族といったものが根っこにあって、お互いが関連しながら世界が動いていく様子が見えてくる。
そんな中での日本という稀有な国。日本が”極東”と呼ばれてきたことに納得できた。と同時に、世界の果てに位置する日本だからこそ、ユニークな技術や文明が生まれてきたのも頷ける。
世界史ではあまり語られることのない植民地支配以前のアフリカ文明についてとか、中国の王朝にはそれぞれテーマカラーがあるとか、人も動物も縦(南北)移動よりも横(東西)移動のほうが容易だとか、興味深い話が満載。


『くらべる東西』 おかべたかし・文/山出高士・写真
このコンピの本を読むのは2冊め。
大部分は知っていたことだったけれど、細かい違いがあるものを教えてもらった。
やはり、一番衝撃的だったのは、表紙にもなっている銭湯。西の銭湯は湯船が中心にあり、周りから入る形。壁に富士山もないし。商人文化の西では、身体を温めてから洗うそうで。
魚の骨抜きは、西はくの字に曲がっている。消防紋章は中心の輪が西の方が大きい。座布団の綴じ糸が西はY字で東が十字。猫のしっぽに東ではカギ型が多いというのは聞いたことがあるが、狛犬のしっぽの形も東西で違い、東では下向きに左右に流れていて、西では上を向いているのだそうで。
中には、謂われが判然としないものもあるけれど、大体それぞれに理由があり、文化的な違いがあって興味深い。


『たとえる技術』 せきしろ
2ヶ月ほど前に『偶然短歌』を読んだばかりだが、またも図書館の新刊の棚にせきしろさんの本を発見。
いろんな「たとえ方」を教えてくれるのだが、そこはせきしろ流なので、遊び心が強く反映されており、役に立つとは思えない。
ただ、たとえる際のアプローチの仕方を教えてくれるので、表現の幅を広げたい人にとっては有益だし、恰好の暇つぶしの教科書となるかもしれない。
「樽の中の黒ひげの男のような孤独」
「日曜の午後のテレビのようにつまらない」
「最近のラルフローレンのマークのように大きい」
「慣れ親しんだタオルケットのように優しい」

こんなオリジナリティ溢れるたとえ方ができたら、楽しいだろうな。


『叫びの館』
 ジェイムズ・F・デイヴィッド
書店で文庫本を見かけて、図書館で探してみるも、なし。
リクエストすれば、どこかから見つけてくれて貸してくれるとは思うが、それもちょっと憚られるような。
こういう時にこそ購入して本を読む。これは、自分にとっては「当たり」の本だと確信があった。
ある心理学者が、サヴァン症候群の人たちを集めて、それぞれの特殊な能力を統合した人格を創りだす実験にチャレンジする。ところが、実験を行った場所が悪かった。かつて、殺人鬼が人知れず地下室に閉じ込められた館だったのだ。悪いことは重なり、実験に邪悪な人物が紛れ込んでもいた……
ジャンル分けするのが難しい。オカルトSFスリラー的な?
久しぶりに、読んでいる時に物語に入り込んで、外の世界の音が聞こえなくなるくらい集中する読書を楽しんだ。面白かったぁ!
ジャンル分けが難しいような物語を得意とする作者のようなのだが、残念ながら翻訳されている作品があとひとつしかないらしい。


他にも読んだ本はいくつもあるのだが記事にするに値しないので、これくらいで。
今は、梨木香歩さんの『家守綺譚』を読み始めたところだ。
その次には、フリオ・コルタサル『対岸』を読もうと思っている。
通勤中に読んでいると、すぐに読み終わってしまい消化が速いのだけれど、分厚い本は重くて持ち歩けないのが難点。そういうものこそ電子書籍の出番なのかもしれないが、今のところまだ手を出すつもりはない。
通勤の暇つぶしに読もうと思うと、なぜか小説が多くなる。傾向としてはあまり小説を多く読まない私には珍しい。
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2016年09月29日

57577となかなか進まない時間

『偶然短歌』という本を読んでみた。
仕事帰りにふらっと寄った図書館で、新刊の棚に置いてあった。偶然の出会いである。
せきしろ」さんの名前が目についた。せきしろさんの本は何冊か読んでいる。好み。これは見過ごせない。
しかし、「いなにわ」という共著者らしき名前もある。これは一体誰なのだ? そして、「偶然短歌」とは一体?

文章として書かれた中に潜んでいる五七五七七を抜き出してみたら面白かったということらしい。
いなにわさんはプログラマーなので、プログラムを組んでWikipediaの中から五七五七七となる偶然短歌を抽出してみた。そして、その偶然短歌についてせきしろさんがコメントしている。
意外な言葉の羅列が味わい深い一方で、抽出元がWikipediaなので、知らないことにぶち当たったりして、そっちも楽しい。

アルメニア、アゼルバイジャン、ウクライナ、中央アジア及びシベリア (「モロカン派」)

これが一発目に載っていたのだが、こういう羅列系はいくつもあって、文章化するときに日本人は無意識にリズムを考えるものかもしれないなと思う。

暑ければ寒いと震え、寒ければ暑いと汗をかかねばならず (「ハオカー」)

アメリカインディアンに伝わる雷と狩猟を司る精霊。雷の夢を見た時には、”さかさま人間”を演じなければならないと説明されている。これをやらねば、雷に打たれて死んでしまうと信じられているらしい。

「立ち乗り」を行っている最中に車のドアが閉まってしまい (「ペター・ソルベルグ」)

これには笑う。何のこっちゃと引用元の項目を見れば、「ペター・ソルベルグ」。
WRCラリーでチャンピオンを経験している名ドライバーなのだが、運転中はポカンと口を開けたアホな顔をする。それが、彼の集中している時の顔らしい。
Wikipediaによると、サービス精神が旺盛なソルベルグがパフォーマンスに失敗したときの逸話のようだ。

最近は特に仕事が忙しく、彼はなかなか家に帰れず (「ピクミン」)

どんな項目に書かれているのかと思えば、「ピクミン」。ゲーム「ピクミン」が、そんなストーリーから始まるものだとは知らなかった。

結局はそれは誰かの真似でしかなかったことに気づき始める  (「.hack//Alcor 破軍の序曲」)

かっこいい。ちょっと中二っぽいけど。

照らされて雨露が輝く半分のクモの巣だけが残されていた (「くもとちゅうりっぷ」)

美しい。1943年に作られた日本のアニメーション映画らしい。

前述の毛に覆われたはさみには糸状菌を蓄えている (「キワ・ヒルスタ」)

これは、「おわりに」の最後で紹介されていた。
調べてみると、2005年に南太平洋で発見された新種のヤドカリらしい。別名「イエティ・ロブスター」。
深海の熱水噴出孔の周りで発見されたという。

「おわりに」の中でせきしろさんが面白いことを言っている。
断ろうと思っていたこの本の仕事だったが、いなにわさんに会ってみたら、彼はせきしろさんが担当している雑誌の投稿欄の常連だったことがわかったというのだ。
そんな偶然で『偶然短歌』とは。


もう1冊。
”極小(ナノ)文学”と評された、ニコルソン・ベイカー『中二階』。 
読もう読もうと思いつつ、やっと読むことができた。
勤め先のビルの中二階のオフィスに向かう短いエスカレーターに乗っている間の話が、200ページほどの本になっているわけだ。それは、時間にして、数十秒ほどか。
時間軸が過去に飛んだりもするので、その辺はちょっと反則気味だとは思うが。
注釈が長くて、士郎正宗も真っ青。長すぎる注釈が何ページにもわたり、本編はどこまで読んだっけと戻るのに苦労しながら読み進むことになる。いや、注釈こそが本編なのか?
昼休みに靴紐が切れたので、ドラッグストアに買いに行き、オフィスに戻ってきた主人公。
靴紐が切れた原因を事細かに追求し、ストローについて考察し、レコードの溝に考えを巡らせ、中途半端な知り合いに出くわしたときの気まずさや、つつがなくトイレで用を足すことの難しさ、口笛の連鎖など、滔々と語られる。
すべてがどうでもいい話。だが、彼のこだわりや素朴な疑問も理解できる。
アメリカのオフィスの話なので、アメリカの文化的な習慣とか、アメリカのオフィスの雰囲気とか、人付き合いとか、映画などでは見落としてしまう細かい事柄が説明されているのも面白い。
24時間を1時間ずつ24話でリアルタイムに表現したドラマ『24』なんかよりも、ずっと濃縮された時間がここにある。
夢の中の時間感覚からすると、眠って夢を見ている時間は相当に短いらしいが、そんな感じだ。
でも、確かに、エスカレーターに乗っているようなときに、人はいろんなことを考えているものだろう。
もっとお固い雰囲気のお上品な作品かと思い込んでいたのだけれど、軽妙な作風でお下劣でさえある。
他の誰かに勧めたいかといわれればそうでもない。とはいえ、こんな読書体験はなかなかできないので、そういう意味ではお勧めしたい。
内容が面白いかどうかは人によると思うが、こんな小説もあるんだなということで。
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2016年08月30日

愁いのひととき

書きたいネタは溜まりまくっているのに、じっくりPCの前に座る時間が取れず、ご無沙汰となってしまいました。
とりあえず、本の感想から。
何年も続けている「ひとりSFキャンペーン」ですが、先月、牧眞司さんの『JUST IN SF』というSF作品紹介本を読んでから、新たに読みたい本がまたまた増えてしまい、その紹介されていた中から気になった作品を順に読んでいる最中です。
ということでまず2冊。


『華氏451度』 レイ・ブラッドベリ 伊藤典夫

ブラッドベリが好きで、一時期は最も好きな作家といえば名前を挙げていたほどだった。
ただ、ダーク・ファンタジーや短編SFは読んでいたものの、ハードSFの中編・長編は読んだことがなく、いつか読まねばと思っていたところ、『華氏451度』の新訳版が出ていると知り、これをきっかけに読むしかないと読んでみた次第。旧訳は読んでいないので実感できないが、かなり表現が変わっているよう。

焚書がテーマというのは知っていたのだけれど、あとはまったく知識なし。
焚書という役目を負う「昇火士」モンターグが、焚書という行為に次第に疑念を持ち始め……というお話。発表されたのは、1953年。もう半世紀以上も前の作品だ。
ブラッドベリ特有の詩的な表現が多く、イメージするのがなかなかに難しい。
読み終わってみると、なんだかちょっと消化不良というか、中途半端な印象だけれど、途中に挟み込まれた警句は心に響く。鳥肌モノの箇所がいくつかあった。

ひとつの問題に二つの側面があるなんてことは口が裂けてもいうな。ひとつだけ教えておけばいい。もっといいのは、なにも教えないことだ。(中略)
不燃性のデータを詰め込んでやれ、もう満腹だと感じるまで”事実”をぎっしり詰め込んでやれ。ただし国民が、自分はなんと輝かしい情報収集能力を持っていることか、と感じるような事実を詰め込むんだ。そうしておけば、みんな、自分の頭で考えているような気になる。動かなくても動いているような感覚が得られる。それでみんなしあわせになれる。なぜかというと、そういうたぐいの事実は変化しないからだ。哲学だの社会学だの、物事を関連づけて考えるようなつかみどころのないものは与えてはならない。


社会学が学びたくて大学に行った身としては、こんなところで「社会学」を挙げられるのは予想外なのだが、たしかに「つかみどころのないもの」ではあるし、だからこそ面白いと思えたのだ。「社会」というものに対して、あらゆるアプローチで迫っていくものの、迫っていくそばからまた新たな問題が湧き出てきて、それらもまた追いかけねばならない。「社会」の全容をつかむことなど到底できないのだから。
そんなことを考えてしまう自分は、『華氏451度』の世界に居たならば、真っ先に燃やされてしまっていたのだろうな。

しかし、ブラッドベリという人は、「時間」というものをひとつの大きなテーマとして描いてきたのかもしれないと思った。
以下は、迷い始めたモンターグと、昇火士の上司との会話での台詞。
「ジッパーがボタンに代わり、おかげで人間は夜が明けて服を着るあいだ、ものを考えるたったそれだけの時間もなくしてしまった――哲学的なひととき、いうなれば愁(うれ)いのひとときを」

そして、主人公モンターグが、逃亡の末に辿り着いた先で、未来を見据えて行動を起こした男たちと出会ったときの印象。
その炎には静寂が集い、その静寂は男たちの顔にも宿っていた。そこには時間もあった。この錆びた線路のそばで樹々の根元に腰をおろして世界を見つめ、その視線で世界をひっくりかえす時間が。

物事を考えるには、時間が必要なのだということを、今更ながら教えてもらった。

私が好きな『何かが道をやってくる』という作品では、怪しげな巡回カーニバルのメリーゴーランドが、若返ったり年老いたり時間を操ることができる装置になっていた。
「時間」というとらえどころのないものと、人間との関わり方は、誰しもが日常的に実感する普遍的なテーマであるし、ロマンを感じる素材でもある。
自分がブラッドベリに惹かれてきた理由は、こんなところにあったのかもしれないと思った。


『12人の蒐集家/ティーショップ』
 ゾラン・ジヴコヴィッチ

もう1冊は、SFと位置づけるのも無理がある気もするけれど、ダーク・ファンタジー的な作品。
ゾラン・ジヴコヴィッチは、旧ユーゴスラビア出身の作家。
東欧の作家の作品を読んだのは、もしかしたら初めてかも。
東欧には、「ファンタスチカ」というジャンルが存在するらしい。日本で呼ぶ「ファンタジー」よりも幅が広く、SF・ホラー・ファンタジー・幻想文学等を包括したジャンルらしいのだ。
だとすれば、私好みの作品がゴロゴロしていそうだ。
この本も英訳からの日本語訳だし、そうそう訳されている作品もないかもしれないが、「ファンタスチカ」は面白い。今後、注目していきたい。
というわけで、この本も「ファンタスチカ」ど真ん中なわけだ。

「12人の蒐集家」は、12人それぞれを描いた12編の短編で構成されている。
どの話にも必ず紫色の何かが登場し、それが不思議な通奏低音となっている。
それと、人物の名前が出てくると、必ず「P」から始まっている。日本語には「パピプペポ」の音は少ないので、読みながら音に引っかかりができて妙な感覚になる。

ところで、最近ネット上で、本を読むときに頭の中で活字を音として再生しているか否かという話題を見かけた。
文章を読むとき、それが誰かの声で脳内再生されているように感じる人は少なくないようだ。
私は、本を読むときは、誰かの声として再生しているとは感じられない。
活字からダイレクトに言葉の意味を理解する。と同時に、状況描写なら、活字がそのままイメージとなって映像化される。右脳で映像や音を再生しつつ、左脳で活字の意味を理解しているような感覚だが、直接的に誰かの声で文章が再生されるとは感じない。
一方で、例えば特定の声優さんの声を脳内で再生しようとすれば、それは簡単に再生できる。
私の場合は、文章を読むことと、声を脳内再生することは、どうも別の回路になっているようだ。
ということで、前述の人名の「P」音も、音として認識している感覚でもないのだが、破裂音的なイメージはあって、それがなんとも言えない違和感で、引っ掛かりと感じられるようなのだ。
この辺りは、読む人によって、感じ方が変わってくるのだろうなと想像すると面白い。

12人目の蒐集家のエピソードで、すべてをまとめて綺麗に終わるのだが、潔いというか元も子もないというか。
こういったところに、戦乱を乗り越え、国を失ってきた人の強さを感じる。作者のことだ。
詳しい経歴は存じ上げないが、想像はつく。
1948年にベオグラードで生まれ、ベオグラード大学で博士号を取得し、同大学で教鞭をとっているらしいので、ずっとベオグラードを離れていないことになる。ということは、紛争を肌で感じてきたに違いない。常に銃弾が飛び交い、遺体が道に転がっているのが普通だというような状況をくぐり抜けてきたのは間違いないのだから。
そんな中で、創作をし、後進に教えるという文化的な作業を続けることは困難だったに違いない。
どうしても、強靭な精神力を感じてしまう。

「ティーショップ」は、ある女性が旅先で時間をつぶすために入った喫茶店でのお話。
登場人物が複雑に交錯していくので、つい相関図を作ってしまった。
想像力を掻き立てられる素晴らしい構成。
計算しないとできない芸当だと思いつつ、気ままに書いていたらうまくまとまってしまったみたいなノリが不思議だ。
読書とひとことで言っても、いろんな楽しみ方があるものだが、文章に翻弄されて、目隠しで手を引っ張られているような、どこに連れて行かれるのかわからない感覚が楽しめる作品。こういう作品は、滅多にお目にかかれない。

ということで、想像以上に楽しませていただいた1冊だった。
ゾラン・ジヴコヴィッチ作品は、日本語訳だと、もう1冊『ゾラン・ジフコヴィッチの不思議な物語』という本があるのみ。しかも、3編しか収録作品がないのに、「ティーショップ」は重複している。
ちなみに、表記が「ジヴコヴィッチ」だったり「ジフコヴィッチ」だったり安定しない。これこそ、この作家がまだ日本で認識されていない証。
とりあえず、他の作品はこれを読むしかなさそうなのだが、勿体無いから忘れた頃に読もうっと。
訳者の方、もっと翻訳をしてください。よろしくお願いします。
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2016年06月14日

見えざるものを描く

『脳内異界美術誌−幻想と真相のはざま−』 荒俣宏

「怪」という名の妖怪専門誌があるのだが、そこに連載されていたものをまとめた本らしい。内容は、9割が対談形式。荒俣さんと各方面の専門家の方々とが語り合っている。
実は、もっと違う内容を期待していたのだが、これはこれで興味深いものだった。
要するに、「アウトサイダー・アート」とか「アール・ブリュット」とかを生み出す過程で創作者である人間の脳内ではどんなことが起こっているのかというようなことを手がかりに、見えないものをどうやって見えるカタチに表現しているのか、みたいなことをテーマにしている。

正規の芸術教育を受けずに独自に制作され、発表する場もないような芸術を「アウトサイダー・アート」と呼ぶらしいのだが、実際には、精神病院内でのアートセラピー的なことから生まれた芸術を指す場合が多いという。
いろいろと実例を聞いていると、観てみたいと思う。いくらがびっしり描かれたパジャマ、日本語かと思いきや裏から見るとドイツ語のメッセージ、独自の人工言語とか。 
私自身の少ない教養を絞り出してみれば、例えば山下清画伯とか、ヘンリー・ダーガーの絵が浮かぶ。

序文で紹介されている荒俣先生の考えの起点は、お化けを感知する「明暗」を見る目。
原始的な動物は、カメラのような目を持たず、明暗だけを感じる器官を持っていた。その動物的な感覚を持つ人ならば、見えざるものを見えるものへと表現できるのではないかという。
動物的な鋭敏な感覚を持ち、尚且つ、それを具体的に表現する技術を持つ人が描くアートならば、どうなのだろうか。というわけだ。

イギリスの著名な精神病院「ベドラム」では、「雨の日曜日の娯楽」と称して、ロンドン子たちが精神病院を訪れて1ペニーの入場料を払い、精神障害者の奇行を眺めていたとか。1700年代の話。
ここの患者として有名どころとしては、描く猫が病状が進むに連れて変化していったルイス・ウェインとか、ロック・バンドのクイーンが作品に触発されて曲を作ったというリチャード・ダットなんかがいる。ルイス・ウェインの猫の絵の変化は観たことがあった。かわいらしい猫ちゃんが、徐々にサイケデリックな色使いのトゲトゲなクリーチャーに変貌していく。

ちょっと脱線して、ナチスの退廃芸術論を建築家の伊東忠太が日本に報告しているとか、おかしな建築物「二笑亭」で知られる精神科医の式場隆三郎についてとか書かれていたり。
遠野にのみ残る「供養額絵」の話も、興味深いけれど、本筋とはあまり関係ないような。ただ、柳田國男がその「供養額絵」のような事物には興味を示さなかったこととか、「供養額絵」の中の世界では死者は歳を取らないとか、それに関連して遠野には地蔵信仰が無いとかいうことは面白かった。

本筋に戻る。
脳科学からのアプローチとして、茂木健一郎との対談はよかった。
化粧をしたりお面をかぶったりすると、ミラーニューロンの働きで、「化粧した人物」や「仮面が表すもの」に自己を重ねて同一視していくらしい。脳は、化粧やお面で作った他人の顔で自分の顔を書き換えてしまう。
魔物の仮面をかぶったら、それと同調するように自分の中に隠れていた魔物が顕現してくるというようなことが起こっても不思議はないことになる。
スケールエラーの話も面白い。2歳くらいの子供は、スケール感が理解できないらしい。ミニカーに乗り込もうとするように。それは、同じ「車」でも実際の自動車もミニカーもあるわけで、言葉というシンボルと自身の身体性との関係が理解できないのだという。すぐに消えてしまう感覚だということなのだが、こういったことが大人になっても理解できる人がファンタジーを表現できるのではないかと話していた。ルイス・キャロルみたいに。

一番興味深かったのは、幻想的な挿絵を得意とする画家・山田維史さんとの対談。
山田さんは絵の具の成分について研究もされていて、絵の具を科学的に研究することで、画家の画法を解明し、そこから画家の真意を探るということが可能だ、と。例えばゴッホは正気を失っていたとされているけれど、絵の具の使い方を見ると、重ね塗りで酸化しないように丁寧に油を塗っているとか、山田さんに言わせると、晩年を除けば、まったく理性的で計算された画法に見えると。
山田さんは、ご自身の個展で、「なぜ私の悪夢があなたに描けるのか」と問い詰められたこと数度。山田さんは、理論的に幻想的な絵画を描くのが信条だそうなので、それが不特定な誰かの悪夢とリンクしているなどと考えもしなかったらしい。
山田さんはアウトサイダー・アートに詳しく、精神科医ロンブローゾが挙げている精神障害者の描く絵の13の特徴を紹介しているのだが、納得。「稠密性」とか、「無用性」「反復性」「象徴性」「猥雑性」など。
この「無用性」という部分だけは、理解できてしまうのが自分としてもどうなのかと思うのだけれど。こうして、誰が読むともしれない環境に文章を書いて投稿する。書き捨てということでもなく、それなりに労力も時間も使うし、表現にも細かく気を使いながら文章にしても、完成してしまうとどうでもよくなる。同様のことはよくダンナさんも言っていて、仕事で車の部品を作っていても趣味の範疇でギターを作っていても、細心の注意を払い将棋のように何手先までも計算し尽くして苦労して作ったのに出来上がった途端にどうでもよくなる、と。
もうひとつ面白かったことは、異世界と現実世界との関係性。パラレルでなく入れ子の状態、それも浸透膜のようなものを介した。その浸透膜を行き来できてしまう人が異界を描ける、と。
いつも、異世界というと、勝手にレイヤー構造をイメージしていた。それに近い表現だ。

それから、山田さんいわく、曖昧なものを偶然性に頼って描こうとすると、理性が無コントロールな状態を抑えこもうとして、勝手にイメージを探しだしてきてしまうという話。
以前に、加門七海さんが著書の中で、これに通ずることを言っていた。目に見えないものに出会ったときに、自分の脳内にすでに存在しているイメージから、ふさわしいと考えられるようなものを引っ張りだしてきて当ててしまうという話。これを読んだときに、すごく納得したものだ。世の中に同様のイメージの幽霊とされる存在が充満しているのも頷ける。いわく、髪が長い女性、白い服を着ている……などなど。
所詮は脳内で作り出しているイメージに他ならないわけで。
前述した明暗しか判断できない原始的な動物の目というのもここにつながってくる。
私は、自分にとって不快な場所はすごく暗く見える。太陽光が充分に差していたり、照明が明るくてもだ。私には原始的な目がどこかに残っていて、目ではなく、脳が何かに反応しているのだとすれば、合点がいく。

これまで、おかしなものを見聞きしてきた経験から、それを解明したいという思いは強く、どうしてもオカルト的なものに興味が湧く。脳が引き起こす錯覚にせよ何にせよ、自分は「見た」し「聞いた」のだから、その現象自体がどういうことなのか知りたい。
何かヒントになることがあるかもと思い、この本を読んでみた。
ほとんど関係無かったけれど、ところどころ興味深いことはあり、勉強になった。
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2016年06月05日

5冊まとめて

記事にしようと思っていたものが溜まってしまったので、今回は5冊の本についてまとめて。

『住まいの思考図鑑−豊かな暮らしと心地良い間取りの仕組み−』 佐川 旭
家づくりに多様なヒントを与えてくれる親切な本。
家を建てようと思ったら、まず自分のことを理解するところから始めようという提案は、至極真っ当な考えだと思った。楽しいと思えること、安心できる場所、逆に居心地が悪い空間など、あらためて考えてみるところから出発している。
趣味やこだわりのあるもの、好きなことを掘り下げていけば、家のつくりをどうしていったらよいのかという基本的なスタンスが決まる。これは、本当に大事なことだと思う。自分の好みとか五感とか、そういったことを無視して家づくりをしたら、居心地の悪さに後悔することになるだろう。
いろんなトリビアもあって、楽しい1冊だった。
同じ日本でも地域ごとに気候風土が違うということ。風の吹く方向も違うのだな。
木材としての針葉樹と広葉樹の違い。熱伝導率が違い、針葉樹は温かく感じ、広葉樹は冷たく感じるとか。
日本人の色彩観だと、反射率50%以下の色がしっくりくる。肌色がちょうど反射率50%らしい。
「あた」という単位。手の親指と人差し指をL字型にしたときの2本の指の間の距離を「あた」といい、個人差はあるけれど大体15cm程度。1尺は約30cmだから、その半分くらいが測れるというわけ。この本の中では、千円札の幅が15cmなので、メジャー代わりになると紹介されている。
「間」という言葉が、英語に訳した場合に「space」と「time」という2つの意味になるという話には、なるほどと気付かされた。
また、石で造ったことに始まる西洋の壁文化と違い、日本の民家は木で造ったことで開口部が広くなり、そういったことが様々に人々に影響していくのを想像すると楽しい。
家をつくるなんて予定はさらさらないのだけれど、読んでいるだけで楽しく、また勉強にもなった。

『バベル九朔』 万城目 学
万城目学ファンとしては、久々の著者らしいファンタジーなのかと期待したのだが、読む前にインタビューで、「これまでの作品とは違う」と御本人が言ってらっしゃったので、気構えを変えて読む。
作家志望の主人公が、小説を書きながら祖父から受け継がれてきた雑居ビルの管理人をしているのだが、そこに怪しげなカラス女が現れ……というようなファンタジー。
前半部分は、店子さんたちとの交流や管理人としての仕事なんかが描かれていて、それはそれで普通に読める。後半、異世界の話となるのだが、発端となった祖父の本来の目的とか、カラス女たちのスタンスとか、少々わかりにくい。
雑居ビルの管理人をしながら小説を書く生活というのは、著者ご自身の経験談だそうだから、リアルであってわかりやすいのだけれど、もうひとつの世界で巨大な塔と化したバベルでの話は理解できず、ちょっと消化不良。
人生をやり直すなら……みたいなくだりが出てくるのだけれど、私はこういった考え自体があまり好きではないので、全体的にスッキリせず。
もっと、突き抜けたアホな話が読みたかったなぁと読後にため息。

『紙の動物園』 ケン・リュウ
いつも通り過ぎていた間口の狭い書店にふらっと入ってみたら、そこはうなぎの寝床のように奥に広がる書店で、よく吟味された品揃えが光り、こういう書店で本が買いたいと思わせる店だった。
そんな書店で、『SFが読みたい!2016年版』をパラパラめくっていると、外国作品の1位に『紙の動物園』とあり、その本がすぐ隣に置いてあった。といっても、買わずに図書館に予約を入れるといういつのもパターン。
その昔、好きな作家として私が名前を挙げていた一人がレイ・ブラッドベリ。ケン・リュウのこの短篇集には、往年のブラッドベリの短篇集のような切なさが漂っていて、とても気に入った。
ヒューゴー賞受賞作だという「もののあはれ」も悪くはなかったけれど、「結縄」とか「文字占い師」のような文化人類学的な視点の作品が面白い。途中からあさっての方向に転換する「良い狩りを」も独創的だった。
中国系の著者なのに、日本人を描いた作品もちらほらとあって、しかも違和感なく描いているのに感心。
SFというよりもファンタジーといったテイストの作品が多いけれど、機会があればまた読んでみたいと思う作家さんに出会った。

『ドミトリーともきんす』
 高野 文子
先日の拙ブログの記事で練馬区立牧野記念庭園について書いたところ(過去記事→植物学者の庭)、中林20系さんからご紹介いただいた1冊。早速、図書館で借りてきた。
高野文子さんの漫画を読むのは、すごく久しぶり。たぶん20年くらい読んでない。
著名な学者さんたちが、自分の切り盛りする下宿に住む学生さんだったら……というお話。
ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎、雪の結晶を研究した中谷宇吉郎、日本人として初めてノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹、そして、「日本の植物学の父」牧野富太郎。
それぞれの分野の科学の話題を、わかりやすく説明してくれながら、各々の著書の引用でまとめてくれている。
ジョージ・ガモフも客人として出てくるが、ガモフの著書であるトムキンスさんのシリーズの何かは読んだ記憶がある。なんだったか忘れたけど。タイトルである下宿屋さんの名前もこれをもじったもののようで、難しいことを卑近な例で噛み砕いて教えてくれるスタンスは、これを参考にしているのがよくわかる。
寺田寅彦のエッセイとかも好きなのだけれど、こういった名だたる方々の書いた本も読みたいものだと思った。
中林20系さん、ご紹介をありがとうございました。

『幻獣標本博物記』 江本 創
ネットをふらふらしていて見つけた本。
ヴンダーカマー的なものは大好物。「幻獣」と聞いたら、見てみなければ。
よく出来てはいるのだけれど(おっと、失礼。採集したものの標本写真だった……)。
少々単調、そして名付けにやっつけ感あり。
その辺はもう少し練ってほしいところ。
でも、質感は見事。機会があったら、間近で標本を観てみたい。
ご本人のHPで、多くの標本写真を観ることができます。



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2016年06月01日

古の防災指南

こんな話があった。
1700年に起きたカナダのカスケード大地震。
M9とも言われるこの地震について、カナダ先住民は文字の文化を持たず、記録がなかったという。
地層の放射性炭素年代測定法で約300年前に発生したことがわかり、その後の木の年輪などの調査によって1699年から1700年にかけて発生したことまではわかったものの、詳しい日時は不明のままだった。
ところが、日本の古文書には、江戸時代の元禄十二年十二月八日(西暦1700年1月27日)深夜に津波の記録があるという。これが、カスケード大地震による津波ではないかという話に。
日本の産業技術総合研究所と東京大学地震研究所が共同で行った研究により、1996年に自然科学系雑誌「Nature」に発表されたもので、これを元にしたその後の米国・カナダの研究によって地震発生時刻が1700年1月26日午後9時であり、M9など地震の規模も明らかになった。
これは、つい数日前にネット上で見かけたニュースの内容。

ちょうど、磯田道史『天災から日本史を読みなおす』を読んでいたところで、私にはタイムリーな話題だった。
著者の磯田道史さんは、映画化もされた『武士の家計簿』の原作者で、小学生の頃から歴史学者を目指していたという。そう心に決めつつも磯田さんは、歴史を学んで何の役に立つのだとの周囲の声に悩んでいたらしいが、大学で古文書を元にした災害史の講義を聴いて歴史が後世の役に立つ分野であることを確信したという。つまり、磯田さんの原点は、古文書を紐解いた災害史なのだそうだ。

歴史に疎い私にしてみれば、災害を切り口にした裏話的な歴史の話は興味深く読めた。
「秀吉は案外非道い人だったんだなぁ」とか、参勤交代の実情とか、光格天皇が養子で今の天皇の血統であるとか。
災害の知識としても有益なものがいくつか。
富士山が噴火したら火山灰は2週間は降り続くとか、高台の神社の鳥居まで逃げれば津波から助かることが多いとか、寝ている時に災害が起きた時を考えて赤ちゃんのために抱っこ紐を枕元に置いておくべきだとか。

上記のニュースでも書かれていたことなのだが、日本人は武士だけでなく商人や農民まで文字を習得して細かな記録を残しているということで、日本人からすると実感できないのだが、これが世界的に見るとなかなか珍しいことらしい。

それに加えて、例えば「時計」という存在。
さすがに庶民の間には所持していた人はいないものの、寺社や大名などでは「時計」を用いて災害の起きた時間を明確に記している古文書も多いという。
現代の時計に比べれば、アバウトな時間しかわからないものの、大まかな時間はわかる。
当時の大名時計は120分を10分の1に刻んでいたらしいので、12分単位くらいでなら時間がわかるらしい。

中でもショッキングだったことが2つ。
ひとつは、「孝」という考えが最優先されていた時代では、非常時には子は捨てられ、年老いた親を救うのが最優先されたという話。
どちらの命が重いというわけではないのだが、現代なら、未来ある子供を優先して助けたいと考えがちのような気もする。
子供はまた作ればよいということなのか、津波や地震で子を放り投げて親を救うという話が何度も出てきた。
先日、小石川後楽園に行ったときの記事を書いたが(過去記事→天下に後れて楽しむ)、そこに建てられていた石碑にまつわる話も出てきた。あまりに達筆なのと漢文表記で何の石碑か読めなかったのだが、帰り道の小規模な展示で詳細な説明があった。
藤田東湖という水戸藩の学者。彼は安政江戸地震で建物の下敷きになり圧死したのだが、揺れを感じて一度は家の外に出た老母が、火鉢の火を消すために戻ってしまい、それを助けようとして戻り、母は助けたものの自分は亡くなってしまった。老母は、藤田家から火を出しては申し訳ないと戻ったらしいが、その母を助けたい一心で結局は圧死してしまうという残念なことに。
もう一つは、佐賀藩の話。
佐賀藩が軍事大国だったということも意外だったのだが、何よりショッキングだったのは「捨て足軽」。外国の巨大船に対抗するために、中に侵入して自爆テロを行うというものだったという。
これが、現代ではイスラム過激派のお家芸のようになっている自爆テロの、世界で初めての例ではないかということだった。
同様に九州を守っていた福岡藩にも、この戦法は存在したらしい。

昔とは激変している海岸線を持つ都市部では、古文書の津波や高潮の情報がうまく当てはまらないことも多い。それでも、参考程度にはなるだろう。

著者は、個人的に古文書を所蔵している方から連絡を受けて、内容を教えてもらったり、実際に読ませてもらったりということを続けていらっしゃるようだったが、最初に書いた研究のように、もっと効率的に収集して多くの人が広く研究に役立てられるようになるとよいのに。
きっと、まだ多くの貴重な古文書が、どこかの蔵に人知れず眠っているに違いない。
それが、未来の防災に役立つことを願う。
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2016年04月07日

ニッチが大好き

サンキュータツオ『ヘンな論文』を読んだ。
ニッチなことを真剣に日夜研究している人たちがいることを教えてくれる立派な本だった。
中でも「「コーヒーカップ」の音の科学」は面白かった。
インスタントコーヒーをお湯に溶かすとき、スプーンとカップのぶつかる音が段々と高くなるのはなぜかということを研究している。言われてみればそんな気もするけど、さして気にしたこともなかった。
結論からいうと、粉末に含まれている気泡が原因だということらしいのだけれども、これを導き出す過程が面白い。原因は粉末なのかお湯なのかに始まり、粉末だとわかったら入浴剤まで試してみるとか。気泡だとわかればコーラやビールで試してみるとか。これぞ科学者だよなぁ。この原因を特定する探究心。可能性を排除していくプロセス。
最後の湯たんぽ研究のお話は、意外にシリアスな方向に繋がり、ダウナーな気分になる。
人の研究を勝手に横取りするような輩は後を絶たないのだな。まじめに湯たんぽを研究してきた方の研究結果を勝手に使うなんて……
とはいえ、湯たんぽの歴史は興味深い。
ネジがアジアにないものだったというのも勉強になった。これは、江戸時代に徳川家で使われていた湯たんぽのふたがネジ式で、そのことから外国から輸入されたものではないかと類推されるというくだりで知った。
ヘンな論文なんて、探せばいくらでも出てくるんだろう。続刊が出そう。
この本を手にしつつ、サンキュータツオさんってどこかで見かけた名前だなと思っていたのだが、1月から3月まで放送していたアニメ『昭和元禄落語心中』のイベント出演者に名前があった。落語にも造形が深くていらっしゃるようで。

円城塔『エピローグ』も読んでみた。
対となる『プロローグ』を読んだなら、こちらも読まねばと。(→過去記事始まりの物語
本来、『プロローグ』が文芸誌に連載されていたもので、『エピローグ』がSF雑誌に連載されていたものなのだけれど、『プロローグ』の方がSF色が強くて、『エピローグ』の方が文芸作品の香りがした。
というのも、『エピローグ』は壮大な恋愛小説でもあるからだ。
筋は説明できない。すごく感覚的にただ読んだ。
でも、そこここにハッとする文章があり、そんな部分を繰り返し読みつつ読み進んだ。
理解しようとするよりも、そうやって楽しむ部類の本だと思う。
ひどく哲学的なようでもあり、哲学を放棄したようでもあり。
「アニマリス・モデュラリウスって聞いたことあるような気がするけどなんだっけ?」とか思ったりしながらも、比喩がピンポイントでわかりやすく、「どう想像したらいいんだ?」と本を放り投げそうになるのを思いとどまらせてくれる。
とある書店で、『SFが読みたい!』をぱらぱらめくっていたら、BEST SF 2015の国内第1位の作品がこの『エピローグ』だった。驚いた。このときはまだ読む前だったのだけれど、読もうとは思っていたから。
ところが、この本、わが街の図書館ではまったく他に借りられる気配なし。どうなってんの!?
まぁ、好き嫌いは分かれるとは思われる。

SFで次に読もうと思っているのは、ケン・リュウの『紙の動物園』。
『SFが読みたい!』で知った。
『SFが読みたい!』をぱらぱらと立ち読みしていたのは、勤務先がある駅近くの書店。
入り口は小さいのだが、入ってみると奥が広くて、思っていた以上に蔵書があった。
『SFが読みたい!』の横に『エピローグ』と『紙の動物園』が並んでいた。他にも、オススメっぽく本棚に並ぶ本のチョイスのセンスが良くて、がんばって大型書店に対抗しているなと思った。
ほとんどの本は書店で買わずに図書館を利用する私だが、地元図書館にない本でリクエストもはばかられるようなものは購入している。
いただきもののクオカードを消費するために、ジュンク堂でまとめて買うことが多いのだけれど、この書店なら現金で本を買いたくなるなと思った。小さな書店への応援の意味もこめて、近々何か現金で購入しようと思っている。
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2016年03月24日

10万+10万+10万=30万

加門七海さんの『墨東地霊散歩』を読んだ。
この手の「地霊もの」は、読書の中で、おそらくこの先もライフワーク的に追い求めるジャンルのひとつになると思っている。
私の中で、中沢新一さんの『アースダイバー』を読んだことをきっかけに、土地の記憶というものを意識するようになった。
土地土地の単なる歴史・民俗みたいなものは数多く記されてきたことと思うが、その土地に染みこんできた記憶という観点から書かれているものは以外に少ないように思う。
単なる歴史と「地霊もの」との違いは何かと問われると、うまく説明できないのだが、時代ごとに層化して埋没している一区画の土地の記憶を層ごと縦に掘り起こしているというか、ピンポイントで時代を遡るというか、そういう着眼点が興味深く思えるのだと思う。
『ブラタモリ』という番組で、タモリさんが現代の土地を歩きつつ、川だったところが暗渠になっているとか海岸線はここだったとか昔の名残を見つけているが、あの感覚が楽しいのだ。
そう、現代の地図と古地図とを重ねて見るような感じ。かつての地形や町並みなどの地図ありきという部分が大事。
私は昔から日本史や世界史などの歴史というものに興味が持てなくて、教科としては一番苦手としていた。歴史は暗記科目という印象が強く、暗記が苦手だからというのが大きいのだけれど、習ったはずなのに本当に憶えていない。
けれども、「地霊」という感覚は、興味を覚えるのだ。
近隣でも、暗渠とか、旧街道とかを認識すると、それだけで楽しい。瞬時に時空を飛び越えているような感覚が魅力なのかもしれない。
歴史的な史実など眼中にない。ただ、歴史にかこつけたファンタジーが、ロマンが欲しいだけなのだ。

さて、『墨東地霊散歩』は、墨田区と江東区を中心とした地域のかつての姿が描かれている。
この地域は著者の加門さんが生まれ育った地域であるので、思い入れが強いだろうことが伝わってくる。
私には縁のない土地で、行くことも少ないし、何も知らない。
そうだな、例えば、2012年の夏、木場公園や大島小松川公園を中心にうろうろしたときのこと。(→過去記事「ズガーン!」で始まり、「モフモフ」で締める
木場公園一帯はお祭りの準備中で、東京都現代美術館前に立派なお神輿が飾ってあった。これが、富岡八幡宮の祭礼「深川祭」で江戸三大祭の1つであったのだ。
「わっしょい!」と掛け声がかかるお祭りだということだが、同じく神輿を担ぐときの「せいや!」という掛け声は江戸では後発で、元々は「わっしょい!」だということをこの本で知った。

恥ずかしながら、相撲の起源も知らなかった私は、回向院の存在も知らず。
明暦の大火の犠牲者10万余の魂を鎮めるために建造された回向院で、勧進相撲が開かれたのが今の大相撲の起源だとこの本に教えられた。
回向院の境内に建てられたのが旧両国国技館だ。
舞踊では、大地を踏みしめる動作は鎮魂の意があると聞いたことがあるが、相撲もそういう意味が込められていたんだろう。
現在、刀剣博物館が安田庭園内の両国公会堂跡地に建設される予定だということだが、加門さんも書かれているけれど、この地にこういったものが集まってくることになったのが面白い。

この辺りは、明暦の大火で10万人、関東大震災で10万人、東京大空襲で10万人と、ざっと合わせて30万人の人々が亡くなっている土地だということ。
2012年の夏、大島小松川公園内のはずれで、神社を移した跡地として石碑が残っていたのを見て、帰ってきてから東京大空襲により南本所牛島神社が焼けてしまった跡だということを知ったのだが、こんな風に場所を移した神社仏閣の話がたくさん出てくる。
江戸時代からこっち、大火・大震災・空襲と、何度も焼け野原になった地域なのだから。

東京都慰霊堂の存在は、かつて加門さんの他の著書の実話怪談で知ったのだけれど、具体的な場所を知らなかった。というか、怖くて調べられなかった。
今回、調べてみたら、両国近くの横網町公園内にあるとわかった。横網町公園のサイトによると
関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。

とある。
後に、東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せて安置されたということだ。
つまりここが、あの恐ろしい火災旋風でたくさんの方が亡くなった地域であり、また大空襲でも多くの犠牲者が出た地域でもあるということになる。
ちなみに、慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけたことで知られる伊東忠太。
行ってみたいような、行きたくないような……

他に、「四谷怪談」の「四谷」は、今のスカイツリーの真下辺りに当たるのではないかという説も面白かった。
伊右衛門の住まいは本所、お岩さんのご遺体が流れ着いたのは隅田川と荒川とをつなぐ小名木川の万年橋。という風に、主に墨東界隈が舞台となっているのに、新宿区の四谷は遠すぎるという。
スカイツリーの真下辺りが、かつて「中之郷四ツ谷」と言われていたそうで、基本的には徒歩移動する江戸時代の距離感なら、この「中之郷四ツ谷」の方が妥当なのではないかというわけ。

向島百花園などの風流な花々や昭和の下町らしい話、粋な花柳界の話なども出てくるのだが、陰惨な出来事の方が印象に強く残ってしまった。
行ってみたいスポットもいくつかあるので、それはおいおい。
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2016年03月03日

始まりの物語

円城塔『プロローグ』を読んだ。
円城塔作品はいくつか読んでいるのだが、割りと好き。私の中の中二男子心をくすぐるワードが散りばめられている。
予備知識なしに読み始めたものだから、どう捉えて良いのかわからず、「なんじゃこりゃ……」と悩みながら読み進んだ。
と言っても、たとえ予備知識があったところで、それは同じだったのかもしれないけれど。

作中で、何度も「これは私小説である」と主張されるのだが、何と言ったらよいのか。
言語の選択という根本的なことから始まり、つまりは、ある物語を書くための設定を作りあげていく過程が描かれているわけだ。
そしてその過程では、コンピュータ上の各種プログラムが駆使されるのだが、思わぬものが生じたりして一筋縄ではいかない。
最初に定められた13の氏を持つエージェントたちが、「川南」もしくは「河南」と表記されるカナンの地で、12支族よろしく奔走し、物語を紡ごうとする。作中ではメタ構造は否定されているが、エージェントたちはメタ世界を行き来する。
仮想空間にカナンという世界が構築されて、何万という人間が住まい、その個々に名前が与えられ、生活が生まれ、という風に世界が広がっていく。創造神の視点だ。
世界がうまくいかなければ壊され、再構築されていく。

非常に実験的な内容で、筋が在って無いようなもので、漢字やかな文字を使用頻度で分析してみたり、単語を細かく区切ってコンピュータに再編成させたり、日本語の構成を一から教えられているような気分になる。
コンピュータのプログラムによって切り貼りされた日本語は、もちろん文章にはなっていないのだが、どこかしら意味が汲み取れたりして気味が悪い。
言語に特化したAIは、こういった研究から生まれているのだろうなと想像できる。

自分が今どこの次元に招かれているのか、よくわからなくなる。現実に踏みしめているはずの地面の底が抜けるような不安に襲われる。
果たして、自分は本当に実在しているのだっけ? などという考えが頭をよぎったりする。
良いとか悪いとか、面白いとかつまらないとか、そういったことを超越して、不思議な感覚が味わえる本だ。

この物語の本質的な部分は、とても伝えられそうにないし、今回はここで起きた小さな出来事を取り上げてみる。

シンクロニシティと言ってしまうと少々強引な気もするのだけれど、そんなこと。
最初に驚いたのは、「ピラネージ」だった。とはいえ、これはシンクロニシティと呼べるほどのことでもない。
先に説明した、物語の設定を創りだすコンピュタ上のシステムに「ピラネージ」と名付けられていた。なるほど、言い得て妙。
私がピラネージの絵を観たのは、2013年6月のこと。(→過去記事 空想の建築
ピラネージの脳内のローマの街道筋は、これでもかと過剰に装飾されていて、ヴァーチャルなようでありながら、どこか現実味を欠いていて空虚だ。けれども鑑賞するものを楽しませるのも確かで。
私がピラネージに感銘を受けていたのは、数年前の話だから、シンクロニシティと呼ぶべきような事柄でないのはわかっているのだけれど、では、「ピラネージ」と聞いて、あの絵をすぐに創造できる人が世の中にどのくらいの割合でいるかといえば、きっと少ないのではないかと想像すると、私とこの物語の間にはやはりどこか通いあう物があるのは事実で。

なんて考えながら読み進んでいたら、もっとジャストミートなシンクロニシティに遭遇。
それが、「ヴィリエ・ド・リラダン」だった。物語の中で『未来のイヴ』の話が出てきたのだ。
何度かブログの記事中に書いていたと思うが、昨年から読もうと挑戦しつつ、まったく読み勧められない古典SF小説があり、図書館で他に誰も借りないのをよいことに、延々と私が借り続けている。最初に貸し出していただくときに、書庫からひっぱり出してもらった書籍なので、返却してからまた借りようと思えば、係の方の手を煩わせることにもなるし、毎回確認の上で貸出延長を繰り返しているというわけで。
旧仮名使いで書かれているし、注釈が多いので、ただでさえ読むのに時間がかかる。ところがこれ、収められている全集を借りているので、重い本で、試しに通勤に持ち歩いてみたが、外ではあまりに重くて読むのが困難だった。腕が上がらなくなり、ふるふると震える……
この本こそ、ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』である。
図書館から2冊の本を借りていて、片方の本を呼んでいたら、もう片方の本についての記述があったということになる。これは立派なシンクロニシティだ。
まぁ、円城塔といえばSF作家であり、『未来のイヴ』はアンドロイドを最初に扱ったと言われている有名な古典SFなわけだから、どこかで取り上げられても不思議はないのだけれど。
そういえば、『未来のイヴ』を読もうと思ったのは、伊藤計劃の遺構を円城塔が書き上げた『屍者の帝国』(→過去記事 生と死をめぐる物語)の中にも出てくる「ハダリー」という存在が気になって、その大元が『未来のイヴ』に描かれているというのを知ったからだった。なんだ、やはり繋がっていたのか。

同時期に別の雑誌に連載されていたという『エピローグ』というのもある。
どうやら関連しているようなので、『プロローグ』を忘れないうちに『エピローグ』も読んでみようと思っている。

本の話のついでに、もう1冊。
原田マハ『ロマンシエ』も読んだ。
思っていたよりもかなりくだけた小説で、肩透かし。面白いといえば、面白かった。
パリのリトグラフ工房が舞台と聞いていたので、もっと硬派なタッチで芸術を前面に描いているのかと思い込んでいたが、平たく言えば恋愛小説のようなものだった。
関連して開かれていたリトグラフの展覧会に必ず行こうと思っていたのに、油断していたら終了していた……残念。

普段あまり小説を読まない自分にしては、小説を続けて読み過ぎた。通勤時に読むにはよいのだが、ちょっと食傷気味。
次は何か小説以外の本が読みたいなぁ。
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2016年01月21日

輝け!nbm Awards 2015<書籍編>

続きまして、「輝け!nbm Awards 2015<書籍編>」をお送りします。
昨年は、大作のSF古典を読むのに手間取ってしまい、それがブレーキとなって他の本が読めなくなるということに……それと、読んでみたはいいけれど、つまらなかったり自分の感性に合わなかったりという本が多く不発だらけ。読んだけれど、記事にしていない本も多いし。
なので、本当に簡単に憶えているものだけをまとめておきたいと思います。

<ビジュアル賞>
『世界の廃墟』 監修・解説 佐藤健寿
→過去記事アーバン・エクスプロレーション
世界の名だたる廃墟を収めた写真集。「アーバン・エクスプロレーション」、つまり「都市探検」が楽しめる。
廃墟を芸術作品のように眺めることを楽しむ人は増えていると思う。朽ちていくものに美を見出すのは、不思議な感覚だ。
日本では、廃墟がブームになって久しいと思うが、世界でも同じように廃墟を楽しむ人々がいて、日本にはない趣の廃墟が数多く存在していることを知った。

『生命の森 明治神宮』 執筆 伊藤弥寿彦/写真 佐藤岳彦
→過去記事都会の真ん中の実験林
代々木の森に誕生してから100年、静かに守られてきた明治神宮。人工的に生み出された自然にスポットライトを当てて、聖域ゆえに明かされてこなかった実態を教えてくれる写真集。
自然のたくましさと、明治の学者の先見の明にうならされる。

『埼玉たてものトラベル-愛すべき62のたてもの-』埼玉たてものトラベル委員会
近年、近代建築のビルや洋館などを観るのが趣味のひとつになっているのだが、埼玉県内に密かに現存しているレトロモダンな建築をいくつも教えてもらった。ディティールを紹介しつつも、全てを明かさず、ガイドとして有用でありつつ、実際の見学を邪魔しない上手な作り方。近代建築にかぎらず、現代のユニークな建築物も掲載。
埼玉県というところは、魅力を発信するのが非常に不得意で、「何もないところ」と思われているし、住んでいる自分たちもそう思っているのだが、発掘してみると意外に面白いものがあるということがわかってきた。
簡単に見学できない所もあるが、見学可能な所は訪ねてみたいと思った。


<学術賞>

『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』 アンドリュー・パーカー
→過去記事赤・緑・青、それから
「カンブリア紀の爆発」、それは地球の歴史からすれば、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。
この生物進化の爆発を起こした原因は一体何だったのか。その謎に迫るのが、この本のテーマ。
我々が生きていく上で、多くの情報源としている視覚というものが、どのように獲得されていったのかを推測するという壮大な話。

『先生、巨大コウモリが廊下を飛んでいます!』 小林朋道
「 鳥取環境大学の森の人間動物行動学」シリーズ第一弾。自然豊かな鳥取環境大学の敷地内で様々な動物たちが巻き起こす出来事が綴られた本。
もう何年も前に書店で見かけて気になったまま、タイトルや著者名を忘れて辿りつけなかったのだが、ひょんなことでダンナさんが全然関係ないことを検索していたときに偶然発見。これこれ、これを思い出したかったのよと早速図書館で借りた。シリーズは8冊出ているので、ちょびちょび楽しもうと思っている。


<小説賞>
『今日から地球人』 マット・ヘイグ
→過去記事知っていると思うな。考えられると知れ。
とある星から地球に派遣された一存在が、地球人が素数の秘密を解き明かすことを阻止するために、数学者の体を乗っ取って地球人として生活することに……
SFエンターテインメントの体で、人間という存在を究極に客観視する哲学的な1冊。

『屍者の帝国』 伊藤計劃×円城塔
→過去記事生と死をめぐる物語
伊藤計劃の遺稿原稿30枚を盟友・円城塔が書き継いで完成させたという作品。フィクションのキャラクターが豪華共演している。
この作品の冒頭30枚が伊藤計劃の絶筆ということを考えると、すでに死の病で闘病も長く、おそらくは死期も悟っていたであろう著者によって、明らかに生と死について書かれている作品で、それを著者なりに噛み砕いてSFエンターテインメントに仕上げようと目論んでいたことが想像される。そのまま書き続けられなかったことが残念でならないが、円城塔も好きなので、これはこれで楽しめた。

『ジェノサイド』 高野和明
日本の大学で創薬化学を専攻する大学院生に送られてきた、急死した父からのメッセージ。アフリカの奥地で秘密裏に抹殺されようとしている存在。その抹殺を命じられた傭兵たち。難病を抱え死期にいる傭兵の息子。
これらが密接に関わりあって、人類存亡がかかった壮大な話に発展していく。
高野和明は『13階段』以来だけれど、とてもおもしろかったので他の作品も読みたいと思いつつなかなか読めていなかった。『ジェノサイド』もしかり。図書館で文庫の新刊を見かけ、通勤電車内で読むのにちょうどいいと借りた。
なんでこんなに日本人を貶めるのか、その必要性は感じなかったが、それを除けば物凄く楽しめたエンターテインメントだった。ドキドキワクワクしながらどんどん読み進む。かなり残酷で悲惨な描写もあるが、この作品には必要不可欠な要素。
人智を超えたものの思考する世界を考え出さなければならなかった作者の偉業には脱帽。


<nbm大賞>
『羊と鋼の森』 宮下 奈都
ピアノの調律に魅せられた一人の青年の物語。ここにきて、本屋大賞にノミネートされているな。
読みやすい本なのだが、途中で何度も本をそっと閉じ、思いを巡らせた。ゆっくり味わいながら読みたいと思わせるような、こういう本にはなかなか出会えない。
世の中、好きなことをして生計を立てることができるなんて人はほんの一握りだろうし、たとえそれができたとしても思うようにいかないことが多いのが現実だと思う。
大人たちが知ったような顔で子供たちや若者に「夢を持て」とか言ったりするのだが、虚しく聞こえるのが当たり前な気もする。
それでも、誰かが一生養ってくれるのでなければ、人は何かしらの仕事をして生きて行かなければならない。
別に、仕事に限らなくてもよいのだけれど、自分が「すべき何か」もしくは「したい何か」を見つけられないでいる人は多いと思う。
それでも、そんな「何か」はあった方が楽しいし、生活に張りが出るってものだ。
そんなテーマの周辺のもやもやした感じを、特に綺麗に解決はしないのだけれど、もやもやしたままで後押ししてくれたり、意外な方向に転換して進めるようにしてくれる。失敗した肉じゃがを美味しいカレーに変身させてくれるような。
これを読むまでは、上記の『ジェノサイド』が年間で一番面白い作品だったのだが、これを読んでしまってはね。
静かな森の中を散策していたら、目の前が急にひらけて美しい景色に出会ったような感覚。それが山間に沈む夕日なのか、凪いだ海なのか、夜の星々なのか、色とりどりの花畑なのか、人によって違うのだろうけれど。

普段はあまり小説を読みませんが、昨年は私にしては数多く小説を読みました。
小中学生の頃から、音楽を聴き、映画も数多く観てきましたが、2000年代に入った頃から頭打ち感を覚えるようになって、音楽も映画も急激に興味が薄れてしまいました。現在数多く観ているアニメでさえ、そう思い始めています。
それなのに、不思議なことに本への興味は尽きず。電子書籍という形式はあれど、こんなアナログなメディアが生き残っているのは不思議な気もしますが、表現の自由度が高いし、ジャンルも無限に広がっていますからね。
仕事を始めたお陰で、通勤時間という読書に充てられる時間ができたので、今年はたくさん本が読めるかもしれないとワクワクしております。
ラベル:nbm Awards
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2015年09月18日

怪しげな大事典

『西洋異形大全 妖精・幻想動物から幽霊・魔女まで』 エドゥアール・ブラゼー

いきなり中二的なタイトルですみません。
主に西洋における異形のものを網羅した百科事典のような形式の本です。大きくて分厚いですが、挿絵も多く、そんなに活字のボリュームはありません。
著者はフランスの民俗学者・民話作家とのことで、特にフランスにおけるこれらの知識が豊富な印象です。
原書のタイトルを直訳すると『驚異大事典』となるらしく、欧米では「驚異研究」という分野があるそうで。
もとは3分冊だったものをまとめて1冊にしたため、内容に重複があったりするのですが、ここまで詳しく民話・伝承に残る異形の存在を網羅したものは読んだことがなく、興味深いものでした。

聞いたことがないようなものも多く、土地土地に特有の存在が土着的にある一方で、離れている地域同士でも似通った存在がいたりして、伝播したものなのか、はたまた同時多発的に発生したものなのか。人の想像力は同じようなものを生むのでしょうか。
日本には妖怪のような存在があるけれども、日本の妖怪とはちょっと趣が違います。日本の妖怪の方が細分化されていてバラエティに富んでいるというか、存在自体に合理的な理由づけを感じます。例えば、気温・湿度の変化などで家鳴りがするのは妖怪の仕業だとか、行灯の油がやけに減っているのは妖怪の仕業だとか。
西洋の異形の者は、人をさらったり、食ったり、流行病など不吉なことをもたらしたりするものが多く、その他の具体的な行動に起因するキャラクターづけが弱いような。
それと、キリスト教布教以前から存在していた異形の者たちが、いつの間にかアンチキリストのように扱われ、キリスト教によって退治されるようになっているものも多く、画一的で面白みに欠ける気がします。
一方で、ハロウィンのような元をたどれば土着的な信仰だったものがたくさんあり、その辺りが日本の八百万の神々と重なる感じがして、興味深いです。

古代からの言い伝えはもちろん、ギリシャ・ローマ神話に端を発するものから、現代Dの小説や映画に登場するキャラクターまで出てくるのですが、その新旧取り混ぜた雑多な感じは、逆に新鮮に感じます。が、映画について所々触れられているものの、その辺りはあまりお詳しくはない様子。

ひとつ面白かったのは、「蟹」の話。
「蟹」は英語で「cancer」と言いますが、「癌」も同じ「cancer」と言うのは不思議だなと前々から思っていました。
ここでひとつ要らんエピソードを。
10年以上前の話。
ある大型書店で、何の気なしに本を見て回っている時、インド系と思われるスーツ姿の男性から英語で話しかけられました。
「あなたは癌なのですか?」と。
ちょうど手にとっていたのが、たまたま癌に関する本だったのですが、
「いいえ、違います。私は癌ではありません」とテキトー英語で答えると、そこからなぜかお茶に誘われました。
ナンパとかではなく、おそらく英会話スクールか何かの勧誘だったのではないかと思うのですが。
後から考えたら、その人は日本語で書かれた本のタイトルを読み取って、英語で話しかけていたわけなので。日本語が読めるなら、日本語が話せるだろうに。
そんな風には全然見えなかったと思うけど、「時間がないので」とお誘いはお断りをしたのですが、その時、
「あなたはとても”open heart”な方ですね」というようなことを言われました。
知らん人から話しかけられることが多い自分ですが、害がなさそうとかヒマそうとかいうのは当然ながら、やっぱり私は常に「開いて」しまっているのだなと痛感させられた出来事だったのでよく憶えているのです。
それはさておき、英語で話しかけられたので、「cancer」という単語が耳につき、その頃からずっと、「蟹」と同じだよなぁと不思議に思っておりました。
で、本題に戻ります。
この本によると、古来、癌は一種の蟹のようなもので、それが病人の器官に入り込んで内側から蝕み、腫瘍を生じさせると考えられていた、と。
弱った病人に蟹が付け入らないように、病人のそばには蟹を惹きつける乾燥肉を置いたとか。
癌で亡くなった人が出たら、その部屋にはバターの塊とベーコンの欠片を持っていかなければならず、そうしないと周囲の人に癌が移ると考えられていたという話も。
患部に蛙を当てて包帯で巻いておいて、それが食べられていたら癌が治るとか、当てた蛙の弱り方で癌の進行を予測したりもしていたのだとか。
とにかく、「癌」の「cancer」は元々「蟹」の「cancer」からきているということに驚きました。
なんだか眉唾な話なので、ネットで調べてみたのですが、癌がヒポクラテスの時代から蟹に似ていると考えられていたなんて話もあったりして、とにかく関わりがあることだけは確かなようです。

もう1点面白いと感じたのは、日本の民俗文化と共通する点が見受けられることでした。
例えば、「辻」。異形のものが「辻」に現れるという表記がそこここにありました。
「辻」は、日本でも境界の意味がありますし、人の往来が多い場所で、何事か起きやすい特別な場所という意味もあります。
それから、「塩」。異形の存在を避けたり、清めたりするアイテムとして使われていました。
これもご存知の通り、日本でも「塩」は清めのアイテムですね。
面白かったのは、「ゾンビ」が「塩」に触れると、自分が死んていることを思い出し自ら墓穴を掘ってその中に没してしまうというもの。映画に描かれるような人を襲う存在ではなく、元々は意のままに動く奴隷のようなものなので、主人としては塩に触れさせてはならないというわけです。

それともう一つは、「死霊(spectres/specter)」について。
「死霊」というのは、死んだときの状態のままで現れる幽霊のことだと。
同じ幽霊でも、死の原因となった傷などがそのままの状態で現れるのが「死霊」ということらしいです。
ちなみに、「幽霊」はフランス語では「revenant」。これは、「戻る」という意味の「revenir」から派生した言葉で、「戻ってきた者」という意味。
というわけで、「幽霊」は生前の体を伴って出現し、歩くことも話すことも触れることもできるとのこと。
一方、「亡霊(pantomes/phantom)」は、この世に戻ってきた死者の霊。殺人・自殺などで非業の死を遂げたものが多く、死にきれない思いから悪意を持ったものが多いと。そして、実体を持たないので、シルエットだけで現れることも多い。
国が違えば言葉の捉え方も違うかもしれないのですが、こういった違いは考えたことがなかったので、なるほどと納得。

あと気になったのは、クリスマスから1月6日の公現節までを特別な期間と考えているパターンがいくつか。
元々は古代ヨーロッパで冬至を祝っていたのが、キリスト教のクリスマスといっしょになってしまったようなのだけれど。古代ローマのサトゥルヌス祭というのもあり、時期的に似ているものがいっしょくたにされた感もあります。
どうやら、日本で松の内(関東では7日まで)とか言っている間、ヨーロッパではずっとクリスマスで、1月6日になってクリスマス終了ということになるらしいです。

フランスを中心とするヨーロッパの人々の考える異形のもののイメージはなんとなく伝わってきた1冊。
少々フランスに偏りはあるものの、なかなか面白い本でした。
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2015年09月11日

自意識過剰とぼやけた記憶

今日は、ピンとこなかった2冊について。

『東京百景』 又吉直樹
まだ芥川賞が決まっていない頃、図書館に予約を入れて読んだ。この時、私の他に予約している人はいなくて、すぐに借りられた。が、返却する頃には芥川賞が決まっていて、10件以上の予約待ち状態になっていた。『火花』なんてひどいことになっていて、予約件数は400件を超えている。
話題の『火花』については、まったくそそられないので読む気がなかったのだが、せきしろさんとの自由律俳句集『まさかジープで来るとは』は秀逸で気に入っている。(過去記事→まさかエスプリで来るとは)ちなみに、本当は最初の自由律俳句集『カキフライが無いなら来なかった』を先に読みたかったのだが、近隣の図書館にはなくて取り寄せになるため、面倒になって読んでいない。リクエストすれば難なく読めるのだけれど。
元々、比較文化みたいなものに興味があり、出身地とは別の地域で暮らす人による客観的な視点で観る地域論みたいなことに惹かれる。もしくは、都市そのものを考察するようなこととか。ということで、『東京百景』には内容的に興味があり読んでみることに。
これは、又吉さんが芸人として東京で生活することになってから、東京の街々で日々感じたことを書き残したもので、私としてはそれぞれの街がどんな風に目に映るのかということに興味があったのだが、自意識過剰なエピソードに終始してしまって、街の特色は前面には出てきてくれなかった。どの街に居ても、そこは「東京」ということで一括りにされてしまっているような。
訪れる街も、芸人さんが集まるような場所や、自宅周辺とテレビ局やお笑いライブ会場との行き来の間のことが多く、バリエーションが少なく似通っていて面白くない。
又吉さんが文芸作品がお好きであることは、それに憧れているような文体がそこここに出てくるのでよくわかるのだけれど、どこかそんな自分に酔っているようなにおいが感じられて素直に届いてこない。
小説『火花』は、きっとこの文芸作品への憧れの部分がもっと凝縮されたような作品だと想像できるので、私には合わないなと思う。
『東京百景』は、もっともっとドキュメンタリーのようなタッチで淡々と書いてくれた方がよかった。というのは、私の勝手な思いなのだけれど。
人としての心の内の葛藤を期待して読むのなら、期待通りの本と言えるかもしれない。
私個人としては、又吉さんの類稀なセンスは、自由律俳句でこそ活きると思う。
今のこの又吉フィーバーがもう少し落ち着いたら、『カキフライが無いなら来なかった』をリクエストして読んでみようかな。

『忘れられた巨人』 カズオ・イシグロ
カズオ・イシグロは、初めて読んだ。初めてのカズオ・イシグロとしては、チョイスが悪かったのかもしれない。
大体、著名な作家の作品を読もうとすると、私はどうやらその作家の作品の中でも異色なものをチョイスするクセがあるらしい。以前、読書家の会社の先輩に指摘されたことである。「なぜ、最初にそれを読む?」と何度もツッコミを入れられたのを思い出す。
今回もその選択が遺憾なく発揮されてしまったようだ。
『忘れられた巨人』は、カズオ・イシグロとしては異色のファンタジー。アーサー王伝説を背景に描かれている物語だ。
村のはずれに住む老夫妻が、いなくなった息子に会いに行くために村を出て旅をする。
人々に忘却をもたらす霧が蔓延している世界なのだが、こちらもその霧の中に迷い込んでいるような、どうにも不透明でもどかしい夢の中のように頼りなげな感覚が続く。
人々に忘却をもたらす霧は雌竜クエリグの吐く息だったり、鬼が出てきたり、まるで剣と魔法の世界のお話でありながら、それは瑣末なことであって、記憶と忘却についての一種哲学的なテーマが隠れている。ような気がする(笑)
途中、騎士だとか、鬼に噛まれた少年だとか、謎の修道院とか、色々と出てくるのだけれど、それよりもそれぞれの記憶の些細な断片の方が重要なのかもしれないと思えてくる。
ブリトン人とサクソン人の対立の構図も見え隠れして、戦乱のキナ臭さも感じさせるのだけれど、わかりやすく顕在化しないままというかくすぶり続けているというか。
ラストもどう捉えていいのやらという読者に判断を委ねるような終わり方で、スッキリせず。
結局、思い出さない方が良かったんじゃねーの?みたいな。
老夫婦の美しい愛の物語みたいなものかと読み始めたのだけれど、それは見事に瓦解するわけで。いや、すべてが砕け散るって感じでもないところがまたスッキリしないところで。
これを余韻と呼ぶ人もいるのかもしれないけれど、私には向かなかったのでした。

やっぱり、くだらない本ばかり読んでいるから、文芸作品的なものは肌に合わないのかも(苦笑)
ストレスが溜まる本が続いたので、ちょっと息抜きしてから、次は長編古典SFに挑むつもり。
読書体力を戻さねば。
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2015年09月08日

不確定な未来へ

『ラプラスの魔女』 東野圭吾

東野圭吾作品を読むのは、おそらく『白夜行』以来で久々。著者の80作品目ということで、それまでの作品をぶっ壊すという意気込みで書かれたとか。
私は特に東野ファンではないので、楽しめたのだけれど、「東野作品はこうでなくちゃ」みたいなことを期待して読むと、肩透かし感があるのかもしれない。
今回は、少々ネタバレを含むかもしれないので、未読の方はご注意を。

「ラプラスの悪魔」とは、量子論以前、物理学の仮説上の世界観に登場する絶対的な知性の存在のこと。全世界の原子の位置や運動の状態を知ることができたら、世界の未来を予測することも可能だろう、と。この仮定上に出てくる絶対的な知性の存在について提唱したフランスの数学者ピエール=シモン・ラプラスにちなんで、後にそれは「ラプラスの悪魔」と呼ばれるようになった。”全知”といえば「神」となりそうなものを「悪魔」と表現しているのが面白い。
因果律や運命論といった、およそ物理学とはかけ離れた世界が見えてくるこの仮説上の悪魔が現実に存在したら……というのがこの本の根幹。「悪魔」でなく「魔女」だが。

まず登場してくるのは、羽原円華という少女。小学生の頃に母の実家に行ったとき、そこで竜巻に遭遇し、母を失う。
やがてハイティーンになった円華は、特殊な能力を身につけていた。
一方、2つの温泉地で続けざまに硫化水素による中毒死事故が発生する。他殺も疑われる状況とはいえ、硫化水素ガスを誘導することなど可能なのか。地球環境科学を専門とする大学教授の元に調査が依頼されるが、彼は2ヶ所の温泉地で同じ女性を目撃する。それが羽原円華だった……

しばらく読み進むと、これは『フューリー』(1978)だと思った。
実は、ちょっと前に『フューリー』を観返したばかり。ブラピの戦車もの(2014)の方でなく、ブライアン・デ・パルマ監督の超能力もの。原作は、ジョン・ファリスの小説。
念動力を持った青年ロビンが、誘拐され軟禁される。国家の諜報活動に利用しようと訓練が続けられていた。一方で、同じような能力を持つことに悩む女子高生ギリアンが精神分析研究所にやってくる。実は、元々はロビンが訓練していた研究所だったが、ロビンは既に他の場所へ移されている。能力によってロビンの存在を知ったギリアンは、同じ能力を持つ彼と会いたいと願うようになる。やがて、ロビンを探すロビンの父と出会い、それが実現することになるのだが……
正直、同じデ・パルマ監督の『キャリー』(1976)やデヴィッド・クローネンバーグ監督の『スキャナーズ』(1981)ほどのインパクトがなくて、すっかり内容を忘れてしまったため、「どんなのだったっけ?」と観返したいと思ったわけで。
観てみたら、やっぱり地味だったのだけど、超能力やアクションはあまり前面に出ていなくて、父子愛とか、能力者の悲哀みたいなものが主軸だったことに気付かされた。ちなみに、けっこう笑えるシーンがあったのも再発見だった。
で、能力を持つ希少な存在であるギリアンは、そのことに悩みつつ思春期を送っていて、自分と同じような能力者がいることを知って希望を見出すわけだ。誰も理解してくれない自分の気持ちを共有できるかもしれない存在が、彼女にとってどれだけ救いになることか。
って、ロビンは暴走していき、結局はギリアンの救いにはならないのだけれど。それはさておき。
『ラプラスの魔女』でも、円華にとって、かけがえの無い存在が出てくるわけだ。
『ラプラスの魔女』の主軸は違うところにあると思うのだけれど、全編を貫く円華の想いは『フューリー』のギリアンを彷彿とさせた。

ずっと昔に、タバコの煙など乱流の動きは計算できず予測もできないという話を聞いたことがある。
現在は、スーパーコンピュータなどである程度はシミュレーションできるようになっているようだが、例えば、竜巻の発生が細かく予測できないように、ものによってはまだまだ不確実なのだろう。
作品中に出てくるのが、流体力学に関する「ナビエ-ストークス方程式」。
これが解ければ、乱流の動きを予測することができるというが、やはり未だに解明されていないらしい。

以前に、NHKの『サイエンスZERO』で、「第六感」についての研究が紹介されていたのを思い出す。(過去記事→SPEC
熟練の技とか、女の勘とか、経験則や潜在知が微細な変化を読み解くということは可能なのだ。
それが脳に蓄積されているというなら、某かの方法で人為的にそれを強化して「ラプラスの悪魔」を作り出すことも可能なのではないかと思えてくる。
量子コンピュータを開発するよりも、人間の脳の能力を改変した方が早い気もする。
すでにどっかの国が秘密裏に実験していたりして(笑)

とある登場人物の言葉。
「……大多数の凡庸な人間たちは、何の真実も残さずに消えていく、生まれてきてもこなくても、この世界には何の影響もない――さっきあなたはそういった。だけど違う。世界は一部の天才や、あなたのような狂った人間たちだけに動かされているわけじゃない。一見何の変哲もなく、価値もなさそうな人々こそが重要な構成要素だ。人間は原子だ。一つ一つは凡庸で、無自覚に生きているだけだとしても、集合体となった時、劇的な物理法則を実現していく。この世に存在意義のない個体などない。ただの一つとして」


ちょっと説教くさいし、意味を読み間違えると恐ろしいのだけれど、人間一人一人を原子と捉えると、一人一人が乱流を構成する大事な一要素なわけで、ひとつ欠けるだけでその行き着く先は変化していってしまうのだ。
そういった意味で、絶滅していい種はないし、必要ない人間もいない。
ただ、人間には個々の意思があるから、それだけ未来は不確定なものだと言えるかもしれない。
逆にいえば、未来はいくらでも変化可能だということになる。

私は、未知の領域に一歩踏み込んでいるような怪しげな科学が大好きだから、物語としては多少強引だったし、もう少し登場人物の心象を深く描いてもらいたかったような気もするけど、エンターテインメントとしては楽しめた作品だったと思う。
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2015年08月04日

「if」の話

『もしも、詩があったら』 アーサー・ビナード

著者は、米国生まれの詩人。1990年に来日してからは日本語で詩作しているらしい。
世界中の詩を紹介しながら、「もしも」と考えることの面白さについて語っている。
ニヤリとする箇所は多いのだが、客観的に見る日本語の表現の捉え方が興味深い。落語や古典や古い和歌までひっぱり出されるが、日本人の自分が知らないことばかり。

日本語が曖昧な言語だと言われていることについて語っている部分で、引き合いに出されている言葉が「tag」という英語。「鬼ごっこ」を指す言葉で、元々はtouchとかtapと同様の意味の「tag」。
日本では「鬼」と呼ばれる役割が、「tag」では「it」と呼ばれるらしい。heでもsheでもない、得体のしれない存在。人でないもの。
スティーブン・キングの作品に、正体不明のピエロに追い掛け回される「It」というのがあるけれど、あれはこのニュアンスだったのかと合点がいった。
また、著者は12歳の頃に飛行機事故で父親を亡くしているということだったが、そのときのことを「itに思い切りタッチされ、いきなりitになって呆然と立ちすくんだ」ようだったと言っている。一夜にして、とても背負いきれない負担と、果たせない責任がのしかかる。タッチされた瞬間に、ガラリと変わる世界。
なんて非情なんだろうか。一瞬で自分の有り様が変わり、世界が変容するという体験は、別の誰かに入れ替わるのと似ているのかもしれない。

もうひとつ、あとがきで面白い逸話が紹介されていた。
「ゴーダムの賢者(Wise Man of Gotham)」という話。このいいまわし、英語では「バカ」の代名詞になっているという。マザーグースにもネタにされているのだが、こんな話。
イギリスのノッティンガムにほど近いゴーダムという村は、昔から住民がみな何もわからないことで有名だという。しかし、実はこれは賢いゴーダムの住民たちの知恵がもたらした偽りの評判。ジョン王がのどかなゴーダムに宮殿を建てようと考えていることを知ったゴーダムの人々が、農地を取られては堪らないと愚かなふりをして追い払ったというわけ。ネット上で検索してみると、詳細が異なる話もあるが、大筋はこんな感じ。
「ゴーダム」と表記されているが、綴りを見るとこれは「ゴッサム・シティ」の「ゴッサム」だね?
調べてみると、やはり。『バットマン』シリーズの舞台となる「ゴッサム・シティ」は、この「ゴーダム」から取っているらしい。モデルになっているのはニューヨークみたいだけど。

英語の詩は英語のままで載っていて、対訳がついているので、英語の勉強にもなる。英詩を声に出して読んでみると、韻を踏んでいるのもよくわかって面白い。

人々の思考停止を突こうとするのが詩。


あとがきの中での著者の言葉。
たしかに。
文学を要らない学問だと見る向きもあると思うのだけれど、計算で算出できず確実な答えのないものを延々と考え続けるという意味では、他の学問にはない何か重要な事が隠れているような気もする。

哲学的過ぎたり、説教くさかったり、読んでいるこっちが恥ずかしくなったりというような詩も多い中、この本の中で取り上げられているものは取っ付き易いものが多い。
「もしも」と仮定すると、妄想は無限大に広がっていく。人間の脳みその中に宇宙が広がっているようで、どこか明るい方へと向かっているような気持ちになってくる。
軽い読み物としては、なかなかに楽しめた1冊。
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2015年07月30日

都会の真ん中の実験林

今年の5月初め、NHKで放送された『明治神宮 不思議の森 〜100年の大実験〜』。
明治天皇が崩御された時、民意から神社を求める気運が高まり、建設しようということになった。そして、選ばれたのが、当時荒れ地だった代々木。
時の内閣総理大臣であった大隈重信は、伊勢神宮や日光の杉並木が頭にあったのかスギを植えることを強く訴えるが、林苑造成を任された本多静六は頑としてこれを拒否。スギは代々木には適さず、生育が良くないことを科学的データを提示して諭したという。
日陰でもよく育つカシ、シイ、クスなどを主木として大小各種の常緑広葉樹を混ぜて植える構成木。そして、風致木が2種。ひとつは、後々枯れるかもしれないが、クロマツ、ヒノキ、サワラなど梢のさきを描く樹木。もうひとつは、彩りを添える意味でイチョウ、エノキ、カエデなどの落葉樹。他に、都市の空気に強いイヌツゲ、マサキなどの樹木も選定された。
全国からこれらが献木され、ドイツで林学を修めた本多静六を中心に当時の最先端の林学を駆使して植えられた。
樺太、朝鮮、台湾を含む全国各地から寄せられた10万本余りの樹木が、のべ11万人の勤労奉仕等で植林や参道作りが行われた。
大正9年(1920年)に鎮座。

それから90年を越え、2020年に100年を迎えるという明治神宮の森で、平成23年に大規模な動植物の生態調査が行われることになった。普段、立ち入りが禁止されている聖域の調査が、特別な許可のもとに各分野の専門家たちによって開始された。
この調査を映像に収めてまとめたものが上記の番組である。都会の真中とは思えないような豊かな生態系に、各分野の専門家たちが狂喜する姿が印象的だった。
NHKスペシャルでたった1回の放送だったのだが、もっとじっくりシリーズ化して放送してもらいたかった。物足りなさが残った番組だった。

しばらくして、これらの内容がまとまった写真集を発見。迷わず図書館に予約した次第。
それが、『生命の森 明治神宮』(執筆 伊藤弥寿彦/写真 佐藤岳彦)。
伊藤弥寿彦さんは、NHKの自然番組を数多く手がけているプロデューサーで、曽祖父が伊藤博文というお家柄。祖父が、品川区大井にあった自宅「恩賜館」を明治神宮に奉献したのが、現在の明治記念館(憲法記念館)だという。
佐藤岳彦さんは、伊藤弥寿彦さんとの山中やネット上での偶然の出会いがあり、非凡な写真と生きものに関する幅広い知識が評価されて、この壮大なプロジェクトに加わることになったという。
佐藤岳彦さんの写真が掲載されているブログはこちら→Tef Tef Life Blog
虫やヘビなどの画像が多いので、苦手な方はご注意ください。

花々や木々も美しいのだが、やはり珍しいものや動物たちに目がいく。
東京23区内では極めて珍しいというトゲアリ、清流がないと生きていけないオニヤンマ、アサギマダラや珍しいシジミチョウの類、青々しいルリビタキ、オシドリに襲いかかるオオタカ、虹色に光るタマムシ、多様なキノコ、ユニークな粘菌類などなど。

でも、やっぱり物足りない……
もっともっと膨大な数の生きものたちが見つかっているはずである。

自然豊かな山間の地であれば、そう珍しくもないようなものが多いのかもしれないが、これが都会のど真ん中、しかも人工林で育まれているというところが非常に面白い。
ところが、いいことばかりでもなく、土中には変化が見られるという。
ミミズ、ダニ、トビムシなどの土壌生物は、自然度をはかるバロメーターになるのだそうだが、動物のうち土中生物だけは鎮座50年のときに調査されていたそうで、そのときと比べるとササラダニ類が種類も個体数も激減しているのだという。
おそらくは、ヒートアイランド現象などで都心部の気温が上昇し、土壌が乾燥化するなど土中の環境が変化しているのではないかということだった。
最近何かと話題になる外来生物だが、周囲に自然環境がなく陸の孤島のようになっていることと、立ち入りが禁止されている場所ということで、外来生物はほとんど観られないのだそうだ。

人の手が入らない巨大な実験林。
これからも都会の中でひっそりと、その自然の営みを続けていってほしい。

うちの近所は、開発が進んでいるとはいえ、まだかろうじて雑木林が残る地域。
マンションの廊下には、毎日カナブンやハナムグリ、ときにはカブトムシやクワガタが落ちている。先日は、ちょっときれいなハナムグリを発見。全体に金箔をまぶしたように見えた。調べると、シロテンハナムグリのようだ。環境の悪化に強く、近年勢力を拡大しているのだという。
見かける頻度としてはまだカナブンやほかのハナムグリの方が多いが、だんだんとシロテンハナムグリが優勢になっていくのだろうか。
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2015年07月22日

苦手に挑戦&話し言葉について

本を読むのは好きなのだが、読めないジャンルがある。
それが、中国文学。
カタカナの羅列はまったく抵抗がないのに、見慣れぬ漢字で名前を書かれると点で頭に入ってこない。
会社員時代に少々入院することになり、これは本を読む絶好のチャンスだと思って病室に持ち込んだのが陳 舜臣の『十八史略』だった。『三国志』さえも読んだことがなく、中国文学への苦手意識は以前から自覚があったので、時間があるのをいいことにチャレンジするつもりだったのだが、まったく読めず。手にとってはみるものの、読むことにかなり無理を感じて、読み進むことができない。
病状は大したことがなかったのに、病院のベッドの上というのは集中力が失われて本なぞ読めたものではないものだと悟ったが、それにしても全く読めなかったのには我ながら驚いた。
小学校低学年の頃には『西遊記』が大のお気に入りだったはずなのに……
それからというもの、中国文学は敢えて読むことはなくなった。おかげで、今でもそちら方面はちんぷんかんぷんである。

そんな私が何十年ぶりかで中国文学的なものに触れた。
万城目学『悟浄出立』
万城目学の小説はすべて読んできたので、これも読んでみようと思った。内容は知らなかったが、タイトルからして想像はつく。
悟浄の名があったので、全部が西遊記関連なのかと思ったら、そうではなかった。短編が5つ載っているが、それぞれにモチーフが違う。
中国の古典を避けてきた私にとっては、名前は聞いたことがあるけれども、どんな人だったのか、どんな史実に登場してきたのか、わからないことばかり。当然、まったく知らないこともたくさん。
知らない人や言葉が出てくる度に、ネット検索しながら読み進んだ。いろいろと勉強になったが、一番印象に残った言葉は「殺青(さっせい)」だった。紙以前に記録を記していた竹簡を作る過程で、竹を炙ることをそう言うらしい。炙ることで竹の油分を取り、文字を書きやすい状態にすると同時に、燻すことで虫除けの効果も付与されるらしい。現代でも、竹紙を作る過程では清水につけることを殺青と言っているようだし、お茶の葉の精製過程でも茶葉を炒って発酵を止めることを言うよう。茶葉の場合は、天日干しすることも殺青というらしい。文字通り考えるなら、「青い」状態を止めるということになるんだろう。
『悟浄出立』の内容については、中心からはずした目線で描かれ、古典や故事が元ネタになりながらも、豊かな想像力で書かれたものだということはわかるし、その力量には感服するのだけれど、これまでの万城目学作品としてのファンタジックな面白みやコミカルさは封印されているかのようで感じられなかった。作家としての新たなチャレンジだったのかな。

ここからは、本の内容とは大幅にズレる。
短編のひとつ「法家狐憤」は、後に秦の始皇帝となる王を暗殺しようとした荊軻という男の話。
この荊軻には、衛という国の訛りがあるということで、その荊軻が官吏の採用試験に落ちたときのセリフ。
「アア、マッタク、残念ナコッチャ」

1冊の中でこの一言だけが万城目学作品らしいフレーズだったのだが、中国国内での訛りをこう表現するか、と。
会社員時代、同僚に中国人のコがいて、彼女の妹さんの結婚が決まったが、ご両親は喜んでいないという話を聞いた。どうしてと尋ねると、中国国内とはいえ遠く離れた言葉もわからない地に嫁に出すなんてと浮かない顔なのだそうだ。方言があるのかと聞くと、方言どころの話ではなく、まったく別言語に聞こえるくらい言葉が違うのだそうで、外国に嫁にやるようなものだ、と。そんなことを思い出した。

で、昨日の昼、テレ東でやっていた映画『TAXI NY』。
冒頭部分をちょっと見かけただけなのだが、テレビ版の吹き替えがすごかった。
キューバ訛りを関西弁に置き換えて吹き替えがされているらしく、キューバマフィアがみんな関西弁でしゃべっている。そのマフィアの元で潜入捜査している刑事役の小山力也さんが下手くそな関西弁を披露しているのだが、小山さんは実は京都出身なので、本来なら関西弁はお手の物のはずなのだ。つまり、わざと関西弁を真似してしゃべっている体で吹き替えしているという……
小山力也さんは、『24』のジャック・バウアーなどが有名だが、素でしゃべらせるととんちんかんなことを言うおちゃめな御仁である。

私は、埼玉生まれ埼玉育ちなのだが、両親が佐渡出身なので、ところどころが関西イントネーションになっているらしい。佐渡は、関西に権力者がいた時代にそういった層の流罪地だったことや北前船の影響などがあるようで、関西イントネーションである。ずっと気付かずにきたが、ダンナさんと知り合ってからは、時折指摘されてきた。
先ごろ話題になっていた「方言チャート」によると、埼玉県は東京と同じくくりで武蔵方言ということになっていた。
おおまかな分類ではそんなところだろうが、私の育った地域では、地元の農家のおばあちゃんなんかは「〜だんべ」と語尾についたり、自分のことを「オレ」と呼んだりして、北関東っぽい話し方をしていた。
「来ない」を「きない」と読み、四段活用ができないヤツがクラスメイトにいたりもした。
「方言チャート」をやってみたら、「神奈川県」になってしまったが、少し分岐を戻って「あるって」で「武蔵方言」と判断された。
埼玉県とはいっても、元々は東京や北関東、千葉・神奈川あたりの言葉だったものを無意識にまぜこぜにして使っているようだ。
なので、埼玉県だけに特有の方言というのは無いような気がする。

自分が普段から使っている言葉で、方言だと思っていなかったが実は方言だったという言葉には時折気づくのだが、今回この記事を書くにあたって調べていた段階で気づいたのは「落っこちる」「落っこった」。よくよく考えればそうだよな。「落ちる」「落ちた」で済むものを言い換えているのだから。
色々と見てみたところ、「首都圏方言」というのがあり、自分の言い方のアクセントがずばりそのものだった。共通語と思いきや、共通語とは違いがあるのだ。
詳しくは、Wikipediaの「首都圏方言」などをごらんください。
使用する言葉は、関東一円から影響を受けているようなのだけど、アクセントに関しては「首都圏方言」ですわ。たまに関西イントネーションが混ざるけど。

一番よく話すダンナさんが、たまに江戸の下町言葉が混ざるけど同じ武蔵の人間で、友人たちも関東出身者が多いため、方言を指摘される機会がほとんどないのだが、本当はもっと方言を話しているのではないかと思っている。そうでもないのかなぁ。
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2015年06月26日

アーバン・エクスプロレーション

今日は、『世界の廃墟』(監修・解説 佐藤健寿)について。
世界の名だたる廃墟を収めた写真集。
戦災によるもの、エネルギー開発と産業によるもの、都市と経済の栄枯盛衰によるもの、自然災害によるもの……廃墟と成り果てた理由は様々だが、人間の愚かな側面を突き付けられているようで興味深い。
この記事のタイトルに挙げた「アーバン・エクスプロレーション」は、「都市探検」と訳される。
日本ではここ数年、廃墟ブームが続いているような気がするが、実は世界でも流行っていて、「Urbex」とか言っちゃったりしてSNSが乱立しているとのことで、立入禁止でともすれば逮捕されかねないような世界の廃墟を探検する上での裏情報がおおっぴらに交換されているらしい。
佐藤健寿さんのネットでのインタビューを読んだところ、「遺跡」の意味も含む英語の「Ruin」と日本語の「廃墟」では意味合いが微妙に違うそうで。「Haikyo」という単語が使われだしているのだそうだ。
日本では、廃墟にさえ侘び寂びを感じ取るような向きがある。その辺が「Ruin」とは違うようなのだ。

さて、世界各国の26の廃墟が紹介されているこの写真集。
やはり、表紙にも使われている「ブルガリア共産党ホール」は圧巻である。UFOのような外観も内部から観たドームも建築物として美しい。この建物が建つバズルージャという土地は、14世紀の昔から国の運命を左右する戦乱の舞台となった地域らしく、1981年に共産党が社会主義を称えるべく、この地にモニュメントを建設したが、それからわずか7年で共産党政権が崩壊し廃墟に。

個人的に一番印象的だったのは、イギリスのテムズ川河口付近に建つ「レッド・サンズ要塞」。
第二次世界大戦中、敵国ドイツの爆撃機を撃墜するために作られた海上トーチカ。対空機関砲を備えた海上哨戒塔が6つと監視塔。『スターウォーズ』に出てくる4本脚のメカ(AT-AT)みたいに見える。
戦後、放置されていたこの要塞は、海賊ラジオ放送の拠点となったそうで、果ては独立国騒ぎにまで発展。見た目だけでなく、エピソードも面白い。

ゲーム『サイレント・ヒル』のモデルとなったアメリカ・ペンシルヴェニア州のセントラリア。炭鉱の町で起きた地下火災は50年経っても沈下する気配を見せずに燃え続けている。
エネルギー産業と自然災害との合わせ技で廃墟となった町。ホラー・ゲームの元ネタになるには十分にドラマチック。

第二次大戦中のフランスで一夜にして人間が消えた村オラドゥール=シュル=グラヌ。
レジスタンスの巣窟との噂から、ナチスが村人650人ほどを教会に閉じ込めて機銃掃射し、火を放ったという。村人ほぼ全員が殺害されたため、一夜にして廃墟と化したという。
こういった村がそのまま遺っているということに驚く。
モニュメント的に遺してあるのか、起きた出来事のあまりのおぞましさに人々が近づかないのか。

この写真集とは別に、つい先日知ったことだが、フランスには「ゾーン・ルージュ」(英語で言えばレッド・ゾーン)と呼ばれる立入禁止区域があるという。
第一次世界大戦後、数多くの不発弾の処理や戦争の犠牲となった方の遺体の回収がし切れずに放置されているというが、その広さは100平方キロメートルほど。パリ市の面積に匹敵するとか。
不発弾は爆薬だけでなく、化学兵器もあったらしく、それらの毒素や鉛などが土地や水に溶け今も高濃度で残存しているため、農地や人の住む場所に戻すことは難しいらしく、700年かかるとも不可能とも言われているそうだ。
ベルギーとの国境に近い地域に、こういった広大な危険地帯が残っていて、徐々に安全を確保しつつ農地として開放されたりしているらしいが、残った不発弾が爆発して危険な目に遭う農民もいるのだとか。
第一次世界大戦から100年も経とうかという今の時代に、こんなほぼ手付かずの負の遺産が残っているとは知らなかった。他に調べていないが、何もフランスに限ったことではないかもしれないな。
南太平洋の島々での遺骨収集のボランティアに参加している知り合いがいる。考えてみれば、第二次世界大戦の後始末も滞っていて、いまだに細々と行われているわけだしな。
日本国内だって、工事で掘り返したら不発弾が出てきて自衛隊が処理したなんて話を時折聞くわけだから、こうした戦後処理は半永久的に終わらないのだろうな。

話は写真集に戻って。
新しいところでは、アメリカ・ミシガン州デトロイトの高級住宅街ブラッシュ・パーク。
2013年、自治体としては史上最大の負債を残して破綻したデトロイト。
かつては自動車産業で栄えたこの町も、80年代に日本車が台頭しはじめたことで主要メーカーの売上が激減。町は壊滅的な経済的被害を被った。人口は半減し、犯罪が急増。高級住宅街だったこの街は、エミネムが象徴するように白人貧困層の街となってしまった。
ちなみに、エミネム主演の映画『8Mile』(2002年)の「8Mile」とは、貧困地区と高級住宅街を隔てる道路の名前だそうだ。
今現在も、世界中で着々と廃墟は作られているわけだ。

先日、放送大学で見かけた番組で、佐渡金山の近代産業遺産が紹介されていた。
両親共にこの金山付近の出身であるため、幼少の頃から何度かこの地を訪ねてはいるものの、残念ながらこの近代産業遺産群は観に行ったことがない。最後に行ったのは、大学生の頃だったが、そういった遺産群のことは当時は知らなかった。今、この地を訪ねたならば、絶対に観に行くのだけれど。
件の番組では、博物館学みたいなことをやっていて、つまり、日本でもこれだけ観るべき近代産業遺産が集約されて遺っている場所は珍しいということで紹介されているようだった。

ちなみに、この7月から、テレビ東京で『廃墟の休日』という深夜番組が始まるそうで。
「ドキュメンタリー×ドラマ」だそうだけど、ちょっと楽しみにしている。
テレビ東京は、こういうニッチなことをやってくれるから侮れない。

こういった写真集を見るにつけ、世界には本当にまだまだ知らないものがたくさんあると痛感する。
廃墟となったエピソードを聞くにつけ、植物が芽を出してから生長して花を咲かせ、やがて枯れるまでを早回しで見せられているような気がする。
生きとし生けるものも、人間が生み出した人工物も、生まれては朽ちて消えていくのだな。そして、今この瞬間も、地球上のあらゆるところであらゆるものがその過程の只中にあるわけだ。自分も然り。地球も然り。他の星星も然り。
壮大だなぁ。
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2015年05月08日

知っていると思うな。考えられると知れ。

本日は、本の話。

『今日から地球人』
 マット・ヘイグ

あらすじはこうだ。
ケンブリッジ大の数学教授アンドルー・マーティンが、リーマン予想を証明することに成功したらしい。それを知った異星人が慌てて、証明に成功した本人や証明したことを知る彼の家族や友人・知人を抹殺しにやってくる。
強欲で暴虐な地球人が、素数の分布の規則性を示すリーマン予想の秘密を知ってしまうと、そこから飛躍的に様々な技術を進化させ、他の星々やそこに存在する生命体を脅かす存在になると考えられたからだ。
ヴォナドリアという星から派遣された一存在が、アンドルーを抹殺し、その身体を乗っ取って、リーマン予想の証明の痕跡を消すべく暗躍するのだが、人間のふりをしながら人間と接しているうちに、人間というものを好きになってしまい……というお話。

一応、SFとしての体裁は保っているのだが、この本はなんだろう。
超のつく客観性で人間を観察し、人間について語る様は、まるで哲学書のようでもあり、物事の本質に迫る詩のようでもある。
くだらないことの連続でありながら、ギュッと心臓を鷲掴みにされるような瞬間もあり、場違いな感動で涙腺を攻撃してくることもある。
要するに、人間賛歌の物語なのだ。といっても、さほど押し付けがましかったり説教くさかったりしない。とても科学的にニュートラルに語られる人間という存在。

人間には寿命があり、老いや病で苦しむこともある。それを自覚していてなお、日々の生活を淡々と過ごすことの偉大さ。
永遠の命を持ち、苦痛を感じることもないヴォナドリアの生命体からすれば、野蛮な未開の存在であるはずの地球人=人間が、そんな苦痛や死の恐怖に耐えながら平穏に日々を送っていることに驚愕するのだ。

話は、突如として高速道路上に現れた、裸体のアンドルーが車にはねられるところから始まる。
そんなに知的レベルの高い星からやってくるのなら、もうちょっと色々と調べてから来いと思うのだが、服を着るべきであることがわからなかったり、言語も覚えてこなかったりで、なかなかなドジっ子さんだ。
偽アンドルーは、妻や息子や友人たちと接するうちに、人間に好意を持つようになるのだが、衝撃を受ける存在としてグリゴリー・ペレルマンの逸話が出てくる。ポアンカレ予想を解いて、フィールズ賞などを受賞したにもかかわらず、「金にも名声にも興味はない」と受賞を辞退し、高額な賞金も受け取らず、貧しい隠遁者のような生活を続けたことで知られている天才数学者。人間とは強欲な存在ではなかったのか? 思い描いていた人間像と異なる例を発見して、人間は醜悪なものだと思いこんでいたことが覆されていく。

エミリー・ディキンスンの詩に傾倒していく偽アンドルー。ピーナッツバターを美味しいと感じるようになり、音楽が心地よく聴こえ、飼い犬をなでることで和むようになっていく。
実は作者は、パニック障害の只中で執筆しているという。過剰なほどの人間肯定は、自己肯定への願望から生まれたのかもしれない。
あとがきでこの事実を知って、妙に納得した。

エミリー・ディキンスンの詩については、そのうちに読んでみようと思った。
本の中でひとつ気になったものを挙げるとすると、それは「ドレイク方程式」だ。
地球が存在する銀河の中に、高度な文明が存在する可能性を計算する式。
この方程式についての詳しいことは割愛するが、天体物理学者の推定によれば、銀河系には生命を有する惑星が数百万個はあるはずで、宇宙全体となればものすごい数になるはずで、中には優秀な科学技術を持った生命が存在する惑星もあるはずなのに、我々地球人に接触してくる地球外文明が存在する証拠が皆無であることは、「フェルミのパラドックス」として知られている。
ちなみに、「ドレイク方程式」が考案された1961年当初に導き出した「人類とコンタクトする可能性のある地球外文明の数」は、「10」。しかし、方程式の各種パラメータをどういじったとしても、1より大きな数になるという。
ゼロではないということは、星星の数から考えれば気の遠くなるような小さな数字だったとしても、すごいことだと思う。

本日の記事のタイトルは、偽アンドルーが息子というひとりの人間に贈る97のアドバイスのうちのひとつ。
ちなみに、「97」も素数で、偽アンドルーは人間の魅力に抗おうとしたときに「97と同じくらい強く、孤高でありたい」と願う。

人間というものや人生に疲れてしまった人が読んだら、ちょっと元気になれるかも。
細かいところにツッコんだら負けだと思うので、おおらかな気持ちで読んでみると、読後は目に映る景色が変わるかもしれない。
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2015年04月09日

赤・緑・青、それから

今回は、本の話。動物と「眼」に関係する3冊です。

『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』
 アンドリュー・パーカー
人類はおろか恐竜などさえまだ存在しない今から5億4300万年前、今現在の動物に通じる主要な種のすべてが一斉に大進化を遂げた。世に言う「カンブリア紀の爆発」だ。それは地球の歴史からすれば、ほんの一瞬の出来事に過ぎない。
この生物進化の爆発を起こした原因は一体何だったのか。その謎に迫るのが、この本のテーマ。
タイトルで思い切りネタバレしているが、生物が眼という機能を獲得したからであるという「光スイッチ説」が著者の主張。
何をそんな当たり前なことをとお思いになるかもしれないが、よくよく掘り下げて考えてみると、とても興味深いことなのである。なにしろ、カンブリア紀以前には、生物に眼はついていなかったのだから。
肝心な眼の話はひとまず置いておいて、爆発的進化のそのときに具体的には何が起こっていたのかというと、体を覆う硬い殻を突如として獲得したのだという。それが、生物の多様性につながっていくのだが、短期間に多様性を爆発的に増大させるには、生死に関わるような大きな要因があったはずで、それが何かという話なのだ。
それを踏まえて、化石を詳細に観察して調べたり、今現在の生物から類推してみたりしながら、仮設を立てて検証していくわけだ。
例えば、現在の深海を考えてみると、深くなるに連れて種の多様性は激減する。これは、光の減少によるのではないかと考えられる。
生物がどのようにして視力を獲得したかというと、始めはただ明るさを感じるだけの斑点でしかなかったものが、段々と進化してレンズを形成するようになり、我々ヒトを含む多くの動物がカメラ眼と呼ばれる眼を持つに至った。
なぜに視力が必要になったかといえば、生物についてシンプルに考えればわかる。生物が生きていくためには、食べることも大事なことではあるのだが、同時に食べられないことも重要なことだと言える。食べるために餌を探す、また、食べられないために対処する。この2つの重要な課題を解決するのに、視力は絶大な力を発揮する。
というわけで、カンブリア紀以前の生物には眼がなかったのに、カンブリア紀には突如として眼が生まれた。眼が生まれれば、生物にとって外観というのは非常に重要性を帯びてくる。相手にとってどう見えるのかは命に関わる問題だからだ。そうして硬い殻に覆われた生物が爆発的に誕生していく。
逆に言えば、カンブリア紀以前にはオフだった光スイッチが、カンブリア紀でオンとなり、今現在までオンのままだということになる。大きさも、形も、色もわかるようになり、相手の行動もわかるようになった。餌になる生物の様子も、自分の生命を脅かす捕食者の様子も、眼で見ることで格段にわかりやすくなったわけだ。
さて、ではなぜその時期に急激に眼という機能が生じたのかという大きな謎が残る。当時の環境で、なんらかの形で光量が急激に増したことが考えられるのだが、これまたその原因がわからない。
ひとつには、太陽光線そのものが増えた可能性、それともうひとつ、当時の棲息区域は海中だったわけなので、水や大気の透過性が高まったという可能性も考えられる。46億年前の太陽は、今よりも30%ほど暗かったのだそうだが、いつどのようにして光量が増えたのかはわかっていないという。火山活動による霧によって日光が遮られていた期間があったという説もあるが、その霧が急激に晴れるような出来事がカンブリア紀にあったと仮定しても、それが何だったのかわからない。太陽系が銀河系の渦巻きアームの中に入ると、太陽系が「オールトの雲」を通過することになって、その影響で地球の大気が不透明になって太陽の光量が減ると考えられるという。「オールトの雲」を抜ければ、透過性が増すわけだ。
結局、真相はわからないのだけれど、「カンブリア紀の爆発」に関しては、眼の誕生が原因だったというところまでは理にかなっている。
この本の主題は別にして、興味深い話題があった。
色の見え方の話で、少し前に話題になった「ドレスの色問題」に通じる話もあった。三葉虫の複眼の説明の中に出てきたのだが、三葉虫のレンズは方解石でできている。この方解石とは、チョークの原料でもあるのだが、チョークは顆粒状の方解石が光を散乱させるために白く見えるのだという。光の散乱は構造によって色の見え方が決まる構造色を生み出す。白く見えるか青く見えるかは、散乱を引き起こす成分の大きさしだいで変わるということ。チョークの散乱成分は顆粒の比較的大きな方解石なので、白色光に含まれるすべての波長をあらゆる方向に均等に反射させ、白色に見えるというわけだ。
ちなみに、「方解石」というものがよくわからなかったので調べたところ、いわゆる石灰岩を構成する石灰石で成分は炭酸カルシウム。美麗なものは大理石と呼ばれる。無色透明な結晶体もあり、複屈折(向こう側が二重に見える)する特徴がある。この辺を追求しだすとまたドツボにはまりそうなので、この辺で撤退。
余談だけれど、例の人によって色が違って見えるドレスの話。私は、最初は「白地に金のレース」に見えた。ところが、数分後には同じ画像が「青地に黒のレース」に見えた。その後、見る度に2つのパターンを繰り返す。よくよく観察していると、見始めは「白地に金」に見えるのに、段々と色が変化してしまい最終的に「青地に黒」に見えるようになる。で、あらためてまた見始めるとまた「白地に金」で、まるでモーフィングの動画でも見ているみたいに「青地に黒」へと色が変化してしまう。元ネタ写真の光量を人それぞれに類推することによって見え方に違いが出るということらしい。要するに、色の恒常性の問題(脳内補正)や各人のホワイトバランス機能の問題らしいのだけれど、光量が脳の設定する見え方を左右するということにもなり、とても面白い。私は見え方が変化してしまうので、脳の判断が固定しにくいタチなのかもしれない。
話を本に戻すが、魚が銀色をしているのは、光の散乱を利用して捕食者から身を隠すためだ。青色を反射する膜・緑色を反射する膜・赤色を反射する膜を重ねて装備すると、日光がそれぞれの膜でそれぞれの色を反射し、その結果極めて明るい白、つまり銀色に見えることになるという。これが構造色という仕組み。
体表面の構造を詳しく観ると、カンブリア紀の生物も構造色のしくみを備えていることがわかり、虹色だったことが判明したという。ウィワクシアやマルレラなどバージェス動物群が、虹色に輝きながら泳いでいる復元図を観るだけでも楽しい1冊。

『仕掛絵本図鑑 動物の見ている世界』
 ギョーム・デュプラ
上記の本を読んでいるとき、プリュムさんのブログ「モザイクな生活」(→該当記事)で紹介されているのを見て、そういえば書店で見かけて読みたいと思っていたのに忘れていたと思い出した。早速、図書館に予約。
色んな種類の生物の眼が描かれている部分に仕掛けがあって、仕掛けを開くとその生物の視界が再現されている。同時に解説も読めるので、とてもわかりやすい。
視力や色の見え方だけでなく、視野や動体視力まで教えてくれる。
上記の本を読んで、見ることを獲得した生物が、どのようにしてそれぞれに眼を発達させていったのか、非常に興味深く読んだ。以前に活字でこういう風に見えていると読んで知っていることでも、実際に絵で表現してもらうととてもわかりやすい。
アカリスは、リスやネズミの仲間では珍しく2色型でなく赤色までわかる3色型だという。何か赤いものを認識することが重要だったんだろうか。食べ物かはたまた天敵の色か。でも、他のリスやネズミには要らない機能だったわけで、不思議だな。
コウモリが視力を退化させて超音波レーダーを搭載したように、棲息する環境によって、眼以外の器官を発達させる生物もいるが、それぞれの戦略で特化した眼を備えていくのが面白い。
動体視力については考えたこともなかったが、例えばカタツムリはヒトの6分の1程度しか認識できないらしい。ヒトからすると、コマ落ちしているみたいに見えるはずだ。逆に、ミツバチは1秒間に最大300もの像を見分けることができるらしい。この本の最初の解説では、ヒトは1秒間に16コマしか認識できないと書いてあるけれど、ミツバチの話の中では、ミツバチはヒトの15倍認識するとあり、つまり20コマ認識できるってこと?
調べてみたら、ヒトがひとつの像を目で捉えて脳が認識するまでに0.05秒かかるらしいので、やはり1秒間に20コマが限界ということらしい。でも、フレームレートは映画が24fps、テレビが30fps、最近は60fpsのゲームなどが登場してきているらしい。これまたこっちの方向に進むとドツボにはまりそうなので引き返すが、ヒトの脳が認識できるとされるコマ数よりも実際に流通している映像のコマ数の方が多いということになる。
精神ダイブしたわけでもないのに、よくそれぞれの見え方が解明されたものだなと感心する一方で、チョウの複眼の見え方は未だに解明されていないという。
ミミズの見え方はただ光を感じるだけの白い世界なのだが、なんだか絶望的になる。ヘビの一部は赤外線を感知できると知ってはいたものの、ヘビから見える世界を見せられると、まるで『プレデター』のように見える。暗闇に赤く光る温度を持つもの。逆に言えば、ヒト型の生物でもそういう進化をしていたら、『プレデター』みたいな視界になったんだろうなと。
仕掛絵本とはいえ、内容はけっこう難しく、子どもも楽しめないこともないと思うが、大人向けかな。

『世界一の動物写真』 日経ナショナルジオグラフィック社
こじつければ、こちらはカメラという眼で動物を観たことになるのか。
1960年代に始まった「ワイルドライフ・フォトグラファー・オブ・ザ・イヤー」という自然写真コンテスト。その50年の受賞作品を集めた写真集。
写真技術やカメラの性能などの進化に関する解説をしつつ、様々なテーマごとに美しく珍しい動物や植物の写真を紹介してくれる。
「幻想的な沼地を飛ぶアジサシ」(ジム・ブランデンバーグ」は、印象派の絵画のように美しい。霧に包まれた森のアナナス」(ブライアン・ロジャース)は、一幅の墨絵の掛け軸のように美しい影絵となっている。「蒼い水面上の葦」(ヤン・ペーター・ラハール)は、晴れ渡った青空が水面に写り込んでいるのだが、葦がまるでどこかの古代文字のように見える。
「ポーズをとるヤマアラシ」(カール・R・サムズ2世)は、雪が降り積もる地面に置かれたワピチの角に、ヤマアラシがしっかりと捕まってポーズを取っているように見える。「野性のシンボル、ユキヒョウ」(スティーブ・ウィンター)は、赤外線自動撮影装置で撮られたものだが、ユキヒョウの顔が実にチャーミングに撮れている。「驚嘆すべきアリの作業」(ベンス・マテ)では、葉を切り取る係や運搬係など分業で働くハキリアリたちが美しいコントラストで捉えられている。体長7メートル近いミンククジラと接近して写された「ミンククジラの目」(ユルゲン・フロイント)も印象深い。
いろんな技術を駆使して撮られている以上、自然のそのままをとらえたとは言いがたい写真もあるのだが、美しい景色や動物たちの、なかなか観られない瞬間を見せてもらえるだけでも楽しい写真集。

ちなみに、今読んでいるのは、マット・ヘイグ『今日から地球人』というSF小説。
地球外生命体が、とある目的で地球人の数学者になりすますのだが、まったく地球上の生活の勝手がわからず四苦八苦。もうちょっと勉強してから来いよ(笑)人間という生物を究極の客観視で描いている。
読み終わったら、記事にしようと思います。
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2015年03月05日

生と死をめぐる物語

今日の話題は、『屍者の帝国』伊藤計劃×円城塔

伊藤計劃の遺稿原稿30枚を盟友・円城塔が書き継いで完成させたという作品。フィクションのキャラクターが豪華共演している。
物語は19世紀末のイギリスから始まる。ヴィクター・フランケンシュタインによって屍体を動かす技術が確立され、そうして生まれた屍者があらゆることに利用されている世界。
主人公の医学生ワトソンは、諜報機関に引き入れられて、新型の屍者が開発されているという情報をもとに、カラマーゾフによって築かれているという「屍者の帝国」を探りにアフガニスタンへと向かう。同行するのは、同じ機関に所属する武闘派の巨漢バーナビーと記録専用の屍者フライデー。
道中、アメリカの民間軍事会社ピンカートンに所属する男レット・バトラーと美麗な女性ハダリーに出会い、後に行動を共にすることになる。
「屍者の帝国」で、ヴィクター・フランケンシュタインが最初に創造した特別な存在である「ザ・ワン」の存在を知ったワトソンたちは、その秘密が隠されている「ヴィクターの手記」の行方を追って大日本帝国へ。
新型屍者の秘密を追う彼らの旅は、その後アメリカへ、そして最終的にはイギリスへと帰るのだが、ルナ協会やらノーチラス号やらが出てきて大騒ぎ。

これは、生命誕生の秘密に迫る壮大な物語。屍者化する屍者と屍者化する生者。はたして、魂とはどうやって生まれるものなのか。屍者を創りだしたことで人類に迫る危機を回避することはできるのか。

伊藤計劃の作品は、過去には『ハーモニー』を読んだのみ。(過去記事→人類調和計画
寡作のまま亡くなってしまったため、もったいなくて他の作品が読めずにいた。
昨年11月、「伊藤計劃プロジェクト」として長編3作品が劇場版アニメ化されるという発表があり、それならその前に読んでおきたいと思って、今回『屍者の帝国』を読んだ次第。
ゲーム『メタルギアソリッド』のノベライズを除けば、長編はあと『虐殺器官』を残すのみ。一気に楽しむのはもったいないのだが、これも近く読みたいと思う。
伊藤計劃もさることながら、円城塔も決して嫌いではないので、最後まで楽しんで読んだのだけれど、とっかかりは伊藤計劃であっても、やはりこれはほぼ円城塔の作品であって、伊藤計劃の作品として期待して読むと残念に思うかもしれない。
円城塔作品としては読みやすい方だと思われるのだが、なかなか読み進めることができず、図書館で何度も借り直してやっと読み終えた。他の本も間にはさみつつではあるが、都合3ヶ月くらいダラダラと読んでいただろうか。私のようにアニメ化のニュースをきっかけに原作を読みたいという人が現れて予約されれば、こうした強引な貸出延長は拒否されるのだけれど、ここにきてようやく1名の予約者が出たくらいで、世間ではまだまだ周知されていないようだ。

この本を読んでいると、自らの教養の無さを思い知らされる。
カラマーゾフが出てくるが、『カラマーゾフの兄弟』を読んだことがないので、クラソートキンという名が出てきてもピンとこない。3兄弟の関係性がわかっていた方が楽しめただろうに。
パヴァリア啓明結社がイルミナティの別名であるとか、アメリカの解析機に名付けられたポール・バニヤンという名前、「コンピュータの父」チャールズ・バベッジ、謎の女アイリーン・アドラー、などなど。
特に、「ハダリー」という存在は耳に目にしていながら記憶に留まっておらず、復習が必要だと思ったので、近々ヴィリエ・ド・リラダンの『未来のイヴ』も読みたいと思う。

屍者という存在に対しては、人間のあらゆる欲望によって様々な用途に使われていることを記した部分に軽い衝撃を覚えた。おっしゃるとおり、このくだりは著者の想像にほかならないはすなのに、実際に屍者のような存在が開発されて利用可能になったとしたら、こうした使い方をする人間がたくさん出てくるに違いないと思うと、人間の欲望は止めどないものなのだということをあらためて突き付けられた気がする。

屍者を動かすにはネクロウェアというソフトをインストールする必要があるのだが、2進法のコンピュータ言語も含めて言葉というものの力を思い知らされる物語でもある。

この作品の冒頭30枚が伊藤計劃の絶筆ということを考えると、すでに死の病で闘病も長く、おそらくは死期も悟っていたであろう著者によって、明らかに生と死について書かれている作品で、それを著者なりに噛み砕いてSFエンターテインメントに仕上げようと目論んでいたことが想像される。そのまま書き続けられなかったことが残念でならない。

生物が「生きている」というのは、どういうことなのか。
福岡伸一の著書『生物と無生物のあいだ』を思い出す。(→過去記事貝殻と小石)古い過去記事は、背景色が違うときに書いたもので、ところどころ読みにくい文字色になっていますがご了承ください。
「生きている」か否かの定義は、代謝がひとつのポイントになるわけだが、代謝しなくても自己増殖するウィルスのような存在もあるわけで、そのあたりが議論を生むことになる。
結局、生命体にはなぜに初めから死が組み込まれているのかという問題に帰結するような気がする。アポトーシスは細胞単位の話だけではなく、もっと大きな1個体という枠組みにおいても組み込まれていることなのだ。「生きている」とされるものすべてが、いつかは命の終焉を迎えることになっている。ある意味、「死ぬ」ために「生きている」ようなもので、人生は「死ぬ」までの過程とも言えるわけだ。
日々、カウントダウンは進んでいる。しかも、誰もそのゴールを知らない。であれば、1日1日を、1分1秒を有意義に使いたいと思うのが自然だ。
メメント・モリ。カルペ・ディエム。
壮大なSF作品を読みつつ、怠惰な私は尻を叩かれているような思いがした。
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2015年01月20日

輝け!nbm Awards 2014<書籍編>

年も明けて半月以上経ってしまいましたが、nbm Awards 2014<書籍編>をお送りしたいと思います。
特に多読というわけではありませんが、本は常に傍らにあります。今もテーブルの上には5冊積んであります。主に図書館で気になったものを読むので、新刊は少ないです。
ということで、昨年も50冊程度しか読んでいないと思いますが、自分にしては小説が多めでしたね。月に1冊くらいでしたが。
その中で今回も独断と偏見により賞を贈らせていただきたいと思います。

<絵本・童話賞>
『ネジマキ草と銅の城』 パウル・ビーヘル 作/村上勉 画(→過去記事米・露・蘭
村上勉さんの表紙や挿絵が楽しいオランダの児童文学。
予定調和、ハッピーエンド。でも、そこは子供向けの童話なのだから、それでよし。いろんな動物たちが登場し、まぁるく収まる気持ちのよいお話。
『金の魚』 A.プーシキン 作/V.ナザルーク 絵(→過去記事米・露・蘭
3年がかりで描かれたというナザルークの絵が美麗なロシアの昔話。日本語・ロシア語両方の朗読CD付き。
訳者であるみやこうせいさんのこだわりにより、ロシアの文化を尊重しつつ雰囲気のある物語になっている。
『ふたりはいっしょ』 アーノルド・ローベル 作(→過去記事米・露・蘭
大好きなかえるくんとがまくんのお話。こちらはアメリカ産。
アホかわいいがまくんと、そのがまくんをそっと見守るかえるくんの優しさ。
教訓めいているのだけれど、嫌味なところがなく、素直に読める。

<ビジュアル賞>

『スコープ少年の不思議な旅』巖谷國士(文)/桑原弘明(作品)(→過去記事5冊まとめて
桑原弘明氏の作品を紹介した小さなビジュアル本。
掌に乗るほどの小さなオブジェは、光の加減で見えるものが異なる仕掛けがしてあるスコープ。覗き穴から覗く世界には、静寂が広がっている。
そうだった……いつも年末に個展を開かれているのだった。忘れていたわ。
実物を観てみたいなぁ。
『どうぶつのこゝろ図鑑』 D[di:](→過去記事猫、狼、その他もろもろ
動物のイラストとそれらが登場するお話が25話。ペットロスから動物アレルギーになった著者が、描くことで動物たちと対話するうちにペットロスを克服した過程で生まれたという作品。
かわいらしい動物たちのイラストに反して、物語の方はかなりの毒が含まれている。そのギャップが楽しめる1冊。私は、ペットロスの方にはオススメしない。

<学術賞>
『人類が消えた世界』 アラン・ワイズマン(→過去記事5冊まとめて
ある日人類が忽然と消えたら……その後の地球はどうなってしまうのか。様々な観点からシミュレーションしてみたノンフィクション。
電力など動力エネルギーが絶え、人工物は次々に崩壊。それに反して、動植物が繁栄する世界。
人類が絶滅するシナリオはいくつも考えられるし、決して非現実なことだとは思っていないから、いつの日かこういう地球になっていくのかもしれないなと。地続きの近未来を想像するのが楽しい。
『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』 鈴木博之(→過去記事ゲシュタルト崩壊とゲニウス・ロキ
土地にまつわる文化的・社会的背景とその土地の歴史とを教えてくれる本。
歴史にはとんと興味が無い自分なのだが、土地の記憶というものには格別に興味を持っている。川の跡が暗渠や道路になっていたりするのは身近でも見かけるが、今見える景色とは違う景色が広がっていたことを思うと、不思議だ。それが文化的・社会的な史実と関係した土地の話ともなれば、面白さは倍増する。
残念ながら、著者は昨年亡くなっているのだが、もっとこの地霊シリーズを読みたかった。『日本の地霊』という本は書かれているので、いつか読みたいと思う。

<温故知新賞>
『ぼくらの近代建築デラックス!』 万城目学・門井慶喜(→過去記事不可逆の物語
2人の作家がそれぞれのオススメ近代建築を紹介してくれる。
伊藤忠太の築地本願寺や武田五一の1928ビルなど個性的な建築物がいっぱい。特に、見慣れない関西地方の近代建築が楽しい。

<肝に命じる賞>

『考える練習』 保坂和志 (→過去記事注意深く考える3冊
結論までの道のりではのらりくらりと彷徨い、挙句、結論まで辿りつけないことだってままあることを教えてくれる本。
「考えること」を放棄してはいけない。自戒も込めて、今の時代には大事な警句だと思う。

<小説賞>
『とっっぴんぱらりの風太郎』 万城目学(→過去記事運命が追いかけてくる
万城目学作品としては初の時代物。700ページを超える大作。元忍者のフリーターが主役。
のらりくらりとした主人公が、終盤では息もつかせぬ壮絶な戦いを繰り広げる。素っ頓狂な万城目作品で意外と泣かされることもあるのだけど、この作品は心にじぃんと響き、余韻が長かった。
なんというのか、個を捨てて使命に生き切る潔さ。今の時代にはあまり見られないし、自分には縁のない生き方だけど、だからこそ心に響いた。
『だれの息子でもない』 神林長平(→過去記事ゲシュタルト崩壊とゲニウス・ロキ
ネットファントムとのやりとりで自身にゲシュタルト崩壊を起こしそうになる近未来SF小説。
すごくニッチな内容だが、自分にはピンポイントでグッときた。現実との地続き感もあって、ネットの世界と自己の存在との在り方を考えさせられる。話に聞いたことがあるが、Skypeではチャットのデータは相手に届くまでの居場所が判然としないという。ネットの海に溶け込んでしまっているんだそうだ。『攻殻機動隊』の世界観のようなことが、身近に近づいてきているのを肌で感じる作品だった。果たして、今後の技術の発展で人間の精神そのものがネット世界に溶け込んでいけるのかどうか。そんなことを考えつつワクワクして読んだ1冊。

<nbm大賞>
『遊星ハグルマ装置』 朱川湊人&笹公人(→過去記事月食の夜に
朱川湊人の短い小説と、笹公人の短歌とが交互に掲載されている凝った構成。昭和ノスタルジー風味。
笹公人のシュールだけれどきれいにまとまっている短歌と、朱川湊人の手腕が光る多彩な短編小説が互いを高め合う。
宇宙空間に投げ出された身体が、巨大なハグルマに引きずり込まれてどこへともなく運ばれて行ってしまうような。翻弄されるのが楽しい作品。


自分としては小説をたくさん読んだ年だったので、バラエティ感は薄れたか。
昨年から読みきれずに持ち越している本も何冊かあるし、思ったほど数が読めないのが悩みではあるけれど、今年もマイペースで読んでいきたいと思っております。
ラベル:nbm Awards
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2015年01月15日

新年はじめの3冊

『どこの家にも怖いものはいる』 三津田信三
以前から読んでみたいとピックアップしていた作家さんだったが初めての作品。私には珍しく新刊本を新刊のうちに読む。ジャンルとしては、ホラーミステリーなのだろうが、過分にホラーに偏っている。
時代も場所も異なるがどこか共通していると思われる5つの怪談。著者自身と何かに導かれるように知り合った編集者の2人がこの”怪談”に憑かれていく……
序章の前に
本書に掲載した五つの体験談について、執筆者ご本人またはご親族でご存じの方がおられましたら、中央公論新社の編集部までご連絡をいただければ幸いです。

とある。巻末の参考文献には、各怪談の出処が明記されているが、個人のノートだったりインターネット上の書き込みだったり未発表原稿や私家本だったりと怪しいことこの上ないが、逆に単純に創作物だとして内容の信憑性を否定することもできない。
本やそれなりのサイトなどで実話系といわれる怪談を読みあさっている身としては、そんな行為をそのまままとめて小説にしてあるような感じ。この1話1話のバラバラ感、「創作じゃねーの?」とツッコミを入れたくなる感覚(笑)、稚拙な文章が返って臨場感やリアルさを生んでいたり。そんな構成が上手だ。
3つ目の怪談を読んだところまでは物凄く怖くて、その先を読みたくなくなったくらいだった。聞き覚えのない異音が聞こえてきたらどうしようかと、半分本気で心配する。重ね重ね、読者に何か障りがあっても自己責任だからと警告されているし。だが、勇気を出して読み進んだら何の事はない、4つ目と5つ目には蛇足感があった。個人的には、怖さのクライマックスは3つ目。謎解きのようなことをする終章に至っては必要ないとまで思ったほど。お笑いに説明を加えるとシラケるように、怖いものに解釈を加えてしまったら怖さは半減する。「わからない」ことが怖いのだよ。かといって、ホラーミステリー作家としては投げっぱなしにはできなかったのだろうけど。
ノンフィクションの体の構成といい、普遍的に起こりうる現象を扱っていることといい、思い出すのは、小野不由美の『残穢』(過去記事→甲乙丙丁展転)。あちらも怖かったけれど、感じた恐怖のインジケーターはこちらの方が上まで指し示したと思う。
なかなかに面白かったので、次は『のぞきめ』あたりを読んでみようかな。
ミステリー系の作品は、会社員時代の通勤時間の暇つぶしにはたくさん読んだのだけど、今は面白いと思えない。ホラー要素満載でも、やっぱり今の自分はミステリーは楽しめないなと実感した1冊でもあった。

『霊能動物館』
 加門七海
主に社寺に祀られている動物たちについて語られている1冊。
特に、最初の「狼の部屋」については興味深い。同じ埼玉県内とはいえ、秩父というのは近くはないのだけれど、この辺りでも家々の戸口付近に三峯神社の御札は頻繁に見かける。狼信仰で知られる三峯神社の御札には、狼らしき姿が描かれているからすぐにそれとわかるのだ。
その御札にどんな効用があるといわれているものか知らなかったのだけれど、今回これを読んで納得した。泥棒避けなのだ。だからこそ、玄関周りに貼ったりするのだね。
神社といえば、最初に連想する動物は狐なのだが、稲荷神社と狐が結びついたのはそんなに古いことじゃないらしい。稲荷神社に狐の石像が置かれるようになったのは18世紀以降だそうだ。伏見稲荷でさえ、狐像が置かれたのは幕末以降なのだそうで。元をたどれば、狼を狐とすりかえたのではないかというような推測も書かれているのだけれど、この辺ははっきりしない。狼信仰とて18世紀以降で、狐と同様に意外と新しいらしいが。「日本書紀」などに狐は登場するが、瑞祥や災厄のシンボルだっただけで、神やその眷属としての扱いではなかったらしい。
他にも興味深い話がいくつか。「狸の部屋」によると、狸は鉱山やタタラと関係していて、金山のある佐渡も狸の縄張りだったらしいが、そういえば、佐渡出身の父からよくムジナの話を聴いた。ムジナというのが具体的に何を指すのかわからないなと思いながら聴いていたけれど、話の内容はよく覚えていない。ただ、身近にムジナが居たというのは伝わってきた。今も「たぬきに注意!」という道路標識を見かける地域に住んでいるけれど、化かされたことはないな。
ひとつ面白いことが載っていた。「馬の部屋」に書かれていたのだが、徳島県などで言い伝えられる”首のない馬”。「夜行(やぎょう)さん」と言われているらしいのだが、人ならぬものを乗せ、鬼や死者を引き連れているというもの。これが出没するときに馬の鈴が鳴ることもあるし、錫杖を鳴らして通り過ぎることもあるという。この錫杖の音。20年以上も前のことだが、ダンナさんが夜中の山の中で聞いている。四駆2台で友人と夜中の山を走っていた時、車の外で友人と話しているときに「シャランシャラン」と錫杖の音が聞こえ、それがどんどん近づいてきたという。本能的に「ヤバイ!」と思い、その音が聞こえていなかった友人を無理やり急き立てて慌てて車に乗り込み山を下りた。最初は修験道の修行者か何かかと思ったが、友人に聞こえていなかったことを考えるとこの世のモノではない。夜行さんとの関係はわからないが、夜中の山中で聞いた錫杖の音というのが怖ろしい。
まだまだ語られていない動物はたくさんおり、続編があったら是非読みたいと思うので、加門さん、お願いします。

『似ていることば』 おかべたかし・文/やまでたかし・写真
同音異義語や紛らわしいことば同士の違いを写真入りで教えてくれる。
目新しいことはほとんどなかったのだけれど、写真を観ているだけでも楽しい1冊。
ひとつ勉強になったのは、「制作」と「製作」。自分の中では、作る対象の規模の違い(「制作」<「製作」)かと思い込んでいた。芸術品をつくるときは「制作」、実用品をつくるときは「製作」なのだという。
以前にDVDライターをしていた頃、「制作」と「製作」の違いは疑問に思っていた。映像会社の資料もどっちつかず。誤植だったのかもしれないが。その上、英語で表現するところの「プロデューサー」が「制作者」だったり「製作者」だったりして、外国作品もよくわからない。調べてみると映像作品に関してはやはり判断が難しいらしい。映画などの映像作品ができてまださほどの時間が経っていないということなのだろう。当初のルールに当てはめづらいことが生まれてきて、まだ言葉が定着していないってことになるのか。
あとは、コラムで書かれていた国旗の類似性について。例えば、フランスから独立したギニアやセネガルなどアフリカ各国の国旗がトリコロールに倣いつつもアフリカンカラーを打ち出しているとか。赤・青・白の3食はスラブカラーといって、ロシアやクロアチアなどの国旗に使われているとか。「三日月と星」がイスラム教の国とか、「十字」が入っているのはキリスト教の国ってのはなんとなく知ってましたが、ジャマイカの✕もキリスト今日の「十字」に含まれるとは思わなかった。

このところホラー系が重なっているな。
他に読みたい本がたくさんあるのになかなか手がつけられない……
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2014年12月12日

ゲシュタルト崩壊とゲニウス・ロキ

今回は、2冊の本について。

『だれの息子でもない』 神林長平
珍しく新刊が早く読めた。この本の存在を知って、図書館ですぐに予約したのだが、なぜか人気がないようでほとんど予約が入っていなかった。予備知識ほぼゼロで読んだが、こんなに面白いのに?
時は近未来。どこを対象にしているのやら明確ではないのだが、各戸に1台、「オーデン改」と呼ばれる携帯型対空ミサイルが配備されている。
といっても、話の中心はこの家庭用兵器というわけではなく、戦争というわけでもない。
主人公は、安曇野の市役所に勤めているのだが、オーデン改の不正使用などを防ぐという立場でもありつつ、そんなことはほぼ起き得ないことなので、通常は亡くなった人のアバターをネット内から消去するという仕事をしている。
この世界では、ネット内では自らの化身としてのアバターを作るのが一般的となっていて、このアバターはオリジナルの行動パターンや趣味・嗜好がフィードバックされていくので、限りなくオリジナルに近い存在となっている。死しても、そのアバターがネットの中に残ってしまうことが有り、このネット上の幽霊である「ネットファントム」を消去することが一役人の仕事になっているわけだ。
物語は、主人公の死んだはずの父親がリアルな存在に見える状態で現れることから始まる。
離婚の末に孤独死している父親は、文字通り溶けて無くなって床にシミを残していた。何もかも処理された後で、シミのみを見ただけでしっかりと遺体を見ていない主人公にしてみれば、本当に死んだのか確信が持てないのも無理はない。
そこから、話が始まるのだが、内容については触れないことにしよう。
なにしろ、読んでいると、自らの存在に何度もゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。鏡に向かって誰何すると自らの存在にゲシュタルト崩壊を起こすというけど(本当に精神が崩壊して危険なので絶対にやらないでください)、それを垣間見たような気分になる。
筋はそっちのけで、出てきた単語でひっかかったものを自分なりに調べたので、2つご紹介。
ひとつは、「ビタミンちくわ」。長野では、一般的なちくわだそうだが、初耳。その昔、海産物に恵まれない内陸の長野のために、かにかまなどで知られる石川県のメーカー「スギヨ」がちくわに塩を詰めたものを開発し、それが後に改良されて栄養価を高めたものが売られるようになったとのこと。元々、能登地方で獲れたブリは飛騨や信州に流通していたのだそうで、それがこのちくわの開発のヒントになっているのだとか。ビタミンちくわは、カレーに入れるのも定番らしい。ビタミンちくわ開発のエピソードを知って、「信越」とか「北信越」とひとくくりにされる信州と新潟や北陸地方との深い関係性がよく理解できたような気がした。長野県と同じく内陸の埼玉県で育ったが、ビタミンちくわは見たことがない。地域性がよくわかる面白いエピソードだ。
もうひとつは、「キャッチ22」。もともとは、戦争の中にある狂気を描いた小説のタイトルなのだけど、英語圏では慣用句として使われるらしい。パラドキシカルな状況を指すことば。この小説の中に出てくる軍規22項で、「狂気に陥ったものは自ら請願すれば除隊できる。ただし、自分の狂気を意識できる程度ではまだ狂っているとは認められない」というような矛盾した状況を指しているらしい。こういった、内容を知らないと全く理解できない言葉を教えてもらえるのはありがたい。
神林長平作品は初めて。原作が元になっているアニメ『戦闘妖精・雪風』は途中まで観たけれど。なかなかに面白かったので、また読んでみようかな。

『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』
 鈴木博之
建築史家である著者が、土地にまつわる文化的・社会的背景とその土地の歴史とを教えてくれる。この本では、東京の13箇所について書かれている。
江戸時代後期から明治・大正・昭和時代の土地の歴史を紐解きながら、その土地に染み込んだクセのようなものを解説してくれる。
茶道の聖地と化した護国寺の話とか、山県有朋の椿山荘とか、色々とあるのだけれど。
例えば、岩倉使節団に参加した久米邦武の話。
岩倉使節団が見聞してきたことをまとめた『米欧回覧実記』を記したのが久米邦武で、それで得た金で目黒に五〇〇〇坪の土地を買ったのだという。そのときに得た土地を一部売却したのがビール会社で、彼はそれをビール会社の株券に変えた。それが恵比寿駅前のこと。なるほど、「なぜあそこにビール会社が?」と思っていたのだけれど、そういう経緯だったのね。
それからもうひとつ。著者の鈴木さんは、庭師・小川治兵衛という人物に並々ならぬ興味をもたれているようで、彼のことをまとめた本を書きたいと言っているのだが(2013年に刊行している様子)、この小川治兵衛が作った庭で都内に残っているのは、北区西ヶ原の古河邸の日本庭園と鳥居坂の国際文化会館の庭園だそうだ。もうひとつ、小川治兵衛が作った庭園が、世田谷区桜新町にあった長尾欽弥邸の庭園だという。
この長尾欽弥という人は、「わかもと」という薬を当てて財を得た人だという。これは、あの「強力わかもと」だよね。うちには私が小さい頃から「わかもと」があって、私もよく飲んでいた。父がよく飲んでいた薬だ。
この長尾邸は、現在、深沢高校になっているのだが、庭園はほとんどなくなってしまった。一部建物が残っていると書かれていたので調べてみると、清明亭という茶室が現存しているが、深沢高校のサイトによると、東日本大震災以降は使われていないとのこと。写真を見ると、なるほど立派だ。なんとか補強・修繕して保全してもらいたいものだ。桜新町は新興住宅地であり、こうした大庭園は土地に根付かなかったのではないかというのが著者の見立て。地霊が逆説的に語られている。
長尾欽弥は近衛文麿と仲が良かったらしく、自殺する前日まで長尾邸に居たのだそうだ。そして、自宅に戻って服毒自殺した枕元には常用薬だった「わかもと」と空になった小さな茶色い壜があった。一節に寄ると、毒を入手したのは製薬会社をしていた長尾夫妻からであったとも言われているとか。
他にも興味深い逸話はたくさんある。ジョサイア・コンドルの名前もそこここに出てくるし、かつての財界人やお金持ちたちが建築や庭園に執心していたことや、各地に競って別荘を建てたことなども面白い。
江戸から明治に切り替わる頃、桑茶令というのがあって、今まで武家の土地だったものがお上に上地され、それが身分関係なく町人にも売られて、桑や茶が植えられたのだそうだ。桑や茶は当時日本の主要な輸出品目で金になり、当時の東京は農業都市を目指していたらしい。それを機会に、一般市民である町人も東京に進出してきて、様々に土地が変化していくきっかけになったのではないかというのが著者の説。
いわゆる歴史には疎いのだが、もともと土地の記憶に興味が有り、この本はとても刺激になったので、類似のものを探してまた読みたいと思う。
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2014年12月02日

ウチナーグチマディン ムル

山之口貘詩集『鮪に鰯』
図書館の本棚から何気なく手に取った1冊の詩集。暖かなオレンジ1色の背表紙が目を惹いたからだ。パラパラとめくっていると、見覚えのある一節が目に飛び込んでくる。
ウチナーグチマディン ムル

こんなところでこの一節に再会するとは……
それは高校1年生の時のこと。現国の先生が言った「ウチナーグチマディン ムル」が、その先生を真似するときの定番の一節だったので、言葉だけが脳内に記憶されてしまったのだが、それがどんな意味を持つ言葉だったのかはさっぱり記憶外。「ウチナーグチ」が「沖縄の言葉」ということだけはわかるのだが。
それは、山之口貘さんの「弾をあびた島」という詩の一節だったのだ。おそらく、この詩が現国の教科書に載っていたのだと思われるのだが、まったく記憶にない(笑)
読み返してみると、続きがあることが判明(というか、忘れていただけだけど)。
ウチナーグチマディン ムル
イクサニ サッタルバスイと言うと

とある。
「沖縄方言までもすべて
 戦争でやられたのか」(と言うと)
という意味だとわかった。
すげぇヘヴィな詩だったんだな。
沖縄で生まれ育った詩人が故郷に久しぶりに帰ったときのこと。「ガンジューイ(お元気か)」と沖縄方言で挨拶した詩人に、土地の人は「はいおかげさまで元気です」と日本語で応える。その上で、上記の沖縄方言を投げかけると、土地の人は苦笑しながら「沖縄語は上手ですね」と応えるのだ。
調べてみると、若き日に故郷を出て上京し、50代に沖縄に戻っているようなので、故郷を離れていた間にあった戦争と、それによる沖縄の状況の劇的な変化というのが、どれだけのものだったのかが端的に表れている詩になっているのだろう。
「ウチナーグチマディン ムル」が代名詞だった現国の先生は、うちのダンナさんの苗字をいつも間違えて呼んでいた。読みが難しい苗字だったので先生なりに苦心して読んだのだと思うのだが、ダンナさんは間違いを訂正することなく、クラスのみんなもなぜかスルーしていたため、ずっと間違ったまま呼ばれ続けた。現国の先生なのに……出席番号はアイウエオ順だったから、そこから推理もできるはずなのに見当違いの読み方を続けていたのはナゾだ。
変なことを覚えているもので、「ウチナーグチマディン ムル」に匹敵するものが他にもある。こちらは、古文の先生が言った「む・むず・らむ・けむ・めり・べし・らし・まし」だ。推量の助動詞。これも、途中で声が裏返る先生の真似をしていたのがこの一節だったため、忘れていない。
時が経って、学校で習ったことはほとんど忘れてしまったような気がするが、変なことだけは覚えているものだ。
さて、話は詩集に戻る。
山之口貘さんの他の詩は、私には響かなかった。ほとんど、経済的に苦しい暮らしを嘆くだけのものだ。金子光晴さんの書かれた序文によると、
びんぼうや、死は貘さんがいとしんで飼っている小動物のようなものであろう。いろいろめいわくをけられながらも、貘さんは、決してつよい声で叱ったりはしないので、そこで、びんぼうも少々のさばり加減だったのかもしれない。

とあるのだが、詩集の中の死も、借金の返済を迫られたり、質屋に行ったり、貧乏生活を想像させるものがとにかく多い。金子さんいわく、自分はこの先「『売り詩』を書かねばならないハメになるだろう」と。これは貘さんが亡くなった後の詩集であるので、貧乏でも自分が書きたいものを書いたのであろう貘さんを羨んでいるわけだ。
すごく現実的で、これが詩の範疇に入るのかと思うような詩ばかりだった。情緒というものが感じられず、まるで日記のようで、直接的でわかりやすいことこの上ない。でも、こういう素直な心情の吐露も、間違いなく詩なのだろう。好みの詩ではないけれど、信念を貫き通したという意味では、格好良いと思える。


『穴』 小山田浩子
こちらを読む前に、デビュー作である前作『工場』を読んだのだけれども、なんともいえない作風で……(→過去記事とりとめのない3冊)芥川賞受賞作品とは読んだ後から知った。そうだっけ?
でも、それで大体作風がわかっていたので、ある意味安心して読んだ。
『工場』のときも感じたけれど、圧倒的な”居心地の悪さ”がある。
改行が少なくて、見開きの頁いっぱいに活字が詰まっているので、そこからして閉塞感を生んでいるのかもしれない。話は長くないのだが、早くこの閉塞感から脱出したいと思わせる。そんな世界観が構築されるのだから、好き嫌いは別にして、よくできている作品なのだとは思う。
短編が3題。
表題作「穴」は、夫の転勤により片田舎にある夫の実家の隣に住むことになった主婦の話。途中から意外な人物が登場するのだが、この人の言い草がなんだか古めかしい。昭和初期の感覚か。とにかく、この人物だけ何十年も前から時が止まっているような印象を受ける。
おなじみの謎生物が出てきたり、家族の謎行動が描かれたりするが、ひとつとして解明されず、謎なまま終わる。読み手としては、すっきり解決してほしいところをうやむやなまま放置されるので、もやもやが残るのだが、考えてみれば、起承転結があるのは物語だからであって、現実生活はその途上の連続であるわけで、途上を切り取っただけだと捉えれば何の不思議もない。
あとの2題「いたちなく」と「ゆきの宿」は、斉木くんシリーズ。前作に収録されていた「ディスカス忌」とほんのりリンクしている。
斉木くんが結婚して買った新居にいたちが棲みついてしまったという嘆きを聞く話と、その新居に遊びに行ったら思わぬ雪で急遽泊まることになってしまった話。どちらも、語り手に付き添う奥さんがいい味を出している。
ちょっと思い当たったのだけど、黒沢清監督が作る映画に、少し雰囲気が似ているかもしれない。どんよりとした曇り空がいつまでも続くような感覚、無機質な廃墟、謎な行動をする人たち、みたいな空気感。
最近、小説に関しては、物語を楽しむこと以外の読み方というものを体得したので、この方の作品はこの閉塞感を感じるのが主題なのだと理解して読むことができた。でなければ、読んでいて辛いだけの作品かもしれない。
楽しいだけが読書じゃないと思わせてくれるという意味では、新鮮な感覚が楽しめる1冊。

今回の2冊は、あまり楽しくない読書だった。でも、つまらなかったというわけではない。
今年もあとひと月。あとどれだけ本が読めるだろう。今、読みかけは2冊。
『東京の地霊』 鈴木博之
『だれの息子でもない』 神林長平
その後に控えているのは、
『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』 アンドリュー・パーカー
『司馬遼太郎短編全集十二』
司馬遼太郎の短篇集は、「木曜島の夜会」が読みたいだけなのだが。
最低、この4冊は年内に読みたいのだけれど、読みきれないかも。
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2014年11月13日

暇つぶしの3冊

病院でのリハビリに通う中、待ち時間は読書時間に当てるため、読む数がいつもよりも多めです。

『明日の子供たち』 有川浩
児童養護施設を取り巻く実情と、そこに暮らす子供たちの気持ちを教えてくれる1冊。
同じ児童養護施設を扱っても、施設内の虐待など脚色されたテレビドラマと実情は違うと主張していて、この本を読んだ実際に施設で育った方の感想を聞いても、この本で描かれていることは自分の経験してきたことそのままだと肯定されているので、児童養護施設というものが正しく描かれているのではないかと想像する。
物語は新任の先生が入ってきた時点から始まり、彼の視点が一般の外部の人間の視点に代わってくれている。そして、物語が進んでいくうちに彼が施設や子供たちの心情について理解していき、こちらも理解していくことができる。「先生」といっても、なんら資格は必要ないのだそうだ。ということで、彼は元営業マンである。
施設で暮らす子供たちはもちろんのこと、職員である先生たちの葛藤や、退所後の子供たちを大人になっても支援してくれる施設についても描かれている。
章ごとにフォーカスする人物が違い、それぞれの過去も含めて、最後にはカタルシスが得られるような展開になっている。ご都合主義が過ぎる部分もあるが、そこはお話。悲惨な展開になりやすい題材だからこそ、このくらいご都合主義でもいいかなと私は思う。なので、読後感は良い。
小さな2つのエピソードが印象的だった。施設で育った子供が知らなかったこと。ひとつは、カレーは大鍋でたくさん作って何日も食べ続けること。もうひとつは、道端で香るキンモクセイの花について。
親が子供に食事を作ってくれる家庭なら、カレーが数日続くという経験は当たり前のことかもしれない。でも、親が学校に行かせずに家事の一切をさせられていた子供は、それを知らなかった。親は食事を作らず、施設では毎食別の食事が出てくるからだ。カレーが数日続くとは想像もしないだろう。
別の子は、キンモクセイの香りはトイレの芳香剤の香りだと思っていたという。なぜに道端でトイレの芳香剤の香りがするのか不思議だった、と。身近な大人が、キンモクセイの花の存在や香りを教えてくれる機会がなかったということで、些細な事を教えてくれる大人が居なかったということを象徴している。
今、私は母との関係を断絶しているが、最近は母と自分とのことを多少冷静に考えられるようになってきた。自分の子供の頃を思い出してみると、共働きの家庭で育ち、歳の離れた兄二人はすでに自分たちの生活があったため、私はほとんど放置されて育った。当時は学童保育などなかったし、幼稚園の頃から家で一人で過ごしていたが、現代でいったら軽い「虐待」と言われても不思議ではないかもしれない。とにかく、小さい頃から家の中で一人で過ごすことが多かったのを覚えている。そんな環境だったためか、自己完結することを覚え、誰かに手を借りるということはなるべくしないように意識しながら育った。今でも人に甘えることには抵抗があり、下手くそだ。
キンモクセイの話じゃないが、細かいことを親から教えてもらった覚えがあまりない。私の気むずかしい性格のせいもあり、親の方も持て余していたのかもしれないが。ただ、父には休みの日によくイベントなどに連れて行ってもらったことは覚えている。大体は父の趣味に偏ったイベントで、幼少期にもかかわらず、ポンペイ展で火山灰に埋もれた人の模型を観たり、爬虫類展で蛇ののたうつトンネルをくぐったり、西新宿の高層ビルに上ったりという具合だったけれど。そして、出かけた帰りには必ず分厚い本を買ってもらい、家で一人過ごすときはその本を繰り返し読んでいた。
母の意識のほとんどは、先天的に心臓に欠陥のあった長兄に注がれていたし、次兄と私は父に育ててもらったようなものなのだ。その父も、単身赴任が多く、家にはほとんど居なかった。もちろん、母も育児放棄というほどはひどくなかった。ごはんも食べさせてもらい、養ってもらい、欲しい物を買ってもらい、大学まで出してもらった。なので、私は経済的には恵まれて育った方だと思う。でも、例えば「いきなり左目だけ見えなくなる」とか人がかからないような珍しい症状を時折訴える私に対しては、母は心配するより「また珍しい病気にかかって」と愚痴を言っていた。
ただ、今になってよくよく振り返ってみると、本当に放置された割に勝手に育ったものだと自分で自分に感心する。母からは、「あれでよくグレもせずにまともに育ったわね」と度々言われたものだが、今まであまりピンときていなかった。今回、母との関係性を考えているこの時期にこの本を読んだことで、あらためて母との関係が元々希薄だったことに気付かされた。私は常識的なことに疎い自覚があるのだけれど、常識にこだわらない性格のせいでもあると思うが、キンモクセイのエピソードと同じように、自分も身近な大人から細かなことを教わる機会が少なかったからなのかもしれないと思い当たった。
親子関係は千差万別。自分がこうなってみて、家庭環境に恵まれないで育つということに、少しは現実味をもって考えられるようになった。著者は、この本で児童養護施設の実情と、入所している子供たちや施設の出身者の心情について啓蒙しようとしているのだと思うが、ひとりでも多くの人にこの本を読んでほしいと私も思う。世の中、良好な親子関係ばかりではないのだから。

『現役鉄道員”幽霊”報告書 幽霊が出る駅、路線……教えます!』 氷川正
センセーショナルなタイトルに踊らされて、ついつい読んでしまう(笑)学研から出版されていて、「MU NONFIX」というシリーズらしいので、あの月刊「ムー」の関連書籍なのだろう。
タイトルは煽り過ぎで、ほとんど具体的な路線や駅名は出てこなかった。ただ、現役の鉄道員が鉄道事故や人身事故について様々に語ってくれる内容には興味深いことも多く、オカルト目当てでなければ鉄道員の実録ものとして面白いと思う。内容が内容だけに人身事故の細かな記述が多く、グロ多め。耐性のない人には、文字だけとはいえ少々キツい。
葬儀関係者、医療関係者、警察、消防といった人の死に接するのが当たり前の仕事というわけでもないのに、不運にも有無をいわさず人の死を目の当たりにすることの多い鉄道員という仕事。
著者は、自殺者が纏う黒い靄のようなものが見えるといい、実際に何件もの人身事故を未然に防いで表彰されている。定年まで3回あれば多いというその表彰を、5年で15回受けているという。ただ、一度救った方が直後に隣駅で飛び込んで亡くなったりというようなこともあり、防ぐのがいいのか悪いのかはわからないとも語っている。
なかなか探し出せなかった女性の遺体の右手が落ちている場所を4日前に正夢で見ていたということもあったし、数日前にとある駅で自殺したはずの男性が線路脇の空き地に毎日佇むのを見かねて近づくと自分の右足が落ちているのを教えていたとか。これらは著者本人の体験で、なかなか興味深い話だ。
鉄道うんぬんは関係なく、著者自身の体験で面白いことが書いてあった。著者の友人が自殺をほのめかすことを繰り返し、ついには本当に自殺してしまったという。事前に、死んだら死後の世界について教え合おうと約束していたので、亡くなった友人が教えてくれたという話。自殺や不慮の事故、不摂生など自己責任の病気で亡くなった場合、天命の年齢になるまで現世にとどまることになる、と。死者が情報交換し合うために集まる場所があり、そういう所が現世との接点になっているという。それが生きている人間から”心霊スポット”と呼ばれるわけだ。もうひとつ、生前に行った場所ならどこへでも行けるらしい(笑)
事の真偽は確かめようがない。でも、今までたくさんのオカルト関係の情報に触れてきたが、ここまで具体的に死後の世界について語ってくれているのは初めて聞いた。単純に、面白い。
オカルト関係の記述でいえば、もうひとつ興味深かったことがある。死に近い人に黒い靄がかかって見えるという著者だが、チューニングの合わせ方というか、よく見るためのコツは何かというと「擬態する昆虫を見つけるようなもの」と言っている。幽霊らしきものを「見た」という人の中には見え方について、例えば「暗くて見えないはずなのにはっきり顔が見えた」などと興味深い報告をしてくれることがあるが、そういった話を聞いていると、どうやら単純に目で見ているわけではないらしいと想像できる。それがどういうことなのかはわからないが、物理的に光が当たって見えているわけではなく、心眼といったらいいのか、なんらかのイメージを脳が受け取っていて、それを脳内の情報で補完して「見た」と感じるという感覚。それを幻覚というのだと言われれば、おっしゃる通りと言わざるをえない。が、ここで反証となるのは、複数が目撃している場合や、その見え方がそれぞれ微妙に違う場合だ。こういったケースが一番興味深い。なんらかの病気や思い込み・見間違いと否定するのは簡単だが、自分も体験している以上、こういった現象が何なのかを知りたいという気持ちが強い。
さて、オカルトの話ばかりでなく、人身事故で被害者・自殺者の家族に請求される賠償金の額や内訳なんてことも解説されているし、他にも知らなかったことがいくつか。例えば、死亡の診断は歯科医でもできること、検死後に見つかった遺体の一部はごみ扱いされてしまうことなど。特に、私は「社会死」という表現を知らなかったのだが、勉強になった。医師の診断が待たずとも、客観的に見て死亡していて蘇生不可能とわかる状態を「社会死」というのだそうで。それと、ICカード乗車券、関東でいうところのsuicaやpasmoは振替輸送に対応していないこと(定期券は可)。通勤で電車に乗るということを長いことしていないので、知らなかった。もはや定期券の買い方さえわからないけど(笑)
オカルト本としては今ひとつだが、鉄道事故や人身事故の周辺のことは詳しく書かれているので、別の意味で収穫があった本。

『冒険図鑑』 さとうち藍 著/松岡達英 絵
私は図書館の新刊の棚で見つけて読んだのだが、イラストや内容が少々古いと思ったら、1985年に出版された本だった。図書館に新たに入れば”新刊”ってことなのね。今の新常識とは違う古い情報も乗っているので注意が必要だけど、全般的にはアウトドア入門書みたいな感じで好印象。
靴のひもの通し方から、料理のコツ、星の見方、天気の読み方などなど、アウトドアについての基本を教えてくれる本。イラストが多めでわかりやすく教えてくれるのはよいのだが、きのこや薬草はさすがに写真の方がわかりやすい。
「雨の日の過ごし方」なんて項目があって、ちょっとしたゲームなんかを提案してくれているのだけど、室内だと片時もゲーム機を手放さないような今の時代の子供たちでも、面白いって思ってくれるんだろうか。
おそらくは、実際のアウトドアに携帯していくことを考えて作られているのだが、一番感心したのは巻末に自分の身体のいろんなサイズを記入しておこうというもの。子供なら成長するにつれ変化していってしまうだろうが、大人でも自分の身体のサイズを知っておくと便利なこともある。てのひらを広げたら横幅が何センチとか。
私自身は、四駆で林道を走り回っていた(ダンナさんの助手席)ことはあるが、キャンプの経験はほぼ皆無。ガソリンランタンの点火もおぼつかない。
先日、ダンナさんが運転する車でとある河原を彷徨ったのだけど、昔林道を走っていた頃を思い出す。ところどころぼこぼこに深い穴や水たまりになっているじゃり道を走る。車は四駆ではない。でも、そこは昔とったなんとやらで、車のライン取りも大体把握できるし、それによって自分の身体をどう操ったらよいのかも心得ている。助手席とはいえ、気を抜くとサイドガラスに頭をぶつけることになる。ましてや、シートベルトは4点でなく3点だし。助手席とはいえ、車が進むコースを読んで、膝のクッションを利かせて衝撃を吸収する動きは必要。かつて四駆で走っていた頃は、助手席でさえ全身が筋肉痛になったものだ。不思議なのは、ダートを走ると猛烈にお腹が空くこと。たぶん、振動で消化が促進されてしまうのだろうと思う。みんなで走っていた頃、「酔いそう」と事前に食べることを拒否したり、コンビニでの買い出しを控えめにする初参加の人には、「いや、絶対にお腹が空くから!」と食べることを勧めたものだ。この日も河原から抜け出すと無性にお腹が空いて、最初に見つけたコンビニに入りスナックに齧りついた(笑)
この夏、甥を山に連れて行ったダンナさん。甥は、ダンナさんの運転する車で山頂まで登り、降りてきた。山道を車で登り降りする経験などしてこなかった甥には、かなりショッキングな体験だったらしい。そりゃあそうだ。かつてキチガイみたいなスピードで林道を走っていたのに比べれば、相当ソフトな走りだったはずだけど。同世代の友達の車の助手席で街乗りばかりでは体験できないことだったろう。
やってみなければわからないことは、やってみた方がいい。それがどんなことにつながるのかはわからないけど。
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2014年11月08日

注意深く考える3冊

今回は、ちょっとカタめの3冊。

『考える練習』 保坂和志
まだこの方の書く小説を読んだことがないのだけれど、とある別のエッセイをパラパラと読んでみたら共感する部分があった保坂和志さん。タイトルも面白そうだったし、読んでみた。
大和書房のWebサイトで連載されたもので、編集者がインタビューする対談形式になっている。
内容は、うちでダンナさんとこっそり話していることと重なる部分が多く、やっぱり考えていることが似ていた。
今の時代、結論だけを求める人が多数派だ。わからないことはインターネットで検索したり、質問箱で質問したりして、すぐに簡単に答えを得ようとする。結論まで行き着く過程は必要がないと見做される。つまり物事を「考えていない」「考えようとしない」わけだ。「考える」ことには、時間というものが必要なのだ。
この本では、結論までの道のりではのらりくらりと彷徨い、挙句、結論まで辿りつけないことだってままあることを教えてくれる。論理的な思考を感情が邪魔することもあるし。大体、自分の中で、思考と感情とを切り離すのは難しいけど。
思考のエッセンスだけ吸収するなんてことはあり得ないわけで、考えるっていうことは、すごく寄り道も多いし、行き止まりにぶつかることも多い。そうやって何度も修正を積み重ねていかないといけない。
つじつまがあう必要もないんだよ。

テクノロジーの進歩で人間の能力が衰退していくことや、経済活動に重きを置いた社会に流されてしまいがちであることや、もっと細かいテーマも様々に語られていく。
どうやったら「考える」ことができるようになるか。この本にはヒントは書かれているけど、あえてここには記さない。結果を求めて検索でこの記事に辿り着いた人がいたとしたら、ここで答えを書いても何の答えにもならないから……
でも、文学がなぜに必要なのかという問いへの答えは記しておこう。
少なくとも、文学に日々接していれば、ひとつの軸だけではものを語れないっていうことはわかる。世界を見る目がひとつだけでは世界は見えないってことはわかる。正解なんてないんだっていうことを身にしみて感じる。単一の世界像みたいなものは幻想だってことを知るのが文学に接するということだよ。
だから個人個人にとっていちばん過酷なのが文学なんだ。容赦がない。妥協もない。
「俺にわかるように言え」って人たちは、とにかくひとつの答えだけ言えって言ってる。だけど文学は、「答えはない」ってことを言っている。

近年、「わからなくても読む」読書の面白さに目覚めてきたところだったので、特にこの部分には激しくヘッドバンギングするほど共感する。今なら、何度もチャレンジしては放り投げたカフカも読めるかも。
逆説的に言えば、今の世の中、物事を考えてはいけないのだ。考えず、利益や効率だけを追求していけば、お金に困ることはないだろう。たとえ自分の中が空っぽだったとしても、それはそれだ。経済的に恵まれることと、物事をじっくりと考えられることは、同時に達成するのは難しいらしい。どっちを取るか、だ。

『ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法』
 冨田恵一
ドナルド・フェイゲンの名盤「The Nightfly」(1982)。実質ウォルター・ベッカーとの二人組だったスティーリー・ダンとしての活動を休止したドナルド・フェイゲンが制作した初のソロ・アルバム。初めて完全にデジタル録音で収録された作品と言われているこのアルバムの、主に録音方法について事細かに書かれた本。作者は、「冨田ラボ」の中の人。キリンジとか椎名林檎とか木村カエラとかをプロデュースしている音楽プロデューサーだ。ということで、日常的に楽曲の録音という作業をしている立場の人が書いた本なので、臨場感があるものになっている。
ちなみに、冨田ラボについては、3枚めのアルバム『Shiplaunching』(2006)だけ持っている。バラエティに富んでいてとても良いアルバムなのだが、これを聴いて、冨田さんはスティーリー・ダンとか好きなんだろうなと思っていた。特に、プロデュースしているキリンジなんて、モロに影響されている音に聴こえると思っていたけど、やはりかなりスティーリー・ダンが好きな人だったのだなとこの本を読んで納得。
「The Nightfly」は私が世の中で一番好きなアルバムで、これまで何度聴いたかわからない。レコードを買ったときにもらったジャケ写のポスターは、女子高生だった私の部屋に飾られた後にも先にも唯一のポスターだ。ネクタイを緩めたおっさんDJ(フェイゲン)がラジオブースのターンテーブルを前に煙草をくゆらせている図。色んなタイプの音楽が溢れていた80年代だが、なにしろ衝撃的なアルバムで、その衝撃は数十年が経った今も色褪せない。
スティーリー・ダンの活動休止直後からフェイゲンはこのアルバムの制作に入る。曲を作るのに半年、レコーディングから仕上げまで1年かかったという。アルバムは全8曲。時間にすれば、40分足らずのこの作品に、週5日で1年……気の遠くなるような作業をやっていたことは想像に難くない。制作中からだったのかどうか定かでないが、アルバム録音後のフェイゲンは精神を病んでいたらしい。いろんな要因はあったろうが、アルバム制作で精神が疲弊したことは言うまでもないだろう。
マイケル・ブレッカー&ランディ・ブレッカー(テナーサックス)、ラリー・カールトン(ギター)、マーカス・ミラー(ベース)、ジェフ・ポーカロ(ドラムス)などなど、名だたるミュージシャンがバッキングに参加している。
チョッパーが売りのマーカス・ミラーに一切チョッパーをさせなかったり、1台のピアノで左手と右手を別々の人に弾かせたり、ドラマーの右手で打った音と左手で打った音を混ぜて使ったり。こだわりを挙げればキリがない。音の切り貼りと言ってしまえば簡単そうに聞こえるが、常軌を逸した完璧主義の切り貼りが行われたわけだ。耳を澄ましてもよく聞き取れないような細部にも、こだわりの音が隠されている。
当時、ひとつひとつの楽器の音や音の成分・バランスなど意識して聴いていなかった私だったが、相当に複雑な作りであることだけは理解できていた。それでいて、聴いている人間には自然に聞こえ、ただ単に心地よい音楽にしか思えないところがすごいところなのではないかと思う。
1曲ごとの細かな解説が書かれているのだけれど、初っ端の「I.G.Y.」からして衝撃的な事実が私に告げられる。「I.G.Y.」はレゲエ……あれほど聴いてきたというのに、この曲がレゲエのリズムだとは思わなかった。いや、耳にレゲエのリズムは聞こえているはずだけれど、この曲はレゲエの曲ではないと思い込んでいた。というか想像もしていなかった。こんな当たり前のことに気づかないなんて……自分で自分にびっくりだ。しかし、それくらいさりげなく複雑なリズムやメロディーが重なりあって作られている楽曲なのだという証拠。ということにしておこう(笑)
最後の曲「Walk Between Raindrops」は、もうアルバムが完成かと思われるような時期に突如付け加えられた曲ということだった。当時のレコードという形態では、曲順やA面・B面にどう曲を配するかということは重要だったし、「The Nightfly」のようなコンセプトのはっきりしたストーリー性のあるアルバムなら尚更だ。この曲が追加されたことで、アルバムは綺麗に収められた感じがする。この曲、大好きだ。雨がテーマなのにとても明るい。短めでサラリと終わってしまうところも潔い。
語り出したらキリがない。小さなコラムでYAMAHA DX7とか出てきて懐かしかった。あの頃、猫も杓子もDX7だったよ。
録音については専門用語連発で、用語解説も細かく付いているのだけど、素人には何が何やら。しかし、このアルバムがどれだけのこだわりと注意力とその他もろもろによって練り上げられたことだけは伝わってくる。この本を読むより、良い音源で良いスピーカーで「The Nightfly」を聴いた方が早い。何よりも説得力があるだろう。本をけなしているわけじゃありません。面白かったし、勉強になったけど、このアルバムや録音技術に興味がある人でないとついていけない内容だとは思うので。

『子ども部屋に入れない親たち 精神障害者の移送現場から』 押川剛
とある番組で精神障害者の移送の実態を知った。そのとき、移送をするために対象者を説得していたのが著者だった。精神科の受診や入院が必要であろうと思われる精神障害者が素直に病院に行ってくれないことは多い。家族の手にあまるとき、第三者が介入して病院に移送するという手段が取られるわけだ。家族が何を言っても耳を貸さない対象者に、押川さんが語りかけると多少の抵抗はあるものの素直に従った。まるで魔法のようだった。何があんなにスムーズに事を運ばせるのか。何かコツがあるのだろうかと疑問に思ったので、著書を読んでみることに。
実際にあった8つのケースを紹介しながら、移送の現場が語られていく。移送という仕事を始めたばかりで右も左もわからない著者が、経験を積むごとにノウハウを掴んでいくのがわかる。
価格的には非常に高い。移送をやってくれる業者は他にもいろいろあるらしいが、基本的には警備会社と介護タクシーが合わさったようなもので、何が何でも病院まで運べば完了というスタンスらしい。押川さんはそれを良しとせず、対象者が納得した上で連れて行くことを信条とし、無理強いをしない。中には、暴れたり刃物をふりまわしたりすることもあるし、汚物にまみれた人もいる。いろんな危険性を考え、また移送に必要なカウンセラーや警備員などの人員配置などを考えると、価格は高くなってしまうという話だった。
なぜに対象者がいうことを聞いてくれるのか。これが私の疑問だったわけだが、押川さんは特に心理学や精神医学を修めたというわけでもなく、要するに個人的な経験値によるものらしい。それにはご本人曰く生い立ちが関係しているというのだけど。母子家庭で育ち、母は嘘を許さない人だったという。学生時代に友人が精神障害となったりしてから、心理学・精神医学への興味はもちろんあったようだが、親分肌の性格や、高校で恩師に教わったことなどが押川さんの基礎を作った。高校時代の恩師が教えてくれたのは、人・物・金の真ん中を意識しろということだったという。3つの要素のどこかに傾いてはいけない、と。
あとは、経験を積むために無償で移送をやった期間があり、そこでノウハウを学んでいった。
大体は、家族と性の問題が大きいという持論が展開されている。移送に行ってみると、本人よりも家族の方に問題の原因があると感じることは多いようだ。例えば、学歴偏重だったり、威圧的であったりなど。また、刃物など凶器を持ち出すのは、例えば男性なら性器の象徴のようなもので、刃物によって性的な力を誇示しようとしているのではないかという。女性ならば、男性への憧れの象徴なので、こちらが男性的に力強く対応すると言うことを聞いてくれるという。そう理解してアプローチすると説得がうまくいくことが多いとも言っている。家族間で性的なことは話しづらいし、第三者に性的な抑圧を話すことで抵抗が弱まることは納得できる。随分とフロイト的な考えだなとは思ったが、一理あるとは思う。
そして、依頼者はなぜか裕福で恵まれた家庭が多いとのこと。押川さんが求める料金を払える前提で依頼しているなら当然とも思えるが(ご本人もそう言っているし)、人・物・金でいう金に偏った結果とも取れるし、恵まれすぎた中で壁にぶち当たったときに精神が耐え切れなかったとも取れる。また、裕福な家庭では、体裁や学歴などで評価しやすい傾向も理解できる。
また、家族が厄介払いのために入院させようとか、相続や離婚など様々な事情によって病院に入れてしまおうと画策する場合も少なくないといい、家族との面談の際にはそうした事情を見抜き、依頼を断ることもあるそうだ。映画『エンジェル・ウォーズ』がそんな感じだったことを思い出す。
2000年に改正された精神保健福祉法(第三十四条「医療保護入院等のための移送」)では、本人の承諾がなくても扶養義務者の同意だけでも移送可となり、都道府県知事は緊急の場合に本人や保護者の同意がなくても移送できるようになり、また移送時に身体的拘束をできることとなったという。
都道府県知事が実行できるということは行政主導で進められるということなのだが、押川さんは現状無理なのではないかと危惧している。ノウハウもなく、自由度もなく、緊急対応もできない行政では対応できないというのだ。さもありなん。
私も昔から心理学や精神医学方面に興味がある。大学での専門は発達社会学。人が生まれてからどのように人格形成していくかという学問だったので、心理学に近い。身近で精神を病んだ人にも出会ってきた。うつ病の人は多いが、自傷や他害のケースも知っている。統合失調症と思しき友人もいた。「いた」というのは、残念なことだけれど、こちらに害が及ぶようになって関係を断ち切ったからだ。かわいそうだが、どうしてあげることもできない。彼女は私を信用していないし。
自分の心身がもっともっと強ければ、精神医学を職とする道に進んだかもしれないが、私にはとてもじゃないができない。自分でできないことだからこそ、押川さんのように実行する人に興味がある。
実際、困っている家族は多いと思う。件の元友人は、おそらく年老いた母親と2人暮らしだが、母親がいなくなった後はどうなってしまうのだろうと思うと切ない。姉がいるが、姉が面倒をみてくれることにはならないだろう。あとは何らかの施設に入るかどうかだが、はたして金銭的に可能かどうか。
認知症もそうだが、精神障害者を家族に持つと、家族の負担は計り知れない。仮にその精神障害が家族によるものだとしても、実際の生活は壮絶なものだ。お金で解決できる問題もあるかもしれないが、経済的に困窮していたらそれもできない。十代くらいのうちに解決できればいいが、精神障害は簡単に治るものではないし長期化することが考えられる。大抵、精神障害者の兄弟姉妹は非協力的なことが多いし、独立してしまえば自分の家族の方が大事だ。結果、年老いた年金暮らしの両親が世話をしていくことになるだろう。日々を苦しみの中で過ごしている本人や家族に、何かしらの救いの手立てがあるとよいのだが……
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2014年10月09日

月食の夜に

当初はお天気が悪くて観られないのではと思われた昨夜の月食。
当地はほぼ月にかかるような雲がなく、赤く怪しく輝きながら黒く欠けていく月を愛でておりました。

本日は、1冊の本について。
『遊星ハグルマ装置』 朱川湊人笹公人
朱川湊人の短い小説と、笹公人の短歌とが交互に掲載されている。
ちなみに、カバーイラストは諸星大二郎によるもの。日常的な遊びから、隣り合わせた異空間に嵌り込んでしまった少年が描かれている。

内容はいたって自由。
笹公人のシュールな短歌は好きで、歌集も読んだことがあるが、朱川湊人の小説は初めて。娯楽として読むには、大変面白い。小説と短歌とは、繋がっているようで繋がっていないようで微妙にリンクしている。
所々に昭和ノスタルジーが漂う。

まずは、笹公人の短歌で気に入ったものをいくつかご紹介。
マチャアキがテーブルクロスを引くごとく唐突にきみ他人となりぬ
海辺にてオカリナを吹く少年が永遠に童貞でありますように
白魔術の女がまわすステッキにユザワヤのシール貼られていたり
「静粛に!」少女の声に静まれる昭和の学園ドラマよきかな
悪霊に憑かれしファービー甘え声でオレゴン州立刑務所を語る
オリジナルの魔法少女を描いて消す戸塚ヨットスクールの少年

相変わらずシュールな歌が多い。バラバラに散らばったオブジェクト同士を適当にかき集めて繋ぎあわせたようでいて、ちゃんと筋道が通っていて、情景が目に浮かぶようだ。少々オカルトなどの不思議風味で味付けされていて、毒があり、なんとも癖になる。

一番印象的だった短歌は
屋敷跡の土中に冷える大判の黄金の微光を思いけるかも

これには理由がある。シンクロニシティというか、この本を読んでいる最中にネットで見た怪談に、この大判小判の話があったのだ。土中に隠されていた財宝が発掘されるなんて話も聞くけれど、お屋敷を建てるときに、柱の下や土台部分などに大判小判を埋めておくと、家が例え焼けても財産が残るということらしい。つまり、ある種の保険。旧家のお屋敷では珍しくないのだとか。件の怪談は、解体業者がそれを見つけ、家主が見ていなかったのをいいことにそれをネコババし、その結果怪異に遭うというもの。
旧家などと関わりなく生きてきたもので、こういった習俗があると初めて知った。ネットでそんな話を読んで勉強になったななどと思っていたら、この本のなかに上記の歌が出てきたというわけで。
何代も続く旧家なら、先祖が隠したその大判の存在を子孫が知らなくても不思議はない。人知れず、朽ちもせず、土中にひっそりと埋まり続ける大判。そのひんやりした感触が誰にも侵されないところがいい。

さて、今度は朱川湊人の小説について。
10ページに満たないような短編が32。いくつかは、シリーズものになっている。
やはり、秀逸なのは「ラビラビ」シリーズか。人語を話し心を持つぬいぐるみのうさぎ「ラビラビ」が、果ては宇宙まで行くことになる。しかも、話はそこで終わらない。
「ラビラビ」みたいにぶっ飛んだ設定もあれば、「赤い月」のような文芸作品めいているものもあるし、「暗号あそび」のようなスリラー系もある。「魔術師の天国」や「子供部屋の海」のようなほろりとさせるものもある。内容も文体もバラエティに富んでいて、流石。短い中で過不足無くまとめあげる点では、星新一作品のようだ。ちょっと褒め過ぎ?(笑)

短歌、小説、短歌、小説と読んでいく。数ページごとに想像世界をリセットされつつ、次はどんな世界が広がるのかとワクワクしながら読んだ。
どこから読んでもよさそうだが、シリーズものもあるので、初回は最初から読むべきなんだろう。
手に取る度に訴えかけてくる諸星大二郎のイラスト、ザラっとしたわら半紙のような紙の感触、短歌と小説が刻むリズム……これは、紙でできた本でなければ味わえない感覚。本という形態ありきの本。
宇宙空間に投げ出された身体が、巨大なハグルマに引きずり込まれてどこへともなく運ばれて行ってしまうような。翻弄されるのが楽しい1冊。
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2014年10月02日

猫、狼、その他もろもろ

今回は、動物がらみが多い3冊。

『隣之怪第六夜 白刃の盾』
 木原浩勝
正直、著者のことがあまり好きでないので、読みたくもないような気もしたのだが、ついついクセで読んでしまった(苦笑)
直前に読んだ同著者の『九十九怪談第七夜』よりは、少しマシだったかな。『九十九怪談』シリーズは、かつての『新耳袋』シリーズを踏襲したような短い怪談を集めたもので、いい加減ネタ切れなのか怪異とも呼べないような「気のせいじゃないの?」という話も多く、年々残念な出来になっていく。
さて、『隣之怪第六夜 白刃の盾』。こちらは、『九十九怪談』に比べると、各話が少々長い。
押入れの裁縫箱から寝たきりのお婆さんの首もとへと伸びてくる白い糸の話「糸の誘い」や、魅力的な野鯉の取り合いに巻き込まれた人の話「鯉のお守り」は、ちょっと面白かった。
一番印象的だったのは、「猫の怨」。虐待の話などが出てくるので、あまり気持ちの良い話ではない。ただ、ここで語られる猫ちゃんが、友人の飼っていた猫と似ていて、そこが興味深いと思えた。
この猫ちゃん、飼われているお宅の住人の友人が訪ねてくると、玄関までお出迎えに行き、リビングまで誘導したりするが、訪問販売とか知らない人が訪ねて来た時は玄関に出て行かないそうだ。ピンポンと鳴っても動かない。面白いのは、同じ知り合いでも、家族にとって悪い話をしに来た時は応対しないそうで。それがなぜわかるのか不思議だということだった。
友人の飼っていた猫もそれに近いものがあり、宅急便の人のピンポンが鳴ると隠れてしまったという。人も見ていて、苦手な人が来ると絶対に出てこなかった。これを、「ピンポン」という呼び鈴の音だけで判断していたそうだ。通常、2階に居るから、匂いがわかるというものでもなさそうだし。気配なのか何なのか。
ちなみに、うちのダンナさんはいつも大歓迎され、子猫の頃からまとわりつかれていたのだが、ダンナさんにくっついて行ったせいか、私が行ったときにも姿を現してくれた。おメガネにかなったのかしら。
この猫の超能力的なものが不思議だ。
私自身は猫を飼ったことがないので経験がないのだけれど、こういうことはよくあることなのだろうか。
犬しか飼ったことがないので、ちなみに犬の話をすると、私が小学生中学年くらいの頃にうちで飼っていた雑種の黒犬は、母の自転車のブレーキの音を聞き分けていた。当時、家の隣にあった広大な空き地で遊んでいるとき、夕方になり母が帰ってきて自転車のブレーキの音がするとハッとして、「お母さんが帰ってきた!」と目を輝かせて私の顔を見て、私を連れて帰ろうとした。エサをくれたのは母だったから、母に一番懐いていたのかもしれない。超能力でもなんでもないけど。

『どうぶつのこゝろ図鑑』
 D[di:]
多摩美術大学在学中に発表した『ファンタスティック・サイレント』が、宮崎駿監督のお墨付きで出版、デビューとなったという著者。デビュー作はどうも内容的に読む気になれないのだけれど、この『どうぶつのこゝろ図鑑』は、表紙絵の猫が写実的でいながらとてもかわいくて思わず手に取った。
動物のイラストとそれらが登場するお話が25話。しょっぱなから強烈なパンチをもらう。「子犬のぷるーと」。出先で見かけた子犬があまりにもかわいくて、連れて帰りそうになる話なのだが、そのイラストは「これは連れて帰るわ」と納得してしまうかわいさ。それぞれのお話に登場する鳥たちも、ウサギもこぶたも、サイでさえも皆かわいい。
ビジュアルに反して、物語の方はかなりの毒が含まれている。そのギャップがいいのかもしれないが。
ペットロスから動物アレルギーになってしまい、動物が大好きなのに触れられない事態に陥った著者が、絵を描くことで動物たちと対話するうちにペットロスを克服したという。その過程で描かれ紡がれたのがこの本だ。そんな荒療治が、読む側にも有効なのかどうなのか。私は、ペットロスの方にはオススメしない。
ただ、描かれている動物たちのイラストを観るだけなら、とても和むことは間違いない。

『ミーシャ ホロコーストと白い狼』
 ミーシャ・デフォンスカ
ユダヤ人の少女がホロコーストを逃れ、ナチスに連れ去られた両親に会いたい一心でたったひとりでヨーロッパ横断の旅をする物語。
同名の映画が製作されているが、この本は当初、著者の自伝的ノンフィクションとして世に出て、後に著者本人によってフィクションであることが明かされたのだが、それは映画化が決定した後だったらしい。
すべてがまったくのウソとも言い切れないのが、著者が当時本当にレジスタンス活動家であった両親の元で育っているからだ。
読んでみれば、あまりにドラマチック過ぎて、いくらなんでもノンフィクションじゃあるまいよと思えるが……
ベルギー、ポーランド、ドイツ、ウクライナと旅する中で、狼と行動を共にする期間があったというお話なのだが、思ったほど寓話的でなく、なかなかリアル。
この話はフィクションだったとしても、ホロコーストの最中、両親を失って孤児となりつつも、なんとか生きていかねばならなくなったという子供は実際にたくさんいたのだろうし。その時代にそこで生きた人にしかわからないであろう生の感覚は随所に散りばめられていた。例えば、次のような表現。
子どもながらに、通過する土地の匂いを国ごとに単純化していた。ドイツは憎しみの匂い、ポーランドは死の匂い、ウクライナはオオカミの匂い、ユーゴスラヴィアといえば乾いた石の匂い、イタリアでは泥土と雨の匂いというように。

ポーランドが死の匂いというのは、かなり的確な表現なのではないかと想像する。ホロコーストというと、どうもナチスドイツとユダヤ人ばかりに気を取られてしまい、周辺諸国が丸ごと巻き込まれていることを忘れがちだが、それぞれが様々にホロコーストの渦中にあったのだ。
アメリカ兵へのイメージは、日本の終戦直後のいわゆる「ギブ・ミー・チョコレート」と同様で、あめ玉やチョコレート・バーやモンキー・ミート(コーンビーフのこと)を子どもたちに配ってくれたらしく、陽気な人たちという感じだ。
本当に恐ろしいのは人間という存在だと言いたくて、野生の狼と対比させたかったのだろうけど、全編を読むと語られる話が散漫すぎてぼやけてしまっている。曲がりなりにも自伝という形式を取ったために、一応大人になってからの人生も描かなければと思ったのかもしれないが、蛇足に感じた。それらは思い切り省いて、少女時代や狼との生活をもっと細かく描いてもらった方が感情移入しやすかったかも。
狼と少女が出てくるというだけで、映画にはそそられるものがある。映像で見たら、グロい場面も多数あると思うが。ノンフィクションと思わず、ファンタジーとして観ればよいのではないかと。

「読書の秋」なんて言われたりもするが、確かに、秋口に涼しくなってくると、なぜだか長編小説とか落ち着いた文芸作品とかが読みたくなってくるのが不思議。
ただ、今はまだ左手が思うように使えないので、分厚くて重たい本は読む気になれない。
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2014年09月19日

とりとめのない3冊

しばらく本の記事を書いていない。書きためたものが何冊分もあるのだけど。
リハビリの一環として、なるべく記事をUPしていこうと思う。7月からこっちに読んだもの。

『工場』 小山田浩子
書店で『穴』を見かけて、ビビっときたので早速図書館に予約したものの、予約待ちが多く順番が回ってくるのは数ヶ月先になりそう。ということで、それ以前に書かれた同じ作者の作品を読んでみようと思ったのだが……
結論から言うと、読むのが苦痛なくらいつまらなかった。いや、つまらないというのは語弊があるな。性に合わなかったと言うべきか。一言で言うと、ねっとりした嫌〜な感じが残る。これはこれで、すごい才能だと思う。なかなか真似できないだろう。
「工場」「ディスカス忌」「いこぼれのむし」という3つの話。
「工場」は、この中では一番面白い。語り手がコロコロと交代していく文体は、その度に理解するのに少々時間がかかる。登場人物の特徴は上手に表現されているので、すぐにわかるといえばわかるのだが。同じ名字の人が出てきたりして混乱。それも狙いだったのだと思うけど。
何を作っているのやら皆目わからない巨大な工場町の非生産的な日常が淡々と書かれていく。ジャンル分けが難しいけれど、SFとして読めないこともない。ただ、本当に何も起きない。もちろん、そういう作品もあってしかるべきだとは思うのだけれど、この作品の場合、「何も起きない」こと自体が肝になっているのだし。そんな中、微妙な不安感を醸し出されて、「このままでよいのだろうか」という登場人物たちの負のベクトルに引きずられる。読んでいくうちに、その巨大で非生産的な歯車に自分も組み込まれてしまったようで、非常に居心地が悪くなる。
「ディスカス忌」も、居心地の悪さ感が極まりないし、「いこぼれのむし」は「工場」のオフィス版とも言えるような話なのだけど、汚物や毛虫などの登場でなんとも嫌悪感溢れる作品(笑)
『穴』は面白いんだろうか……一抹の不安が。でも、なんとなく作風はわかったぞ。心して読もう。

『埼玉ルール 埼玉ゆったりライフを楽しむための49のルール』 都会生活研究所プロジェクト[埼玉チーム]
埼玉で生まれ育った自分としては、普段見聞きしていることが大半で、目新しいことはほとんどなかった。
とはいえ、路線ごとに文化圏が分断されている埼玉は、地元路線以外の地域のことにはとんと疎く、そのことを再認識するこことなった。
埼玉県というと、県庁所在地であった浦和や新幹線が停まる大宮を含むさいたま市が話題の中心になることが多く、私が暮らしてきた南西部はあまり話題に上らない。さいたま市を中心に、川口・戸田あたりまでを含めてJR京浜東北線や埼京線の沿線は個人的に文京地域のようなイメージがある。少々、お堅い感じ。
一方、東部の越谷・草加・三郷あたりは、千葉県とイメージが重なる。明るくてやんちゃな感じ。
西部はというと、都下に感覚が近い。おとなしめで地味、のほほんとしている。東上線沿線よりは、西武線沿線の方が若干垢抜けている感じはする。(以上、当方の勝手なイメージです)
私は川越という所で生まれ育ったのだが、この街は観光資源が乏しい埼玉では観光の目玉となっている所で、マスコミに登場することも多い。名所旧跡も多く川越祭りなどもあるのだが、市の中心部に昔から住んでいる人には特に地元に対する誇りのようなものを感じることがある。子供の頃は意識しなかったが、そういった部分が根無し草埼玉にあって、ちょっと異質に感じられるようになってきた。
無人となった実家にはもう1年以上行ってないが、実は、ギプス状態となって間もない頃、川越の街を歩いてきた。蔵造りの通りも歩いたけれど、市内に残るモダン建築をあらためてじっくり観たかったのだ。思いつきで出かけたので、下調べもせず、知っている場所だけ周った。そのうち写真付きで記事を上げよう。
それとは別の日、買い物にも訪れているのだけど、川越駅に直結しているアトレマルヒロの中が様変わりしていて、イマドキっぽい店が並んでいた。川越は、都内に出ずともそれなりのモノが揃っており、独立した一地方都市のようなものだ。それでいて、都内へは充分に通勤圏内。池袋からは電車で30分程度。会社員時代を思い出す。職場の大先輩が「昨日、川越に遊びに行ってきたのよ」とおみやげをくれたことがある。そこから通っているんですが(笑)
どういうわけか「ダサイたま」などと揶揄されることが多いのだが、埼玉県民は大きく2タイプに分かれると思う。東京から安い不動産を求めて下ってきた人たちは、都落ちみたいに思うのか埼玉県在住にコンプレックスを感じている人が多い気がする。やけに「東京出身です!」と主張してみたり。一方で、地方から出てきて住み着いた人や、代々埼玉県に暮らす人には、そういったコンプレックスが感じられないことが多いように感じる。これといって誇れるような名物はないけど、程よく緑が残る居心地の良さと通勤・通学やレジャーへの利便性で生活自体は充足していて楽しいからだ。
良くも悪くも東京に寄生している印象が強い埼玉県民は、自立できないようで他から見ると印象がよくないのかもしれない。埼玉県民はそれを自覚しているので、自虐的になったりする。でも本当は、馬鹿にされると、「いい所なのに知らないなんて残念だなぁ」と思っているのだ。

『怪談を書く怪談』 加門七海
”ものもらい”について書かれたくだりがおもしろい。
加門さんは、尋常じゃないほど人からものをもらうことがあるらしい。
日常的な買い物ではよくおまけがつくそうだ。近所の豆腐屋では何を買っても油揚げ2枚が必ず付いてくるという。この豆腐屋では、加門さんのお母さんが買い物をしても油揚げは付かないそうだ。加門さん自身が行ったときだけのサービス。
ある日には、惣菜店でポテトサラダを買ったら生春巻きと蛸めしとグリーンサラダが付いてきて、次に魚屋で魚を2切れ買おうとすれば同じ値段で4切れにしてくれたという。その日はすでに、人にお昼ご飯を奢ってもらい、別の方から焼き海苔をもらい、和菓子屋でどら焼き、別の店で煎餅をもらっていたという。
京都の神社を出た途端に、目の前にバイクが急停車してチリメンジャコを一袋もらったこともあるとか、本当に尋常じゃない。
前世は托鉢僧だったのかなどとご自身でツッコミを入れているが、これだけものをもらうのは、他の人とどんな違いがあるというのだろう。
見知らぬ人間に話しかけられる率も高いと言っているが、それどころじゃない。
義母がよくもらいものをしてくる人だった。まだまだ元気で存命しているのに「だった」というのは、保険外交員の仕事をしている中でよくもらいものをしてきて、今は退職して家にいるからで、今はきっとそれほどでもないと思う。義母の場合は、Aさんからもらったものを次に訪ねたBさん宅で別の物に交換してくるといったことが多く、何段階か経て最終的に残ったものを持ち帰ることが多かったので、「わらしべ長者」と呼んでいた。義母はとても営業成績が良かったのだけれど、人当たりの良さや誠実さだけではない何かしら人を惹きつけるものがあるのだと思う。そして、加門さんもそういう魅力がある方なのだろう。
黙っていても、何かもらえるなんて、いいなぁ。愛想のない私には考えられないことだ。

とりあえず、とりとめのない記事になったが、今回はこんなところで。
ラベル:埼玉県とは
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2014年07月18日

あなたと私の知らない世界

今回は、ビジュアル本4冊の感想をば。

『オーラ!? 不思議なキルリアン写真の世界』 写真 谷口雅彦/実験・文 川口友万
キルリアン写真。旧ソビエト連邦で考えられた手法によって生体エネルギーを写すという写真。 元々、ニコラ・テスラの講演に感銘を受けたキルリアン夫妻が、テスラコイルを利用した電気治療器で患者の体表面に現れたコロナ放電を撮影しようとしたことが始まり。半分切り取られた葉っぱの周りにも不思議な影が写り、「ファントムリーフ現象」と呼ばれていた……昔から名前は聞いていたものの、あの葉っぱや手形を写した写真以外、その後に再現実験して写したものを観たことがなかった。
たまたま見つけた写真集には、そのキルリアン写真がいっぱい!(笑)
お決まりの葉っぱやヒトの手などから、被写体のチョイスが可笑しくて笑える。美味しそうなハンバーガーや缶詰のパイン、果てはチーズの挟み込まれた竹輪まで。
それでも、フリーメイソンのバッジとか、キリストが磔になった十字架あたりを撮っているのがいかにもオカルトマニアっぽいが。(筆者は反オカルトの立場で積極的にオカルトに関わっているよう)
美しさから言ったら、ぼんやりと輪郭がピンクに光っているM&Mチョコレートが一番。
こんなものを本気で撮ろうとする人間は世界広しといえども少ないらしく、資料もロクにない中、試行錯誤しながら撮っていく様子が巻末に書かれている。
出発点はあのオカルト月刊誌「ムー」。ここの編集長から、キルリアン写真を撮れないかともちかけられたサイエンスライターである筆者が、チャレンジしたものだ。集めた資料によると簡単だと書かれていたものの、やってみると存外難しかったらしい。光らなかったり、軽く感電したりしながら、徐々にコツがわかっていく。装置の構造上、薄いものしか撮れなかったのが、立体的なものを撮ることができる装置を作り出すまでに。
ファントムリーフの種明かしもされているが、ここで書いてはつまらないので内緒にしておこう。
オカルトをネタにした、笑える1冊。でも、綺麗です。

『東京幻風景』 丸田祥三 写真と文
東京都内と関東近県に残る遺構や廃墟などの写真が掲載されたビジュアル本。朝日新聞東京本社版の夕刊に連載されていたものを書籍化したもののよう。現地の地図や簡単な行き方も添えてあり、ガイドブックにもなっている。写真のデータもあり。
最初に「ギュッと開いても大丈夫な製本をしています。」と書いてあり、親切設計。そうなのだ。こういったビジュアル本はしっかり見開いて観たいもの。
写真はすべて彩度を上げて加工してあるので、幻想的な風景に見える。思い切り青かったり、黄色かったり、赤かったり。
ちょいちょい「お手元のスマホで検索してみてください」と言われるのがウザイが、全体的には読んでいて好感が持てる文章。
群馬県太田市にある「第5古戸水源地調整塔」は野又穫の絵のようだし、千葉県富津市の「船の陸揚げ用レール」の夕陽は黄色が強い印象派の絵のようだ。
静岡県清水港の「テルファークレーン」とか千葉県「木更津の海上電柱」などユニークなものもあるが、海上電柱はすでに撤去されてしまったようだ。(まだ一部残っているかも?)
こういった類のものは、観るべきときに観ておかないと失くなってしまうのだよな。
一番印象に残ったのは、日光霧降高原にあるチロリン村の中にひっそりと佇む路面電車。水辺にあるので、路面電車の影が水面に逆さに映っている。
実際、自分が訪れたことがあるのは、1ヶ所だけ。西武鉄道安比奈線。それとは知らなかったが、河川敷にオフロードバイクの練習場があり、そこを見学に行った際、レールとそれに沿って並ぶコールタールが塗られた古びた電柱を見つけた。こんなところに引き込み線があったんだなと思っていたが、それが安比奈線だった。レールは続いているように見えなかったが、結構残っているようだ。
一番ショッキングだったのが、東大和市に残る「日立航空機立川変電所」だ。今は文化財として都立公園内に保存されている。戦時中は、航空機のエンジンを作っていた工場があった。
終戦の年、米軍による2度の機銃掃射と1度の爆撃を受けていて、壁は弾痕だらけだ。動員された学徒たちが百十名以上も亡くなったという。変な話、空爆で失くなってしまった建物や大勢の犠牲者の話よりも、機銃掃射の弾痕が残ったこの建物の写真の方が生々しい。人命を直接狙った痕跡という部分がそう思わせるのだろうか。
丸田さんは、遠くから現地に足を運んでも、1枚も写真を撮らずに帰ってしまうこともあるそうで。やりきれない思いが先に立ってしまうと撮るに撮れないのでしょうね。ただ廃墟に惹かれてとか、レトロフューチャーがかっこいいとか、そういう感覚ではないよう。そんな感覚が写真に載っている。
普段は加工された写真は好まないのだけど、この方の写真が受け入れられるのは、写真が単に美しいだけではないと思うのだよね。

『おかしなジパング図版帖 モンタヌスが描いた驚異の王国』 宮田珠己
1669年にオランダ人モンタヌスが著した『日本誌』の挿絵。オランダ使節フリシウスの『江戸参府日記』などをもとに、当時のヨーロッパの人々にとって謎めいた国であった日本の文化や風俗を伝える出版物であった……はずだった(笑)
多くの挿絵によって、それまでほんの一部しか表現されてこなかった日本の姿を思い切り挿絵に描いてくれたのは良かったのか悪かったのか。日本を一度も訪れたことのなかったモンタヌスが、各種文献を読みつつ妄想で描き上げた挿絵の数々は、あまりにもとんちんかんで楽しい。当時の他の著者による日本を説明する文献も大概なのだが、とんちんかんさではモンタヌスが群を抜いているようだ。
どう見ても西洋人の顔つきや服装。だらんとだらしなく両手を下げたお辞儀。想像上の奇妙な楽器や乗り物。兜には羽飾りが付き、千手観音は肘から先が2本に分かれていたりする。後ろから押す人力車。瓦屋根の上にはドラゴンやケルンのような石積み。ひとつのお城に天守閣が4つ。おかしな所を挙げればキリがない。
地名もとんちんかん。ウネワリメット、ドニ(河)、パウロママ(山)、ジンサツマ、タモニズ、ウルツ……どこ、それ?
とはいえ、日本という辺境の国への強い好奇心は伝わってくる。元々アジアの辺境の島国で、それに加えて鎖国なんて国策もあり、微妙に伝わってくるのは独特の文化を持っているらしいということくらい。外国人からしてみれば興味津々だったのだろう。
今や年間1千万人もの外国人観光客がやってくるという日本。あまりの独特さに日本かぶれする外国人の方々も後を絶たないようだけど、かといって日本文化が世界に正しく伝わっているかといえば、まだまだそうでもないし。
この度公開されるハリウッド版『ゴジラ』(2014)で、日本人の生物学者を演じる渡辺謙が、「ガッズィーラ」と発音してくれと監督に頼まれたのを頑として断り「ゴジラ」という日本的な発音を貫いたと聞いたが、西洋文化に大きく影響を受けながらも、独自文化を貫く所は貫くという日本の在り方を象徴しているように感じた。

『奇界遺産2』 佐藤健寿
あの『奇界遺産』の第2弾。
諸星大二郎のイラストとともに、ヘッセの『デミアン』の一節から始まる。
鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。卵は世界だ。生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない。

前作よりも文化人類学的な風味が強く、哲学的でさえある。
一個人が作り上げた物件が多く紹介されている。「レイモンド・モラレスの彫刻庭園(フランス)」や「シュヴァルの理想宮(フランス)」や「怪物庭園(イタリア)」のような芸術性の高いものもあるが、「ベイヨー・ロンコネン公園(フィンランド)」とか「サルベーション・マウンテン(アメリカ)」とか「彩虹眷村(台湾)」とか奇人の自己満足的な物件もある。いずれにしても、人間が作り上げたものということを考えると、世界の広さというか人間の多様性を見せつけられる気がする。
印象深かったのは、「サン・ガルガーノの聖剣(イタリア)」。岩に突き刺さった剣は、エクスカリバーの伝説さながら。大天使ミカエルが、戦争に明け暮れるガルガーノという騎士に戦いをやめて剣を岩に収めよと命じ、その言葉に従ったガルガーノが突き刺したものだといわれている。聖なる剣ってことで詳しい調査はできないものの、数年前のトスカーナ大学の調査によると剣は伝説通りに12世紀頃のもので、後世の作り物だという説は覆された。
もうひとつ印象深かったのは、唯一の日本の奇界遺産。大分県の山中深くにあるという「白鹿権現」。猟師の聖地となっているようで、鹿など獲物となった動物の骨が数多く奉納されている。一節には平安時代の末期頃から始まったという。累々と積み上がったそれらは、写真で観ただけでも神聖な空気が流れているのがわかる。
最初に紹介されたヘッセの一節は、最後に取り上げられた「チェルノブイリの卵(ウクライナ)」と呼応する。元住民らの夢を詰めたタイムカプセル。人が去った雪原にポツンと置かれた巨大な卵。核廃棄物の収納容器と同じ素材で作られている卵は、千年後に割れることになっているという。
さて、人類はこの後、どんな文化を築いていくのでしょうね。
少々グロテスクであったりショッキングであったりする写真も含まれているため、苦手な方はご注意ください。

なんだかたまたまビジュアル本が手元に多くなってしまった。
次はきちんと活字のものを読みたいな。
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2014年05月21日

米・露・蘭

童話っぽい本をまとめて読んだので、今回はそれを。

『ふたりはいっしょ』
 アーノルド・ローベル
絵を描くことが趣味でうつ病と闘っている大学時代の先輩が、ある時、個展を開くための場所の下見に付き合ってほしいと言うので、いっしょに渋谷へ。いくつか下見した後、ぶらぶらと歩いているときに見つけた書店で、『ふたりはいっしょ』を見つける。それを私が手にとっていたのを先輩は見ていたらしく、後日英語版のコピーをくれた。先輩は英語を教えることを生業としているのだけれど、教材に使っているらしい。
ほとんどが辞書も必要なく読めるような簡単な英文なのだけれど、ところどころに知らない単語が出てくる。「ここはこういう言い回しをするんだな」などと勉強になる部分もある。
1972年初版。それまでにもなんとなく目にしてはきたものの、ちゃんと読んだことがなかった、かえるくんとがまくんのお話。
がまくんは、To Do リストを作ったのに失くしてしまってリストが無いからと何もできなくなったり、なかなか芽が出ない花の種を怖がっているからだと思い込んで元気づけたり、「あと一つだけ」とクッキーを食べるのが止まらなくなったり。
がまくんが、とにかくアホかわいい。そのがまくんをそっと見守るかえるくんの優しさ。
どことなく教訓めいた話が多いのだけれど、やんわりと背中を押してくれるくらいの主張で嫌味がない。
がまくんとかえるくんの絵がまたいい。私は、好きなキャラクターといえばカーミットが最初に出てくるくらいカエルがかわいく見えるタチ。さすがにリアルなガマガエルはあまりかわいいとは思わないけれど。なので、このがまくんとかえるくんもとってもかわいく見える。
シリーズは4冊あるようなので、他の作品も読んでみよう。

『金の魚』 A.プーシキン 作/V.ナザルーク
プーシキン……名前は知っていても、よく考えると作品を読んだことはない。ロシア近代文学を築いた人だとされているのだけれど、作品に積極的に口語を取り入れたりしていて、つまりプーシキンの作品はロシア語で音読してこそその良さが発揮されるものらしい。ということで、未知谷というところから出版されているこの本には朗読CDが付いている。ロシア語の朗読はY.ノルシュテインというアニメ監督さん。この方の代表作のアニメが「きりのなかのはりねずみ」(→YouTube)。ちなみに、日本語での朗読もあって、こちらは岸田今日子さん。
ロシア語の朗読を聴くと、確かにその言葉の響きにはリズムや韻が感じられる。残念ながら、ロシア語は昔ほんのちょっと勉強したものの、まったくわからないのだが、この本には日本語の下にロシア語も表記されているので、目で追っていればなんとなくはわかる。ちなみに、岸田今日子さんの日本語での朗読もなかなか味があってよろしい。
『金の魚』は、ロシアでは有名なお話らしいのだが、全然知らなかった。漁師のじいさんが網にかかった金の魚を助け、そのお礼になんでも願いを叶えてくれるというのだが、じいさんは固辞する。ところが、じいさんの伴侶であるばあさんが強欲で、その願いはエスカレートしていき……というお話。当のじいさんは何も叶えてもらわないのが不思議。いや、叶ったということなのか?
訳者であるみやこうせいさんのこだわりが半端無く、その辺りはご本人による解説に詳しく書かれている。
そして、3年がかりで描かれたというナザルークの絵が美麗。
まったく同じメンツで『金の鶏』も作られているので、こちらも読んでみようと思う。黄金という色は、ロシア人にとって、どうやら特別な色であるらしい。

『ネジマキ草と銅の城』 パウル・ビーヘル 作/村上勉
こちらは、オランダの児童文学作家パウル・ビーヘルの初期作品。発表は、1964年。それを初めて日本語訳した本が2012年に出版されたということらしい。
この絵柄はもしやと思ったら、やはり佐藤さとるさんの「コロボックル物語」シリーズの挿絵を描かれていた村上勉さんの挿絵だった。これが素晴らしい。躍動感がありつつも、とても優しい画だ。
装丁は名久井直子さんによるもので、いささか地味なブックカバーをはずすと、きらびやかな表紙が現れる。私が図書館で借りたものは、カバーがはずされた状態だったので、金地に黒の飾り文字のタイトルが目に飛び込んできて思わず手にとった。それまで存在を知らなかった本だったので、装丁がものを言ったことになる。
たまたま、テレ東の森本アナによるブログで「スミスの本棚」の内容が語られているのを見つけた。名久井さんは、自ら村上勉さんに挿絵をお願いし、綿密な打ち合わせをしながら本文と挿絵のバランスを取り、1年以上かけて完成させたという。
さて、お話の内容について。
銅の城に住む千年を生きたマンソレイン王の命が尽きようとしていたそのとき、まじない師が「ネジマキ草さえあれば……」とそれを手に入れるための旅に出る。王の止まりそうな心臓に刺激を与えるためには、お話を聞かせるのが有効だと考えたまじない師は、行く先々で出会う者たちに王のところへお話を聞かせに行くように頼みながら進む。その頼みをきいた者たちが、次々に銅の城を訪れ、王にお話を聞かせる。
オオカミ、砂丘ウサギ、ドラゴン、マルハナバチなどなど、それぞれが語るお話が王の心臓の鼓動を保たせる。他愛のない話ばかりなのだけれど、みな王に元気になってもらいたいという真心から話をしに来たのがわかる。そして、重要な小人のお話。唯一、従者として王に使えているノウサギの王への気遣いも涙ぐましい。
王の元を訪ねる動物たちの話と、本筋の話とが入れ子構造になっている。その一方で、まじない師の旅の進捗状況が逐一報告されるという構成が面白い。そして、最後にはすべての伏線が回収されていく。
予定調和、ハッピーエンド。でも、そりゃあ子供向けの童話なんですから、それでいいんです。
すべてがまあるく収まる気持ちのよいお話。

というわけで、今回は童話3冊でした。
図書館で1冊手にとったら、脳内が童話モードになってしまったようになって、あとの2冊を選びました。
たまたま、アメリカ・ロシア・オランダと異なる国々の話を選んだことになります。
たまに絵本や童話を読むと、自分の中で何かがリセットされたような感覚を味わうことができます。
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2014年04月09日

不可逆の物語

本日の記事は、3冊の本について。
今回は多少ネタバレになってしまうかもしれませんので、ご了承ください。まぁ、いつもの通り、”最新刊”というわけではありませんので。

『空の中』有川浩
航空自衛隊が出てくるということ以外は何の予備知識もなく読んでみた。
上空2万mで相次いで起こる航空機事故。その原因は、未知の存在だった……というお話。
主役は2チームあり、ひとつは航空自衛隊の女性パイロットと事故調査のために航空機メーカーから派遣されてきた技術屋。もうひとつは航空自衛隊のパイロットを父にもち、その父を事故で亡くす高知の男子高校生とその周囲の人たち。
自衛隊チームはほんのり恋愛を匂わせる展開だけど、そこはそれ有川さんらしいもどかしくも微笑ましいような程度。一方の男子高校生チームも恋愛がからむけれど、それよりもキーになるのは「宮じい」と呼ばれる近所のじいちゃん。血縁ではない。でも、血縁ではないがゆえに、温かく心に響く言葉がある。
この「宮じい」の存在に泣かされる。川で漁師をしているこのじいちゃんが土佐弁で訥訥と語る言葉は、平易なのに含蓄深い。そして”温み”がある。晩年認知症となった自分の父が、会話ができなくなっても”温み”が感じられたことを思い出してしまい、直接本の内容とは関係ないのだけれど涙しながら読んだ。
あとがきによると、この「宮じい」にはモデルになった方がいるらしく、こういう方が日本中のそこここにいらっしゃるのかもしれないと思ったら、勝手に心強くなった。
一方、第3の主人公といってもいいと思うが、民間機のテストパイロットである父を事故で亡くし、未知の存在と戦おうとする市民団体を指揮するお嬢様女子高生が出てくる。事故をきっかけに精神が崩壊した母親は、事故直前に父と喧嘩してひどい言葉を吐いた娘を許さない。この娘が痛々しい。父を亡くした上に母との心の交流が断絶した彼女の姿は、今現在の私自身そのままで、彼女自身の心が荒んでいることを自覚するシーンがあるのだが、だいぶ精神的に回復したと思った私でも、やはりまだまだ正常には程遠いと自覚した。
この話は喪失からの再生がテーマとなっている話なのだと思うのだけれど、大事な点は様々な事が「不可逆」であることだと思う。言った言葉は取り消せない。やってしまったことは取り返しがつかない。謝るとか許すとか、そういう事後のことはあまり意味がない。そんな厳しい現実を思い知らされたような気がする。
というわけで、エンターテインメントであるとは思うのだけれど、今の私にとっては非常にシビアな話として教訓的に映った。それでも、読後は爽やかな話だと思うので、ある程度のカタルシスはあったのだと思う。


『だから荒野』桐野夏生
40代半ばの平凡な専業主婦が、ある日家族の仕打ちにブチ切れて家出するという話。
年がバレるがどうでもいいや。同年代で同じ専業主婦である身として、果たして共感できるのだろうかと読んでみた。桐野夏生は何作か読んだことがあるけど、『東京島』以来かな。
結論から言うと、残念ながら、あまり共感はできなかった。細かい一般論の部分は頷けることが数多く出てくるけれど、主人公には感情移入できない。ひとことで言えば状況が違い過ぎているからなのだが。
彼女は大学生と高校生の息子を持つ主婦で、無神経で自分勝手な夫がいて「愛のない家族」として生活していた。収入が安定しているからこそ専業主婦ができるのだろうが、その分夫は家庭を顧みずに仕事や自分の趣味に生きている。料理が苦手で、ネットをあまり使わない情報弱者。車の運転が大好き。ブランド好きで派手好き。おとなしいようでいて、やることはけっこう大胆で積極的。
私は子どもがなく、不健康だしお金もないけど、毎日笑って楽しく生活している。ダンナさんいわくNEET。仕事も就学もせず、積極的に就業訓練とかしてるわけじゃないからNEETであることは間違いない。ここを読んでいる方ならご存知のことと思うけれど、うちのダンナさんは細かいところによく気がつき、私を気遣ってくれるという優しくよくできたダンナさんである。私は家事が得意なわけではないけれど、料理だけは3食カロリーとバランスなどを考えたものを作っている。ブランド嫌い、シンプルなものが好き。車の運転は嫌い。しっかりしているように思われるが、けっこう抜けているし、できれば波風立てずに生きていきたい(笑)したがって、大胆なところはないかも。
ただ、活動範囲が狭く、社会と隔絶されているという点では、主人公と共通していると思う。ネットで情報は得ているけれど、実社会とのつながりは希薄である自覚はあり。だからこそ、自分から出かけて行って見聞を広げようとしてきたのだけれど、最近はそのエネルギーがなく家に篭っている。本当に、そろそろ外に出ていかなければと思っていたところだったから、そういう点では刺激になったのかも。
妻であり母である主人公の家出をきっかけに家族に問題が噴出していくとはいえ、主人公と夫や息子たちは、言い合いをしながらも、どこかで繋がっているような余裕を感じさせるところがあって、本当に愛情が微塵もなければこうはならないのだろうなと。逆に、現実はこんなに甘くはないのではとも思わせる。
本筋とはあまり関係ないが、あさっての方向から達成されるある種の意趣返しがちょっと面白かった。ここだけは、桐野夏生っぽいと思う。
車で長崎を目指すので、全体的にはロードムービーを観ているようで、様々な人と知り合うのだけど、1箇所だけ心に残った部分をば。ある老人の言葉。
「人の苦しみや悲しみがどれほどなのかは、その人でないとわかりません。比較すること自体がナンセンスです。こちらは家族が一人死んだ、あっちは三人死んだ。だから三倍の悲しみがある。そんな風には誰も思わないでしょう。あなたの苦しみが、軽いとか甘いとか、そんなことは全然思っておりませんよ」

『空の中』を読んでから読んだので、これも不可逆の話だなと思いながら読んでいたのだけど、途中からはそうでもなくなった。専業主婦でなくても、家族に閉塞感を感じている人が読むと、何かしら感じるものはあるかもしれない。とんちんかんでも、まずは行動を起こしてみるというのも、何かのきっかけに成り得るのかも。
もしかしたら、既婚男性こそ読んでみたらよいかも。妻がどんなことを感じているのかわかる部分があるかもしれない。未婚男性にはどうかな。結婚への夢が崩れてしまうのもいただけないし、あまりオススメできない気がする。


『ぼくらの近代建築デラックス!』万城目学・門井慶喜
2人の作家がそれぞれのオススメ近代建築を紹介してくれる。欲を言えば、もう少し写真を載せていただけたら、もっと楽しめたかも。大阪、京都、神戸、横浜、東京とそれぞれの地域ごとに紹介してくれる。ちょっとしたエピソードや薀蓄も語られるのだが、軽くて読みやすい。
個人的に印象に残ったのは、一橋大学や築地本願寺などを手がけた、妖怪好きでもあったという伊藤忠太の建築。特に、築地本願寺の内部、梁を支える猿とか、かわいい!
大阪に近代建築が多く残っているのを知ったのは、『プリンセス・トヨトミ』がきっかけだったかも。巡ったら楽しいだろうなと思いつつ、実現しないかもしれないなと思う。「綿業会館」は楽しそう。内装が素晴らしいとのことだけど、簡単には入れないようで残念。
外観だけでなく、京都の元銭湯だった「さらさ西陣」のタイルの内装とか、昭和7年開業当時の内装がいまもそのままの「ライオン銀座七丁目店」とかが挙げられているのも面白い。神戸の「旧和田岬灯台」などは、初代の木製を鋳鉄製で再現して移築保存したものだということだが、真っ赤でかわいい。元々鉄道技師だったイギリス人の方が畑違いな灯台を作らされたというエピソードも面白い。
外観がかわいらしかったのは、京都の「1928ビル」。旧大阪毎日新聞社の京都支局だったという建物。設計は武田五一。なんといっても、星形のバルコニーと窓が素晴らしい。
実際に自分が行ったことのある建築は、ご縁のない関西では皆無。横浜の「ホテルニューグランド」には泊まったことがある。去年やっと行けた東京たてもの園の「前川國男邸」。「東京駅」はいわずもがなだけど、何度か野音には行ったから「日比谷公園」と、何度も前を通っている「築地本願寺」くらい。
一口に建築物といっても、幅は広いと思うのだが、私は古い城などよりも近代建築に惹かれる。しかも、日本の近代建築に。和風と洋風とどちらにしたらよいか迷うような時代に、ちょっと和風を取り入れてみたりとか、いやいやここはしっかりと洋風にとか、工夫はしてみたけれどどっちつかずになってしまったとか、そんな建築物を観ているのが楽しい。西洋化すべきか、はたまた日本の伝統を守るべきか。悩める建築家たちの奮闘と、豪奢な建築物。まだまだ知らない建築がたくさんあるので、少しずつ知っていきたいと思う。
お二人のオススメ建築以外にも、日本の各所に近代建築がたくさん現存しているはず。でも、この本の中でもそこここで言われているけれど、いつ壊されるかわからないから観たい方はお早めにどうぞみたいな感じで、いずれ取り壊される運命にある古い貴重な建物が勿体無く、悲しい。写真で観ることはできても、その場の空気みたいなものは、やはり実物に触れてみないと感じられないものだから。
壊したらもう元には戻らない。建築も不可逆なものだな。
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2014年03月21日

ルーシーつながり

今回は、本の記事。最近読んだ2冊から。

『137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史』 クリストファー・ロイド
ビッグバンで宇宙が誕生してからつい最近のことまで、地球の137億年の歴史を駆け足で見てみようというこの本。137億年を1日24時間に見立てた時間経過の目安がついているのだけれど、原核生物が誕生したのが午前4時、真核生物となったのがすでに午後3時、それから日もとっぷりと暮れた頃にカンブリア紀とか恐竜時代とかもろもろあって、人類が誕生したのが午後11時57分。もう1日が終わる勢い。1万年前でさえ11時59分。この辺りから今現在まで、最後の1秒が延々と続くことに。
ちなみに、この本は横書きで書かれている。読みやすいんだか、読みにくいんだか。個人的には、1ページが2列にわかれていたので、半分まで読むと左に戻らなければならないのに、右側の列に目がいってしまいそうになった。それだけ横書きの本に慣れていないってことだな。

全体を読んでみて、人類の問題の根っこは、やはり人口が増え過ぎたことにあるのではないかと思った。
人増える→食料や資源が足りなくなる→他から取ってこよう→植民地化を目論んで侵略戦争
人増える→資源確保のために森林伐採→土留めを失って洪水&二酸化炭素が増えて環境問題に発展
人増える→食料や資源が足りなくなる→口減らしのために要らない人間を作りあげて殺そう→ある種の人間を虐殺
みたいなパターンが多すぎる。
世界で1年で増える人口は、1980年代に8700万人だったのが、2006年には7500万人に減ったという。それでも、2050年までには世界人口は90億人を超えると考えられている。
マルサスが『人口論』で危惧していたようなことが、もうすぐ大々的に現実になるのかもしれないな。
それと、エネルギー問題だけど、石油資源は2038年に枯渇する計算だったよね。一体どうするんだろ。文字通りに2038年ピッタリにまったく入手できなくなるということではないにしろ、入手するのが困難な状態やバカみたいに高騰するという事態になっていくことは想像できる。産油国でないなら尚更。
そうなると、石油資源を頼る火力発電はダメ。原子力発電は危険性から縮小・廃止の方向。日本は、気候上、太陽光発電には向かない。風力にも限度がある。現実的なのは、地熱発電だと思うけど、どの方法にシフトするにしても、現状から方向転換するにはどう考えても時間が足りないよね。
電気自動車やオール電化住宅がエコだっていうけど、その電気どうやって作るの?
やっぱり、人間は常にその場しのぎで生きているのだな、と。とりあえず今を取り繕うことに重点を置いていて、将来それがどういうことになっていくかというのは二の次だもんだから、後になって問題が噴出してくるのだね。すべてにおいてそんな感じ。ここまで複雑化してしまった世界では、方向を変えようったって簡単にはいかないしな。

意外に思ったことは、紙について。
金とか絹とかスパイスとかについては、歴史を語る上で重要だとされるところだけれど、意外と紙というものが重要だったことがわかった。
中国で発明された紙漉きの技術は600年以上もの長い間公開されず、他国では上質な紙が作れなかったのだそうな。105年に中国でとある官吏が開発した紙漉きの技術が、イスラムの騎士団に捕虜となった中国人の紙職人から漏らされたのが751年。でも、ヨーロッパなどで広まるのは1200年頃。ヨーロッパで樹皮から紙を作るようになるのは19世紀になってからのことだそうだ。一方、1120年代には、中国ではすでに紙幣ができていた。
紙を手にしてしまえば、活版印刷が容易なアルファベットで構成される言語では、書物が広まりやすい。一方、漢字は活版印刷には不向きだから、紙のことは置いておいても、印刷技術自体はいつのまにかヨーロッパに追い越されてしまったんだね。
中国での科挙試験は有名だけれど、紙漉き技術のおかげでこれに拍車がかかって、大勢の人間が試験を受けることになり、インテリ化が進んだと書かれていた。今の中国とはかけ離れているように思えるけれど、人口が爆発的に増えてしまったことも関係しているのかもしれないな。

トリヴィア的なことで面白かったのは、黒死病の流行後に人々が移動したことで、英語の発音とつづりの不一致が生じたという話。
黒死病以前は、「nake(メイク)」を「マク」、「feet(フィート)」を「フェト」などと発音していて、母音を伸ばすようになったのは、地方の人口が激減して、農民が都市へ流れ込むようになったからだという。
同様の発音の変化は、ドイツやオランダでも起きているとのこと。
大学時代、古語英語の授業があった。現代英語とはいろいろ違っていて、英語も時代によってずいぶん変化しているのだなと思ったものだけど、まさかこんな裏話があったとは。

ひとつ疑問に思った点が。
オーストラリアと南北アメリカ大陸に大型肉食獣がいなくなった原因について。
この本では、そこにやってきた人間によって絶滅させられたという説明になっている。
天敵がいなくなった草食動物たちは急激に増加し、天候の変動もあって、食料不足が壊滅的なレベルとなり、小型種だけが生き残ったという筋書きらしい。
でも、ライオン、トラ、オオカミなんかを仕留めるよりも、草食動物や小型の動物を仕留める方が簡単じゃない?それをさしおいて大型肉食獣からやっつける理由がわからない。危険だから?食料とするなら、肉食獣よりも草食動物の方が格段に美味しいと思うし。納得がいかない。
人間がそこに到達した時期に大型肉食獣が絶滅したとしても、もうちょっと複雑な事情があったのではないのかな。まだ、大型肉食獣だけをターゲットにした病原菌があったとかいう方が真実味がある気がする。

全体的な感想を述べるとすると、文献や数々の証拠が残っている近代以降は別にしても、歴史ってのは自由に解釈できるものだなということ。
実際、ビッグバンがどうやって起きたのかなんて、誰にもわからないし、恐竜が絶滅したのもどうしてだったかなんて、誰にもわからない。栄華を極めた古代の部族が消滅してしまった謎もわからない。
確かなことは誰にもわからない。異なる立場から見れば、違って見える。いろんな学者さんたちがあーでもないこーでもないと侃々諤々やって、こんなことじゃないのかなと出した結論が「正しい」とされているけれど。
それでも、大体こんなもんかという線で書かれていると思うので、宇宙が生まれてからこのかたを一気に振り返ってみたいという方にはオススメします。


『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ』 浅倉卓弥
上記の『137億年の物語』を読んでいたら、当然といえば当然のことながら”ルーシー”が登場してきて、その名がビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」から付けられたという記述があった。この2冊を並行して読んでいたので、些細なシンクロニシティに喜んだ。
”ルーシー”は、1974年にエチオピアはアワシュ川沿いの渓谷で発見されたのだが、当時の宿営地ではこの曲が繰り返しテープレコーダーから流れていたのだそうだ。
二足歩行した最古の類人猿”ルーシー”。樹上生活をしていた類人猿が地上に降り、後に道具を作り出し大きな脳を持つ種へと進化していく分岐点。

さて、本題。
「僕」が迷子になったときに、セイウチから聴かされたルーシーの話。
セイウチもけっこうテキトーだし、「僕」もけっこうテキトーだから、話自体がけっこうテキトーなのだけど。『不思議の国のアリス』よろしく、井戸の中に落ちたルーシーが辿り着いたのは異世界で、どうにかして元の世界へ帰ろうとすると、それにはダイアモンドが必要だと教えられるのだけど……
時折、暴走し著者が我に返って自虐的になる部分が挟まれたりして、今自分が誰の何の話を読んでいるのかよくわからなくなりながらも、ルーシーや「僕」といっしょに迷子になった感じを共有できているような気もして。
モチーフとしては、ダイアモンドはもちろんのこと、万華鏡とかマシュマロパイとかルーシーがいなくなってしまうだとか、ビートルズの「Lucy in the Sky with Diamonds」の中に出てくるものが散りばめられている。この曲は、頭文字がLSDなわけで、ドラッグと関連しているとも言われているのだけど、万華鏡というモチーフは、それっぽいなと思う。ただ、この本はサイケデリックな匂いはせず、ファンタジックなお話。
だいぶ『不思議の国のアリス』めいた話ではあるのだけれど、凝った装丁も手伝ってか、なかなかに楽しんだ1冊。

最近思うのだけれど、それがリアルな世界を描いているかファンタジーかということは関係なく、フィクションとわかっていながらも物語の中に引き込まれてしまう作品というのが、やはり面白い。見え透いていたり、少々強引だったりする設定も、結局は物語に引き込まれるか否かで楽しめるかどうかが決まってしまうんだ。
「くだらない」とけなすのは簡単だけれど、せっかく読み始めたならばとことん乗せられてやろうじゃないのという姿勢で読むことにしている。
そうすると、自分が気になって手にとった本ならば、大抵は楽しむことができるというわけで。

関係ないけど、「クリストファー・ロイド」と言われたら、やっぱり『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のドク役の方を思い浮かべてしまう。『137億年の物語』の著者は、もちろん別人。
ここ数日、たまたま、ネット上でデロリアンをネタにした動画を連続で見かけて、ダンナさんからデロリアンの車体が塗装していないステンレスだと教えられる。なるほど納得。あの独特の質感はそういうことだったのか、と。
新たに作られるデロリアンは、中身が電気自動車だそうだけど、それはそれで面白いのかも。
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2014年03月05日

「あうあうあ」と「なんじゃそりゃ〜!」

久々に本の記事をば。

まず、穂村弘『蚊がいる』から。
穂村弘は好きな歌人で、エッセイもいくつか読んだことがある。でも、しばらくご無沙汰していた。
角田光代との対談『異性』を読んで以来かな。(→過去記事主電源スイッチオン!
『蚊がいる』は蚊取り線香風の表紙絵が強烈で、なかなか良い装丁。ちなみに、横尾忠則によるもの。なるほど納得。
中身は、いつものことながら自意識過剰とも言える穂村さんの心の内側が多く書かれているのだけど、つくづく取り越し苦労をする人だと思う。ここまで日常的な未来予測を後ろ向きに捉えていると、生きづらいだろうな、と。もちろん、自分も共感する部分があるからこそこの方が綴る文章を好んで読むのだけど、穂村さんほど重症ではない。
とにかく、「怖い」「恐ろしい」という言葉が並ぶ。ひとつひとつは本当に些細な日常の出来事なのだけれど、その度に「どうしよう」と悩みすくんでしまう様には苦笑してしまう。食べていたサンドイッチに蝿がとまったら……街頭で配られるティッシュを受けとりたくないけどどうしよう……
例えば、トイレのドア。トイレのドアをノックするのが恥ずかしくて、そっとドアを開けてみると、「がっ」と鍵がかかっていることがある。そうなると、ノックもせずにドアを開けようとした自分が入っていた人に責められるのではないかと「こわい」と思う。そんな心配をするなら、最初からノックすればいいのに(笑)
大学で山岳部に所属して山を登っていた時、靴ずれしているのに川を渡ると言われ、破傷風になりやしないかと不安に思いながらも先輩に何も言えない。入院時の点滴に空気が入っているのを発見して、看護師さんに訴えたいのに何も言えない。
これは山登りの先輩や看護婦さんといった他人とのコミュニケーション能力の問題というわけではない、と思う。例えば、私は確信を持って半袖を着ることができない。今日の天気が半袖に相応しいか、それとも長袖でいいか、わからないのだ。わかるとかわからないとかじゃなくて、自分がどうしたいかでしょう、と云われる。その通り。これは他人には関係のない自分だけの問題。でも、それがよくわからないのです。

続けて、焼肉屋でいっしょに食事をした女性が、かつてレバーの刺し身を食べてその寄生虫のせいで目が悪くなった経験がありながら、それでも好きだからレバーの刺し身を食べると言って食べたことを挙げて
自分の好きなもの、やりたいことがはっきりわかっていて、それを信じて運命に挑めるんだ。そして、酷い目にあっても懲りない。格好いいなあ。

何につけても、自分がどう行動してよいか確信が持てずに「あうあうあ」となってしまう穂村さんの悩みどころが面白い。でも、これが穂村さんが歌人たる所以なのだ。この繊細さ、思い悩む性質が、はっとさせられる歌を詠むことに間違いなくつながっているのだと思う。

先日亡くなった詩人のまど・みちおさんが、人が存在しているその場所には、他のものは存在できないというようなことを言っていた。自分という確固たる存在を思い切り肯定する力強い言葉だと思った。「我思う故に我あり」を可視化したというか、物質化したというか。
で、穂村さんはその続きのようなことを言っていた。
一つの体に一つの運命。それは生きることの出発点というか、基本中の基本である。でも、あたまではわかっても何故か腑に落ちない。そんな私は極端に甘えた感覚の持ち主なのだろう。そのせいで、いつまでも腹を括ることができず、ふわふわした気持ちで生き続けている。自分の運命を自分だけのものとして、しっかりとみつめることができないまま。

それでも、そこに考えが至るということがすごいことだと思う。
正直すぎるようにも思える穂村さんの独白は、やっぱり魅力的。


お次は、さくら剛『感じる科学』
難しげな相対性理論や量子論などのポイントを、思い切り噛み砕いてわかりやすく説明してくれる。「なんじゃそりゃ〜!」な1冊。特に目新しいことはありませんが。
一番最初に説明してくれているのは、光の性質なのだけれど、ここまで噛み砕いて説明してもらって始めて、考え至ったことがある。
それは、幽霊目撃談について。人のように見えたり、白いヒトガタに見えたり、黒い影に見えたりということが語られるけれども、「見える」ことが「なんらかの物体に光が反射する(または光を吸収する)」ことであるならば、そこには「なんらかの物体」が存在しなければならないわけで。
可能性の大きさから考えれば、やはりそれは脳内でつくりだされた錯覚であると考えるのが妥当。
でなければ、そこには光を反射したり吸収したりするような物質が存在しなければならないことになる。では、その物質とは一体何なのか。
自分1人で見たモノは錯覚と片付けることもできるけれど、複数で同時に見たこともあるし、複数で同時に違う形で体験したコトもあるので、錯覚だけでは説明できない。複数というと集団ヒステリーではないかと言われることがあるが、そんな精神状態でもなかったし、脈絡もなかった。
例えば、白い影を見たときは、友人と2人で見た。10m程先で椅子に座る動作をしたのが見えた。白く見えたということは、光を反射していたことになるけれど、そこにそんな動きをするヒトガタの常識的な範囲で考えられる物質は存在しない。
もう30年以上も前の話だが、車で帰宅していた兄2人が、同時に人影を見て声をあげ、運転していた長男は急ブレーキを踏んだ。長男は右側に割烹着を着た女性が立っていたと言い、助手席の次男は左側に割烹着を着た女性が座っていたという。降りて確認するも人はいない。
こういったことがどういうことなのか、誰か早く科学的に納得のいく説明をしてほしいと常々思っている。

さて、先ほどの話とは矛盾するようなことなのだけれど、量子論で「重ね合わせ」についての説明がされている。
存在する確率があるすべての位置において、ひとつの電子が重ね合わさっている。
(中略)
重ね合わせといったら重ね合わせなのです。

で、
観測者が見ようとした瞬間に確定した姿になります。

「だるまさんがころんだ」ですね。納得できなくても理解ができなくても、重ね合わさっているんだから仕方ない。そして、観測者が確定するわけだ。
この重ね合わせの量子論を拡大解釈すれば、1人の人間の行動は、本来はいくつもの形があって、その瞬間瞬間に決定されているということになる。
空間の上では人一人分しかならないはずなのに、可能性としてはいろんな可能性を秘めた複数の自分が重なって存在していて、瞬間ごとに決定されているということになる。
選択肢があってある程度の道筋が決まってしまっているようでいて、それでも自由に選択して前に進んでいるのだということ。
もしかしたら、「多世界解釈」のように分岐が増えていっているのかもしれないけど。それを認識することはできない。
いつもながら量子論に触れると不思議な気持ちになる。自分が思っているほど、世界は確定的でないことに気付かされるから。
多少、空回り感はあるものの、好感が持てる文章だったので、さくら剛本職の紀行ものも読んでみようかなと思った。

ということで、今回は軽めの2冊。
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2014年02月20日

運命が追いかけてくる

ブログのカテゴリを曲がりなりにも「本・雑誌」にしてしまったからには、お引っ越し第一弾の記事は、「本」ということにしてみましょう。

いろいろなご意見はあることと思いますが、私は図書館を愛用しております。
会社員の頃には、給料日には書店に寄って、しこたま本を買い込み、親に「気でも違っているのか?」と言われるほどでしたが、本がタダで読めるなんて、こんなに有り難いことはありません。
読み終われば返却するので、場所を取ることもないし、返却期限があるので「積ん読」にならずに読み切ることができます。
書店と違い、古い本も置いてあるので、意外性のある出会いも魅力のひとつ。
地元図書館にないものは、リクエストすればどこかから取り寄せてくれたりもしますが、さすがに頼みにくいものだけは購入してます。主に、ホラー系ですかね。
時間がある時には棚をじっくり眺めつつ本を選ぶのが至高ですが、近年は気になる本をネット予約しておいて取りに行くだけということも多いです。

そんな図書館フリークな私ですが、今回ちょっとやっちまいました。
図書館の本を破いてしまいまして……
扱いには十分に気をつけていたつもりだったのですが、読んでいるときに来客があって、慌てて閉じようとしたらスピン(しおり)が引っかかって、ページの下側を数センチほど破いてしまいました。
これからは、図書館の本ではスピンを使わないと心に決めました。紙片を挟むタイプのしおりなら、こんなことにはなるまいて。
返却の際、窓口でページを破いてしまったことを告げて謝罪。今回は少し破いただけだったので、「直しておきますね」と言われ、「よろしくお願いします。申し訳ありませんでした」と。
事前に調べてみたのですが、こういうときは自分で勝手に直さずに図書館員さんの手に修理を委ねた方がよいようです。なので、現状のままお渡しを。
もし、大々的に破損したり汚したり濡らしたりしてしまった場合は、弁償になることもあるようです。その場合、自分でその本を購入し、現物を収める形になることが多いらしく、すぐに入手できるような本ならよいですが、古かったり希少だったりするものだと難しいですよね。あとは話し合いになるとか。
これまで、かなりの数の本を図書館で借りましたが、破損したというのは初めての経験でした。

さて、その破いてしまった本というのが、万城目学『とっっぴんぱらりの風太郎』。700ページを超える大作ですが、意外にすんなり読めました。
万城目学作品は、エッセイや短編などはあまり読んでませんが、長編小説はこれで既刊7冊すべてを読んだことになります。必ず奇妙なものが出てくる世界観やユーモラスなところがとても好き。
万城目学作品の過去記事を紹介しておきますと
『鴨川ホルモー』ナイフとオニと
『プリンセス・トヨトミ』阿呆みたいな、でも、とても幸せな物語
『偉大なる、しゅららぼん』古の力宿る湖
『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』いっしょにあくびを
『鹿男あをによし』『ホルモー六景』の2作は、記事にしていません。

で、『とっっぴんぱらりの風太郎』。
過去の万城目学作品と比べると、格段にクールな趣。時代小説というのも初めて。といっても、伊賀の忍者ものなわけですが。
伊賀忍者として幼い頃から訓練を受けてきた主人公の青年・風太郎(ぷうたろう)が、不運に見舞われて里を追い出され、京の郊外に住み着くところから物語が始まる。現代で言えば、ニートかいいとこフリーター。忍者としての取り柄といえば、肺が強いことぐらいで、腕は月並み。
里を追い出される原因となった不運な出来事は、実は相方だった黒弓のドジから始まった。そうして、2人は忍者屋敷から放逐された。南蛮育ちの火薬使いである黒弓が、いい味を出している。
時代は、豊臣家が没落して徳川の世へ。豊臣家の命運がかかった戦を背景に、忍者という出自はもちろんのこと、ひょうたんの付喪神がからんできて、風太郎の運命は大いに翻弄される。

陰惨でグロテスクな描写も多く、意欲作と感じられる反面、ひょうたんの付喪神というファンタジー要素や素っ頓狂なキャラクターの黒弓が和ませてくれたりして、バランスがとれていたかと。
時代小説はほとんど読まないので、他と比較することはできないのだけれど、戦闘シーンは結構リアルな描写だったのではないかと思います。血の出ないチャンバラのようなものではなく、血なまぐさい戰場(いくさば)に立たされたような臨場感がありました。戦闘シーンに関しては、戦争映画で例えると、『ブラックホーク・ダウン』(2001)みたいな感じ。
大きな波に飲まれて、成り行きでゆく道を定められてしまった風太郎が、どうなっていくのか。読者としては、見守るだけなのがもどかしいという展開になっていきます。
風太郎は、元忍者とはいえ何ができるわけでもないただのボンクラで、幼い頃から虐げられて育ってきたこともあってか特に人が良いわけでもなく、抜けているところもあるのに、なぜか感情移入してしまいます。いや、だからこその感情移入なのか。つまるところ、人間臭さに惹かれるのでしょう。
他にも、それぞれが個性的なキャラクターで、アニメ好きの私としては、脳内でアニメ化が進行してしまいました。でもこれ、実際にアニメ化するにはシリアスな部分とコミカルな部分とのバランスが難しそうだな。この作品は、実写映画の方が向いているかも。
伊賀者同士の距離感も不思議で。ライバルのような、家族のような、同士のような、敵のような。厳しい状況を共にくぐり抜けてきたからこその絆が厳然とありました。
歴史や時代物に疎い私にとっては、知らない言葉が色々と出てきて勉強になった作品でもありました。
歴史を知る人ならば、即座に「これはあの辺りの時代だな」とピンとくると思うのですが、私にはよくわからず。それでも、非常に楽しめたので、問題なし。

万城目学ファンにとっては、「ははぁ、これがあそこに通じていくのかぁ」ということになっていて、それも一興。長編でなくてよいので、後日談が知りたいところ。
万城目作品で泣かされたのは、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』以来だけれど、あのときとはまた違った種類の涙でした。今までとは一線を画す作品だったことは確か。
大作だけど、満足の1冊。
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2014年02月06日

5冊まとめて

いつの間にやらもう2月。あっという間に1月が終わってしまいました。
年明けから1ヶ月ほどの間に読んだ本を整理しておきたいと思います。

『バースデイ』鈴木光司
昨年末に『リング』シリーズの『らせん』『ループ』を読み、これらを受けての新シリーズ的な『エス』『タイド』も読んだので、ここは外伝『バースデイ』も読んでおくかと。
「面白い」とか「つまらない」とかという話しではなく、コレクションを集めるコレクターのような気分で。
『らせん』では語られなかった高野舞が何者かを産み落とすまでが描写されている「空に浮かぶ棺」、『リング』の序章ともいうべき山村貞子の劇団員時代の話「レモンハート」、『ループ』の後日談として二見馨の子をお腹に宿した杉浦礼子に真実が明かされる「ハッピー・バースデイ」。3人の女性に焦点を当てて描かれた外伝。
『ループ』以降はとっちらかっているので「ハッピー・バースデイ」はさておき、「空に浮かぶ棺」と「レモンハート」は面白かった。内容を書いてしまうとネタバレになってしまうので触れないが、シリーズを通して読み、外伝まで読んで初めて”山村貞子”という人物の全体像がようやく掴めたような気がする。
映像化されたことで、井戸やテレビ画面から這い出てくる強烈なビジュアルだけが一人歩きしている貞子の人となりが半分くらいは理解できたような、そんな気がする1冊。


『スコープ少年の不思議な旅』巖谷國士(文)/桑原弘明(作品)
不覚にもその存在を存じ上げなかった桑原弘明氏の作品を紹介した小さなビジュアル本。
かつて刊行されたものを焼き直ししたもののよう。
図書館の新刊の棚にあったこの本、手にとって本当によかった。
掌に乗るほどの小さなオブジェは、光の加減で見えるものが異なる仕掛けがしてあるスコープ。覗き穴から覗く世界には、静寂が広がっている。
何気ない部屋の様子、流れ落ちる滝、誰もいない中庭……
芸術作品でありながら、爪の上に乗るほど小さく精巧なバイオリンなど高度な技術による工芸品と言ってもよいような品々が詰め込まれた空間でもあり、外観もオブジェとして楽しめるという複雑な存在。
しかもそこには必ず「光」が介入し、同じ空間の景色を微妙に変化させる。
なんという心惹かれる世界観!
小さくて精巧なもので溢れた空間、覗き窓の付いた箱、光のマジックと、どれをとっても心躍るものがひとつに集約されているという贅沢。
ぜひ実物を覗いてみたいという衝動が。きっと近々観に行きます。
桑原弘明氏の大々的な個展は、毎年年末に行われているようなのですが、展示してある場所がないことはないようなので。それがちょっと面白い場所だったので、そのうち。


『去年の冬、君と別れ』中村文則
テレビで紹介されていて、ちょっと興味を覚えたので読んでみた。中村文則作品は初めて。
あるライターが、猟奇殺人犯について本を書くことになり接見したり手紙をやり取りしたりするうちに、闇に引き込まれていくという話。
前半はすごく良い。種明かし的な後半がこの本の肝だとは思うのだけれど、わかりにくいし、個人的にはあまり面白くなかった。ただ、前半のチリチリするような人の心の闇の描き方は素晴らしいと思う。
いろんな書評を見ていると、そういった描き方が得意な方のようで、以前の作品の方が評価が高いようなので、読んでみようと思う。
ジャンルとしてはミステリーに入るのかもしれないが、人間の内面に焦点を当てているようなので、あまりミステリーが得意じゃない私でも読めそう。


『人類が消えた世界』アラン・ワイズマン
ある日人類が忽然と消えたら……その後の地球はどうなってしまうのか。
様々な観点からシミュレーションしてみたノンフィクション。
人類が消えてしまうというシナリオはいくつか考えられるけれど、現実的なものとしては、大規模な災害や戦争、未知のウイルス、小惑星の衝突といったところか。地味なところでは人口爆発で食糧難が起こりじわじわと……みたいな展開も。
理由は何であれ、人類が消えてしまった世界はどうなってしまうのか。
とにかく何にしても管理する人間や修復する人間がいなくなってしまうわけで、そういったことがすべてに影響してくる。意識していないだけで、この世界がいかに人間によって管理されているかがわかる。たとえば電力。人類がいなくなったら、電力を管理する人はいなくなる。
動物や植物は、人間が抑えていたたがが外れるので、自由に繁栄していく。異なる種同士の争いはあるだろうが、強いものが残り、弱いものも工夫しながら生き延び、また強くなれるように進化していくのだろう。微生物や昆虫に至るまで、人間に頼っていたものは衰退し、人間に駆逐されていたものは隆盛を取り戻す。例えば、蚊は人間の血を吸うが、仮に動物の血が吸えないと花の蜜を吸うのだそうだ。これは知らなかった。
建築物や建造物では、圧倒的に石造りが長く保つ。金属製のものでも構造的に強度のあるものはある程度長くもったとしても、継ぎ目やリベットなどから腐食していくので、いずれは崩壊すると考えられる。コンクリートも強度によるが、崩壊。
よく知られているように、プラスチックが分解されにくく、これを分解するようなバクテリアが誕生しない限りは、かなり長い時間残ることになると考えられている。
残念だったのは、主にアメリカ視点で描かれていたこと。日本では、様々な外来種が幅をきかせて問題を起こしているが、アメリカでは日本やアジアからやって来た外来種を迷惑に思っていることが書かれており、立場が違えば当然のことながら、たとえば葛を雑草とか非難されるとあまり良い気はしない。日本を中心に同じテーマで考えたら、どうなのだろうかと思う。
もうひとつ気になったのは、人類の人口爆発など、ある種が数多く存在することとなったときの弊害について強調しすぎているきらいがあるような。それはもちろん絶滅や崩壊の要因のひとつではあると思うのだが。
以前に観て、こういったテーマに興味をもったきっかけになった動画をご紹介。アメリカで制作された番組があるようだ。この本の内容と重なる部分がある。
人類消滅後の地球 LIFE AFTER PEOPLE@ →YouTube
人類消滅後の地球 LIFE AFTER PEOPLEA →YouTube
自分はどう足掻いてもあと数十年しか生きられない。地球にも寿命があり、人類が地球上で永遠に生き続けることはできない。とはいえ、おそらくは何億年も後のことだろうから知ったこっちゃないし、環境問題とか声高に主張したいわけでもないけど、今の世界のバランスをできる限り上手に保ちつつ、生きていくしかないなと思った次第。


『装丁道場―28人がデザインする『吾輩は猫である』 グラフィック社編集部(編集)
大好きな寄藤文平さんやクラフト・エヴィング商會をはじめ、装丁家に限らず装丁は初体験というデザイナーさんなども含めて28人の方が名著『吾輩は猫である』を装丁するという試み。
「定価1400円の四六判上製本」という縛りがありつつ、予算も考えながらそれぞれの方が同じ本をデザインする。このリアルな設定でのコンペティション的な企画が楽しい。
単なるデザインとは異なり、段組やフォントを工夫したり、スピン(しおり)に凝ったり、紙を厳選したり、ホローバックを選択したりと細かい部分にこだわりが見受けられる。ホローバックとは、本を開いたときに表紙と本文の間を接着せずに空間を作ることで、本を開きやすくする方法。
あまりにも有名な題材に逆に苦心されているようにも見受けられる。
それぞれが個性的とはいえ、「猫の足跡」とか「出だしの一文」を使うとかモチーフがかぶるケースもちらほら。それでも、まるっきり同じ使い方にはならないところが流石。
たとえば、クラフト・エヴィング商會の表紙には、古い『吾輩は猫である』を裁断して漉き込んだ紙が使われていて、なんとも言えない風合いが出ている。
それぞれの方のデザインへのアプローチが語られているのだけど、何度も作品を読み込んだり、実際の猫を観察したり。受け取り方・感じ方も様々で、非常に面白い。
これだけ有名な小説を、「本」という形にするのに、現実的な予算もある中でどう表現するのか。みなさん、楽しんでやっていらっしゃる様子で、こちらも楽しませていただいた。
posted by nbm at 12:24| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月09日

輝け!nbm Awards 2013<書籍編>

昨年は、諸事情によりなかなか本を読むことができなかった。4月頃からようやく記事にしはじめるが、普通に小説が読めるようになったのは年も後半になってからだった。
なので、いつもの年よりも読んだ数としては少ないと思う。
12月は、鈴木光司『リング』シリーズを読んでいた。『リング』関連の新シリーズ2作目にあたる新刊の『タイド』を読み始めたら、以前の作品を読まないと意味がわからないなと思い、仕方なく。何度か読んだ『リング』はよしとして、『らせん』『ループ』と読んでみた。年内に外伝的な『バースデイ』まで読もうとしたが読みきれず、『バースデイ』はこれから着手するところ。ちなみに、『リング』関連新シリーズ1作目の『エス』は2012年に読んだが、その前に一連のシリーズを復習しておくべきだったという反省から、今回は読んでおこうということに。『らせん』は既読だしまだよかったけど、未読だった『ループ』は読むのが苦痛なほどつまらない。でも、これが後々の肝になる話なので、読まないわけにはいかず。これで、『リング』『らせん』『ループ』ときて、『エス』『タイド』と読んだことになる。このシリーズはもう1冊くらい出るかもな。
マックス・ブルックス『WORLD WAR Z』を読んで、元々手元にあって未読のゾンビ本2冊を読んでからまとめて3冊分を記事にしようと思いながら読めていない。
最後の50ページほどを残して、1年ほど放置していたF・ポール・ウィルスンの始末屋ジャックシリーズ『地獄のプレゼント』をようやく読んだ。大好きなシリーズなので、読み終えてしまうのが残念で、ちょびちょび読みつつ最後はしばらく寝かせておいたのだけど。続刊をどんどん翻訳していただきたい。

そんなこんなで、nbm Awards 2013<書籍編>をお送りしようと思います。
私nbmが2013年に読んだ本にテキトーに賞を与えるという企画です。
本は娯楽と考える私は、気になったものを手当たり次第に読むので、雑多な本が混ざっているのが売りです。話題の新刊は少なくて、小説も全体の2割程度だと思われます。
敬称略。


<ビジュアル賞>
『フラワーフェアリーズ-花の妖精たち 愛蔵版-』 シシリー・メアリー・バーカー→過去記事柄にもなく
懐かしくも美しい花の妖精たち。後日、ニュージーランド在住の友人が愛蔵のカード集の写真を送ってくれた。娘さんも虜になったようである。
かつて少女たちを虜にした作品は、今も色褪せず。柄にもなく、少女に戻ったような気持ちにさせられた。

『そらみみ植物園』
西畠清順→過去記事虚構と現実(植物)
植物の多様な在り方を教えてくれる一方で、実は私たちが多くの植物に支えられて生きているという現実を再認識させられる。自由な語り口に好感が持てる。

『空想の建築−ピラネージから野又穫へ−』
 町田市立国際版画美術館→過去記事空想の建築
町田市立国際版画美術館で開催された展覧会の図録。
空想の古代エジプトに始まり、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージの『古代アッピア街道とアルデアティーナ街道の交差点』、ヤコフ・チェルニコフの『建築的空想』、そして野又穫の作品群。連綿と続く空想建築の系譜は、人間の想像力と現実の建築技術との融合。
実際に美術館で展覧会も鑑賞してきたのだが、後から図録でひとつひとつを思い出しながら確認すると、ワクワク感でいっぱいになった。


<熟考賞>
『絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』 寄藤文平→過去記事「わからない」方がいいこともある
装丁や挿絵などで活躍する寄藤文平が、来し方をまとめつつ、テルミンを操るように絵と言葉とを調律してデザインに高めていく過程を教えてくれる。人に伝えるということ、脳内イメージの広げ方、「わからない」ことの重要性、など興味深いテーマが寄藤文平独特の掘り下げ方で語られる。

『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』
 舟越桂→過去記事「メモ」と「本棚」
私にとっては非常にニュートラルに見られる舟越桂作品。その源泉がここに。芸術家の苦悩に触れつつ、「人間、悩んでいていいのだ」と妙に肯定された気がして気が楽になった1冊。


<ご紹介賞>
『おかしな本棚』 クラフト・エヴィング商會→過去記事「メモ」と「本棚」
大好きで小出しに読んでいるクラフト・エヴィング商會。自分が惹かれるセンスで選ばれた本の数々は、やはり魅力的。「毒にも薬にもならない」本ばかり読んでいる私を肯定してもらったようで心強い。

『本当はこんな歌』 町山智浩
洋楽ロックの歌詞の本当の意味や、アーティストが作詞作曲に至った背景を解説した本。2013年の最後に読んだ本だった。
アーティスト名とタイトルだけで「あぁ、あの曲ね」みたいにわかる曲が少なかったので、間違った先入観で聴いていたわけでもなく、従って「そ、そうだったのかぁ!」的な驚きはなかったけど、曲が作られた背景などは読んでいて面白い。ただ、訳詞だけで原文がないので、原文も載せたらよかったのにとは思った。語られている曲を聴きながら読んだ方が面白いんだろうな。
ポリスの『見つめていたい』は好きだし想い出深い曲だけど、本来の意味通りに受け取っていたので、曲調と内容が乖離してる曲だなと思っていた。でも、基本的には洋楽はあまり歌詞を重視しないで聴いているので、中にはとんでもない歌詞の曲もあるんだろうなと想像している。
PVに歌詞がついてくるものもあるが、「大したこと歌ってねぇな」と思ったり、「何が言いたいんだかさっぱり……」というものもあるもんだ。


<ルポルタージュ賞>

『遺体−震災、津波の果てに』 石井光太→過去記事対極の2冊
下世話な興味本位ではなく、真剣に東日本大震災で亡くなった方々のご遺体と向き合った1冊。テレビなど上っ面だけを流すマスコミと違い、地域に入り込んで書かれた現実は、胸に深く突き刺さる。この辛い経験を乗り越えようとしている津波被災地の方たちの思いを、少しでも理解したいならば、読んで損はない。


<絵本賞>
『もりのへなそうる』渡辺茂男・作/山脇百合子・絵→過去記事対極の2冊
古い本だけれど、古さを感じさせない、普遍的なファンタジー。
森の中の冒険、かわいい弟、美味しいおやつ、変な生き物との遭遇、そして友情。何もかもが微笑ましい。
これをきっかけに山脇百合子作品が読みたくなって、『森おばけ』や紹介してもらった『かえるのエルタ』も読んだ。『いやいやえん』も読みたいな。

『キュッパのはくぶつかん』 オーシル・カンスタ・ヨンセン
テレビ番組で紹介されていて、気になったので図書館で早速借りてみる。
ノルウェーの森に住む丸太の男の子キュッパは、森でいろんなものを拾うのが趣味。ところが、家の中が拾ったものでいっぱいになってしまい、おばあちゃんにどうしたものかと相談する。
おばあちゃんのアドバイスは、「はくぶつかんを開いてみたら?」というもの。分類し、説明をつけたりして、展示品の準備をし、いろんな人に観てもらうためにポスターを作る。
宣伝の効果もあってか、はくぶつかんは大盛況になるのだけど、1週間も経たないうちにあれやこれやでキュッパは疲れてしまい、元の生活に戻りたくなった。で、はくぶつかんをやめる。
「ごめんね、やめちゃった」(てへぺろ的な 笑)
またおばあちゃんに相談すると、展示品は写真に撮って、図録にすればよいと教えてもらい、そのアドバイス通りにする。
あとは処分するのみ。、森に返せるものは森へ、リサイクルできるものはリサイクル、手元に残ったものは組み合わせてオブジェを作った。
出来上がったオブジェを並べてみると、こんどは美術館を開くのもいいかもとか考えている。
キュッパ、テキトー(笑)でも、そのテキトーさがいい。さすが北欧のノリ。ゆるい……
キュッパのサイトがあった。アニメも公開されている。
http://kubbe.jp/top.html


<科学賞>
『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』 池内了編→過去記事好きだけど嫌われる
2013年は、科学エッセイを何冊も読んだが、寺田寅彦には敵わないと思った。オカルトだと思われるようなことまで、柔軟に科学の目で観ようとする姿勢、常識にとらわれない自由な発想。これぞ科学者だと思った。

『カラスの教科書』
 松原始→過去記事身近で謎なアイツ
昔から言葉を交わしてみたい種であるカラスについて、様々教えてもらう。知っているようで知らないカラスの生態。でも、やっぱりわからない(笑)


<小説賞>
『佐渡の三人』 長嶋有→過去記事シンクロ納骨
ルーツを佐渡にもつという自分との共通性から興味を持った長嶋有が書いた、親類の納骨で佐渡を訪ねる話。父を亡くしたばかりの私には、共感する部分が多く、心に残る1冊となった。なんでもない話なのに、妙にしっくりくる感覚を覚えた作品。

『空飛ぶ広報室』 有川浩→過去記事永遠の待機状態が最上
精神的にまだまだ小説が読めない時期に読み始めた。私にとってはリハビリになった1冊。
「永遠の待機状態が最上」というフレーズが印象的だった。この本を読んだ直後、りっくんランド(陸上自衛隊広報センター)に行ってきた。3Dシアターで、レンジャー部隊の訓練を紹介する映像の中で「日々、抜かない刀を磨いている」と言っていた上官の言葉と重なる。全体的にはエンターテインメントなのだけれど、付け加えられた章で震災被害に遭った松島基地について語られている。軽く読める本ながら、重みのある箇所もあり。


<特別賞>
『代書屋ミクラ』 松崎有理→過去記事ぼくの仕事は○○をつくりだすこと
図書館の新刊の棚からなんの気なしに借りた本が、これほど面白いとは想像しなかった。学術的な話が散りばめられていながらも、ミクラくんの成長物語でもあり、ライトな恋愛ものでもある。しかも、SF風味が通奏低音になっている。不思議な味わい。
期待しないで読んだせいなのか、殊の他楽しんだので、<特別賞>といたします。


<nbm大賞>
『琥珀捕り』 キアラン・カーソン→過去記事活字の迷宮
琥珀にまつわるトリビアが散りばめられた入れ子構造の物語。これぞ”物語”という本を久々に読んだ。無理に理解しようとせず、活字の森をさまよっているような、活字の海に浸っているような感覚を楽しむ、読書の醍醐味を味わうことができた1冊。


2013年に読もうと思って読みきれなかった本がたくさん。
今年に持ち越されてます。今年もちょびちょび読んでいこうと思います。
ラベル:nbm Awards
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2013年12月24日

虚構と現実(植物)

虚構と現実。
植物に関して、虚構と現実というそれぞれの世界観で書かれた本を読んだので、ご紹介。

まずは、虚構から。
『平行植物』レオ・レオーニ
幻想植物に関する博物誌。
学術書のような体裁だけれど、平行世界に存在しているかのように、無色透明で触れるとたちまち粉々になってしまうという不思議な植物について書かれている。
挿絵から注釈からすべてが想像の産物であり、紀元前600年から始まる平行植物に関する奇譚譜なる年表など、その労力たるや想像を絶するのだけど、人間の想像でひねり出したものなど、自然にはかなわないと痛感させられる。
著者のレオ・レオーニはもともと絵本作家であるので、文化人類学的もしくは民俗学的なとある部族に伝わるお話的なものはどれも秀逸なのだけれど。
全体的には冗長で、ちょっと期待はずれだったかも。
平行植物の名前の翻訳がよろしくない。「タダノトッキ」とか「ユビナリソウ」とか、すごくチープで安易な響きのものばかりだ。翻訳するのはかなり難しいとは思うけど。でも、原書での名前もこんなものなのかな。
かつて、『秘密の動物誌』(ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ 著)という本を読んだけど、あれの方がよくできていたな。→過去記事「実在するもの」は、存在しうるものの小さな一部分にすぎない

さて、現実の方はというと。
『そらみみ植物園』西畠清順
明治時代から続く花と植木の卸問屋の五代目として生まれ、世界中を渡り歩いて様々な植物をゲットするプラントハンターである著者が、あまり馴染みのない興味深い植物を紹介してくれる本。
感性が独特で、語り口にクセがある。そして、下ネタが多い(苦笑)

マンドラゴラ、ライオン殺し、竜血樹など、噂に聞いていた植物の実態を見られたのも楽しかったし、もちろんかなり変わった生態をもつ植物がたくさん紹介されていた。
最近、化粧品などに使われていて耳にするアルガンオイルはアルガンツリーという木の実から抽出するのだそうだ。モロッコの一部にしか育たないと言われる絶滅危惧種。そのアルガンツリーの黄金色の果実は山羊に大人気で、実を食べるために木に登る山羊がたくさんいて、まるで山羊が成っているかのように見える。ヒトにはあまり美味しい実じゃないようだけど。
修道院によく生えているというセイヨウニンジンボクは、生理痛など女性の不調に効くということなのだが、その実を食べると性欲が抑えられるという効能もあるらしい。なるほど修道院にはあってもおかしくない植物だ。
別名・淫羊霍(インヨウカク)と呼ばれるイカリソウ。中国ではイカリソウを食べた羊が一日に100回も交尾したという逸話があるそうで、生薬の精力剤となっているらしい。このイカリソウの名前の由来は、日本古来の四本鉤のイカリに花の形が似ているからとのこと。二本鉤のイカリを想像してしまうと違ったものなので、名前の由来として文化的な歴史が垣間見られて面白い。
「オサメユキ」と名付けられた観葉植物の話が出てくるのだけど、西畠さんが会議で決めたと言っている。つまり、プラントハンターが持ち込んだ新たな種には、勝手に考えて名前を付けているということなのだ。もちろん、学名はあるので、流通名・通称なのだけれど。そんな風に決まっているものもあるんだな。
東日本大震災の復興イベントとして、47都道府県それぞれから桜を集めてきて一気に咲かせるとういプロジェクトとか、新車の発表会に車のコンセプトに合わせた植物を展示するとか、植物を使ったプロジェクトを推進しているようだ。それらの根底にある「そら植物園」と名付けられた活動は、「人の心に植物を植える」ことを目的としている。こちらのサイトでは珍しい植物の写真が見られる。
たとえば、あなたが朝起きてから歯磨きをして、玄関から出るまで、一体何種類の植物のお世話になっているでしょう。毎朝歩く道では、一体何種類の植物を目にするでしょう。植物の存在は、私たちの身近にいる何気なくかけがえのないものです。

たとえば、今朝の朝食を考えてみる。和食だった。納豆と、揚げとインゲンの味噌汁。味噌も含めて全部が豆だ。それにお米のごはん。かぶの浅漬け。納豆のカラシも植物か。薬味はネギ。タレに入ってる醤油も大豆や小麦が使われているはず。シンプルな朝食に7種類の植物が関わっていた。あらためて数えてみると、結構な数になるものだ。
著者が携わった「代々木ヴィレッジ」は、あまりお目にかかれないような植物がたくさん植えられているらしい。調べてみたら、小林武史や大沢伸一がプロデュースしているとのこと。代々木の駅前だし、植物園のような楽しみ方もできそうだから、一度行ってみるか。

実は、『平行植物』の中にも、山羊の木ならぬ「ヒツジノキ」の記述がある。こちらは、羊が木の上に生えているような形状で、お腹に幹が刺さったままの状態で、草を食んでいる羊という……

事実は小説より奇なりというけれども、やはり自然は人間の想像をはるかに凌駕する存在なのだなと思い知らされた気がする。
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2013年12月22日

活字の森の歩き方

ドキュメント『72時間』という番組がある。これがけっこう好きで。
同じ場所を72時間観察し、そこに出入りする人にインタビューするというもの。
先日は、「活字の森の歩き方」というタイトルで、新宿の老舗大型書店が舞台だった。

たまたまというか、編集上そうなったのだろうけど、物事をよく考えている人もしくはよく考えようとしている人が目に付く。
自分にとって芯となる1冊があるとよいと勧める女子大生、10歳にして東野圭吾を読み耽りすでに推理小説も書いたという男の子、共同経営者のために弱点克服になればと本のプレゼントを選ぶ男性、挫折して一度壊れた価値観を新たに構築しようとしている人。
アプローチはそれぞれで食いつくジャンルも様々だけど、何事かを模索し、真剣に答えを求めて書店に来ているという人たち。
もちろん、そうでない人もいる。情報収集に来ている出版業界関係者、未知のものに出会える本屋のワクワク感を楽しんでいる人、学校の図書室に置く本を探しに来た教師など。
私は、書店は遊園地のようなものだと思っているので、自分の知らないものに出会えるワクワク感に一番共感するのだけど、世の中、真剣に物事を考えている人が多いんだなと感心してしまった。

番組内でも「これが自分の1冊」と紹介してくれる人がいるのだけど、よくそんな風に入れ込める1冊があるなと羨ましい思いがする。
好きな本、好きな作家は数々あれど、「1冊」となったら選べやしない。
本のソムリエみたいに、こういう人にはこういう本をみたいな薦め方もできない。
大体、人に薦められるような本を読んでないもんなぁ。
古典文学や文芸作品はほとんど読まないんだから。
小説ならホラー・ファンタジー・SF、あとは自然科学系とか芸術系の本が多い。

本がらみの話でもうひとつ。
先日、図書館に予約していた本を取りに行った。
新刊で人気の本は図書館の書棚には並ばない。予約待ちの人が何十人といて、順番待ちをしている。
予約を入れて何ヶ月も待っていたある1冊が、ようやく順番が回ってきたので、図書館に取りに行ったのだけど、実は順番が回ってきてから1週間以上経過してしまっていた。
1週間は取り置いてくれているから、本来はその間に取りに行かなければならない。
カウンターに申し出ると、「ありません」との答え。
取りに来ないまま1週間以上経ってしまったので、取りに行ったその日に次の人に回してしまったんだそうだ。
残念……
もちろん、期限内に取りに行かなかった自分が悪いのだから仕方ない。
でも、何の断りもなしに回ってしまうものなのかとがっかり。
あんなに待ったのにな。いや、自分が悪いんだけどさ。
以前にも期限を過ぎてから取りに行ったことがあって、そのときはたまたま残っていたもんだから、調子にのってしまったよ。
みんな、待ってるからね。
って、買えよって話ですか(笑)

今、鈴木光司の「リング」シリーズを読み直してまして。
『タイド』を読もうとしてたんです。でも、読み始めたら、以前の作品を読まないとよくわからないと思い、『リング』はいいとしても、『らせん』『ループ』を読まないといかんなとなって。
実は、『ループ』を読まないと、『タイド』が理解できない。で、『ループ』を読むためには『らせん』も読んでおかないと、てなことに。
急いで『らせん』『ループ』と読もうとしたのに、そこに『タイド』の返却期限がせまり、結局は『ループ』の途中で『タイド』を読むことに……
失敗したな。実は、かつて『リング』『らせん』は読んだけど、『ループ』はわけわかんなくて読んでないんですよね。でも、『ループ』が大事なんだよな。
まぁ、もう『ループ』はゆっくり読みます。ついでに、この際だから番外編の『バースデイ』も読んでおこう。

そんなこんなで、他の本もなかなか読めず、そうこうしている間に上記の予約していた本も取りに行きそこねたというわけで。
なんか、「ご縁がなかったということで」みたいな気がして、その本はほとぼりが冷めた頃に思い出したら読むことにしよう。

「本を読もう!」と勧める人は多い。
私も読まないよりは読んだ方がいいと思うけど、私のような読み方をしていたら、「本を読もう!」と勧める人が期待するような成果は得られないと思う。
想像の中で様々な疑似体験をすることで成長するとか、心の滋養になるとか、知識を得るとか。
今の自分はそんなことを求めて読書してないもんな。
読み終わって、「あー面白かった!」って、それでいいと思ってるし。写真集なんかだったら、「綺麗!」って、それだけでいいと思ってる。
そんな読み方でも、多少は見聞を広めることにはつながっているのかもしれないけど。

そういえば、ちょっと前に活字を読むスピードのテスト(→読書速度測定他)をしてみた。
文章によるけど、1分間で600〜800文字程度。速からず遅からず。
意味を取らずに字面だけ読むとすれば、その倍の速度で読めるけど。それじゃ意味がないね。
速読には興味がないけど、速く読めればもっと本がいっぱい読めるのにとは思う。

ということで、ちなみに今読んでいるのは、レオ・レオーニ『平行植物』です。
これについては、もう1冊の本とまとめて記事にしようと思っているので、また今度。
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2013年11月18日

amazonオールタイムベスト100

amazonが、「オールタイムベスト100」と銘打って、過去13年間のデータから販売数やレビューの評価などを元に「これだけは読んでおきたい」という本を100冊セレクトしたらしい。
どんなものかと見てみた。5つのジャンルに分かれている。
さて、自分はどれくらい読んでいるものか。

まず、日本文学。12冊/45冊。
『博士の愛した数式』小川洋子 小川洋子作品は好き。静かな世界観。
『イン・ザ・プール』奥田英朗 精神科医・伊良部シリーズはみんな読んでる。
『砂の女』安部公房 読んだのは随分昔だけど。
『こころ』夏目漱石 国語の授業でもやったな。
『四畳半神話大系』森見登美彦 森見作品も初期の5作品くらいは読んでる。
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』村上春樹 村上春樹作品では一番好き。
『ボッコちゃん』星新一 くりかえし読みたくなる名作。
『夜のピクニック』恩田陸 一時期、恩田陸作品もよく読んだ。10冊くらいは読んだか。
『鹿男あをによし』万城目学 万城目作品はすべて読んでいる。大好き。
『坊ちゃん』夏目漱石 寺田寅彦のエッセイを読んで再読しようかと思っている。
『吾輩は猫である』夏目漱石 よく考えると文芸作品というよりファンタジー。
『銀河鉄道の夜』宮沢賢治 独特の世界観は一度は読まないと。

海外文学。4冊/20冊。
『一九八四年』ジョージ・オーウェル 拷問シーンが忘れられない。
『動物農場』ジョージ・オーウェル 読んだ気がするけど、よく覚えていない。
『星の王子さま』サン・テグジュペリ 何度か繰り返し読んだ。
『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス やはりよく覚えていない。

サスペンス・ミステリー・SF。5冊/15冊。
『夏への扉』ロバート・ハインライン SF作品としては一番にオススメしたい本。大好き。
『白夜行』東野圭吾 ドラマを観た後に読んだかも。
『13階段』高野和明 高野和明作品はまだ読みたい。
『クリムゾンの迷宮』貴志祐介 貴志作品もほとんど読んでる。
『魍魎の匣』京極夏彦 京極堂のシリーズは4作品読んだな。

歴史。2冊/10冊。
『天地明察』冲方丁 2010年の個人的ベスト。→過去記事必至!
『小説 上杉鷹山』童門冬二 こんな渋い本読んでたんだ(笑)

エッセイ。2冊/10冊。
『陰影礼賛』谷崎潤一郎 谷崎は好きだけど実はあまり読んでない。
『旅をする木』星野道夫 星野道夫は写真も文章も好き。

ということで、合計すると、100冊中25冊を読んでいるという結果に。
あまり売れ筋や名作を読まない自覚があるので、自分としては意外と読んでいる印象。


100冊の中で、チャレンジするも最後まで読めない本。
『罪と罰』ドストエフスキー
『変身』カフカ
名作と言われる本は苦手。

海堂尊は、『ジェネラル・ルージュの凱旋』が挙げられているが、同じ田口・白鳥シリーズの第1作『チーム・バチスタの栄光』は読んだし、スピンオフ的な『極北ラプソディ』も読んだ。けど、『ジェネラル・ルージュの凱旋』以降は読んでない。ドラマは歯抜けで観た。

『戦闘妖精・雪風(改)』神林長平
『小説・秒速5センチメートル』新海誠
この2作品はアニメで観た。『雪風』は最後までは観てないけど。

重松清作品が100冊の中に4冊も入っているけど、好みじゃないから今後も読まないだろう。

逆に、これから読んでみたい本。
『西の魔女が死んだ』梨木香歩
梨木香歩作品は、『からくりからくさ』『りかさん』あたりを読みたいと思っていた。
『夜と霧』V.E.フランクル
何度も読もうと思い、未だに読めずにいる本。死ぬまでには読みたい。
『空の中』有川浩
同じく自衛隊を扱った『空飛ぶ広報室』は読んだ(過去記事永遠の待機状態が最上)。『空の中』を読んだら、『海の底』も読みたくなるかも。潜水艦乗りの話『クジラの彼』も。
『アミ小さな宇宙人』エンリケ・バリオス
これは存在自体を知らなかった本。とても興味を惹かれる。

「amazonオールタイムベスト100」の中では、ジャンルとしては、なんだかんだで日本文学を一番読んでいる結果に。でも、比率は4分の1程度。
比率から言ったらサスペンス・ミステリー・SFは3分の1読んでいるわけで。サスペンス・ミステリーは、会社員時代は通勤時間の暇つぶしによく読んでいたものの、近年はほとんど読まない。SF・ホラー・ファンタジーは変わらず大好きでよく読んでいるけれど。
逆に1冊もないかと思った歴史ものを2冊も読んでいたのは意外。
この100冊は、90冊が小説で、あとの10冊がエッセイだけど、私が普段読んでいるのは自然科学系の読み物が大半で、小説は2割ほど。
そういう読書をしているにしては、割と読んでいるもんだなと思った。

現在、図書館から借りているのは、植物の本と絵本が1冊ずつ。
数が少ないのは、手元にある本を読んでしまおうかと考えたから。
図書館で借りてくる本が優先になってしまうため、長い間積みっぱなしになっている本が何冊もあるので。
とはいえ、図書館の本でも、読みきれずに返却してしまったもので、読みたいものが数冊溜まっている。
最後の50ページほどを残して長らく放置していたF・ポール・ウィルソンの『始末屋ジャック 地獄のプレゼント』を一昨日ようやく読み終えた。大好きなシリーズなので、クライマックスを迎えて読んでしまいたい気持ちと、これを読み終えると次作まで何年待つのかと思ったらもったいなくて読みたくない気持ちとが交錯していた。シリーズはあと6冊も刊行されているのに、翻訳は一向に進んでくれない。
ゾンビ小説2冊を読もうと思っているのに、これもなかなか読めず。1冊は読んだので、あと2冊読んだら記事にしようと思っているのに。

今年も読んだ本は少なめで、50冊もいかないのではないかと思うけど、ようやく精神状態も安定してきて、小説も読めるようになってきた。
読みたい本は次から次へと現れる。困ったもんだ。
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2013年11月09日

活字の迷宮

Eテレの番組で『100分de名著』というのがある。
ひと月に1冊のペースで、古今東西の名著を解説してくれる。
今月は「アラビアンナイト」。先日、その第1回をなんの気なしに見ていた。
美女シェヘラザードが夜な夜な王に語る物語。一晩女性と過ごしてはその首を刎ねるということを毎夜繰り返していた王。その王を前に語られる物語が面白く、話が聴きたいがために王はシェヘラザードを生かし続ける……ちゃんと読んだことはないけど、概要は知っているつもりだったが、知らないことがいくつも出てくる。
当初収められていた物語の数は35話程度で、有名な「シンドバッドの冒険」とて後から編者のアントワーヌ・ガランが勝手に付け足したもの。そんなこんなで今は1001話に。アラビア語では「1001」=「たくさん」みたいな意味らしく、日本語で言う「万(よろず)」と同じような感覚らしい。
もうひとつは、話が「入れ子構造」になっているという点。
そんなことを聴いていたら、なんだか「アラビアンナイト」が読みたくなってきた。

そんな私がたまたま読み始めたのが、キアラン・カーソン『琥珀捕り』
これが、まさしく「入れ子構造」になっていて、シンクロニシティに驚く。
この本、「文学においてのカモノハシ」とか「ウロボロス構造」とか言われている。Aの「Antipodes(対蹠地)」から始まりZの「Zoetrope(回転のぞき絵)」までアルファベット順のテーマが語られるが、その実、目次の整然としたアルファベット順とは印象が違い、雑多な話が混在し、行きつ戻りつ活字に翻弄させられる。活字の大波に揺られ揺り戻されしているような感覚。これはなかなか味わえない。
あとがきの解説では、オイディウスの『変身物語』とかジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が引き合いに出されている。私は双方ともに未読だけど。

父の語る昔話。そこに登場するジャックが語る話。それがいつの間にやらオランダ絵画の話になっていたり、ギリシャ神話になっていたりする。
中世キリスト教の聖人の話、アイルランド民話、言語の由来、エスペラント語、望遠鏡の発明、カメラ・オブスキュラなど雑多な話がつぎはぎされて、けれども決して関係がないわけでなく。
さっきの章で出てきたものが、ここに出てきたり、宝探しのよう。伏線だらけでその糸がこんがらがりそうだ。
中でも、タイトルにある琥珀についての薀蓄は数多く語られ、それが狂言回しのようになって、活字の中の琥珀のかけらを拾い集めながら道を進む、まるでヘンゼルとグレーテルの気分。
琥珀の歴史、成分、色、性質、採取地や採取方法、呼び名、利用法、そして「琥珀の間」まで。多種多様な薀蓄が語られる。確かに、琥珀というものの存在そのものが、語るべきことの多いテーマであることは間違いない。

どうでもいいようなトリヴィアが詰め込まれていて、「ほぉ」と唸っていると、次にはお伽噺のような世界に連れ込まれていたり、急に史実が語られて現実に引き戻されたりする。
今、自分が入れ子のどの階層にいるのかよくわからなくなることもしばしばで、迷路に入り込んだような不思議な気分になる。
そんなとき、文章中に琥珀が出てくると、映画『インセプション』でディカプリオが正気を保つために持っていたコマのように、道しるべになってくれる気がする。

アイルランド古語とか出てくるし、これはさぞかし訳すのが大変な本だったと思うのだけど、その割にはおそらく原書の雰囲気を壊していないと想像する。
素晴らしい名訳。複雑な構造や雑多な表記が、途中でひっかかることのない自然な日本語に訳されている。それぞれの語り手の語り口も絶妙だ。

「アラビアンナイト」のように、眠る前に毎夜毎夜少しずつ読みたくなるような本。
読んで理解するというような部類の本ではないと思う。活字に翻弄されることを楽しむための本。
秋から冬の寒い時期にあったまりながら読むのがぴったり。
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2013年11月02日

柄にもなく



fairy




今日はちょっと柄にもなく少女趣味です。

シシリー・メアリー・バーカーの画集、『フラワーフェアリーズ-花の妖精たち 愛蔵版-』を眺めて、ニンマリしておりました。
「シシリー・メアリー・バーカー? 誰、それ?」って感じでしょ? 私とて名前を聞いてもピンときません。
しかし、絵を観たら、「見たことある!」って思う人は多いはず。
博物学の細密画のような草花や木々と、それに寄り添うように描かれる妖精たち。
一体どこで?

1976年から5年間、森永のチョコレート「ハイクラウン」にこの花と妖精たちのカードが封入されていたのです。
当時の少女たちは、このカードを秘かに集めたものです。
私もすっかりそんなこと忘れてましたが、この記事を読んで、「あった!あった!」と思い出す方もいらっしゃるやもしれません。
「ハイクラウン」は、その辺のスーパーでは見かけなくなったので、もう販売していないのかと思っていたら、どこぞの100均で見かけて、「まだあったのか!」と驚いた覚えがあります。
独特のタバコのような形のパッケージでしたね。現在のものは、少し薄型で幅広な箱になってますが、上にフタを押し上げる箱の構造や、板チョコを1列ずつ切り分けたようなチョコを金色の紙で包装した形状は踏襲されているよう。
今はカードなど付いていないのでしょうね。

図書館で淡いピンクの背表紙が気になり、手にとってみると
「ん?どこかで見たことがあるな、この絵……」
すると、表紙裏に「ハイクラウン」の封入カードになっていたという説明があり、納得したわけです。
今まで刊行されたシシリー・メアリー・バーカーの「花の妖精たち」の画集はいずれも絶版になり、それらのシリーズ全8巻を1冊にまとめたこの愛蔵版が2011年に発刊されたらしいです。淡いピンクでウィリアム・モリス調の花柄がバックになった表紙が美しい装丁。


シシリー・メアリー・バーカーは、1895年イギリス生まれ。なんと16歳の若さでポストカードを出版。
博物学の細密画のような植物の描き方は、キュー植物園スタッフ協力のもと、植物標本をもとに写実的に描写したためと知りました。
「自然をありのままに表現する」のが信条だったのだそうで。
「簡単にいえば、わたしはどんな植物も花も本物どおりになるよう、とても注意深く描いているにすぎません。詩で語る内容も、なるだけ写実的にしています。妖精を見たことは一度もありませんが、妖精やそれにまつわるすべてのものは、”写実的なさま”を想像して描いているのです」

蝶や蛾やトンボのような翅を持つかわいらしい妖精さんたちは、姉の保育園の園児たちがモデルだとか。
そして、それぞれの絵には詩が添えられています。

日本とは明らかに植生が違うので、馴染みのない植物も多々ありますが、植物図鑑を観ているような感覚と、妖精というファンタジックな存在とが混在する不思議な魅力を持った絵です。
妖精さんたちの纏う衣装は、ベルベットのような肌触りを想像させるものや、シフォンのように軽やかに風に揺れる素材などさまざま。おどけたいたずらっ子のような妖精もいれば、一心に何かを祈るような妖精もいますし、表情もそれぞれ。植物のひとつひとつに愛情を感じる絵です。
こんな風に植物と親しく接し、愛でる心を持つことは、日本とイギリスとで共通しているようにも思えます。何より、描かれているのは、野生の野の花や、庭に生えている草木。切り取った形で描かれているものもありますが、基本的には地面に生えているものであり、生命を感じさせます。
そういえば、私は美術鑑賞は好きですが、人物画が好きではありません。この絵が魅力的に見えるのは、単に懐かしさからなのか、人間でなく妖精という人外を描いたものであるからなのか。

おぼろげにしか覚えていないフェアリーカード。
でも、じっくり見返してみたら、素晴らしく完成度の高い芸術作品でした。


おまけにもう1冊。
なにげなく『代書屋ミクラ』(→過去記事ぼくの仕事は○○をつくりだすこと)を読んで気に入ってしまったので、松崎有理作品をもっと読みたいと思い『あがり』を読んでみました。
『代書屋ミクラ』と同様、東北の蛸足大学を舞台にした短編集となっています。同じ大学が舞台ということで、おなじみの甘味処が出てきたり、登場人物同士がどこかでつながっていたり。こういうひとつの世界の中で描くと、そういった些細なつながりを発見する楽しみというものもありますね。
ミクラくんが出てくる作品もありますが、まずタイトル作「あがり」がなかなかに面白いです。デビュー作であり、SF短編の賞を受賞しているということで、ジャンルとしては確かにSFなのですが、あまりSFくさくないです。生命科学の実験の話なのだけど、内容は難しいし、説明するのも困難。ひとつ言えることは、「あがり」というのは、たとえば双六でいうゴールの意味の「あがり」。
「ぼくの手のなかでしずかに」も良かったです。これもSFと言っていいのか。食事制限が老化を防止するという論文を元に数学者が自己実験をするという話なのだけど。意外な結末が待っているのです。しかし、なるほどと思える論理が隠れていて、本当に有り得る話なのではないかと疑ったりしてしまいます。
一番気に入ったのは、書き下ろしとして最後に掲載されている「へむ」。「Au revoir,mais je ne t'oublie pas.」という副題がついてます。「さようなら、私はあなたを忘れません」ってことか。蛸足大学付属病院が舞台。元からこの街で暮らしていた寡黙な少年と、病院に研究医として赴任してきた母に連れられ転校してきた少女との友情の物語。絵を描くのが得意な少年が、夏休みに骨格標本を描くために少女の母の研究室に通うことになり、毎日病院に通う少年と少女が、病院で体験する不思議な話。孤独を抱える者同士が、地下通路にまつわるあることを通じて、一夏のほんの短い間だけで強い絆を作る体験をします。
淡々と描かれているようでいて、私には感動的な話でした。少年と少女、2人だけの秘密、出会いと別れ、美しい素描、白い骨格標本……とても美しいお話。

相変わらず、カタカナ語が出てきません。人の名前も極力削られてます。
そして、時折、大事な所がバッサリ切り捨てられているというか、ドンと突き放されてしまうというか、どうしてもっと詳しく書いてくれないのかとツッコミたくなるような箇所が出てきます。おそらくはわざとで、こちらの想像力を掻き立てるような手法なのだと思われます。もどかしいようですが、これこそが小説の醍醐味でもあるわけで。言葉を通して、読む者の頭の中で完成されてこそ、物語を楽しめるというもの。


ロマンチックなものは柄じゃないのですが、秋が深まってきたせいか、柄になく乙女な感じでお送りしました。


2014年1月9日 写真を追加しました。

この記事を読んだニュージーランド在住の友人が写真を送ってくれました。
森永クラウンの妖精カードを(確か10枚)集めると、応募者全員が春夏秋冬の本を1冊ずつもらえたのだそうです。
写真は、春と秋のもの。カバー付きで、カバーは随分色あせたけど、中身はまだきれいな状態を保っているとのこと。
嫁ぎ先に持って行っているということは、本当にお気に入りだったのね。
娘さんのお気に入りにもなったということでした。
少女のお気に入りとなるものは普遍的なのですね。
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2013年10月11日

ぼくの仕事は○○をつくりだすこと

図書館の新刊の棚に置いてあった本を物色していて、何気なく手に取った1冊。
『代書屋ミクラ』松崎有理
まったく予備知識なしに読んだこの本が、ことのほか面白かった。

著者は、東北大学理学部を卒業した理系女子。
舞台となる<北の街>には蛸足大学の各学部が点在している。
主人公のミクラは、学術研究論文を代筆する駆け出しの代書屋。同業で先輩のトキトーさんから紹介され、様々な分野の研究論文を代書する仕事を請負うのだが、惚れっぽいミクラくん。仕事が切り替わる度に、違う女性に恋をしてゆく。そしてそれは、いつも恋愛に発展することなく……

この物語の前提には、「出すか出されるか法」というものが存在している。
正式名称は「大学および各種教育研究機関における研究活動推進振興法」。3年以内に一定水準の論文を発表できない研究者は退職せねばならないという厳しい法律。現実にあったら、とんでもないことになりそう。
研究者は、自分が大学の研究室に居続けるために、3年という短期間でそれなりの論文を発表しなければならないため、どうしたって代書屋を活用せねばならない局面が出てくるというわけ。もちろん、一から書くわけでなく、研究結果はほぼ準備されており、データなどをもとに系統建てて文章化するのが仕事。
ちなみに、こうした論文の代書屋というのは現実にも存在するもののよう。
トキトーさんやミクラくんは成功報酬制を採用しており、論文を学術雑誌に投稿し、査読後に採否が決定されるのだが、採用・掲載ということになってはじめて報酬をいただくということは、当然只働きになることもあるということで。
総合大学の様々な学部から依頼される論文は、内容が多岐にわたっていて、それだけでも面白い。心理学、生物学、経済学、文化人類学など。どれももちろん、一筋縄ではいかないような内容ばかり。
例えば、無人販売の回収率によって良心を数値化するという研究。
調べてみたら、野菜直売所などの無人販売の回収率は、この本に書いてある通り実際9割を超えるのだそうだけど、これはおそらく日本ならではの回収率なんだろうな。

小説の中では「かけんひ」と呼ばれている公的科学研究費も、現実問題とリンクしていて興味深い。お上からいただくものであるので、役所の年度ごとの予算のように、年度末に余っていれば使い切ってしまわないと、翌年からは減らされてしまう危険性があり、ここぞとばかりに長期保存可能な備品を買い込んだりして調整するらしい。
こうした科学研究の裏話はリアルだ。
先日読んだ『気になる科学』(→過去記事好きだけど嫌われる)で、直接的には人の役に立たない「ブルースカイ・リサーチ」について触れられていたが、『代書屋ミクラ』最後の章にこんな表現があった。
だが現在。
学問は細分化し、研究者はせまい専門領域に閉じこもらざるを得ない状況になっている。興味をひかれたすべての分野を究めるなんてもはや不可能だからだ。
万能型研究者は絶滅した。時代がそうさせた。

南方熊楠とか寺田寅彦みたいなスタイルの研究は、現実的に不可能になっているということか。それぞれの分野での研究は突き詰めやすいのかもしれないが、なんだか先細り感があるのはどうしてだろう。

さて、登場してくるもので、何といっても面白いのは「アカラさま」。
ミクラくんの頭の中に住んでいる神様(ミクラくんが勝手に作り上げた)で、赤いお面を被っていて、前髪が長く、後ろ側はツルツルの頭をしている。
単行本では、裏表紙を開くとそこに「アカラさま」がいらっしゃる。

そして、印象的なのは、カタカナ表記の使い方が上手であること。
本文中、カタカナで表記されるのは、トキトーさんとミクラくんの名前、それにミクラくんが恋するお相手のあだ名のみ。あとはミクラくんの叔父モーリオさん。ちなみに、その他の登場人物の姓名には触れていない。
他は、徹底的にカタカナ表記が排除されている。それゆえ、外来語もすべて漢字表記となり、ちょっと耳慣れない(目慣れないが正しいか)クラシカルな言葉がたくさん出てくる。
背嚢、踊り手、はおりもの、麦酒(ルビは”びーる”)、酒精など。
そのせいもあり、調べないとよくわからないものもあった。
例えば、”野帳”。ノートのことかと思えば、ノートは”帳面”と書かれている。調べると、”野帳”とはフィールドワークに使うノートで、野外で使うことを前提としているので、硬い表紙や防水加工などが施されているものらしい。こういったものの存在自体を、私は知らなかった。
もうひとつは、”白銅貨”。おそらく100円玉のことなのだろうと思いつつ、でも500円玉とか50円玉とかはどうなのだろう、と。調べてみると、まず500円玉は1999年までは白銅製だったが2000年からはニッケル黄銅貨になっている。ところが、50円玉は100円玉と同じく白銅製だった。
カタカナ表記を上手に使うことで、主な登場人物の名前が浮き上がってくるように強調され、こんなに効果があるものかと驚いた。
と同時に、目慣れない漢字で表記されるものの数々も、存在感を主張してくる。
これらのスパイスが、良い加減。

科学史などの小ネタを挟みつつ、全体的には、ミクラくんの成長物語みたいなものになっているのかな。
近年読んだ小説の中でも、かなり面白かった部類。なんで騒がれてないのか。もっと騒がれていてもいいのに。いや、別に騒がれなくてもいいか(笑)
まだ作品が少ない著者なので、これからに期待したいと思いつつ、第1回創元SF短編賞受賞作品を含む『あがり』を読んでみようと、すでに図書館に予約済み。

この記事のタイトルは、ミクラくんが実地で1年修行して到達した境地。
その後に「すべての仕事がそうであるように」と続く。
○○には、さて、何が入りますか。ここでは伏せさせていただきました。
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2013年10月08日

好きだけど嫌われる

時折、夕食に何を作るか悩んで決められないということがある。
昨日がそんな日で、どうしようかと悩む私を見て、ダンナさんがひょいと台所に立つ。
焼肉のタレに漬けた豚肉と卵、それにたっぷりの青ネギを刻んでチャーハンを作ってくれた。鮭フレークを使ったスープ付き。
フライパンをあおって、ごはんはパラパラに。私にはできない芸当である。
おかげで私は楽をさせてもらった上に、美味しいごはんをいただいた。
感謝、感謝。


さて、久しく本のネタを書いてないので、まとめておこう。
科学エッセイを続けて読んでいたので、4冊分。


『あの人の声はなぜ魅力的なのか 惹かれる声と声紋の科学』
鈴木松美
テレビでも時折拝見する音声・音響研究の第一人者・鈴木松美先生の著書。
声優オタクとしては、声というものがどういうものなのか、非常に興味のあるテーマ。とともに、人の声を聞き分ける能力はどこからくるのかにも興味があって。それはつまり、自分の脳が声を分析して判断しているということになるわけで。その辺のしくみが知りたいと思って読んだ本。この辺のことはあまり詳しくは書かれていなかったので、残念。
でも、顔の骨格や体格が声を決める要因の一つであることは確認できた。
ひとつ納得したことは、モーツァルトの曲について。世間の評判と違い、私はモーツァルトが心地よく聴けないと思っていたので、なぜかと思っていたけれど、確かに1/fゆらぎが多く含まれていたりするらしいが、音程が変わり過ぎるので、何となく落ち着かないような気分になって当たり前らしい。私の耳(脳)の判断は、決して間違っているわけではなかったと納得。


『ドコバラ! シワの多いイケメン、美人薄命の謎』
竹内久美子
寄藤文平さんの挿絵が楽しい、生物学的トリビア本。
竹内久美子さんの本は、今までにも何冊か読んでいるが、血液型による性格判断を科学的に読み解こうとしたり、眉唾なことも頭から否定しない姿勢に好感を持っている。
「人間だけにある「白目」の不思議」とか、「長良川にウミウがいる不思議」とか(知らなかった……)、なかなかに興味深いテーマが簡潔に語られている。


『科学と科学者のはなし 寺田寅彦エッセイ集』池内了
以前から興味はあったものの、なかなか読めなかった寺田寅彦のエッセイ。入門編としてジュニア向けの本を読んでみた。
寺田寅彦が高等学校時代に、英語教師であった夏目漱石に師事し、ずっと俳句の手ほどきを受けていたというのは知らなかった。漱石の作中の登場人物のモデルになっていたり、細かなネタを提供していたというのも知らず、もう一度漱石作品を読んでみたいと思ってしまう。
文学に興味があったからこそ、科学者でありながら文学的な表現ができ、科学に疎い人間にもわかりやすく説明できるわけで、こういう人はなかなかいない。
しかし、自分のことは飛び抜けて優秀とは思っていなかったようで……
「科学者とあたま」という文章の中でこう言っている。
頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には、決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手を束ねて空中に画を描いている人からは逃げ出して、自然のまんなかへ赤裸で飛び込んでくる人にのみ、その神秘の扉を開いて見せるからである。

頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思いりこうだと思う人は、先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前におろかな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって初めて科学者にはなれるのである。しかしそれだけでは科学者にはなれないことももちろんである。やはり観察と分析と推理の正確周到を必要とするのは言うまでもないことである。
つまり、頭が悪いと同時に頭がよくなくてはならないのである

この老科学者の世迷言を読んで不快に感ずる人は、きっとうらやむべき優れた頭のいい学者であろう。またこれを読んで会心の笑みをもらす人は、またきっとうらやむべく頭の悪いりっぱな科学者であろう。これを読んで何事をも考えない人は、おそらく科学の世界に縁のない科学教育者か科学商人の類であろうと思われる

ご自分が柔軟さを持っているというのは自覚していらしたのだろう。
私はこの部分を読んでニヤリとしてしまったので、「頭の悪いりっぱな科学者」ということになるのかも(笑)光栄です。

この本で取り上げられているエッセイのテーマは、茶碗の湯から始まり、砂浜の砂、蓑虫、電車の混雑、塵、金平糖、化け物、地震、津波、人魂など多岐にわたり、しかも一見価格と無関係に思えるようなテーマもちらほら。今で言う粉粒体や渋滞学、超自然現象と呼ばれるものなどまで。これこそが、目に映るものだけでなく、身の回りのすべてのことを科学的に見ようとする姿勢の現れではないかと。

寅彦が地震を研究していたことは知っていたけれど、この本では津波について語っている。
しかし困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である。地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、がんこに、保守的に執念深くやって来るのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にもまったく同じように行われるのである。科学の法則とは畢竟「自然の記憶の覚え書き」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。

こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の周期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく、五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれができない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するよりほかはないであろう。

この項には、明治29年に災害記念碑を立てたものが、二つに折れて倒れたまま転がっていたり、通行人の目に付く道路に立てたつもりが他の道路ができて旧道がさびれて人目につかなくなってしまっているという追記があった。
人は過ちを繰り返すものなのだ。生まれ変わり世代が変わりとしているうちに、記憶は薄れて言ってしまうもので、忘れた頃にやってくるからいけないので、いっそのこと頻繁に災害が起きればそれは災害でなくなるという論理が面白い。当然のことながら、自然災害の頻度を調節するなど不可能なのだから、忘れないようにするしかないのだよね。

もうひとつ印象的だったのは、「涼しさ」の自己流の定義。
涼しさとは、暑さとつめたさとが適当なる時間的空間的周期をもって交代する時に生ずる感覚である。

「涼しさ」とは、日本人だけの感じる特殊な微妙な感覚だという意見。気候学的・地理学的によほど特殊な位置にある日本でなければ、感じることのできな感覚ではないのかというわけだ。なるほど確かに。

こんな風に、何気ないことを考えさせてくれる寺田寅彦のエッセイは、やっぱり面白い。


『気になる科学 調べて、悩んで、考える』元村有希子
毎日新聞の科学環境部の記者である著者が、科学記者の視点で書かれたエッセイ。
子供の頃から医者になろうと思っていた著者は、高校まで理系の道を歩んでいたそうだが、ふと理系科目が苦手なことに気づき、大学入試直前に「文転」して心理学の道に進んだのだそうだ。カウンセラーを目指していたはずが、なぜか新聞記者となり、記者となって十年後に医学や科学を取材する部署に配置されたということらしい。つまり、色々と回り道はしたものの、理数の基礎は勉強してきた人であり、人の話を聞くことは目指してきたわけで、しろうとの立場から科学をわかりやすく伝えるという役目を負ったのは、必然の帰結ということか。

一番印象に残ったのは、「正しく怖がる」だ。
「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしい」と書いたのは地球物理学者の寺田寅彦。このことは、未経験の事態に直面した人なら得心がいくだろう。科学技術の分野では、しろうとの想像が及ばない未知の現象や先端技術に向き合う際、この心得がとりわけ重要だと思う。

ここで例に出して語られていたのは、新たに生まれ来るウィルスの脅威だったのだけれど、対象が何にしろ、わからないものは怖い。しろうとに詳しいことを解かれというのも無理だけれど、偏らない立場からの、もしくはいろんな立場からの複数の簡潔な情報を得るのは大事なことだと思う。
にしても、やっぱり寺田寅彦は外せないのだな。

細かいネタでいうと、気になったのは、「牛はなぜ北を向く」。
放牧中の家畜は、南か北を向いているのだそうだ。詳しく調べると、地図上の南北ではなく、地磁気の南北に同調しているので、地磁気に反応しているということまではわかったものの、それがなぜなのかまでは不明。渡り鳥や遡上するサケが地磁気を利用していることは知られていたものの、哺乳類でも地磁気を感じているのがわかっただけで面白い。
どこの地域でも、家畜が餌を食べるときに大半が同じ方向を向くということは知られていたものの、それが何なのかはわかっていなかった。
こういった日常的な問題に気づき、科学的に調べてみようという科学者がいることが嬉しい。
これこそ、寺田寅彦の言っていた「茶碗の湯」。

「なぜ空は青いの?」などという素朴な疑問を追いかける研究を、欧米では「ブルースカイ・リサーチ」と呼ぶのだそうだ。現実問題として、人に役立つ研究を前提に申告して研究費をどこかから捻出しなければいけない科学者にとっては、部が悪い研究課題になってしまう、と。科学の世界では、まず「人のために役立つ」ことが大前提になるらしい。そして、そういう研究にしか研究費用は集まらない。単純に「面白い」というようなことは、相手にされない。
このエッセイの中では、イグノーベル賞についても好意的に書いてあるのだけれど、一見ばかばかしいようなテーマでも、真剣に取り組んで研究する科学者に敬意を表している。そういった裾野があってこそだとも思うし、裾野が広がる中で一見無関係な分野同士が化学反応を起こすことでブレイクスルーしていく気もするのだけど。現実は難しい。

途中、東日本大震災や福島の原発事故が起き、その周辺のこともブログを抜粋する形で日記風に書かれている。会社に寝泊りしながら記事を書くその様子に、体力のない私にはとてもじゃないが記者なんて務まらないと思った。中学生時代の私は、記者に憧れていたのだけれど、ならなくてよかったと思った。(いや、なれないけど 笑)

著者の元村さんは、私と同年代だ。いわゆるバブル世代。
バブル世代とはいえ、私はブランド品など興味がなく、華やかな夜の遊びにも参加しなかったので、感覚的には自覚がない。就職も内定がなかなか決まらずに苦労したし(笑)
元村さんは、あのホリエモンと同郷で同じ学校に通う同級生で、東大でも同窓とのこと。エッセイの中でも自分へのご褒美にケリーバッグをなどとおっしゃっているし、同年代でも感覚的にはかけ離れているものだなと思った。くだらないことだけど。


自分はまったくもって文系の頭で、理系の科目は苦手だったので、最低限しか勉強してこなかった。理系のことに興味はあるのだけれど、あちらからは嫌われていると思ってきた。大人になって、しろうと向けにわかりやすく書かれている理系テーマの本が大好物になった。
おなかいっぱい科学エッセイを読んだので、しばらくはいいかな(笑)
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2013年08月08日

対極の2冊

今回は、対極の2冊。

まず、『遺体−震災、津波の果てに』石井光太 著)。
タイトルそのまま、東日本大震災の直後、釜石市を舞台に遺体をどう扱ったのかを当事者へのインタビューを元に再構成したドキュメンタリー。
津波や、その後の避難生活の実態などは、マスコミがいくらでも流してきたけれど、遺体の映った動画はテレビで流れることはほぼ皆無だし、本当の惨状は現場に居た人にしかわからないだろう。
タイトルからして、「これはどうなの?」と思ったけれど、読んでみると興味本位でというわけでなく、遺体の尊厳を考え、淡々と現実に起きたことを語っていく内容には好感が持てる。綺麗事だけでは済まされない、現実を教えてくれる。

釜石市を舞台にしたのは、町の半分が被災を免れて残っていたことが大きい。(中略)
釜石では死者・行方不明者千人以上を出したにもかかわらず、町の機能の半分が津波の直接的な被害を受けずに残ったことにより、同じ市内に暮らす人々が隣人たちの遺体を発見し、運び、調べ、保管することになった。私はそこにこそ、震災によって故郷が死骸だらけとなったという事実を背負って生きていこうとする人間の姿があるのではないかと考えた。遺体という生身のものを扱うことでそれはもっとはっきりしてくる。


現実というのは立ち位置によって見える光景が大きく異なるが、複数の目線を置くことで、人々がこの膨大な死にどう向き合っていったかということをつたえようと試みた。

あとがきにはこう書かれていた。後日の取材で、思い出しながらの話をまとめたということで、あやふやになっている部分もあったということだけど、あえてひとつの地域にフォーカスし、いろんな立場での体験や思いが描かれていて大変臨場感のあるものになっている。
中心になっているのは、葬祭業の経験がある民生委員の方だが、医師や歯科医師、消防団、僧侶、市職員、自衛隊員など、それぞれの方がそれぞれに与えられた職務を全うしようと奮闘されている。市職員や自衛隊員は別にして、ボランティアで動いている方が大半だ。
自分も被災者だったり、家族・親類や友人の安否が不明だったりする中で、遺体を捜索したり、遺体を管理したり、行方不明者を探しに来た人に対応したり、身元判明のための検歯・検体をしたり。そうした中で、自分の知り合いが犠牲者に含まれているのに気づくこともしばしば。目の前を流されていく人を助けてあげられなかった、自分だけが助かってしまった、そんな負い目を持っていたりする中で、一人でも多くの身元を判明させて遺族の元に帰そうと努力する人たち。家族を探しに来て、見つけ、慟哭する声を聞きながらも、黙々と作業を続ける医師や歯科医師たち。遺体の尊厳を考え、自ら志願して遺体安置所で来る人を迎え、家族を待つ遺体に日々声をかける民生委員。
くじけそうになりながらも、次から次へと見つかり運ばれてくる遺体に対処しなければならない。それも、焼け焦げていたり、バラバラだったり、日が経つほどに腐乱していたりする遺体に。
日頃そんなこととは無縁の職務についていてたまたま遺体安置所に派遣されてきた市職員などは、大半が耐えられなかった様子。
釜石市の犠牲者は行方不明者も合わせると1000人以上。人口約4万人の釜石市で1000人というのは、すごい数だ。いくつかの遺体安置所に、ひっきりなしに遺体が運び込まれるという惨状。
東日本大震災の犠牲者は、行方不明者も合わせると2万人近い。数にしてしまうと、一口に2万人と言うのは簡単だが、犠牲者のお一人お一人のことを考えると、本当にいたたまれない。
たくさんの地域でたくさんの方が亡くなった。釜石市での具体的な事例を知り、こんな惨状が被災地の全てで起こっていたと思うと、あらためて被害の甚大さが理解できる。
火葬が追いつかず、土葬も検討される。火葬にして欲しいという遺族、葬式をどうしてもやりたいと訴える遺族。心情を考えればそうしてあげたいのは山々だけれど、状況からして無理であり、心苦しく思いながらもそれを説得する葬祭業者たち。
なんでもそうだけれど、すべての人が納得するように事を運ぶのは不可能なのだと思い知らされる。こういう各々の意識のずれが、進まない復興の一因なのだろうなと想像する。

当然のことながら、読んでいて何度も涙する。読み進めるのが辛く、少しずつ少しずつ読んだ。それでも、読まないよりは読んだ方がいいと思う。

あとがきの「取材を終えて」にこうあった。
震災後間もなく、メディアは示し合わせたかのように一斉に「復興」の狼煙を上げはじめた。だが、現地にいる身としては、被災地にいる人々がこの数え切れないほどの死を認め、血肉化する覚悟を決めない限りそれはありえないと思っていた。復興とは家屋や道路や防波堤を修復して済む話ではない。人間がそこで起きた悲劇を受け入れ、それを一生涯十字架のように背負って生きていく決意を固めてはじめて進むものなのだ。


あの日、当地の震度は5弱。家の中の物が散乱したり、多少壊れたりはしたけれど、大きな被害はない。直後は交通が混乱したし、しばらくはガソリンや一部の食品が手に入りにくい状況で停電などがあったものの、それくらい。あとは、延々と続く余震に揺られ続けて、気持ちが悪かったことぐらいで。
それから1年後、都内のとあるギャラリーでたまたま目にした震災遺物の道路標識。仙台港・仙台空港の案内が描かれている青色の大きな道路標識が、紙を丸めたかのようにグシャっと潰れていた。まだ泥が付着していて、微かに潮のような臭いがした。それと、ぐにゃぐにゃに曲がった道路標識のポール。あれは、本当にショッキングだった。
仙台空港近くの会社に勤める知り合いから、敷地内で遺体が5体見つかったという話を直接聞いていたこともあり、圧倒的な津波の威力を物語るそれらの遺物を前にして、涙せずにはいられなかった。

私一人が震災遺物を目の当たりにしたり、この本を読んだりしたくらいで、世界の何が変わるわけでもないのだけれど、現地に行かないのなら、それくらいは触れて知っておきたい。単純にそんな気持ちで読んだ。読んでよかったと思う。


さて、対極の本をもう1冊。
『もりのへなそうる』渡辺茂男・作 山脇百合子・絵)をば。

ダンナさんに「え〜?!知らないの?!」と言われてしまった。
それが『もりのへなそうる』。ダンナさんは、幼少の砌に愛読していたようである。
じゃ、読んでみようと図書館を探すと、簡単に見つかる。
とても古い本だ。初版は、1971年12月1日とある。
表紙を見て、どことなくみたことがある絵柄だと思ったのだけれど、山脇百合子さんは、『ぐりとぐら』や『いやいやえん』などを描かれている方だった。なるほど、親しみが沸くわけだ。

5歳のてつたくんと3歳のみつやくんの幼い兄弟が、森で”へなそうる”と出会い、いっしょに遊ぶようになる。
お母さんが持たせてくれたおにぎりやドーナツを2人と1匹で仲良く分けあって食べたり、”かに”を知らないへなそうるが想像を暴走させたり。
とっても楽しいお話である。
みつやくんの言い間違いがまたかわいらしい。
たまごは「たがも」、ピストルが「しょっぴる」になってしまう。

うちでは、蚊に刺されると「かにに刺された!」と言ったりしていたのだが、ここからきていたとは知らなんだ。

本当に、いい本だ。心がほんわかと温まる。
おにいちゃんが大好きで、おにいちゃんの真似をし、おにいちゃんについてまわる弟。
弟の言い間違いのかわいらしさ。
おかあさんが兄弟をかわいがり、信頼している様子。
おいしそうなおやつやおにぎり。
おかしな恐竜へなそうる。
絵がまたいいし。
古い本だけれど、古さを感じさせない、普遍的なファンタジー。
自宅から徒歩圏に森がある環境なんて、なかなかないとは思うけれど、森の中を探検したくなるようなお話。
今時、幼い子供が2人だけで森を歩くなんて、これもなかなかないことなのかもしれないが。
森に恐竜のような動物がいて、それがしゃべるなんて、荒唐無稽な話だけれども、この荒唐無稽さがよいのだ。子供が読む本は、こうでなくちゃ。


ということで、今回は、心がえぐられるような本と心がじんわり温まる本の2冊でした。
posted by nbm at 12:21| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月24日

「メモ」と「本棚」

本日は、2冊の本について。

まずは、舟越桂さんの『彫刻家・舟越桂の創作メモ 個人はみな絶滅危惧種という存在』から。

この本は、昨年読んだ『THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』の中で、何人かの方が紹介されていて気になったもの。
舟越さんの彫刻は、何度か観たことがあるけれども、特に魅力を感じることもなく、かといって嫌悪感を持っているわけでもなく。なんというか、自分にとってはすごくニュートラルな位置にある作品という感覚で。独特の存在感があって、静かな空間を作り出すというような印象。彫刻作品が、周囲の音を全部吸収してしまっているような感じというか。
もともと、肖像画とか人物モデルの彫刻とか、とにかく人を描いた作品が苦手なので、その分を差し引くと、好きな部類に入ると思われます。

この本は、舟越さんが30年以上にわたって書き続けた創作メモをまとめたもので、何かの切れ端に書かれたものがそのまま載っていたりもします。
芸術家の頭の中身なので、観念的でわかりにくい表現が多く、脳みその普段使っていない部分を刺激されているような感覚を覚えます。

芸術は作られるのではなく生まれるのだろう。
私たちのやれることなどそう大きなわけがない。

こんな風に、とても謙虚というか、自らの無力さを嘆くような言葉がちらほらと見受けられ、彫刻家としてあれだけの地位がありながら、苦悩しながら作品をひねり出すように創作しているのがよくわかります。
読んでいて、突き抜けるようなヒントをもらえるわけでもなく、いっしょに悶々としてしまう感じ(苦笑)
だけれどもそれが、解けるか解けないかギリギリの難しさがある課題を突きつけられているようで、脳には最適の刺激となっている感覚が残ります。
一般的には、励ましとか明るい方向へ導くような言葉が羅列してある本が、”生きるヒント”とか言われてもてはやされると思うのだけれど、「人間、悩んでいていいんだな」とか、負の方向の気持ちを肯定してもらえるような気がします。安心して悩める、みたいな(笑)
いや、自分は今、別に悩みの中にいるわけじゃないんだけど。
一方で、舟越さんの自身への厳しさも痛切に感じます。だから、自分に甘い私には、叱咤されるように響く言葉が多かった印象です。

こんな風に紹介してしまうと、つまらなそうな本だと思われても困るのですが、言葉の使い方に独特のセンスがあって、詩を読んでいるようです。
何年か経ってから読んだら、違う箇所に感銘を受けたり、違った感想を持ったりするのかもしれない。そういう類の本です。
デッサンや彫刻の写真も多く、作品集としても楽しめる1冊。表紙に使われている作品からして、ブッ飛んでいて楽しいです。


さて、もう1冊は、クラフト・エヴィング商會『おかしな本棚』
クラフト・エヴィング商會は、吉田篤弘さんと吉田浩美さんご夫妻によるユニットで、本の装幀を手がけたり、自作の小説を発表されたりしています。
今作は、主に吉田篤弘さんによるもので、ご自分の本棚をテーマ別に見せるというスタイルで、数々の本を紹介してくれています。

たくさん紹介されている中で、私が既読のものは少ないですが、
『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子
『あなたに似た人』ロアルド・ダール
『ガリヴァー旅行記』スウィフト
『陰影礼賛』谷崎潤一郎
『たんぽぽのお酒』レイ・ブラッドベリ
『アライバル』ショーン・タン
『コーネルの箱』チャールズ・シミック
これくらいでしょうか。
それ以外にも、カレル・チャペックの本があったり、大好きな作家さんだけあって、好む作品に共通するものがあり、嗜好が似ているのを確認した次第です。
特に、ジョセフ・コーネルについては、クラフト・エヴィング商會の本はいくつも読んできたのに、これまでコーネルのファンだとは知りませんでした。私はまだコーネルを知って間もないですが、このチャールズ・シミックの『コーネルの箱』を読んでファンになり、美術館に出向いて日本にある作品のほとんどを鑑賞してきました。(→過去記事偶然が必然に出会うところ
他にも例えば、著者夫妻が岸本佐知子さんを”姉”と慕い、三浦しをんさんを”妹”と呼ぶ、もしくは”師匠”と仰ぎ、小川洋子さんを”同い年の姉”と尊敬するといった関係性が出てくるのだけれど、このお三方の作品には私も非常に好感を持っています。

『おかしな本棚』の作りについて、最後の方の「寝しなの本棚」という章でこう語られています。
印象としては、古書店の棚を眺めている感じ。自分の勘だけを頼りにして本の群れと向き合うような。そういう本になるよう目論んできました。

また、あとがきのような「はじまりの本棚」では
本は「探すこと」がいちばんの醍醐味です。その次に「なかなか読めない」醍醐味があり、三番目にようやく「読む」醍醐味があります。

「自分の勘だけを頼りにして」本を「探すこと」。このことが何より楽しいという感覚は私も強く、だからこそこういった書評とか本の紹介というものに惹かれます。
それが自分好みの選者によるものなら、尚更楽しく参考にできるというものです。

本との付き合い方というか、選び方というか、おもしろい記述がありました。
あまりに簡潔に書かれた「不純物いっさいナシ」みたいな本は、たいてい面白くありません。理想を言うと、基本的には簡潔ではあるけれど、ところどころに綻びやほつれがあって、余計なことや役に立たないこともつらつら書いてある。場合によっては、毒にも薬にもならないと評されますが、あれこれと本を読んでいると、知らず知らずのうちに猛毒と良薬をたんまり飲まされてしまうので、ときには毒でも薬でもない無駄なおしゃべりが心地いいときがあるのです。

とてもよくわかります。私はたぶん、「毒にも薬にもならない」類の本ばかりを読んでいるような気がするのです。

本の一番最後に著者の紹介が書かれているものですが、この本のその部分には、小さなうさぎが2羽寄り添って本を読んでいるイラストが描かれています。
これがなんとも微笑ましくて、このイラストを観るだけで、にんまりしてしまいます。
吉田篤弘さんにとって、「はじまりの本棚」の本とは、小学校の図書館で見つけた『ほらふきだんしゃく』だったそうです。それが、本というものとの最初の出会いであったということで、そのときにかかった魔法が解けないまま、今に至っていると。
私にとっての「はじまりの本」は、『しろいうさぎとくろいうさぎ』という絵本だったのです。へそまがりでロマンチックなことが嫌いな私が、なぜにこんな本を気に入ったのかはナゾですが、本当に大好きで、何度も何度も飽きずに読み返していたものです。今ももちろん手許にあります。たぶん、柔らかいタッチで描かれたうさぎの毛並みがあまりに美しく、それだけで十分だったのです。
この本の最後に描かれていた2羽のうさぎは、私のはじめての本とリンクして、よくできた話だと感心してしまったのでした。

クラフト・エヴィング商會や吉田篤弘さんの著書は、大好きなだけに一気に読んでしまうのはもったいなくて、ちびちびと読んでいます。
『おかしな本棚』の中に、『クラウド・コレクター』の構想を日記風に紹介している「CLOUDSNOTE クラウドコレクターのためのノウト』なるものがあり、これを読んでしまったら、やはり『クラウド・コレクター』が読みたくなりました。

ということで、今回は、ちょっとアーティスティックな本2冊でした。
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2013年06月25日

永遠の待機状態が最上

有川浩さんの『空飛ぶ広報室』を読んだ。
航空自衛隊の広報室を舞台にした作品。
ブルーインパルスのパイロットになるという夢を持っていた主人公・空井は、交通事故に遭って足を負傷。実現する直前だったその夢を絶たれてしまう。そして、配属されたのが広報室。もう一人の主人公と言ってもよい女性テレビディレクター・稲葉と衝突しながらも、お互いに成長していく物語。
ちょうど、この本を原作としたテレビドラマも最終回を放映したばかり。初回をちょこっとだけ観たけれど、期待したほど自衛隊の航空機が登場せず、連続して観るのはやめた。テレビドラマでは、女性ディレクター・稲葉の方が主役になっているようだ。
ただひとつだけ、テレビドラマを評価したい点は、空井役に綾野剛を当てていること。原作を読んでいると、この空井、非常に軟弱な部分が見え隠れし、感性が女性的に描かれている。その頼りない部分がよく合っていると思う。天然の部分も合っているし。
「有川浩」という表記だと「ひろし」という男性なのかと思ってしまうけれど、「ひろ」と読み、女性作家さんである。今作は、なんだか、女性が書いた本だというのが強く感じられる作品だった。うまく言えないのだけれど、女性の感性が前面に出ているとうか、男性である登場人物に女性的な言動をさせているように思えて。なので、男性である作家さんでは、描けない本だと思った。

まず、個人的な自衛隊に対する考え方を書いておこうと思う。
このブログでは、政治的なことは一切触れないことにしている。なので、そういう側面は割愛。
いろいろな考えの方がいらっしゃることでしょう。ですが、コメントでも、そういった側面のことについては、書き込みをお断りさせていただきます。
このブログでは何度か書いているけれど、高校時代は、自衛隊の駐屯地と隣接する高校に通っていたため、ヘリの爆音で授業が聞こえなかったり、体育をしている隣で戦車が地響きをたてて走っていたり、ロードコースを走っていれば自衛隊員にナンパされたりしていた。
官舎も近かったため、同級生の中には、父親が自衛隊員という人もちらほら。
観閲式ともなれば、登校は禁止され、通学路には警備が数十メートルごとに立ち、という物々しい雰囲気だった。
けれど、自衛隊に対して、悪い感情は持っていない。
1996年以降、陸自・海自・空自で持ち回りになってからは、陸自観閲式も3年ごとになったけれど、今年はまた陸自の番だ。夏から秋にかけて、そろそろ上空が騒がしくなってくるだろう。
夏に行われる駐屯地の納涼大会というイベントは、地域密着のお祭りのような感じで、私は現地に言ったことはないが、毎回花火はよく見える。地域的な娯楽が少ない土地柄、地元民はけっこう盛り上がるものである。
川越で生まれ育ったため、入間基地での航空祭も身近なイベントだった。私は行ったことはないけど、やはり埼玉南部で育ったダンナさんは、子供の頃には航空祭によく行っていたらしい。
ということで、割と自衛隊を身近に感じて育った方かもしれない。そして、今も近い。
アニメ『ガールズ&パンツァー』を観るずっと前から、りっくんランドには行きたいと思っていたのだけれど、近いがゆえにいつでも行けると思ってしまい、いまだ実現せず。

さて、では『空飛ぶ自衛隊』について感想をば。

永遠の待機状態が最上

自衛隊は、軍隊ではない。「専守防衛」。つまり、先制攻撃は行わず、侵略してきた相手を防衛するというのが基本姿勢であるから、有事が起こらず、ずっと待機状態なのが望ましい。災害時に派遣されることなどを考えても、やはり待機しているのが最上。もしものときのための自衛隊だから、通常は訓練をしながらもしもに備えているわけで、そう考えると、なんだか存在自体が矛盾しているようにも思えるけれど、もしものときにはやはり活躍してくれるわけだから、本当にずっと待機していてほしい。

陸・海・空それぞれの自衛隊の組織の本質を表す言葉として紹介されているキャッチフレーズのようなものがある。
航空自衛隊 「勇猛果敢・支離滅裂」
陸上自衛隊 「用意周到・動脈硬化」
海上自衛隊 「伝統墨守・唯我独尊」
知らないながらも、納得してしまうのが不思議。海上自衛隊の唯我独尊というのも言い当てている気がするし、航空自衛隊が支離滅裂なのもわかる気がする。
この本に書かれていることが本当ならば、航空自衛隊は、一番柔軟で自由な雰囲気があるようだ。階級にとらわれずに発言したりしても、咎められないようなところがある。

印象的だったのは、広報室長が自衛隊の映像をテレビ局に流すことをさらっと広告費に換算する場面。
この室長、飄々としているミーハーさんなのだが、自衛隊内部にいながら自衛隊という組織を客観視できる切れ者。
話の中には何度も出てくるが、税金で運営されている以上、接待費というものが計上できないので、歓迎会で歓迎される外部の人(テレビ局員など)も割り勘になってしまう(笑)
そういう環境で、広告費という莫大な資金を動かさずに、いかに効果的に自衛隊の活動をPRできるかというところが、広報室の腕の見せどころなわけだ。なんで広報などということに血税の一部を使われなきゃいかんのかとお嘆きの方もいらっしゃるのだろうが、そう考える方がいるからこその広報活動なのだろう。

人間ドラマとしては、挫折した主人公・空井が、ずっと鬱積した感情を顕にすることをせずにきてしまって、怒りをきっかけにそれが自分から流れ出したカタルシスの場面で落涙しそうになった。
同じように、自分も鬱積したものが爆発した直後だったので、気持ちが痛いほどわかる。
私の精神は崩壊しかけていて、小説が読めなくなっていた。
先日、うつ病で長く苦しんでいる先輩が電話してきてくれた。小説が読めないという話をすると、よくわかると言う。先輩も、あまり状態のよくないときには、本を読んだり、音楽を聴いたりすることができなくなるという。外部刺激を受け付けなくなるというようなことらしい。
説明文のようなものやエッセイ風のものは読めるのだけれど、小説が読めないのはなぜなのか考えてみたのだが、小説を読むときには、思ったよりも頭の中でいろんなことを考えながら読んでいるのだろうな、と。登場人物に感情移入してみたり、情景を思い浮かべてみたり、ほかのことを連想してみたり、思いのほか脳のいろんな部分を使っているに違いない。それが負担になるんだろう。
とはいえ、日が経つにつれて、なんとか読めるようになったので読了できた。
いいときにちょうどいい本を読んだ気がする。

この本は、実は2011年夏に出る予定だった。それが、翌年2012年夏に延期されたのは、「あの日の松島」という章が追加されたからだ。
東日本大震災で、ブルーインパルスの拠点である松島基地が壊滅した。たまたま、九州でのイベントがあり、ブルーインパルスは難を逃れたが、救難ヘリを含む航空機すべてが津波で水没してしまった。
テレビの報道で、その後の松島基地を取材したものを観たこともあるが、あのときの隊員たちの気持ちを考えるといたたまれない。
津波が来る前に、1機でも飛び立つことができなかったのか。誰もがそう思うだろうが、震度6強の揺れの後、大きな余震も続く中、滑走路の安全確認やら何やら準備をしている間に津波の予想到達時刻になってしまう。誰よりも航空機を水没させたくなかったのは基地の隊員だっただろうし、誰よりも周辺の救難活動をやりたかったのも基地の隊員だっただろう。
その後、救助活動などに当たった隊員たちは、支援物資を受け取らなかったという。自然と全国の基地からカンパが集まり、自分たちはそれを使っていたのだそうだ。当然といえば当然かもしれないが、清廉さを知るエピソードだ。
震災時、被災地に派遣された自衛隊員たちは、最前線で凄惨で悲しい場面に多く遭遇してきたことだろう。フィルターがかけられたテレビ映像を観ただけでも平常心ではいられないのに、現場で目の当たりにした光景には、深刻なダメージを受けただろう。もちろん、被災された方やご家族が一番辛い思いをされているだろうが、辛い任務だったと想像できる。

著者は、主人公・空井に、最後にこう言わせている。テレビディレクターの稲葉に向けて言った言葉だ。
「僕たちに肩入れしてくれる代わりに、僕たちの活動が国民の安心になるように伝えてほしいんです」

そして、あとがきには自衛隊員を評してこうあった。
ごく普通の楽しい人たちです。私たちと何ら変わりありません。しかし、有事に対する覚悟があるという一点だけが違います。
その覚悟に私たちの日常が支えられていることを、ずっと覚えていたいと思います。


こういった話が、どこか美談になって、社会が知らぬ間に右傾化するのは望まない。
自衛隊という組織が、政治的にデリケートな問題をたくさん含んでいることも否定しない。
でも、何かあったときに、自衛隊が助けてくれるということだけは、厳然とした事実。
だから私は、自衛隊の航空機が爆音で飛んでいても、それを騒音とは思わない。
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2013年06月19日

主婦とは呼べない

ゆうべは、母にいじめられて泣いている夢を見た。
思ったより自分が重症であることを自覚。
母を車でどこかに送っているのだが、車から降りてちょっと目を離した隙に、母がその車を運転して居なくなってしまった。私の携帯電話には、母からの私を貶め罵るメッセージが録音されていた。現実には、母は車の運転ができないのに。
周りの人は助けてくれず、私は、どうしたらよいかわからずに号泣していた……
わかりやすい夢だこと。

実は、この数日小説を読もうとすると、集中力が全然続かず、読み進むことができない。
楽しみにしていた有川浩さんの『空飛ぶ広報室』なのだけど。
とても読みやすい文体のはずなのに、どういうわけか、10分と読んでいられない。

3日前の日曜日、念願の展覧会に行ってきたのだけれど、それについての記事も書く事ができない。
これについては書けるようになったら、書きます。

小説が読めない状態でありつつも、図書館に予約していた本が溜まっていたので、仕方なく取りに行く。
『スタッキング可能』 松田青子
『一人ぶんから作れるラクうまごはん』 瀬尾幸子
『家事のニホヘト』 伊藤まさこ
以上の3冊。

このうち、小説である『スタッキング可能』はまず置いておこう。どうせ読めないから後回し。
残りの2冊をパラパラと読んでみる。この2冊を並べると、なんだか”主婦”みたいだ。いや、私とて主婦なんだから”合ってる”のだけど、あんまり”合ってない”。
昨日の夕方借りてきたというのに、この2冊はすぐに読めてしまった。

まず、瀬尾幸子さんの『一人ぶんから作れるラクうまごはん』。
いつも作っているのは二人分のごはんだけど、一人分を作ることもある。汁物や常備菜、煮物・煮込みなどを除くと、作り置きはしないので、基本的には毎食ごとにおかずを作る。
少量で作ることになるので、何か参考になることがあればと巷で話題の本を図書館で予約してみたのだけど、まったく目新しいことがなく参考になることがない……いつもは、この本に書いてあるものよりももう少し手間をかけた料理をしているので、必要を感じないし。
野菜の下ごしらえなどは、すでに自分が実践していることのオンパレードで、レシピも普段作っているものと変わりなかった。残念。
少々気になったのは、衛生観念。書いてある通りに保存して、本当に大丈夫かいなと思ってしまった。
うちは、ダンナさんの体質上、食あたりなどを起こすと命に関わることになりかねないので、過敏気味ですけどね。

さて、もう1冊は、伊藤まさこさんの『家事のニホヘト』。
伊藤さんは、料理や雑貨、テーブルまわりのスタイリストさんだということで、出てくるものがいちいちセンスのある雑貨で、それが嫌味に感じられるくらい完璧にスタイリングされている。こんなに完璧に雑貨をスタイリングできる人はおらんだろう。
お金もかかるし、外国製など入手も困難なものが多そうだ。まるで参考にならん。
あまりの完璧さに、その美しさは理想的だけれど、実際にその中で生活したら息が詰まりそうに思えるほど。私にとっては、リアルさがない。
当然、美しいものにあこがれはあるのだけれど、スッと自然に受け入れられないのは、自分が嫉妬しているからなのか、病んでいるからなのか。
内容は、あまり実践的ではなく、おしゃれな雰囲気を楽しむカタログのようなもの。ただし、載っているもは欲しいと思っても簡単に入手できない。

ただひとつだけ真似したいと思ったことは、ふきんの煮沸消毒。しばらく前からやろうと考えていたことなのだけれど、ここにも出てきたか、と。
今までは漂白剤に漬けていたのだけれど、煮沸する方がいいような気がして。ふきんの洗濯については、人それぞれだろうけど、私は毎日手洗いする派。そして時折、漂白剤に漬ける。そのうち、100円ショップででも専用の鍋を買って、ふきん煮沸消毒を実践しようと思ってた。

もうひとつ、評価したいなと思った点は、断捨離を勧めていないこと。
この方はどうやら、思い出の品などは特に、捨てずに取っておく派だ。
家が広くて、収納スペースがたくさんあるからこそできることだと思うけど。
ということで、これも庶民にとってはリアルさに欠ける。

以上2冊、不思議と短時間でペロッと読めてしまったけど、どちらもほぼ参考にならんかった。

もう長いこと主婦をしている。
専業主婦となっても長い。けど、私は家事が苦手。
かろうじて人並みにできるのは、料理くらいなもの。うちでは、洗濯はダンナさんの領分。私は自分の下着を洗うのみで、ニットなどおしゃれ着洗いのもの、シーツやマットなど大物を洗うことはあるけど、日常的な洋服の洗濯はダンナさんが作業着といっしょにしてくれる。畳むのはほぼ私だけど。作業着といっしょとはいえ、他の物といっしょに洗うには、必ず予洗いをしてくれるし、油や金属の粉末なんかが付いているときは別に洗ってくれる。
掃除はとても苦手。汚れが目についてからやる程度。放置するから、やるときは徹底的にやることになる。普段からこまめに掃除しておけばよいものをと自分でも思うが、それができたら世話はない。でも、整理整頓するのは好き。最近は、シュレッダーが欲しくて仕方ない。要らないけどそのまま捨てられないものが山とある。シュレッダーはさみとか、いろんなグッズを使ってみるのだけど、ちまちまやってると進まない。いっそ電動シュレッダーでも買ってみるか。
裁縫は掃除よりも苦手。ダンナさんの作業着の繕いとか、ダンナさんのズボンの裾上げとか、簡単そうなことでも気が重い。せっかくミシンを買ったのに、なかなかできない。
仕事をしていないで家にいるのだから、世で言う”専業主婦”であることは間違いないのだけれど、自分ではその自覚なし。主婦ってほど家事をしてないもの。
ただ、料理はちゃんとする。カロリー計算、栄養バランスを考えて毎日3食の料理を作る。当然のことながら、お安いものや品質の良い物を探して買い物もする。でも、「やっている」と胸を張れるのはそれぐらいのことで。
なので、体調が良くて時間があるときは、毎日何かひとつでも挑戦することにしている。
日常的なルーティンワークではないことを、ひとつは達成していこうという企画。
今の時期だと、例えば扇風機のお掃除とか。うちは1年中扇風機が活躍するので、汚れるのよね。空気の入れ替えに使ったり、部屋干しの洗濯物に風を当てて乾かしたり。
気になっているのは、衣替え。忙しさで何もできず、まだやってない。やろうやろうと思いつつ、天気が良い日には体調が悪かったり、体調が回復したらお天気が悪かったり。どんより湿度の高い日にはやりたくないもので。ずるずると延び延びに。
つくづく家事は向いていないと思う。
じゃあ、せめて仕事しろよって話ですよね。私もそう思います。

家事にはいろんな分野があって、得手不得手があって当然だと思う。でも、やらなきゃならないし、そのへんは、モチベーションをどう保つか工夫するべきだし、自分なりにベストなやり方を模索するべきだとは思う。
掃除が行き届いてなくても、目くじらたてることなどないダンナさんには感謝するしかないです。諦めてるのかもだけど(苦笑)
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2013年06月06日

身近で謎なアイツ

サッカー日本代表、2014FIFAワールドカップブラジル出場決定おめでとうございます!

試合終了後、歓喜に沸く選手たちの後ろに、マスコットが2体。
八咫烏(ヤタガラス)の「カラッペ」と「カララ」の兄弟。そんな名前だったのか、きみたち。しかも、兄弟だったのね。
彼らの特徴は、なんといっても3本足。マスコットとしては、そう作るしかなかったんだろうけど、お尻から3本目の足が後ろ向きに生えてる……
「カラッペ」と「カララ」だけに限らず、サッカー日本代表のシンボルマークやエンブレムには、八咫烏が使われている。以下は、日本サッカー協会のサイトにあるシンボルマークの紹介文。
ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。日本では、神武天皇御東征のとき、八咫烏(やたがらす)が天皇の軍隊を道案内をしたということもあり、烏には親しみがありました。

神武天皇御東征ときたか。
Wikipediaによると、このシンボルマークは1931年に採用されたもので、実は随分古くからある。一説には、日本に近代サッカーを初めて紹介した中村覚之助さんという方の出身地にちなみ、熊野那智大社の神使である八咫烏をデザインしたという話もあるらしい。

熊野といえば、今クール放映中のアニメ『RDG レッドデータガール』で、主人公・泉水子の生まれ育った玉倉神社は、熊野の神社をモデルにしている。
泉水子は、強大な力を持つ「姫神」に憑依される体質なのだけれど、その「姫神」の使いであるカラスが出てくる。神霊が、カラスの姿を借りているというようなイメージ。
これは、3本足ではないが、八咫烏同様、熊野の神様のお使い。

この春から始まったEテレの番組『考えるカラス〜科学の考え方〜』。
毎回、冒頭にカラスの賢い行動の動画が紹介される。透明の細長いコップ状の容器には水が溜まっていて、エサが浮かんでいる。ところが、カラスがただ首を突っ込んでみてもエサには届かない。横ちょに石のようなものが積み上げてあるのを発見したカラス。それをひとつずつ咥えては、容器の中に落としていく。徐々に水面が上がって、しまいには嘴がエサに届く高さまで上昇。ついにはエサをゲットするというもの。
固い胡桃の中身を食べるために、上空から地面に落としたり、車に轢かせたりするというのは聞いたことがあるし、映像を観たこともあるけれど、こうしてエサを食べるのに道具を使いこなすというのは、なかなかに興味深い。
他にも、「遊び」をしているような動画をたまに見かける。ボールを追いかける遊びをしていたり(→YouTube)、雪の積もった車の上で滑り台のようにしていたり(→YouTube)、屋根の傾斜を利用してスノボしてたり(→YouTube)、でんぐり返しをくりかえしたり(動画をみつけられず)。
カラスは賢い鳥という印象で、ゴミを漁ったりするけれど、どうも憎めないヤツらである。
いろいろな鳴き声を聞くことがあり、カラス語を理解したいと思うのだけれど、警戒している声くらいしかわからない。
ハシブトガラスは本来澄んだ「カー、カー」という鳴き声だが、それが濁って「ガー、ガー」と鳴くのは威嚇らしい。ハシボソは本来の鳴き声が濁っているようだけど。
あとは、「カッ、カッ、カッ、カッ」と鳴くのが警戒しているとき。
他にも「アワッ、アワッ」と言ったり、「ガラガラガラガラ」みたいな鳴き方も聞くが、意味はわからず。
地震が起きると、直後に「カー、カー」言っているのもよく聞く。どうせなら、揺れる前に教えてくれよと思うのだが、「今、揺れたよね?」みたいに鳴くだけ(笑)

ということで、松原始さんの『カラスの教科書』を読んでみた。
まず、「カラスという鳥はいない」と。
私たちが普段「カラス」と読んでいる鳥は、大方ハシボソガラスかハシブトガラス。「カラス」と言ってしまうと、実はスズメ目カラス科を指してしまい、非常に多くの鳥を含む呼び方なのだそう。とはいえ、一般的には、「カラス」といえば、あのカラスだけど。

他に印象に残った点をいくつか。
ハシボソガラスとハシブトガラス。この2つが主に日本で観られるカラスになるが、両者にはいろいろと違いがあるということ。
都市部にいるのはハシブト、郊外の平地や低山にいるのがハシボソ。元々は森林にいたハシブトが、都市部の高層建築を森とみなして侵出してきたのらしい。
胡桃の割り方などを工夫したり、器用なのがハシボソ。鳴き声を鳴き分けるのはハシブト。
ハシボソは地上に降りて歩き回ったりするが、ハシブトはあまり降りてこない。
ハシブトの方が肉食傾向が強い。
シロウトには、遠目にはどっちがどっちだかわからんがな。

鳥は、原色が強めに見えるってことで、人間には半透明の黄色いゴミ袋が、カラスには中身が見透かせないらしい。4色型色覚については、本書の中では触れられてなかったのだけど。
この黄色いゴミ袋でゴミ漁りを防止しようということらしいのだけど、その昔は中身の見えない黒いゴミ袋でも荒らされていたわけだから、意味があるのかどうかと、著者は言ってる。どんな対策も、カラスがそれに慣れたら意味がなくなるらしい。
基本的には、カラスは目で見てゴミを漁っているので、肉のように見える茶色や赤い色などのゴミは袋の表面に出さないようにするとよいらしい。
カラスのゴミ漁り対策については、他の国でも早朝のまだ暗いうちに回収するなど色々と対策がなされているようだけど、日本ほど都市部にカラスの大群が住み着いている場所もないそうだ。
以前に、唐辛子成分で作った網とかスプレーなんかが効くと紹介されていたのをテレビで観たことがあるのだけれど、あまり広まってないところをみると、効果はあまり期待できないのかも。この本でも唐辛子に関する記述はなし。

一番意外だったのは、「カラスは賢い」という見方について、「そうでもないんじゃないの?」的なスタンスだったこと。
「賢い」という言葉の意味の中には、本来は様々な意味が含まれているのではないかということで、社会的生活をする上で賢いといえるかどうかという観点など総合的に判断すると、そう賢くもないのではないかと。
長く観察してきた著者の目には、カラスはけっこうマヌケな鳥という印象がある様子。
標識をつけたりすることができず(なぜに?)、本気で研究しようという研究者も少ないため、まだまだカラスは生態がよくわかっていないのが実情らしい。

一時期、ベランダに謎の落し物が続いたことがある。
書類の切れ端や、プリンやゼリーのカップ、食パンの欠片などが、毎日のようにベランダに落ちていた。
お隣から風で飛んできたのかとも思ったけど、それらが落ちているのはいつもベランダの中央で左右のお隣からは遠く、どうも合点がいかない。
よくよく考えた結果、カラスの仕業だったのではと結論づけた。
ベランダの手すりにカラスが飛んでくることもある。手すりの真下に落とすと、ちょうどいい位置に落ちている。他の鳥も来るけど、こんなことをするのはカラスくらいだろう。
エサをたまたま落としたとか、食べた後の要らないゴミを置いていったのならわかるけど、書類の切れ端は?エサを隠して貯めておく習性もあるようだけど、全然隠れてねーし。大体、食パンは残さず食ってけよ。なんでちょっとばっかり残すんだ?
なぜに、落し物をしていったのかは不明。一体、何のメッセージ?

近所に、犬の鳴き真似をするカラスがいる。
ウォーキングをしていると、頭上で「ワン、ワン!」という声が……
見上げると、カラスだった。
以来、時折、高い位置から「ワン、ワン」と聞こえることがあるが、ヤツが鳴いているなと思う。
器用に鳴き真似をするところを見ると、コイツはハシブトガラスなのだろう。

かつて、この辺りの雑木林はカラスのねぐらとして有名だった。夜はここで休み、昼間は都内のゴミを漁りに通勤していく。一時期よりも数は減っていると聞いたことがあるけど、時折カラスの大群を見かける。何のつもりだか、マンションの屋上や電線にとまって、騒いでいることがある。
ウォーキングしていると、見せしめなのかカラスの死骸が畑の隅に吊るされていることもある。農家さんにとっては、害鳥でしかないんだろう。
自分には実害がないからか、どうもカラスのことは憎めなくて、友達になってみたいと思ってしまうのである。
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2013年05月13日

シンクロ納骨

長嶋有さんの『佐渡の三人』を読んだ。

何がきっかけだったか忘れてしまったけれど、長嶋有さんを知って、興味を覚え、まず長嶋さんの作品をいろんな漫画家さんが漫画化した『長嶋有漫画化計画』を読んでみた。
そこから、面白そうな作品を選んで、最初に最新作である『佐渡の三人』から読むことになった。

長嶋さんご自身は埼玉県の生まれ(北海道育ち)だそうだが、長嶋家のルーツは佐渡にあるそうだ。それを元に書かれたのが今作。
やはりルーツを佐渡に持つ私には、共感できる部分が多く、且つ大変興味深い作品だった。

内容自体は、どうということはない。
年老いた親族が亡くなって、佐渡に納骨に行くというだけのこと。
ちょっと風変わりな、家族というよりもう少し広い一親族の、納骨に焦点を当てて、淡々と描かれている。

特別何がどうという部分がないのに、心の中にスッと入ってくる、しっくりくる感覚がある。
軽いタッチなのだけれど、どこかに純文学的な趣もあり、読みやすいし、時折心にひっかかる文章も出てくる。単純に、好きだ。

少し前、友人たちと4人で飲んでいるときに、村上春樹さんの本が話題に出た。1人は村上春樹ファンで、新作をすぐに買って読んだと言う。1人は、読書自体にあまり興味がない。私ともう1人は、村上春樹作品に興味が無かった。
私はもう長いこと村上春樹作品を読んでない。読んだ中で一番好きなのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。構成が面白かった。『ノルウェイの森』を読んだのは覚えている。それをきっかけに、それまでちゃんと聴いたことがなかったビートルズを聴くことはできたけど、作品自体は面白くなかったし、その後村上春樹作品を読もうとは思わなくなった。『1Q84』は、読みたいわけではないけど、そのうち読むかと思いつつまだ読んでない。最新作も同様。他にもっと読みたい本がたくさんあるから、どうしても後回しになってしまう。地下鉄サリン事件に遭遇した身としては、『アンダーグラウンド』だけは読みたいと思っているのだけれど、これもまだ読めてない。
結論を言えば、いかに村上春樹作品に人気があろうとも、私にはしっくりこないということだ。本なんて、「面白そう」と思って読んでみたところで、「合わない」「つまらない」と思うことも多々ある。ただ、作家さんによっては、作風というものがあるから、作風がわかっていてそれが自分と合わないと思えば、積極的に読もうとは思わない。
私には村上春樹作品は合わず、長嶋有作品は合うというだけの話。

この本を読んで、驚いた事実が二つ。
吉祥寺ロンロンがもう無いこと。
私にとっては、吉祥寺はそんなに慣れ親しんだ街でもないけど、以前に吉祥寺行きのバスが利用できるエリアに住んでいたことがあり、バス1本で吉祥寺に出られたりして、埼玉県内からだから時間はかかるけど、乗って座っていれば着くので利用したこともあった。若かりし頃は井の頭公園でデートしたこともある(カップルで弁天池に行くと別れるという噂があったけど、この相手は今のダンナさんである)。
現在、ロンロンは、アトレに変わっているよう。
もうひとつ。佐渡にセスナで飛んで行けること。
小説の中では、かつて飛んでいて、廃止されたというところまでが書かれている。
なくなってしまったのかと調べてみたら、航空会社は変わっているようだが、2011年からまた新潟と佐渡の間でセスナが飛んでいるようだ。片道25分は速い。
本州から佐渡に渡る手段といえば、やはり船。フェリーかジェットフォイルだ。ジェットフォイルは速いけど、なんだか味気ない。デカいフェリーで渡る方が、私は好きだな。島影が近づいてくると、佐渡おけさが流れ出す。佐渡おけさをバックにゆったりと両津港に入っていくフェリーの方が情緒がある。

私が佐渡に行ったのは、記憶にある限り3〜4回だけ。
小学校のときに2度ほど。大学生のときに1度。写真が残っているので、もっと小さいときにも行ってると思うが、自分の記憶にはない。
祖父と祖母が住んでいて、それに親戚が数件あった。
海が綺麗で、お魚が美味しい。岩場が中心の海は、いきなり深くなっている。透き通った水に飛び込むと、赤い魚が足をつついてきたっけ。地元では”ハチメ”と呼ばれるメバルが毎朝のように親戚の食卓に出された。潮の香りがして、塩焼きがとても美味しい。イカや甘エビはお刺身が最高。
大人になってからというもの、行っていないので、行ってみたい気もする。

ちょうど父を亡くしたばかりで、母が入院中で状態を見つつ延び延びにしていた納骨を、この週末にやっと終えた。
母がこちらに自分たちの墓を用意していたので、父の納骨は佐渡に行くわけじゃないけど、祖父母の墓は佐渡にある。
どこの何という寺なのかも定かでなく、それを唯一知る母に確認しておかなければならない。
母が決めた墓は、北関東の山あいにあり、佐渡の景色とは似ても似つかない。確かに景色はよいのだけれど、海の見えないこの丘を、父はどう思うのだろうと考えたりする。とはいえ、父の魂が埋められているわけでなし、どうでもよいことなのかもしれない。割り切れない感じがすることに、「バァとカァ」とか「魂魄」の話を思い出す。(過去記事→たましいには二通りあるクマ
骨だけになった父とはいえ、魂魄の”魄”はそこに宿っているかのように、縁もゆかりもない「こんなところに一人で寂しくないかな」などと考えてしまうのだ。
墓参というのは、供養というよりも、残された家族が気持ちを整理するためにするものだと思っていた。墓とは、亡くなった本人のためではなく遺族のためのものだと。けれど、実際に親が亡くなってみると、こちらの気持ちといえばそれまでなのだが、骨になった父を案じてしまうという不思議。
最期まで佐渡にこだわり、口を開けば「佐渡おけさ」の話になっていた父を、佐渡に埋葬することができなかったのは、どこか後悔が残る。分骨するという手もあるだろうけど、そこまではきっとしないだろう。
骨壷の蓋をするときに、そっと一部を持ち出して、佐渡の海にでも放り込むことができたら、少し気が晴れたのかもしれないな。
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2013年05月09日

GW2013

みなさん、連休はいかがお過ごしだったでしょうか。
私は前回記事のような事情で、どこかに遊びに行くとかいうこともなく、つまらない連休でした。
その中でも、多少は楽しんだこともあったので、その辺のことを。

まず、連休初日の土曜日。
大学時代の友人たちとランチ。
ニュージーランド在住の友人が一時帰国中で、彼女が帰ってくると、それをきっかけにみんなで集まってます。
今回集まったのは8人。最近、不定期で飲み会もあるので、年に数回顔を合わせる人も多いのですが、会う度にバカ話をして盛り上がれるのはいつも変わらず。
父が亡くなったとき、友人にはほとんど知らせなかったのですが、この日、みんなからお花をいただきました。真心に感謝です。
歳のせいか、親が病魔と戦っているという話は多くて……でも、みんなそれぞれが淡々と冷静に対処をしていて、逞しい。私も彼女たちを見習って、がんばろうと思いました。
いつもいつも思うことなのですが、友人には恵まれています。
ランチの場所は品川だったのですが、あらためてその発展ぶりに驚嘆。東南アジア系の観光客が多く、駅構内やビル群の中で記念撮影してました。新しくてドデカいビルが建ち並び、非常に現代的な街並みです。
ここ数年、高輪口を利用することはあったのですが、港南口方面は行ってなかったので、その発展ぶりには目を瞠るものがありました。

連休中、読んだ本は1冊だけ。
朝井リョウさんの『桐島、部活やめるってよ』
小説すばる新人賞を受賞した、朝井リョウさんのデビュー作。
どうもその、学生にして小説家というような若い作家さんの作品は読む気がせず、でも食わず嫌いもナンだなと、試しに読んでみた1冊。
非常に平易な文章で読みやすい。5人の人物に焦点を当て、それぞれの章を構成していて、「桐島」という人物の周辺が語られていく。
合間合間に章ごとに読んだので、頭の中で人物相関図がなかなか繋がらず。これは一気に読んだ方がいいタイプの小説。
要するに、スクールカースト下克上みたいな話。だけど、逆にリア充の傲慢さも少々感じる。
実写版映画のCMの映像を先に観ていたので、ビデオカメラを持った映画部の前田くん(映画での配役は神木隆之介)の印象が強かったのだけど、小説を読み始めたら、「桐島」くんはバレーボール部だった。どうも映画版はだいぶアレンジされてしまっているようだけど、もしかしたら小説よりも良いかもしれない。
というのは、原作者の引き出しが若さゆえに稚拙だからで、具体的に出てくるタイトルや人名がもう少し考えられていたなら、もうちょっと深みが出せたかもと読みながら残念に思っていたからだ。でも、生きてきた時間が圧倒的に短い若者にそんな引き出しを要求するのは酷というものだし、原作はあれでよいのだとも思う。
高校生の日常が描かれているから、誰しも自分の高校生活を思い出すことだろう。そして、高校時代の自分のカーストも考えるだろうと思う。
私はたぶん、カーストの枠外に居た。どこにも属さず、女子でも男子でも誰でも受け入れる。部活をやり、バイトをやり、彼氏もいて、受験勉強もした。友達もたくさんできた。ファッションにも自分なりにこだわっていたし、音楽も貪欲に聴いたし、一方では映画雑誌を読み耽ったり、コラージュを作って遊んだり、一人の時間を楽しんでもいた。
友人たちは目立つコが多かったかもしれない。男子に告白されたという相談をよく受けていたし、嫉妬から嫌がらせされる友人を守ったりしていた。でも、私自身は決して目立ってはいない。ただ、「裏番タイプ」とか「陰で何をやっているかわからない」とよく言われた。
ダンナさんが高校の同級生である以上、いまだに高校時代を引きずっていることは確か。高校時代の同窓生とは日常的に付き合いがあるし。ちなみに、ダンナさんもカースト外に居たと思う。
高校生なんて、まだまだ自我が確立していない。迷いの真っ只中。そういった迷いの臨場感という意味では、楽しめた1冊だったと思う。さすがに、作者の若さが武器となっている。
最近、年齢によって感じ方が違うだろうなと思うことが多い。自分が歳をくったということだな。

録りためた映像を観もしたのだけど、映画は1本だけ。
『ザ・ライト -エクソシストの真実-』(2011)のみ。
わりと真面目に現代のエクソシストを扱った作品。
エクソシスト、つまり”悪魔を祓う人”が人手不足ってことで、バチカンが「エクソシスト養成講座」を開く。エクソシストが足りないというのは、リアルな話らしい。そう聞くと笑っちゃいそうだけど、大真面目で信仰心を語る作品。信仰心については、触れるとドツボにハマりそうなのでスルー。
悪魔憑きや悪魔祓いというのはどうも眉唾なんだけど、現実に人手不足というからには、そういった症状(?)の人が増えているということらしい。
着目すべき点は、オカルト的な出来事が淡々と描かれていること。不吉な事故が続いたり幻覚が見えたり幻聴が聴こえたりするが、それをどう解釈するのかは意見が分かれるだろう。「ただの偶然」か「偶然にしてはおかしい」と思うか。オカルト脳かどうかの分かれ道。
正体が悪魔かどうかは別にして、超常的なことが起きているというのはわかる。
しばらく前に、森達也さんの『オカルト 現れるモノ、隠れるモノ、見たいモノ』を読んだのだが、この中で一番強調されていたことは、副題にあるように「隠れ」ているが故に見られず、だからこそ「見たいモノ」だということだった。オカルト現象とされる現象があったとして、実験で再現しようとしても、どうしてもできない。録画しようと思うと機材が壊れる。そういったことが重なり、客観的に証明することができない、と。
分からないゆえにオカルト。だからこそ、私はオカルトに魅力を感じてしまう。
何がどうなってそうなるのか、脳内の問題だけで済まされない経験をしているので、本当に科学的に説明してもらいたいと願っている。
さて、映画について。アンソニー・ホプキンスが半端ない。エクソシストが題材だけど、ホラー映画ではないな。首が回ったりはしません(笑)映画の出来としては微妙。

あとは、地味にカーテンを買い換えたりして、少しスッキリ。
スケジュールの都合上、外食が多くなってしまい、ちょっと体重が増えてしまったので、気を引き締めて痩せなければ……
いつも通り、特別どこにも出かけない連休でした。
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2013年04月19日

「わからない」方がいいこともある

寄藤文平さんの『絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』を読んだ。

寄藤さんは、私にとっては、作品・著書を全部観たい読みたいと思わせる方で、大体目を通してきた。(以下、過去記事の古いものは、文字色が読みづらくてすみません)
最初の出会いは定かじゃないけど、吉田靖『アホウドリの糞でできた国―ナウル共和国物語』(→過去記事ナウル沈没…)でのイラストだったでしょうか。その後、
『数字のモノサシ』→過去記事自分のモノサシ
『元素生活』→過去記事練成される世界
『ラクガキ・マスター』→過去記事目で見える世界なんて、限られている
『ミルク世紀 ミルクによる ミルクのための ミルクの本』→過去記事白い涙
と、読んできた。
記事にはしていないが、『ウンココロ〜しあわせウンコ生活のススメ 』藤田紘一郎 共著)や、『死にカタログ』や、『地震イツモノート』も読んでいる。
『ウンココロ』に始まる、少し小さな変形サイズの単行本のシリーズは、どれも面白い。
他にも、いろいろな本に挿絵を描かれていたり、本の装丁を手がけていたり。

寄藤さんのイラストは、いつもとてもわかりやすく、かつユーモアがあってかわいらしく、著書で取り上げられる題材も興味深いものばかりで、とにかくお気に入りのアーティストさんだ。
近年では、東京メトロのマナーポスター「家でやろう」シリーズや「またやろう」シリーズも記憶に新しい。

さて、本題。
寄藤さんが、「デザイナーをやめようかと考えて」作ったという『絵と言葉の一研究 「わかりやすい」デザインを考える』。
展覧会のオファーがあり、過去の仕事と考え方を展示して同時に本にまとめたら、これまでの仕事の整理ができると、過去の仕事を振り返って自問自答を繰り返すうちに、なんだか無駄なことをしている気分になったという。
でも、その無駄と思える作業が寄藤さんの「休み」になったらしい。気がつくと、デザイナーをやめようとは思わなくなっていたそうだ。
以下、トピック的に感想をば。

最初に、「データ」と「インフォメーション」という、二つの形の情報について語られている。「インフォメーション」という意味を持たされたデータをどうとらえるか。
インフォメーションは誰かが作らないと生まれない。

絵を使ってデータを面白いインフォメーションにしてくれというオーダーを受けていたという。データには、発信する側の意図が組み込まれてインフォメーション化されている。だから、「わかりやすく」ということを念頭に考えながら、意図する方向へイメージ化する絵をつけるという仕事になるのだろう。
抽象的な言い方になってしまうけれど、2000年前後から、不完全なインフォメーションを、受け取る人が補うといったコミュニケーションが崩れて、完成されたインフォメーションが流通するようになっていったように思う。

情報を発信する側の人間は、情報の質や意味に敏感だ。なるほどおっしゃる通りだと思う。
そして、情報の内容を精査したり、インフォメーションの意味づけについて考えたりすることは少なくなった。流れてきた情報は、そのまま消費する。けれども、大概の場合にそれは「誰かが作った」情報=インフォメーションなわけだ。そのことを意識できるかどうか。情報と正しく付き合うには、ここが重要になるんだろう。

経済の本を集中的に読んでみて思ったことがあるという。
そのうち飽きられて、使い捨てされてしまうのではと心配していた頃のこと。
「人の役に立たなければ、金はもらえない」
タッチがすぐに消費されてしまうのは、人の役に立っていないからだ。僕はそう考えた。本当に必要なものは消費されたりしない。
タッチや絵の印象といったものを取り除いたとき、絵とはなんなのか。自分の絵はなんの役に立つのか。
僕にできそうなことは、つまらないと思われていることや、見逃されていることを面白く伝えること。他には見当たらなかった。

寄藤さんは、物事のエッセンスを抽出するのが上手だと思う。
だからこそ、物事の本質を単純化して抜き出して表現できるのだと思う。
寄藤さんのタッチ。タッチそのものだけでも十分に魅力あるものだと私は思うけど、それ以上に、その”抽出力”とでも呼ぶべき力が抜きん出ていることが、ただイラストの魅力というだけにとどまらない何かを付加しているのだと思う。
経済の本をたくさん読んで、抽出されたのが、上記の「人の役にたたなければ、金はもらえない」ということだったというエピソードは、高度な抽出力が遺憾なく発揮されているよい例だと思える。

この本の大きなテーマである「絵と言葉」について。
絵と言葉との距離が作り出す響きのようなものがあり、それを表現しようとしているという。
「間」とか「世界観」と呼んでもいいというそれは、テルミンの演奏をイメージするようなことらしい。
テルミン。演奏者は、アンテナのついた箱の前に立って、手をかざし、空間を操って演奏する。
楽器に触れることで音が出るのではなく、楽器との距離が音を生み出す。
絵だけでも生まれない。言葉だけでも生まれない。絵と言葉と、両者があって初めて奏でられるもの。
つまるところ、それらに触れた読者の脳内イメージをどれだけ広げられるかということ。
なんだか、俳句の作りと似ているような気がする。究極に削ぎ落とされた情報、選び抜かれた少ない言葉だけで伝える技術。なのに、長文で説明されるよりも却って広がるイメージ。
やはり、日本人はこういったことに長けているのではないかと思えてくる。

コミュニケーションの完成形とは何か。
サッカー選手がチームメイトを観ないでパスを出すように、コミュニケーションの完成形はコミュニケーションの必要がなくなることだ。そのとき、お互いが共有しているものは、言葉でもなければ絵でもない「何か変なもの」だと思う。

「何か変なもの」というのは、上に書いた絵と言葉とが相まって生み出す産物のこと。
情報の無駄なものを削ぎ落とし、砥いでいったときに、残るもの。
訓練と経験則、そして技術が相まって、生み出されるノールック・パスの出し手と受け手。その瞬間には「これしかない」というような確信の共通性。阿吽の呼吸。
直感と感じるかもしれないけれど、それは、それまでの膨大な何かの積み重ねの上に導き出されてきたものなのだと思う。

マンガ教材を使った学習について、対談した脳研究の先生の言葉。
「でも、そういうものがこれだけ存在するっていうことは、なにか理由があるはずです」
マンガなんて短絡的なもので学習してよいものなのかと疑問に思っていた寄藤さんは、この言葉で気づいたことが。
たとえ自分が醜いと感じる物でも、そこに存在することには理由がある。そこからスタートすることが科学的な態度なのだと感じた。

自分では理解しにくくても、多く存在していること自体に何らかの意味があると考えてみる。納得できないことに対する、ひとつの捉え方。
反発するよりも、一歩ひいて見直してみるというのは、必要なことかもしれない。

そして、結論的に。
「わからない」方がいいこともある。

あらかじめ意味付けられた情報に囲まれたこの世界。例えば、「あの有名な」ゴッホの絵。そう言われているから、ゴッホの絵に価値が見出されることになる。
「わかる」に至るまでの過程は、実は「わかる」「わからない」の反復運動。この反復運動を活性化させるのが、「わかりやすく伝える」ことである、と。
いきなり「わかった」となると、「わかる」「わからない」の反復運動がそこで打ち切られてしまう。どうやら、「わかる」までの過程もけっこう大事らしい。
「わからない」けど、わかりたい。そうなると、「わかる」までに努力をし、努力した分だけ身になる、みたいなことだろうか。
子供の頃、ピアノの練習をしていて、初見でピアノ譜が弾けてしまうと後はロクに練習しなかった。そして、練習しないから身にならない。
がんばって反復練習して、課題が出来た時には、喜びも一入。忘れもしないだろう。
脳はそういう風にできているのだろうね。

こういう、普段何気なく行っている思考を、冷静に分解してみるという作業は、楽しい。
実際の課題とそれに対するアプローチの仕方や、実例を挙げてのアイデア捻出法なども提示されている。
寄藤さんが、悩みの中でいろいろと整理するために書いた本であるから、人の頭の中を盗み見をしているみたいなミョーな気持ちになる部分もあるけれど、読むのが楽しく、一気に読んでしまうのが惜しくて、ちょっとずつちょっとずつ読んだ。
特に、クリエイティブなことをしようと思っている人にとっては、いいヒントになるかもしれない。

寄藤さんの書評も少し載っている。中でも、
『日本の弓術』(オイゲン・ヘリゲル 著)
『共在感覚』(木村大治 著)
『世界をこんなふうに見てごらん』(日高敏隆 著)
の3冊はとても面白そうなので、いつか読んでみたい。

自分の存在に疑問を持ちつつ、最後には自己肯定で終わる。
読んでいる自分も、気持ちを整理できたような気分になる本です。
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2013年01月06日

輝け!nbm Awards 2012<書籍編>

2013年も明けて1週間経ってしまいましたが、あけましておめでとうございます。
昨年末は怒涛の展開がありました。父はなんとか正月を迎えることができ、母は歩行器を使うものの自力で歩けるまで回復しております。
そんなこんなで更新頻度は落ちると思われますが、今年も細々とやってまいりますので、よろしくお願いいたします。

書きたいことはたくさんあるのですが、まずは少しでも毎年恒例のnbm Awardsを片付けましょう。
まずは、書籍編から。
昨年は、珍しく小説をたくさん読んだ年でした。いつもなら、全体の2割くらいにしかならない小説なのですが、昨年は8割方は小説を読んでいたかも。
記事にしていない本も多々あります。
『短編集』クラフト・エヴィング商會『世界音痴』穂村弘『犬の心臓』ミハイル・A・ブルガーコフ『THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』ミシマ社 編『鬼談百景』小野不由美『RDG5 レッドデータガール 学園の一番長い日』荻原 規子『新世界より』貴志祐介、などなど。
でも、昨年は読んだ数としては少ないかもしれません。50冊くらいだったでしょうかね。そして、いつもよりフツーな感じです。
では、まいります。

<ビジュアル賞>
『ミルク世紀 ミルクによる ミルクのための ミルクの本』寄藤文平/チーム・ミルク ジャパン →白い涙
牛乳の販売促進のために作られた本だと思うのだが、お乳というものがどんなものであるのかがわかりやすく解説されていて、命の源という認識を確認する。大好きな寄藤文平さんの絵が楽しいし、牛乳というひとつのテーマから世界が広がる。
『遠い町から来た話』 ショーン・タン →今日は風が騒がしいな
絵と文章で構成されている本。私の一番のお気に入りである「エリック」という話は、後に独立した絵本になった。「エリック」だけでなく、手元において、何度でもよみかえしたくなるような本。関連で読もうとした司馬遼太郎の『木曜島の夜会』は、まだ読めてない。今年は読めるかな。

<認知科学賞>
『空耳の科学 だまされる耳・聞き分ける脳』 柏野牧夫 →日常のイリュージョン
目が見ているものは脳が作っているものであるのと同様に、耳が聞いているものも脳が作っているということをあらためて感じた。近年の若者の耳にはコンサートホールの残響がノイズに聞こえるとか、様々な驚きに満ちた本だった。
『考えの整頓』 佐藤雅彦 →秋の本祭り
自分のあやふやな考えのまわりをぐるぐる周りながら、考えを整理整頓した過程を記したという1冊。あいかわらず、トピックのひとつひとつが興味深い。

<文化人類学賞>
『銃・病原菌・鉄』 ジャレド・ダイアモンド →持つものと持たざるもの
環境の差異が文明の有無を左右する。そんな話が延々と続く。肥沃な土地に人が住み着き、そこで食料を生産し、そこが拠点となって文明が発達していくということが、イメージとして強く残ったのは、収穫だったと思う。
『魔女の薬草箱』 西村佑子 →効き目はいかに
魔女の飛行法から始まり、ドイツに伝わるいろんな薬草の効能などが書かれている本。ドイツに、こんな古めかしい薬草を使った民間療法が残っているということには、新鮮な驚きを感じる。

<情熱賞>
『いつか僕もアリの巣に』 大河原恭祐 →秋の本祭り
特技は、アリの解剖という著者が「自然に対して新鮮な感動を失ったら良い研究はできない」というポリシーのもと、アリ研究について書いたアリ愛に満ちた本。老眼には厳しい、アリ図鑑付き。ルーペ必須。アリ愛に満ちた1冊。
『THE BOOKS 365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』 ミシマ社 編
「この一冊だけはなにがなんでも届けたい」と思っている本を紹介してもらうという企画で、全国365書店の書店員さんが選んだ365冊。書店員さんが書いた紹介文やPOPがそのまま書かれていて、紹介されている一冊一冊に情熱を感じる。本の紹介とともに、全国のこだわりをもつ書店員さんや書店が紹介されていて、行ってみたくなる。365冊それぞれにちなんだ「次の一冊」も紹介されていて、のべ730冊紹介されている本の中で、読みたい本をリストアップしてみたら、67冊になった。収穫、収穫。

<海外エンターテインメント賞>
『マイクロワールド』 マイクル・クライトン&リチャード・プレストン →秋の本祭り
マイクル・クライトンの未完の原稿をリチャード・プレストンが大幅に加筆して完成させたという作品。身長2センチほどに縮められてしまった大学院生たちが、持てる知識を総動員しつつハワイの大自然の中でサバイバルするお話。マイクル・クライトンお得意のSF娯楽作品。興味深い話がたくさん出てきてワクワクする1冊。そして、自然を肌で感じることの大切さをあらためて教えられる。
『時の地図』 フェリクス J.パルマ →秋の本祭り
タイム・トラベルを題材にしたエンターテインメントといった趣。H・G・ウエルズとか出てきちゃって、時間軸をあっちに行ったりこっちに行ったり。文芸作品とかSFとか期待して読んでしまうと肩透かしかもしれないけど、最初からエンターテインメントだと思って読めば楽しめると思われる。上手に伏線が回収されている。

<オカルト賞>
『残穢』 小野不由美 →甲乙丙丁展転
実話怪談を蒐集する作家のもとに寄せられた、些細な体験談。「誰もいない部屋で、畳を掃くような音が聞こえる」という。取るに足らないようなこの体験談が、やがてとてつもなく大きな闇を引き込むことになる……
日常的で身近な恐怖が描かれていて、異界と現実世界とがレイヤーで重なっていることを意識させられる。どこに逃げても無駄だと絶望的に思わせる恐怖。

<不条理賞>
『道化師の蝶』 円城塔 →秋の本祭り
伊藤計劃から派生して、ちょっと前から興味があった円城塔。芥川賞受賞ということで、読んでみた作品。おかしなトリビアが散りばめられていて、行きつ戻りつする不条理な世界観は、なんとも言えない魅力がある。好き嫌いは分かれると思うが、私は大好き。

<特別賞>
『最果てアーケード』 小川洋子 →あちらとこちらのはざまで
忘れ去られたようにひっそりと佇む古くて小さなアーケード。アーケードの大家の娘として育った主人公は、品物の配達係。その娘の少女時代と、アーケードを訪れる風変わりなお客たちや、アーケードの店子である商店主たちとがリンクしながら話は進む。全体を貫くのは、父と娘の愛の物語。父が倒れるひと月ほど前に読んだが、倒れた後だったら辛くて読めなかったかもしれない。大賞と悩んだので、特別賞。

<nbm大賞>
『舟を編む』 三浦しをん →言葉の海を渡る舟
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
この一文が、深く心に突き刺さる。言葉は、人が人とコミュニケーションをとるために、また、物事の理解を深めるために重要な道具であって、その言葉を深める助けとなってくれるのが辞書だ。人が”歪みのない鏡”を手に入れるための辞書。そこに焦点を当て、その上に魅力的な人間がドラマを展開してくれるのだから、面白くないわけがない。タッチとしては軽く、娯楽作品と言ってもいいと思うのだけれども、だからこそ気軽に読んで楽しめることになるわけで。読む人を選ばない、単純にいい作品。

1年ほど前に読みたいと思ってまとめて買った本は、結局ほとんど読まないまま。
今回、新たに読みたい本のリストに67冊が加わったわけですが、これとて全て読めるわけではないでしょう。そんなこんなしてる間に、またどんどん読みたい本が生まれていきます。本というものの何と膨大なことよ。
今年も、自分の娯楽のために、また本を読んでいきたいと思っております。
ラベル:nbm Awards
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2012年12月22日

甲乙丙丁展転

1991年、鈴木光司『リング』を読んだときの衝撃は忘れない。
様々な要素が絡み合っての恐怖だったわけだが、中でも強烈な印象を残したのは、やはりビデオを観たものに呪いが感染していくという、すぐ隣にありそうな身近な理不尽さだった。

あれから20年余り。新たな恐怖を知る。
それが、小野不由美さんの『残穢』
小野不由美さんは大好きな作家の一人で、『魔性の子』を含む『十二国記』シリーズや『屍鬼』『東亰異聞』など、どれをとっても非常に面白い作品ばかり。なので、新作『残穢』もとても楽しみにしていた。

実話怪談を蒐集する作家のもとに、ある体験談が寄せられる。
「誰もいない部屋で、畳を掃くような音が聞こえる」という。取るに足らないような些細なこの体験談が、やがてとてつもなく大きな闇を引き込むことになるとは……

書いてしまっては面白くないので、詳しく書く事は避けたいと思う。
取材記録のような形式なので、最初は少々読みづらい感があるが、我慢して読んでいくと、軽いジャブをたくさん食らったかのように後から効いてくる。

実録風に書かれているので、リアルな感じで怖いということも言えるのだが、このお話の怖いところは別にある。
それが、「甲乙丙丁展転」だ。
まずは、「穢(けがれ)」という概念が重要になってくる。
民俗学をちょっとでも齧れば、すぐに出てくる基本的な概念がある。それが、「ハレ」と「ケ」だ。「ハレ」とは、「晴れ舞台」「晴れ着」などの「ハレ」で非日常的な儀式で主に祝いの意味あいが強い。「ケ」は、「ハレ」以外の日常を指すのだが、これにもうひとつ「ケガレ」という概念がある。「ケガレ」を一言で説明するのは難しいが、神道の考えでは、死または死に近いものを指すようだ。勝手に要約すると、「ハレ」がプラスの状態だとすれば、「ケ」はフラットのゼロ、「ケガレ」はマイナスと言えると思う。
古来、穢(けがれ)は伝染すると考えられていた。「触穢(そくえ)」といって、汚れに触れると伝染するというわけだ。具体的には、着座、つまり同席したり、同火・共食、つまり同じ火を囲み、食を共にすると伝染するという。火・食物・水には聖なる力があり、また不浄の力を伝染させる要素だとも考えられていたのだという。
穢(けがれ)は、そうして触穢(そくえ)で伝染していく。『延喜式』にある、その伝染の仕方に「甲乙丙丁展転」と名前がついている。その「甲乙丙丁展転」の説明を、『残穢』の中で現代的に訳した部分がある。
仮に、太郎の家に死穢が発生したとする。このとき、次郎が太郎の家で着座すると、次郎のみならず次郎の家もまた死穢によって汚染される。この次郎の家に三郎が着座すると、三郎もまた死穢に汚染されることになるのだが、この汚染が三郎の家に、持ち帰られることはない。ただし、すでに汚染されている次郎が三郎の家に赴いて着座すると、三郎の家も汚染されることになる。しかしながら、四郎が三郎の家で着座しても、四郎が汚染されることはない。死穢はここで伝染力を失う。
『延喜式』に書かれているのは、ここまでなので、太郎の家の死穢に感染した次郎の家族が別の家に行った場合はどうなるのかについては分からない。また、次郎家で死穢に感染した三郎が四郎の家に行った場合はどうなるのか、次郎が家を訪ねてきたことで汚染された三郎が四郎の家にやってきた場合、死穢は伝播しないのか、などについては不明だ。

この穢れの伝染を食い止める方法はないのだろうか。
穢れは伝染し、拡大する。浄めるための祭祀が行われなければ、広く薄く拡散していくのだ。

穢れを浄める祭祀を行っても、祓えない場合もあるという。
死のすべてが穢れであるとは思わないが、葬儀から帰ったときに自宅に入る前に塩を体に振りかけるといった習俗は、紛れもなくこの死穢を祓い浄化する行為なのだろう。

人が生まれ生活して死ぬというサイクルが、それぞれの土地には膨大に刻み込まれている。その中で穢が生じた場合、甲乙丙丁展転のように、知らず知らずのうちに穢は伝染しているということで、穢はきっと集合を表す円が重なるように幾重にも重なりながら、土地土地や家々に染み付いていることだろう。
例えば、事故や自殺の直接の現場でなくても、穢は人伝いに伝染していくということだ。人の移動が激しい現代のこと、穢れはそうして際限なく広がっていく。因果もなにもあったもんじゃない。
なんて恐ろしい話なんだろうか。

予約して順番待ちだった『残穢』を、図書館から借りてきて読み始めた日の翌日、実家の父が脳内出血で倒れた。そしてそれから1週間、今度は母が事故に遭い入院。
ちなみに、父が救急搬送されたその日、1ヶ月ほど前から闘病中だった、隣家の同級生のお父様が亡くなられた。
偶然といえば偶然の出来事なのだけれども、目には見えない「穢」というものが、もしかしたら本当に存在するのではないかと頭をよぎる。

同時に発刊された『鬼談百景』とリンクしているようなので、これから『残穢』を読む方は念頭においておかれるとよいでしょう。
私は先に『鬼談百景』を読んだのだが、時期が離れていたので内容をあまり覚えていない。
折しも、怪談専門誌「幽 18号」が発刊されたばかり。もちろん、創刊から買い揃えている私はすぐに購入した。この雑誌には実話系怪談を書く作家さんの作品がたくさん収録されているが、平山夢明福澤徹三といった方々の名前が実名で『残穢』に登場してくる。『残穢』に出てくる怪談を書く主人公の作家は、小野不由美さん自身に他ならない。
90年代初頭、小野不由美さんが「ゴーストハント」シリーズのあとがきで、恐怖体験談を送ってほしいと読者に語りかけ、集まった怪談が連載されていたのが怪談専門誌「幽」。そしてその連載「鬼談草紙」をまとめたのが『鬼談百景』というわけ。
その中のひとつの話が、『残穢』の発端になっているということらしい。

土地の記憶は馬鹿にならないと感じてきた。
例えば、池袋サンシャインシティ、渋谷の街、東京プリンスホテルなど、私がどんよりと暗い印象を持ち、長居したくないと思ってきた場所は、土地としてあまりよい過去を持っていないことを知り、納得したものだ。そういった感覚も『残穢』で思い出した。

『残穢』の理不尽さは、『リング』の比ではない。そして、私たちは、まさにその理不尽な世界に暮らし、日常を送っている。
だからこそ、恐ろしい。
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2012年11月22日

妄想RDG

『RDG レッドデータガール』がアニメ化されるとのこと(→公式サイト)。原作者は、荻原規子さん。
このシリーズは本当に大好きで、アニメ化されると面白いだろうなと想像する一方、下手にアニメ化してほしくないとも思っておりました。
ですが、作画には非常に定評のあるP.A.WORKSがアニメ制作を担当し、キャラクター原案は岸田メル。これが期待しないでいられましょうか!
今のところ、発表されているキャストは、主役の泉水子役・早見沙織のみ。ということで、今日は単なる自己満足として、妄想を炸裂させて勝手にキャストを決めるという企画をやってみたいと思います。
なので、ここから先は妄想にお付き合いくださる方のみ、お読みください。
以下敬称略でまいります。

初めにヒロイン・鈴原泉水子ですが、これは早見沙織で問題ないと思われます。
熊野の山深い神社で生まれ育ち、大切に大切に育てられてきた姫巫女。長いお下げ髪がトレードマーク。
引っ込み思案な泉水子が、少しずつ成長していくところを上手に演じてくれそうです。やわらかな声質もバッチリ合っていると思います。他にも候補として考えられる人はいると思いますが、もう決定していることですし、これはこのままで。

泉水子の相手役となる相楽深行については、難しいので後ほど。

一番すんなり浮かんだのは、深行の父・相楽雪政。これは、石田彰で。
見た目が若く美麗な父。そして謎の多い人物ですからね。声に色気がなくてはいけません。そして、優しさの中にも冷徹な部分を匂わせるような声。
そうでないなら、諏訪部順一。若しくは、櫻井孝宏あたりで。

泉水子の父・鈴原大成は、三木眞一郎
シリコンバレーで働くコンピュータプログラマー。
優秀だけど、少し古風で、軽く間が抜けている感じ。能ある鷹は爪隠す的な。
もしくは、平田広明

泉水子の母・鈴原紫子は、本田貴子
警視庁公安部に務めるという設定で、泉水子のことは放置しているに近い。
クールでバリッとダークカラーのパンツスーツを着こなすようなイメージ。
他には、園崎未恵とか、抑え目の甲斐田裕子とか。

中学の同級生・和宮さとるは、緒方恵美
印象の薄い小柄な男子。声質は、線の細さが重要な気がする。
俳優の冨浦智嗣の声に似た声をどこかで聞いた気がするのだけど、それが誰だったのか思い出せない。山本和臣だったかなぁ。
男声声優さんだったら、他に豊永利行くらいかな。

ここからは、泉水子が進学する鳳城学園学園高等部の面々。

泉水子と寮で同室の宗田真響は、高垣彩陽
美人で活発、成績も優秀。サバサバした性格の女の子。明るく元気な印象。
イマドキの人なら赤崎千夏でもいいかも。でなければ、井上麻里奈とか。

真響と三つ子の兄弟・宗田真夏は、細谷佳正
馬術部に所属し、流鏑馬を嗜む、馬をこよなく愛する男の子。
姉の真響に比べると、のんびりやで飄々としている。
他には、梶裕貴とか、逢坂良太とか。

三つ子の兄弟のもう一人・宗田真澄は、斎賀みつきなんてどうだろう。
真澄については語らない方がいいか。ミステリアスな感じで。
でなければ、沢城みゆき

学園内で泉水子たちと敵対関係となる高柳一条は、柿原徹也でどうかな。
陰湿で用意周到。でも、リーダー的な素質は持っているよう。
柿原徹也は、最近悪役もどうかなと思って。でなければ、内山昂輝とか。
どこかダークサイドの影を感じさせるような存在が表現できるといい。
神谷浩史も浮かんだんだけど、ちょっと濃すぎる気がして。
この選出も意外と難しい。

さて、問題は深行くんです。
泉水子の幼なじみで同級生。山伏の修行中。
見た目も良く、成績も優秀。泉水子を守る役目を負ってます。
泉水子には基本的に冷たい態度をとるので、ぶっきらぼうさがポイントかも。
これが難しい。
福山潤宮野真守中村悠一あたりか。
ダメだ。一人にしぼれません(笑)

それから、姫神役も必要かと。
凄みのある声を想像すると、大原さやかとか田中理恵とかいうことになるけど。
田村ゆかりとか能登麻美子なんかでも面白いかな。根谷美智子なんてのもいいかも。
早見沙織とのギャップを考えると、田村ゆかりかな。
先行PVを見ると、ちょっと絵面がロリ系なので、田村ゆかりでいいかな。
もちろん、低く抑えた声の方でお願いしたいです。

他に、神社の人たちや鳳城学園の生徒会の人たちなどもいますが、この辺で。

実際、どういった配役になるのか、楽しみに発表を待ちたいと思います。


<追記 (平成25年1月25日)>
正式なキャストが発表されたようです。

鈴原泉水子 早見沙織
相楽 深行 内山昂輝
宗田 真響 米澤円
宗田 真夏 石川界人
宗田 真澄 木村良平
相楽 雪政 福山潤
和宮さとる 釘宮理恵

深行役は、内山昂輝さんでしたか。アリだと思います。ぶっきらぼうさが肝ですからね。
真響役が、米澤円さん。『けいおん!!』の平沢憂役以来、前に出てきた感じですね。
真夏役の石川界人さんは存じ上げないのですが、どんな感じになるのでしょう?
真澄役に木村良平さんときましたか。ちょっと、深行役の内山昂輝さんとかぶる気もしますが。
雪政役が、福山潤さん。福山さんがここに来たか。これもアリっちゃアリですね。
そして、和宮さとる役が、釘宮理恵さん。線の細い声を想像していたので、女性声優さんでと思ってましたが、釘宮さんなら上手に演ってくださるでしょう。
いよいよ楽しみになってまいりました!
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2012年10月29日

あちらとこちらのはざまで

本を読むとなると、いつもは小説は全体の2割くらいの印象なのだけど、今年はことのほか小説を読んでいる。一度小説を読み出すと、次から次へと読みたいものが出てきて、小説を読むことが止まらなくなっている。
そんな連続の中で読んだ1冊をご紹介。
小川洋子さんの『最果てアーケード』酒井駒子さんの表紙絵が印象的。
小川洋子さんは、割と好きな作家さんで、『博士の愛した数式』とか、『猫を抱いて象と泳ぐ』とか、面白かった。書かれている作品の根底に流れている空気感が好きだな。
この『最果てアーケード』は、漫画のために書かれた原作だということだが、なんとなしにクラフト・エヴィング商會的な世界観を感じる。
と思っていたら、また面白そうな本を見つけたので、読んでみることにしよう。それは、また後日に。

さて、その『最果てアーケード』。
忘れ去られたようにひっそりと佇む古くて小さなアーケード。紙店、ドアノブ屋、レース店、勲章店など、およそ売れそうもないような品ぞろえの店が並んでいる。けれども、逆に言えば、欲しい人には堪らない品ぞろえの店が並んでいるとも言える。そんなアーケード。
アーケードの大家の娘として育った主人公は、品物の配達係をしている。
その娘の少女時代と、アーケードを訪れる風変わりなお客たちや、アーケードの店子である商店主たちとがリンクしながら話は進む。短編が並んでいるようでいて、その実、話はつながっている。
感想や中身については、多くを語りたくないと思わせる物語だ。なので、内容には触れないでおく。

途中、何度か鼻の奥がツンとして、閉じたまぶたの裏にじんわり涙が広がるようなことが何回か。
全体を貫いているのは、父と娘の愛の物語なのだと思う。
ラストには、賛否両論というか、解釈もそれぞれになるのだと思うけれど、私の読後感は爽やかだった。

自然と、自分と父とのことを思う。
この物語の中で、アーケードには読書休憩室という空間があり、主人公の友人の女の子が、その読書室にあった百科事典を愛読する様子が出てくる。
私か!
私も小さい頃から百科事典や分厚い辞書が大好きで、それらを愛読していたものだ。
なんだか知らないが、誰も教えてないのに幼稚園に上がる前から文字が読み書きできた。
だから、文字を読むのは大好きだったのだが、中でもお気に入りは辞典・辞書の類だったのだ。
親は、「変わった子だ」と思っていたという。辞典・辞書さえ与えておけば、上機嫌だったのだから。
母はパート勤めをしていて、土日に働いていたため、休みの日にどこかに連れて行ってくれるのは父だった。
兄たちは歳が離れていたので、私が幼稚園や小学校低学年の頃だと、中高生になっていたため、家族として一緒には行動しなくなっていた。なので、出かけるときは父と二人。
小さな私を連れた父は、ポンペイ展で石となった人の姿を見せたり、爬虫類展で蛇のトンネルをくぐらせたり、建ったばかりの西新宿の高層ビルに登らせたりしてくれた。いわゆる遊園地などのレジャー施設には行った記憶がない。つまりは、自分が観たいものを、ついでに娘に見せていたみたいな感覚だったのかもしれない。
そして、帰りには必ず本を1冊買ってくれた。それも、自分で選ばせてくれたので、私はここぞとばかりに分厚い本を選び、持ち帰ると、それを心ゆくまで何度も読んだ。
こうして、風変わりな子はもっと風変わりに育っていった(笑)
今考えてみれば、父が連れていってくれた場所は、私にとって遊園地なんかよりずっとワクワクする場所で、「つまんない」とか思った記憶は微塵もない。
長兄が先天的な病気を抱えていたため、母は長兄に愛情を注ぎ、次兄と私は父派として育った。その家族内派閥は、今に至るまで継続している。
父は認知症になり、もはや私が誰であるのかあやふやになっている。だが、”大事な人”というイメージは消えないらしく、実家に帰ると、「泊まっていくんだろう?」と何度も言ってくる。
夜間ならば、自宅まで車で30分くらいで帰れるため、実家に泊まることはほとんどない。「ごめんね、今日は帰るよ」と言いつつ、父に別れを告げるのは忍びないのだが……自分には自分の生活があるので。
父には、ほとんど怒られた覚えがない。本人は、仕事ばかりしていて家族と過ごした記憶が希薄なようなのだけれど、家族と関わってこなかったわけではない。怒られなかったのは、無関心だったからでなく、基本的に温厚な人だったからだ。認知症になると、性格のマイナス部分が強調されることがあるが、父はもともと温厚だったためか、今のところ暴れたりすることもなく過ごしている。不幸中の幸いだ。
あとどのくらい余命があるのか知らないが、できるだけ会いに行ってあげたい気持ちとは裏腹に、現実の生活や母との確執から、実家に中々足が向けられないでいる。
『最果てアーケード』は、そんな私の心に、沁みた本だった。

この本で思い出したのは、以前愛読していた長野まゆみさんの世界観。
鉱石、生物、機械、少年などが織り成す幻想的な世界。耽美な言葉の羅列。
しばらく読んでいないけれど、また読んでみようか。
先日、テレビでスチームパンク・ファッションが取り上げられていた。簡単に言えば、ジュール・ヴェルヌ的な世界観がスチーム・パンク。つや消しの金色の機械みたいな。そこに少々レトロなエッセンスが入る。最近、またブームになっているようだ。ヴィクトリア調の衣装には興味がないが、ガジェットの数々は観ているだけで楽しい。
アニメでいうと、『LAST EXILE』(→HP)のようなイメージ。
こういう世界観は大好きだ。『ライラの冒険』の黄金の羅針盤とかも。(→映画トレーラー

また、ちょっと前からハマっているジョゼフ・コーネルの箱も、『最果てアーケード』の世界観に近い。
こちらは、意味のなさそうなものに意味を見出すというか。もう少しノスタルジック寄りで、クラフト・エヴィング商會に近い感覚。

彼岸と此岸の間にあるようなアーケードでの日常。地続きなようでいて、異世界のようでもある。
一歩踏み入れれば、そこは異世界。それは遠くのようでいて、実はすぐ隣にある。
「メメント・モリ(死を忘れるな)」とは、元来「限りある生を楽しめ」という意味合いで使われるはずの言葉だというが、それとは違う意味で、死を近く感じる物語だった。
健全な精神状態で読まないと、引っ張られてしまいそうだ。ご注意を。
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2012年10月10日

主電源スイッチオン!

作家・角田光代さんと歌人・穂村弘さんの共著『異性』を読んでみた。
お二人がテーマに沿って書簡を取り交わすような構成になっている。
恋愛を主題にして、男と女の考え方の違いを浮き彫りにしようという企画で、おそらくは多くの読者に共感してもらおうという趣旨の本だと思う。
角田さんは私と同年代であり、関東で育った点もいっしょなのだが、読んでみると感覚がとてもかけ離れていて驚いた。私は、女性ではあるけれど、多くの点で女性らしくないので、あまり共感できないかもと思いつつ読んだのだが、角田さんの話の半分くらいは、女性の多くがイレギュラーと判断したのではと思ったりする。いや、私もイレギュラーな方だから、そうも言えないか(笑)
一方の穂村さんは、正直過ぎるような。私は男性でないので想像だが、穂村さんの言っていることはおそらくほとんどの男性が共感すると思うけど、そのほとんどの男性はそれを外には出さないのだと思われ。だから、これを女性が真に受けて、「私は知っているのよ」的な態度に出てしまったら、失敗するような気がする。
真剣に恋愛をすることが前提で、「異性の考えていることが知りたい」と思って読む本ではないかも。

角田さんは、中高一貫の女子高出身。恋愛デビューは大学生になってから、だそうだ。それからも、特に外見には手をかけない派を貫き、大事なデートでもランニングシャツで出かけてしまうというほどらしい。男性の女性に対する淡い幻想を、後々幻滅する前に、最初からすっぴんの普段着姿を晒して壊してしまおうという作戦のよう。
私はというと、小学校高学年くらいから友達と「誰それがかっこいい」というような話をしていた記憶があるし、バレンタインデーには男子にチョコをあげたりしていた。中学校1年のときから、彼氏というほどのものではなくとも両想いの相手くらいはいたし、その相手は時折変わった。高校は自由な校風の共学だったのでそこここにカップルがいるような感じだったし、自分も他校に彼がいたりしたし、年上の人とお付き合いしたこともある。高校生時代の恋愛なんてかわいいものだけども。
お付き合いしているわけでもなく、特に好きでもない相手からデートに誘われたとして、それでも行ってみようと思ったら、一応それなりのおしゃれはして行く。小汚い格好では、相手に失礼だと思うから。男性心理とか想像する前に、人として礼儀を尽くすというような感覚だったのだと思う。
ここまで比較しただけで、角田さんと私とでは、考え方も感覚もまるで違う。
角田さんも私も、女性として一般的とは言えないのかもしれないが、つまりは、一口に女性といっても様々なタイプがいるわけで、共通する傾向性がないとは言わないが、恋愛の実践の上では参考にならないということ。

中でも、一番違和感を感じた部分がある。
男性から別れを切り出されたとき、「私のことを本気で愛した時期もあったよね?」と確認したくなるというのだ。そんなことを聞いてどうしようというんだろう。「別れたい」という”今”に、特別な事情がない限りは愛情はないわけだし、分かれる段になって過去の気持ちを聞いてどうなるというのか。解せぬ。

逆に、一番共感したことは
「好きな人」しか目に入らないことの度合いが、男とは比較にならないほど大きいのは何故だろう。

という穂村さんの言葉だ。
「自分の好きな人に、もてない」と嘆く人は確かに多い気がする。こういうミスマッチはありがち。女性は、男性を「好きな人」「まあまあ」「眼中にない人」に区分していて、それが第一印象から覆ることはほぼなく、「好きな人」に該当するのは「好きなタイプ」まで広げても、男性全体の1割くらいではないのかという話があった。そして、男性は、「好きな人」でない人からアプローチされても許容する範囲が広いが、女性は「好きな人」以外は拒絶する傾向にある、と。
中学生時代に、好きでもない男子から、自作の歌などが録音された想いのこもったカセットテープをもらってしまい、非常に困ったことがある。これが「好きな人」からだったとしても、私にとっては困るモノだけど(苦笑)
好きでもない人から電話攻撃にあったり、しつこくデートに誘われたりすると、本当に困る。困るから、ハッキリキッパリ断るのだけど、それでもなかなかあきらめてくれない人もいる。察していただきたい。

穂村さんはこう書いている。
格好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。


私は特別見た目もよくないし、もてるわけでもないけれど、この主電源が入ってるか入ってないかといったら、入ってる方になるのかもしれない。
この本を読んで思ったことは、「人からどう思われるか」を気にする自意識についてだった。いいのか悪いのかわからないが、私はこういう自意識が無いに等しい。人がどう思おうと勝手。人様にご迷惑をかけるようなことはしたくないが、「自分の思うようにやらせていただきます」というスタンスだからだと思う。それを”自信”というのかというと、ちょっと違うのだと思うけど、自分というものを受け入れているという意味ではそうかも。つまり、開き直っているのだと思う。だからといって、人に理解してもらうための努力をしないとかいうことでもないし、常にその自信を保てるほど強くもないけど、基本的にはそんな感じ。
そして、こういったことを”オープンにする”。これが、主電源の正体なのではないかと、勝手に想像してみた。

もうひとつ、穂村さんのことば。
「とても真面目で見た目もごく普通」という言葉に嘘はない。でも。「とても真面目」であることが彼から何かを奪っている。佇まいの緩さというか、いい加減さというか、遊びというか、或る種のスペースのようなもの。

これは、ある双子の兄弟の印象の違いから、感じたことだそうだ。片方は生真面目で、もう片方はどこかに余裕があるように見える。
この「或る種のスペースのようなもの」が、対人関係の起点になり、恋愛においては異性との接触の可能性を生み出しているのではないか、と。
前述の主電源がオンになると、この”遊びの部分”ができてくるのではないかと思われる。何がしかの余裕のようなものが、隙をつくるらしい。ここで言う隙とは、結論すれば「他社を受け入れる余裕」なのだ。
角田さんも、女子高を卒業し大学で男性に慣れて、「鉄の鎧のごとき自意識が崩れたときに、恋人ができた」と言っている。
穂村さんは、三十代になってからもてはじめた友人たちに、それは何故かと問うてみたところ、仕事が軌道に乗ったりして、「自信」が出てきたからではないかという答えが帰ってきたという。その「自信」は、異性を意識してというような種類のものではなく、「異性にみせる必要のないくらい、自身の内に直結した何か」なのだろうと。
近年、20代の女性が40代の男性に魅力を感じているという話をよく聞くが、経済的な安定も大きな理由だろうけど、こういう「自信」のようなものに大きな魅力を感じているのではないかとも思う。

それに関連して。
この「或る種のスペースのようなもの」を拡大する特効薬があるという。それは、お酒。
角田さんは、「お酒を飲まないひとは、どうやって恋愛するんですか」とのたまわれている。
そういえば、ある人に言われたことがある。うちのダンナさんはお酒が飲めない。私は、飲めるが、別にお酒が好きなわけではないので飲まない。ということで、家で晩酌をすることなどないのだが、夫婦で酒も飲まずにどうやって会話するのかと問われたことがあるのだ。
いや、別に、普通に会話しますけども。逆に、お酒を飲まないと会話できないとはどういうことだ?と思ったものだ。
こういうことだったのか、と合点がいった。
別に、ご夫婦で晩酌している方を非難しているわけではありません。さしつさされつ、そんなのも乙ですが、お酒を飲まないとコミュニケーションが取れないということを疑問に思ったまでで。

さて、もう少し小ネタ的なものを少々。
角田さんによると、男性が、例えばサッカー日本代表の「俺的ベストメンバー」を考えたりするのが理解できないとおっしゃる。厳しい練習をし、経験を積んだプロの人たちのが、仕事として己の名をかけて試合にのぞんでいるものを、どうして自分の判断の方が正しいと思うのか、と。
あは!私もやってます。まったくそんな風に考えませんでした(笑)
なんだろう。ああでもないこうでもないと選手の起用や戦術・戦略を考え、意見の違う人たちと突き合わせたりするのが、単純に楽しいんですけど。実際にプレーしている選手や監督に文句を言いたいというのとはちょっと違って、自分なりの構想を想像して楽しんでいるだけで。穂村さんは、それを男性の所有欲の一種だと解釈していらっしゃるようだが、私は所有とは無関係に考えている気がする。別に、自分が監督のつもりで選手を手駒として考えているわけではないから。こうしたら、自分としては楽しいかな、と。

もうひとつ。
角田さんの話でこんなのがあった。
不良少女と優等生女子が親友になる漫画がときどきあるが、あれはやっぱり架空の世界の話で、実際にはそうそうない。互いは、互いの持ちうる情報を必要としていない。そのことを、それぞれの格好でそれぞれがきちんとアピールしている。

自分でいうのもナンだが、私は中学生時代は学級委員長とか部長とかやってしまうような優等生タイプであった。いや、上に立つのはキライなので、リーダー的立場にはなりたくないんだが、やる人がいないので仕方なくといった感じなのだけど。だから、本質的には優等生タイプではないのだけど、キャラクターとしては、半分はそう見られていたと思う。
だがしかし、いわゆる不良グループに属するコたちと仲良くしていた。どちらかといえばマセガキだった私にとって、こういうコたちの方が大人びていて、付き合っていて気楽だったからだと思う。だから、「互いの持ちうる情報を必要としない」わけではなかった。
自分にはない悪の部分に憧れていたとか、そういうわけでもない。ただ、いっしょにいて楽しかった。それだけのこと。悪いことはしていないし、強要もされなかった。
後に、”裏番タイプ”とよく言われたのは、こういう過去があったからなのかどうか(笑)

最後に、この本の中では、自分磨きのために洋服を選んだり、映画を観たりという話がでてくるのだが、自分を磨くためにこういったことをするという考えがなかった。
ただ、好きだから着る、楽しいから観る、面白いから読む、好きだから聴く、みたいなことを続けていただけで。私の場合はそういったことが自分磨きにつながったとはいえないと思う。
自慢できるようなことは何ひとつないが、人にどう思われようと基本的には自己肯定してきたことが、今の自分につながっているということを再認識した本だった。
私はかなり好き勝手にやってきたんだなぁ。
posted by nbm at 13:57| Comment(7) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年10月04日

こどものころにみた夢

拙ブログに遊びに来てくださるプリュムさんのブログで、『異性』という本に触れられていた。そういえば、読もうと思っていて忘れていたと思い出させていただく。
作家・角田光代さんと歌人・穂村弘さんが主に恋愛における考え方を、女性・男性それぞれの視点から意見を交換している本である。
興味深く読んではいるのだが、私と同性であるはずの角田さんとは、あまりにも考え方や感覚が違うようで、共感できず、なかなか読み進むことができない。
一方、穂村さんが書いていることには、半分くらいは共感し、あとの半分くらいはなんとなく想像していた男性心理というものを「やっぱりそういうものなんだな」という感じで読んでいる。
私は、学生時代に発達社会学を勉強していた。人が生まれてからどのようにして人格を形成していくかというようなことを扱った分野である。男女の考え方の違いや、都道府県別の人の行動の傾向なども、こういったことと無関係ではないと考えているのか、いわゆる”傾向性”というものの本質がどこにあるのかといった問題に強く惹かれる自分がいる。
『異性』については、読み終えたら、記事にしたいと思う。

この本を図書館で探しているときに、このお二人ともが文章を書かれている別の本を見つけて、そちらも読んでみることにした。
それが、『こどものころにみた夢』という本。
12人の作家さんが書く「こどものころにみた夢」をテーマにした文章に、挿絵もそれぞれ12人の方が描かれている。
絵本というには少々文章量が多いが、雰囲気としては絵本。
角田さんのお話はちょっとホラー・テイスト。穂村さんのお話は、私は12作品中、一番好きだ。アホかわいいお話。他にも、豪華メンバーによって書かれている文章なので、安心して楽しめる1冊だと思う。内容については、触れてしまうと面白くないのでやめておくことにする。

さて、自分がこどもの頃に見た夢の話。
私は記憶力がよろしくないので、いろんなことをすぐに忘れるのだが、印象深いものはいくつかある。
一番古い夢の記憶は、森の中でゴリラと会う夢。幼稚園に入る前、ほんの小さな頃に見た夢だったと思う。
おとぎ話に出てくるような森の中をずんずん歩いていくと、少し開けた場所に出た。そこには小さなログハウスが。そこを訪ねると、なんとゴリラの家だった、というような夢。
なぜかシロクマも出てきたような記憶があるのだが、後々この夢を思い出すたびに現実ではありえない組み合わせだなと思った。さすが夢。
筋は忘れているけれど、ゴリラに追いかけられるとか怒られるとかして、それをシロクマが助けてくれるというような感じだったと思う。
私は動物の中で一番シロクマが好きなのだけれど、それはもしかしたら、この夢の印象が強く、私の中でのシロクマがヒーローだったからなのかもしれない。

幼稚園のときに見た夢で印象的だったのは、とある建物の暗い色ガラスのドアを開けて入ると、そこはゴーゴーで、薄暗い中で長い髪の女性が狂ったようにひとりだけゴーゴーダンスを踊っているという夢。長い髪の女性は髪を振り乱していて、その髪で顔が一切見えず。今、彼女を形容するとすれば、”貞子”以外の何者でもない。服装は白い着物かワンピースだったし。なので、私の印象では、「おばけがゴーゴーで踊っている夢」ということになっている。
ゴーゴーというのが時代を感じさせる。もう少し時代が下れば、それはディスコとなり、やがてクラブへと変化していくような場所。ディスコといえば、もう少しきらびやかな感じだと思うのだが、その場所は薄暗く赤い照明が照らしているようなところだった。もちろん、幼稚園児がゴーゴーになど行ったことがあるはずもないのだが、テレビで見たようなお店が印象に残っていたのかもしれない。
もうひとつ、身に覚えがある。当時、都内に住んでいた遠い親戚の家に行ったことがある。母に連れられて行ったのだけれど、その家はバーを経営していて、昼間の客が居ないバーの店内に入ったのを覚えている。その店の入口が色ガラスのドアで、中は薄暗く、ベロアのような生地のソファやカウンターとスツールなど、普段見慣れない景色を見て印象深かったのだろう。別棟に住むおばあさんにも挨拶に行ったのだが、そのおばあさんに「○○さんに生き写しじゃ」とか気味の悪いことを言われたのを覚えている。そのおばあさんが私にとってどんな関係の血縁で、○○さんが誰なのかも覚えていないのだけれど。
ここに行ったすぐ後に見た夢だったのかもしれない。

小学生の頃に見た夢で覚えているのは、盆踊りの夢。
これが強烈。忘れようがない。
夏の日の盆踊り。当時、近所の神社でも盆踊りは開かれていたが、小学校でも盆踊りがあって、規模から言えば小学校でのものの方が大々的だった。
その小学校での盆踊りの夢なのだが、浴衣をきた人々が三々五々、小学校へと向かって歩いている。ただひとつ、どうにもおかしいのは、浴衣を着た人々の頭がすべて電球のように白くまあるく発光しているのっぺらぼうだったことだ。のっぺらぼうというよりも、大きくて丸い電球が頭になっているという感じ。その中で、普通の人間は私と連れだけで、誰だか覚えていないその連れと私は、小学校に向かう電球頭の浴衣姿の人々の流れに逆らって走り、逃げ惑うという夢。なぜかそれがスローモーションだった。
怖い夢というのは、あまり見ない方だと思うが、これは強烈に怖かった。

もうひとつ、不思議だったのは、続きがある夢。これも小学生の頃に見たもの。
長兄と気球に乗っている夢だ。初回は、気球はあるが、乗り込んではいない。2回目は、気球に乗り込むところまで。3回目は飛んでいる。4回目は飛んでいるが前回と景色が違う。といったように、続きものになっていた。
私は、小学校に上がるタイミングで、市内だが引越しをしている。小学生では新しい家に住んでいるわけなのだが、この夢の中では以前に住んでいた場所の町並みの上を飛んでいた。街から旧習深い閉鎖的な地域に引っ越したので、引越し当時は周囲から嫌がらせをされたりしていた。自分自身もまだ周囲に馴染めず、居心地が悪いと感じていたのかもしれない。
長兄とは10歳近く離れている。単純にいうと、私が10歳なら、長兄は20歳だ。小学校低学年の頃の私は、高校生の兄によく連れ回されていた。今振り返ると、ちょっと気色悪いが。兄の友人にも、かわいがってもらっていた。兄からというよりは、兄の友人から様々に影響を受けたことは否定できない。その人は今プロのミュージシャンとして活躍されている。クォーターなので美形だったし、音楽を聴く上での影響はこの人から受けたと言っても過言ではない。兄が直接というわけではないのだが、兄が連れて行ってくれた場所で、様々な刺激を受けたことは否定できない。
ということで、そんなことを象徴したような夢を見たのかもしれないが、続きものというのは私にとってはこの夢だけなので、忘れられない。

夢の話をしようと思えば、他にもあるのだが、今回はこどもの頃に見た夢ということで。
私の夢は常に色付きで、日常の出来事が組み合わさってそのまま出てくることが常。夢は脳が記憶を整理している過程だという説があるが、あまりにもそのまま過ぎて面白くない。
人からはよく聞くが、夢の中で自身の体のみで空を飛んだことは一度もない。気持ちよさそうなのに。
ただ、たまに日常の記憶とは何の脈絡もない夢を見ることがあり、そのときはあまりにも夢がリアルすぎるので、気味が悪い。
夢のお告げ的なこともあったし、正夢も見たことがある。正夢は、夢の中でのことと現実とが微妙に食い違っているのがポイント。夢では登ったはしごを、現実では登らなかったりする。デジャブとか、象徴的な夢などとは、まったく異なっている。
そういえば、明晰夢も一度だけ見た。

最近、気づいたことがある。
私の夢の中では、人は会話しているものの、発音していないような気がする。音がしていないのかと思うと、効果音のような音や音楽は聞こえているので、どうやら話し言葉だけ音が消えているような。
最近の夢がそうなのか、昔からそうなのかは、わからない。
posted by nbm at 11:23| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月28日

秋の本祭り

どうにも集中力が失われて、夏場に書きかけた記事が溜まっております。
本に関する記事が多いので、それをまとめて読書の備忘録といたします。



『いつか僕もアリの巣に』 大河原恭祐
特技は、アリの解剖という著者が「自然に対して新鮮な感動を失ったら良い研究はできない」というポリシーのもと、アリ研究について書いたアリ愛に満ちた本。老眼には厳しい、アリ図鑑付き。ルーペ必須。
2007年12月現在、日本で記録されているアリの種類は275種類、世界では、1万種以上もいるのだそうだ。
アリに関する様々なエピソードが綴られているので、いくつかご紹介。
ある種のアリに果肉を掃除してもらうと、動物の食いさしの果実が腐らず、カビも生えないのだそうだ。抗菌性物質を使っているのかもしれないとのことだが、まだ研究途上で不明。
アリの背中には翅芽痕という部分があり、女王候補にあるそれをかじり取ってしまうと働きアリになってしまう。ところが、人間が人工的に切り取ってもそうはならない。なんで?
他に、ドロドロな愛憎劇みたいな側面が多々あって面白い。
例えば、多女王制でも、まるで財産・権力争いのように、最終的には女王が1匹になるまで殺し合うことがあるそう。
出戻り娘というのもあって、巣がご近所なら、母が娘に餌を届けたりする。
女王の仕事は産卵だけでなく、子供のお世話もするのだそうだが、そんなふりをしつつ、
巣の中を歩き回って女王物質を振り撒き自分の健在をアピールする。接触しないといけないので、握手してまわっているようなものだとか。
無翅オスがいるキイロハダカアリでは、ハーレム欲しさに弟を殺す兄貴や、生き残るために妹のふりをする弟がいる。
こんな感じで、研究者のフィールドワークやアリ飼育のエピソードなども語られつつ、アリワールドが展開される。
表紙のアリくんたちのリアルさに、そんな本を置いていたことを忘れていて、手で払おうとしたのは私です(苦笑)



『マイクロワールド』 マイクル・クライトン&リチャード・プレストン
マイクル・クライトンの未完の原稿をリチャード・プレストンが大幅に加筆して完成させたという作品。
身長2センチほどに縮められてしまった大学院生たちが、持てる知識を総動員しつつハワイの大自然の中でサバイバルするお話。

まえがきにはこんなことが書かれている。
2008年、博物学者デイヴィッド・アッテンボローが表明した懸念について。現代の学童が、身近な自然に見かける植物や昆虫を識別できないのは、自然の世界で遊ぶ経験がないからだ、と。
また、環境保護を意識するのはいいのだが、自分がよく知りもしないものを保護するように教え込まれている、と。
問題は、当人たちが”理解しているつもりでいる”点にある。このままいけば、いま以上に自然から隔絶された学童の新世代が出現しても不思議ではない。それは極論だとしても、すくなくとも学校では、”どんな問題にもかならず答えがある”と教わるはずだ。しかし生命には、不確実、神秘性、不可知の側面が多く、子供たちがそれを発見できるのは、現実の自然界をおいてない。自然のもとで遊ぶ機会がたっぷりとあれば―甲虫におしっこをかけられた経験があれば―指先に蝶の翅のカラフルな鱗粉がついた経験があれば―イモムシが糸を吐いて繭を作るのを観察したことがあれば―その子はきっと、神秘と不確実の感覚を身につけたおとなになれるはずである。観察すればするほど、自然界は神秘的に見えてくるし、自分がいかにものを知らないかまざまざと実感する。そしてその子は自然の美しさとともに、豊穣さ、浪費性、攻撃性、残酷さ、寄生性、暴力性などを、身をもって知ることになるだろう。そういった側面は、教科書ではとうてい伝えきれないものだ。

もともと動植物に興味があり、自然に割と恵まれた環境で育ってきた自分は、図鑑を見ると同時に身の回りの自然に直接触れてきた。雑草の名前は図鑑が教えてくれるけれど、この草は白い汁を出すとか、これは噛むと酸っぱいとか、この茎はストロー状の空洞だとか、遊んだ中で得た知識は多い。本に書いてあったことを自分で試してみることもあった。カエルのお腹を撫でて催眠術をかける、とか。
私は親が共働き、兄たちは歳が離れていたために一緒に遊んだ記憶はなく、ひとり放置されて育ったのだけれど、自分が自然豊かな場所で育ったことは、生活するには不便だったけれども、大きな財産となっていると、今になって思う。
自然界と相互作用するにさいして、われわれは絶対確実という概念をあきらめる必要がある。これは今後もつねにそうだろう。

こういう感覚も、肌で感じて理解しているというか、自然は人間の意のままにはならないということは、大前提として持っている。
異常気象とか大地震とか津波とか、人間の力ではどうにもならないことにさらされている今、こういう感覚は大事なのではないかと思う。
マイクロヒューマンとなって、ハワイの大自然に放り込まれたうちのひとりが、自然の危険に触れるにつれ、こんなことを考える。
十中八九、自分はこの冒険の旅(クエスト)で死ぬだろう。自然はやさしくもなければ好意的でもない。自然界に慈悲などというものは存在しない。努力したからといって、かならず報われるわけでもない。生きるか死ぬか、ふたつにひとつだ。この六人が六人とも、だれひとり生き延びられないかもしれない。自分はこんな場所で消えてしまうんだろうか。

本来、生きるって、そういうことだよね。

科学的に興味深い話はいくらでもでてくる。
南アメリカ原住民が狩猟に使う毒クラーレ。
昆虫を模した六脚の移動用ヘクサボット。(マイクロワールドの悪路を進むには車輪は役に立たない)
マイクロ化された人間の耳に聞こえる人の声。
マイクロ化されたときの質量や重力の感覚。
強力な電磁波が人を縮めるという設定なんだけど、なんかワクワク。
縮小された原子と通常サイズの原子との相互作用はどうなるのか。水の粘度や匂いを感じるときなど。
マイクロ酔いという副作用のようなものがあるのだけれど、この原因の謎。
代謝が速くなるから、心臓は速く拍動する。これは、”ゾウの時間ネズミの時間”?
そして、「本来ハワイに蛇はいない」というのは知らんかった。色々と刺激され、また勉強になった。



『考えの整頓』 佐藤雅彦
雑誌「暮しの手帖」2007年1月から2011年5月までの連載に加筆したもの。
まず、こんな問いかけをご紹介。
大学で同僚の桐山孝司教授からの以下のような問いがあったという。
1−1=
4−1=
8−7=
15−12=
では次に、12から5までの間で、頭に浮かんだ数をひとつ選んでください。
答えは後ほど。

「敵か味方か」
人間というか生物にとって、山奥や戦場で出くわした見知らぬもののどんな情報を一番得たいか。それは、簡単である。真っ先に得たいのは、相手の所属でもないし、正確な名前でもない。ひとつだけ知りたいとしたら、ただ、その相手が「敵か味方か」である。


「言語のはじまり」では、脳学者で言語の起源を研究している岡ノ谷一夫さんによることばの定義を紹介。
『象徴機能を持った単語をある順序で組み合わせることによって、世の中の森羅万象との対応をつけるシステム、それがことばである』


「一敗は三人になりました」
人と人とのコミュニケーションにおいて、伝える内容は、簡単で分かりやすい方がいいかというと、あながちそうとも言えないのではないかと私は思っている。もちろん、ひとりよがりの小難しいだけの文章ではコミュニケーションが取れないのは当然であるが、最近の何でも分かりやすく伝える、教えることを良しとする傾向は、人間に本来備わっている「推測する力」、「想像する力」、「創造する力」を考慮に入れない方向性で、それが却って教育や放送文化などを貧相なものにしているのではないかと案じている。


他にも、例えば、ポール・オースターの「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」の話などは面白い。
聴取者の稀有な体験や物語をラジオ番組で紹介するというこのプロジェクトでの一話「ファミリー・クリスマス」。不況下のアメリカ、貧しい一家のクリスマスプレゼントの話。
クリスマスの朝には、ツリーの下にプレゼントの山。数ヶ月前に失くしたと思っていたショールや帽子、スリッパなど。実はこれ、末弟がこつこつ隠していたもの。一度なくして諦めたものが出てきた「差」が喜びを生む。絶対に使ってもらえるものという確証付きプレゼント。

いきなり核心に行くのではなく、輪郭を歩いたように造られた文章が並ぶ。自分のあやふやな考えのまわりをぐるぐる周りながら、自分の考えを整理整頓した過程を記したという1冊。

さて、最初の問の答えは「7」?
これは、”無意識の引き算”と呼ばれているそう。
数学者キース・デブリンが著書『数学する遺伝子』で語っていることで、一旦引き算モードになると、無意識に引き算してしまうのだそうだ。



『道化師の蝶』円城塔
伊藤計劃から派生して、ちょっと前から興味があった円城塔。芥川賞受賞ということで、これを機に読んでみた。
表題作品の最初に出てくるのは、「飛行機内で本が読めない」という話。
着想は速度によって体から離れる

というのだけれど、入院中に本が読めなかったことを思い出した。どうにも集中力が続かず、活字の上を目が上滑りする感覚でダメだった。結局、軽い雑誌を読んだり、お絵かきロジックパズルをしたりして過ごしたのだけれど、飛行機内で本が読めないことと、どこか共通しているような気がする。別に、入院中は速度は感じないわけだけど。
入れ子のようになった構成のファンタジーで、私はすごく好きな作品。
「わっは!これ、どうなってんの?!」とか思いながら、でもそれを突き止めることなく流して読んだのだけれど、とても楽しかった。敢えて読み返しもせず。忘れた頃にまた読んで、また「これ、どうなってんの?!」と楽しみたい。

もう一篇の「松ノ枝の記」も仕掛けが面白い作品。
エレモテリウムの骨格標本について、こう書かれている。
凶暴だったのかは無論知られず、知りようもない。確実なのは骨があったという事実に限られ、現在残る生き物との類推からおおまかな推測ができるだけだ。実は蛍光ピンク色の毛皮を着ていたのかも知れないし、眼窩としか見えない穴には触手が収まっていたかも知れない。脳は頭にではなく、腹部にあったかも知れず、頭が尻尾で尻尾にしか見えない方が実は頭だったのかもわからない。

こういう、アホな可能性を考えてしまうところに魅力を感じる。なぜなら、私もそう思うから(笑)
”コリヤー兄弟”とか出てきて、興味本位で検索とかしてみたら、「実在しとったんかい!」ってなって。そんなものが随所に散りばめられている宝探し的な楽しみ方もできる一作だった。



ついでに、思い出せるものだけでも、さかのぼって簡単にメモしておこう。

『バールのようなもの』 清水義範
パスティーシュというジャンルを得意とする方らしいが、立川志の輔さんが本を紹介する番組で挙げられていた本で、そういえばずっとタイトルは気になってたけど、読んだことがなかったなと。表題作をはじめこの中の何遍かは、立川志の輔さんによって落語化されているらしい。
表題作の他にも、「秘密倶楽部」、「みどりの窓口」、「新聞小説」など名作揃い。なるほど、読んだことのないタイプで、楽しんだ。

『時の地図』 フェリクス J.パルマ
スペイン文学といえば、カルロス・ルイス・サフォンの『風の影』を途中で放り投げたままなのに、先にこっちを読んでしまった。別に無関係だけど。
タイム・トラベルを題材にしたエンターテインメントといった趣。H・G・ウエルズとか出てきちゃって、時間軸をあっちに行ったりこっちに行ったり。
文芸作品とかSFとか期待して読んでしまうと肩透かしかもしれないけど、最初からエンターテインメントだと思って読めば楽しめると思われ。

『川の光 外伝』 松浦寿輝
オリジナル『川の光』が、衝撃的なくらい良い出来だったので期待してしまったのがいけなかった。
これはちょっといただけない。『川の光』に出てきた動物たちが、再び登場してくれるのはよいのだけれど、ちょっとファンタジーに片寄り過ぎてる。どうせなら、もっとリアルな世界を書いてもらいたかった。
どうやら、『川の光2』という続編でゴールデンレトリバーのタミーの少女時代を書いているらしいので、リアルな世界での話はこちらに任せてということなのかもしれない。でも、『川の光2』には期待。読売新聞に連載中らしいが、本にまとまったら読もうと思う。
『川の光』については、過去記事川の光を求めてをどうぞ。文字色が一部見にくい記事ですが、申し訳ありません。

『エス』 鈴木光司
『リング』の貞子の話をもとに、『エス』から始まる新たな3部作を作るつもりか?『リング』『らせん』までは良かったけど、『ループ』にきて「?」となったので、貞子ネタをひっぱる形で「まだ続くんかい!」とツッコミを入れたくなるんだけど、これはこれで面白いかも(笑)
映像制作を生業とする主人公のもとに、謎の動画データが持ち込まれるところから話は始まる。これは、ある男が首吊り自殺する様子が映ったものなんだけど、不自然極まりないってことで、真相を突き止めようとするのだが……
あとはネタバレになるのでやめときます。
『リング』シリーズを読んだ人なら、楽しめるのではないかな。できれば、過去のシリーズ作品を読み返してから直後に読んだ方がいいかも。私は、もうみんな内容を忘れてたので、わかりにくいところが多々あり。

珍しく小説を多く読んでいるこの頃……
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2012年09月23日

オトシモノ

いつまでも暑い日が続いていたのに、そこは「暑さ寒さも彼岸まで」を忠実に守るかのように、急激に涼しくなりましたね。
この夏の暑さ、残暑のひどさについては、そのうち記事にまとめたいと思っています。
涼しくなってきて、毎年恒例の夏の微熱もようやくおさまってきたかと思っていたのですが、涼しくなったというのに、ここ3日はまたも微熱がぶりかえしていて、ひとりダラダラと汗をかいてます(苦笑)気温は下がったのに何故?

昨日、スーパーに買い物に出かけたら、スーパーの裏手の搬入スペースに止まっていたトラックのドアの取っ手のすぐ上に
「私は事故を起こしません」というステッカーが貼ってありました。
幅が3cmくらいの白いテープに、黒い文字で書かれたステッカーで、手作り?と思うほどシンプル。
他の人へのアピールというよりは、自分への戒めなのだろうなと想像できます。乗り込む度に目にするでしょうから。
前回の記事に通じるものを感じて、面白いなと思っていると……

そのトラックのすぐ前辺りに、小さな紙片が落ちている。
それは名刺でした。しかも写真付き。
前回の記事では触れなかったのですが、加門七海さんの「お呪い日和」には名刺について書かれていたくだりもありました。以前に、某知事の名刺を県職員が折るという行為が報道されたことがありましたが、その話です。
「人の名前を書いた紙を折る」というのは、非常に呪術的な行為だというわけです。なんとなく感覚的に嫌な感じのする行為ですよね。自分の名前が書かれた、いわば自分の分身のような紙を折られるというのは、よい気持ちはしないでしょう。
落ちている名刺を見たときに、ふとそのことを思い出したのです。
しかもこの名刺、ご丁寧に写真まで付いているし。余計に粗末にしてはいけないように思えます。それが無造作に落ちているのですから。
捨てられたものでなく、せめて単なる落し物であって欲しいと思いました。
でも、要りもしないものを売りつけようとする営業マンの名刺とか、数々捨ててきたよなとも思うのです。ただ、別に何か呪いをかけたつもりもないので、単にごみ処理場でお焚き上げしたとでもいうことにしておきましょう(笑)

さて、それからの道道、落ちているものが気になってしまいまして。
微グロですみませんが、小さな犬のフンやら原型をとどめていないバッタの死骸やらが目についてしまいました。
で、スーパーでレジに並んでいると、隣の開いてないレジの足元にコロンとひとつだけジャガイモが……
お客さんが落としていったものでしょうか。
ただ、そこのスーパーではジャガイモをバラ売りしていることはほとんどありません。みんな袋に数個ずつ入ってます。なぜにひとつだけ落ちていたのか不思議。

おかしな落し物をよく見かける日だなと思っていたら、マンション近くの路上で極めつけを発見。
トンボでした。トンボなんだけど、私はこれまで見たことがない種です。
買い物袋で両手がふさがっていたので、携帯電話で写真を撮ることができなかったのが残念。
全体的に赤いように見えたので、この季節では定番のアキアカネかと思いましたが、近づいてみると様子が違う。翅が根元から半分くらい褐色に染まっていて黒い紋は無いに等しく、顔のあたりは少し黄緑色をしてました。アキアカネなんかよりも少々顔がゴツいような。大きさも大きめに見えます。
家に戻ってから調べてみると、キトンボの仲間のようです。
こちらの「生き物研究室」さんの写真がわかりやすい。
ネット上で色々と写真を見てみると、個体によって黄色みが強かったり赤みが強かったりするようですね。私が見た個体は、体は赤で顔は緑がかってました。
半分褐色に染まった翅や鮮やかな体色が美しいトンボでした。
弱っていたのか地面に張り付いていて、「止まっている」というよりは「落ちている」ように思いました。
荷物を置いてからデジカメを持って戻ることも頭をよぎったのですが、微熱ではぁはぁしているので、そこまでの元気はなくて。すでに飛んでいってしまっているかもしれないし。

そんなに下ばかり向いて歩いていたのか、いろんなオトシモノを見つける日でありました。
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2012年07月07日

日常のイリュージョン

「耳がいい」というのはどういうことなのか。
これは、長年、気になっていたことのひとつ。
「耳がいい」というのは、もちろん「よく聞こえること」と言えるだろうけれど、「遠くの音や小さい音も聞こえること」もあれば、「人間の一般的な可聴領域を超えた低音・高音が聞こえること」もある。
また、「音を聞き分けること」という側面もある。「雑音の中で、特定の人の言うことを聞き分けること」だったり、「絶対音感」だったり、「人の声を特定」できたり。
音を聞くには、耳と脳の両方が使われることになるわけで、意外と複雑なメカニズムがありそうだ。
私には、絶対音感まではいかないが、相対音感くらいならある。
私が一番得意なのは、人の声を聞き分けること。これがどういうことなのか、よくわからない。声の成分を脳が分析しているということなのだろうけど、私の脳内の人の声に関するデータベースは一体どんな風になっているんだろう。倍音成分を検出する耳や脳ってなんだよと思ってきた。
けれど、年齢とともに周波数の可聴領域は当然狭くなっているし、地獄耳というわけでもない。

『空耳の科学 だまされる耳・聞き分ける脳』
柏野牧夫 著)を読んでみた。著者は、心理物理学・認知神経科学が専門。
この本を読んで、一番印象に残ったことは、耳は思っていたよりもずっと無意識に働き、耳で聞いていると思っている音は実は脳で作り出されているということだった。目が見ているものも脳が作り出しているということは実体験もありわかっていたけれど、耳で聞いている音もまた脳が作っているわけだ。当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、そんな風には意識してこなかったなと思う。

この本は、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校の高校生9名を対象に行われた講義を収録したもので、講義中にたくさんのサンプル音源が使われているのだけれども、活字や図で説明されてもわかりにくい。音源を付録してくれればよかったのにと思いながら読んでいたのだが、読後にインターネット上でそれを見つけた。本の中ではそのサイトに触れていなかったので気付かず、聴きながら読めなかったのは残念だった。
それは、著者が所属するNTTコミュニケーション科学基礎研究所が作っているイリュージョン・フォーラムというサイト。ここに「錯聴一覧」がある。
”くすぐったい音”をヘッドフォンで聴くのがオススメ。”無限音階”も面白い。基本設定が最大音量になっているようなので、音量に注意。
ちなみに、このサイトには錯視についてのサンプルもあり、こちらも面白そうだ。

こういったテーマでは、まず取り上げられる”マガーク効果”というものがある。人が発音している動画と音とが矛盾している場合にどう聞こえるかという実験。(上記のサイトで体験できます)ちなみに、上記サイトの”マガーク効果”Aは、画像を見ても見なくても、私には「あ゛」に聞こえる(笑)
視覚情報と音が矛盾しているときには、視覚を優先する傾向が強いらしい。
脳は、意識的に何かを判断してやっているわけではなく、かなりオートマティックに判断を下しているとのこと。
錯覚というのはほとんどそうですが、意識できるような形の知識に拠らないものなのです。言語化できるとか、以前に聞いたことがるとか、習ったことがあるとか、そういう意味での知識に拠らずに、無自覚に勝手に起こってしまう。そして、それが起こった結果にしか、我々はアクセスできない。我々が感じている世界というのは、一種のフィルターがかかっている状態というか、編集が施された後の情報であり、そうしたものしか見えないし、聞こえないということなのです。

他に、脳の中では、200〜300ミリ秒くらいの時間は、かなり複雑に行きつ戻りつしているなんて話も出てくる。脳の中で音が再構成されている証拠なわけだ。

とはいえ、人間は、視覚情報と聴覚情報と、そのときどきで、あてになるほうを使っているらしい。「あてになるほう」ってなんだよ!(笑)その判断をどうやってしているのやら。鳴呼、脳みそって複雑。

あとは、トピック的なものを簡単にメモ的に。
視覚は時間分解能、つまり時間的な変化を分析する能力が高くない。例えば、インバータ付きでない蛍光灯だと、1秒間に100回(東日本)とか120回(西日本)とか点滅しているのに気付かなかったりするわけで。
それに対して、聴覚の時間分解能は視覚よりも圧倒的に高いという。

耳が閉じられない構造なのは、なぜか。
耳の基本的な役割についての話。
身の危険を感じたときに、いち早く察知して、それに体を備えろという器官。気配を感じたり、遠くで起きていることをいち早く察知するのも、聴覚の重要な役割です。

これは、このブログでは何度も言ってるけど、夜道で初めてイヤホンをして歩いたその日に暴漢に後ろから羽交い絞めにされた体験をした私が、痛切に感じていること。ちなみに、さほどの被害はなかったので、ご心配なく。

無響室でもショボくならない音楽は、雅楽の笙とモンゴルのホーミー。
西洋の音楽は石造りの建物の中で演奏するために設計されたものだから、響き重視。空間も楽器の一部と考えられている。
対して、モンゴルの草原は無響室に近い環境。雅楽も室外で演奏されることが多い気がする。
環境が、そこで生まれる音楽を左右するというのも、当たり前といえば当たり前だけれど、なかなか興味深い。

アスペルガー症候群の人たちは聴覚に特徴があり、聴覚が敏感過ぎたり、人の言葉が音声としては届いていても意味が伝わらないことがあったりする人が多いという。職場で上司から何か話しかけられて、聞き取れなくて聞き返すことが多かったり、無視してしまったりといった例が紹介されていた。
近年、学校では先生が伝える注意事項などを理解しない子供たちが増えていると聞いたことがある。どうも話が伝わらない。「これから大事なことを言います」と前置きしてから伝えても、その場で聞き返されたり、伝わらないことが多々ある、と。もしかしたら、アスペルガー症候群の人たちの聴覚と同じようなことが起こっているのではないんだろうか。

チューニングで使う音叉は、バネ。音には、音を出す物質の弾性と質量が関係する。その二つの性質が、モノが振動するために不可欠なもの。
当然のことながら、空気にも弾性と質量があり、音の伝播とは空気の振動が伝わっていくこと。空気中の分子が順に押されて隣の分子との間のバネが縮む。縮むと復元力が発生し、それを繰り返すことで、空気の分子はそのままの位置で細かく振動することになる。
音とは、空気が振動することで伝わるという理解はしていたけれど、分子レベルでの伝わり方は考えたことがなかった。
本の中では、かわいいイラストで紹介されている。
これに関連して、音は永遠には続かないのはなぜかということについて。
空気中の振動は、エネルギーが移っているということ。空気の抵抗を受けて減衰するし、音源自体の摩擦も音を減衰させる一因となる。
音というものを物理的現象として捉えると、こうなるわけね。

講義の対象である高校生の一意見に驚愕!
「コンサートホールだと、音のエコーというか残響に違和感がある。i-Podならもっとはっきり聞こえる」という。
「やっぱり最近の若い子はそうなんだ。携帯音楽プレーヤーで音楽を聴くのが主流になることで、音への感受性というのもどんどん変わってくるのかもしれない」と著者も言っているのだけれど、圧縮された音をイヤホン・ヘッドフォンで聴くのが当たり前だと、空間に響く音に逆に違和感を覚えるようになるものなのか。衝撃。

脳の中では、聞こえ方を分ける部位が、しゃべる機能を司る部位に依存している。
どうやら、言葉を聞き取ることに使われる脳の中の経路は複数あるらしい。
「聴覚野→上を通って運動前野・ブローカ野」
こちらは、音声信号を、その元となった調音運動に対応付けるような経路。
「聴覚野→下を通って前頭前野」
こちらは、調音運動は関係なく、音のパターンと語彙や意味を対応付けるような経路。
これらが、状況によってフレキシブルに使い分けられているのではないかという。
聞く音を言語に限ると、ミラーニューロンじゃないけど、相手が話していること自体を自分の脳内で話すように再生することが、音を認識するのに必要な作業で、それを耳で聞こえた音と総合して判断しているということか。
脳内での処理経路については、聞く音が言語であるか否かによっても変わってきそう。

3.11直後に実施された講義だったそうで、こんな一文もあった。
しかし実際には、複数の要因がいろいろ絡み合ってきて、微妙に条件が変わっただけで、一気に挙動が複雑になったりするんですね。そもそも、関係あるすべての要因を方程式で表すのは非常に難しい。これは音だけの話ではありません。その最たるものが地震予知です。たとえ割り箸であったとしても、それがどこでどう割れるかを計算するのは、木材の繊維の走り方や微妙な力加減などで変わってくるので、簡単なことではありません。ましてや地球規模のプレートだったら、という話です。十分なモデル化ができない。あるいは、観測データが圧倒的に足りない、そういう状況下で、とにかく走り続けるしかない、というのが人生の大半です。

割り箸の例えは秀逸だと思う。

数学的センスや物理学的センスなどが必要で難解な部分も少々あるけれど、良書。
理数系に特化した生徒向けとはいえ、高校生向けの講義なので、難解な一部を除けば楽しめる本だと思われ。

日常的に無意識に生じるイリュージョン、空耳。
脳内の既知データが作り出すシロモノだとわかっていても、意味のない言葉の羅列だったり、意味のわからない言葉を既知の言葉に置き換えたり、楽しいもんです。
posted by nbm at 12:27| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月25日

効き目はいかに

週末、仲間内での飲み会があり、久々にほぼ徹夜。
解散した頃には、もう夜が明けていた。
さすがに徹夜が体にこたえるお年頃になったわ。
高校時代の話が出て、高校時代の私をよく知る人はひとりもいなかったはずなんだが、なぜか「影で牛耳っている」ようなタイプに見えると言われる。
どういうことなのか私自身、理解できないのだが、これは中学時代からよく言われていたことで、どうしても”裏番タイプ”に見えるらしい。「真面目な顔をしているけど、影で何をやっているかわからない」みたいに言われる。どうしても影から人を操っているような印象があるらしい(笑)
よく言われてきたことではあるんだが、いまだに言われるんだなと思う。
中学時代までは学級委員とか部長とか確かにやってきたが、決してやりたかったわけではなく、人の上に立ったり、誰かに指図したりするのは好きじゃない。誰もやる人がいないから、仕方なく引き受けるみたいな感覚だった。
高校に入ると、中学ほどは目立たずに済むと思い、リーダーになることもなく、実際目立たつこともなく過ごしてきたと思う。なのに、この言われようは何なのか。おかしいな。

ちなみに報告。
先日の記事、人差し指vs薬指について調査をしてみた。
男性4人女性4人の参加者について、人差し指と薬指の長さを見せてもらったところ、男性4人は全員薬指の方が長かった(ダンナさんを含む)。女性は4人のうち3人が薬指の方が長く(私も含む)、一人だけ2本の指がほぼ同じ長さという結果に。
女性陣に関しては、普段から男脳を自覚していたりするので、納得の結果に(笑)
まだまだデータが少ないので、いろんな人の指を観察してみたいと思う。

さて、今日は本の話。
『魔女の薬草箱』西村佑子 著)という本をを読んでみた。
著者は、ドイツ文化を研究していて、近年は魔女の研究にも力を入れているらしい。ドイツに古くから伝わる薬草と、”魔女”や”賢い女”がそれをどう使ってきたかということを簡潔にまとめた本である。

この本は、”空飛ぶ軟膏”の話から始まる。
NHK Eテレの『大!天才てれびくん』中で放送されている『黒魔女さんが通る!!』というアニメがある。オカルト好きの小学5年生の少女が、間違って黒魔女を召喚してしまい、黒魔女の修行をすることになるという筋。原作は、青い鳥文庫の児童文学。
これに、当然のように飛行魔法が出てくる。ほうきに跨って飛ぶわけだが、必ず体に飛行するための軟膏を塗らないと飛べない。
「魔女はほうきに跨って飛ぶ」というのは、もはや固定観念となっていると思うが、魔女が飛べるのは、「ほうきに跨るから」ではなくて、「飛行できる軟膏を体に塗っているから」だというのは知らなかった。と同時に、『黒魔女さんが通る!!』の設定は、思いのほか本格的だということに気付かされた。
要するに、跨るものはほうきじゃなくてもいいわけで、雄山羊や豚、火掻き棒などでも飛んでいたらしい。自分単体で飛ばないのが不思議だけど。
4月30日、”ヴァルプルギスの夜”に、ブロッケン山で悪魔と魔女の集会が行われ、魔女たちは思い思いのモノに跨って、ブロッケン山に飛んできたという。
肝心の「空飛ぶ軟膏」のレシピは数多く残されているそうだが、その中のナス科の薬草エキスを体に塗りつけると、飛行する夢や幻覚を見ることができたという研究者がいる。その成分は、おそらくヒヨスではないかと言われている。ヒヨスに含まれるアルカロイドのヒヨスチアミンやアトロピン、スコポラミンが副交感神経や中枢神経に作用して重量感を喪失させ、宙を飛ぶような感覚が得られたのではないかという。そういうことだったのね。
近年話題になったが、一部のドラッグではなぜか窓から外に飛び出したくなったりするというし、最近話題の”バスソルト”などでは人を喰らうゾンビ事件も起きている。ある種の成分が、特有の反応を引き起こすことは想像に難くない。
魔女の軟膏のレシピには、毒草が多く出てくるけれど、大麻やケシが含まれていることもあるし、麻薬系が使われるのはいかにもという感じだ。

飛行用に限らず、魔女の軟膏のレシピはいくつか紹介されているのだが、人間の脂肪や新生児の脂肪など、おぞましいものが材料に入っているところが恐ろしい。
魔女が騒がれた時代は、キリスト教が布教された時代でもあり、キリスト教に反する者は異端と捉えられたわけで、産婆はその最たるものだったらしい。
この本によると、キリスト教では出産の苦しみは神に逆らった罰だという解釈があるそうで、産婦の苦しみをできるだけ少なくしようとする産婆は、神に逆らうものと考えられたという。
また、死産があれば、子供は洗礼前に死んでしまうため、天国に行けないとされた。死産になった場合、新生児の身体を悪魔の生贄にするためだったのではないかと、産婆が疑われたのだそうだ。
もちろん、産婆は堕胎を手伝う立場にもあったわけで。
軟膏というものは、潤滑剤として脂肪を成分とすることが多かったわけだが、そこに新生児の脂肪が使われるレシピについては、こういった時代背景が大きかったのではないかというのが著者の説。

魔女の使う薬草には毒草が多いが、身近な食用植物の話題もいくつか含まれている。
例えば、ザクロ。一時期、女性ホルモンのエストロゲンが含まれているとかで、ザクロジュースが話題になったことがあったが、どうやらザクロ果汁にエストロゲンは含まれていないらしい。ただ、昔から血行障害や止血によいとされていたそうだが、実際に収れん作用や止血作用はあるらしい。自分で調べてみたところ、これらの作用は、樹皮・根皮・果皮にあるようで、果汁にあるということではないみたい。
クリスマスローズに毒性があることも知らなかった。根の毒性が特に強いらしい。ドイツ名はクリストローゼ「黒いクシャミ根草」というらしい。根の粉末はクシャミを引き起こすのだそうだ。
レタスが使われているレシピもある。これが、私たちが普段食べているレタス(チシャ)なのか、全く別物のノジシャなのかわからないそうだが。レタスの効能で個人的に思い出すのは、催眠成分が入っているということだが、あらためて調べてみると、その成分ラクチュコピクリンも野生種にしかないそうで、私たちが普段食べているレタスにはほとんど含まれていないらしい。
もうひとつは、ハナハッカ。ハナハッカというと聞きなれないが、スパイスのオレガノのことだそうだ。この本では、眠りを誘う成分が含まれているとあるが、調べてみると消化促進が主な作用だと言われているようで、鎮静作用の記述をしているものは少ないけれど、なくはないようだ。スパイスとしては作用が強力らしい。
それから、ヘーゼルナッツのなる樹であるハシバミ。ハシバミの枝は魔除けに使われたそうだが、中世では、財産譲渡の印に枝を渡すという法律があったそうで、借用書のような役目をしていたのだそうだ。グリム童話の「灰かぶり姫」では、灰かぶり姫が父親の旅の土産に木の枝をお願いし、お土産のハシバミの枝を母の墓に植え、その木にやってきた小鳥に靴やドレスを運んでもらって舞踏会に行くことができたというくだりがあるという。
そのハシバミの枝は、水脈や地下資源を発見するのに使われたそう。つまりダウジングだね。水脈や地下資源が発見できれば富につながるわけだから、ハシバミは富の象徴だったのだそうだ。

”魔女”については、そのイメージも定着しているとおもうけれども、”賢い女”という存在は初めて知った。
ドイツでは、薬草による民間療法が盛んだったらしく、中世の修道院には必ず薬草園があったそうだ。だが、キリスト教の反するような作用をもたらす薬も必要とされたわけで、一般市民の間で、そんな薬草を司っていたのが”賢い女”と呼ばれる女性たちだったという。薬草専門の薬剤師といったところ。
この”賢い女”が、結果的に”魔女”として迫害された時代もあったという。
民間に薬草の利用が広まっていたことは、”クロイターテー”というものからも推察できる。
クロイターテーとは、ドイツ語でハーブティーのことだそうだ。ドイツのお宅にお邪魔すると、「コーヒー?紅茶?それともクロイターテーにする?」みたいに聞かれるほど、クロイターテーは一般的なものらしい。それも、たくさん種類があるらしく、整腸茶・風邪予防茶・鎮静茶・催眠茶・降血圧茶などが揃っているらしい。
そうして今でも、薬草は生活の中に入り込んでいるというわけだ。
日本では、漢方薬が身近なものだけれど、ドイツにこんな伝統があるというのは知らなかった。

梅雨の季節、身近な植物といえばアジサイ。
このアジサイにも毒があるわけだが、私はほんの数年前までそれを知らなかった。
ちなみに、このクール放送中のアニメ『さんかれあ』では、ゾンビ化した少女が出てくるが、このゾンビ化する薬にはアジサイが含まれている。
身近なものに毒があるということを、実はあまり知らないことが多い。そういった教育を受けていないといえばそれまでなのだが、本来、身近なものであればこそ、危機管理として知っていなければならない知識なのだと思う。
おかしなことに利用されてはたまらないのだけど。
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2012年06月09日

白い涙

前回の記事で、少々触れたのですが、我が埼玉県は、実は牛乳消費量が全国一。
一方、牛乳生産量1位は、当然北海道で、全体の約半分の牛乳が北海道で生産されている。その後、岩手県、栃木県、熊本県、群馬県と続く。
一方、消費量の順位は、埼玉県の後、奈良県・長野県・岩手県・神奈川県と続く。意外と、たくさん生産されている場所でなら消費も多いとはならないものだ。一世帯あたりで出しているデータなので、人口数の違いは考慮されている。
今回のデータは、都道府県別統計とランキングで見る県民性 [とどラン] を使わせていただいている。こちらのサイトでの考察によれば、いわゆるベットタウンで消費量が多い傾向にあるのではないかということだが、それはなぜかというところまではわかっていないよう。

大好きな寄藤文平さんが、チーム・ミルク ジャパンとタッグを組んで作った『ミルク世紀 ミルクによる ミルクのための ミルクの本』というのを読んだ。いつものことながら、図書館の中をふらふら歩いて見つけたものだ。
日本での牛乳の消費量は急激に減る傾向にあり、危機感を持った酪農家たちがプロジェクトを立ち上げたということらしく、この本はそんなプロジェクトの一環として作られたようだ。今の時代、飲み物の種類は多種多様。何かを飲もうと思った時に牛乳を選ぶってことは確かに減っているように思う。大体、牛乳は飲み物なのか?飲み物ではあるのだけれど、お茶やジュースとは一線を画しているような微妙な存在だな。
偶然なのだが、6月は「牛乳月間」なんだそう。そして、6月1日は「牛乳の日」。ちなみに、国際的にもこの日は「World Milk Day」なんだそうだ。今月は、牛乳関連のイベントが全国各地で目白押しみたい。
前回記事に関連して、埼玉県の牛乳消費量が日本一であることを知り、そういえば図書館から牛乳の本を借りていたなと思い、記事を書き始めた。書き始めてから調べてみると、6月は牛乳月間……なんだ、この偶然。私は誰かにこの記事を書かされているのか?(笑)

寄藤文平さんは、最初に、個人的な思い出を語っている。
小学生時代、給食の時間に、パンを牛乳に浸して食べていて、ノドに張り付いたパンくずで咳き込みそうになり、口を抑えた結果、
眼から出た。

と。
白い涙を流したのは、後にも先にもその時だけだそうだ。
♪チャラリー、眼から牛乳♪
鼻からでさえないのかよ。

私は幼少の頃、牛乳が嫌いなコであった。私が好んで飲んでいた飲み物は、コーヒー牛乳。ときどきはフルーツ牛乳だったりもしたけど。ストレートで牛乳を飲めなかったのだが、混ざったものは好きだった。
学校にあがると、給食ではほぼ毎日牛乳を飲むことになる。給食の牛乳については、さほど思い出がない。三角錐のテトラパックを懐かしく思う程度。しかし、冷静に考えてみると、いつの間に牛乳が飲めるようになったんだろうか。小学校に入学して給食が始まった頃には、普通に飲めていた。幼児のときには飲めなかったのに?おかしいな。今では、牛乳大好き(笑)

牛乳はうちの食生活に欠かせないものになっている。週に2、3本は1リットルパックを消費していると思う。
まず、コーヒーや紅茶やココアに入れて飲む。お料理にもよく使う。クリームシチュー系はもちろん、ホワイトソースもよく作るし。マヨネーズを牛乳で伸ばして使うこともある。ハンバーグの時には、パン粉を浸して使う。カレーうどんにも牛乳を入れる。お菓子は滅多に作らないけど、ホットケーキには使うし。もちろん、そのまま飲むこともある。シリアルを食べるときにはじゃぶじゃぶかける。
上記のランキングのデータによると、埼玉県で消費される牛乳の量は、1世帯あたり年間で約106リットル。1週間に1リットルの牛乳パックを2本消費する計算になる。ちなみに、最下位の高知県は約65リットル。週に1本と4分の1の消費量。

さて、『ミルク世紀 ミルクによる ミルクのための ミルクの本』では、牛乳をテーマに様々なことが描かれている。
お乳は血。

この本には、なんど”おっぱい図鑑”なるコーナーがあるのだが、残念ながら、いやらしいものではないです(笑)いろんな哺乳類のお乳の数や形を教えてくれる図鑑。Amazonでは、コレを動画で見せてくれている。哺乳類は、私たち人間も含めて、みんなお母さんのおっぱいを飲んで大きくなっていくわけだ。それだけ栄養価が高いという話だね。
紀元前3000年の昔、メソポタミアの壁画には、すでに牛乳を絞っている姿が描かれているのだそうで。

牛乳の成分は87.4%が水。残りの12.6%に様々な栄養素が詰まっていることになる。コップ1杯に、ハム2枚分のタンパク質、ごはん茶碗1/5杯分の炭水化物、サンマ1/3匹分の脂質、マンゴー半分のビタミンA、焼き海苔4枚分のビタミンB2、ししゃも2と1/2匹分のリン、しいたけ10コ分のカリウム、小松菜2と1/2株分のカルシウム。例えが少々わかりにくい部分もあるが、とにかくコップ1杯にこれだけの栄養素が含まれているということだ。

この本の中では、都道府県別の生産量は、北海道がダントツのトップなのは変わりないが、栃木県、群馬県=千葉県、熊本県の順になっている。
牛のエサである牧草を育てるには広大な土地が必要で、北海道は条件的に一番酪農に適している土地と言えるのだろう。
日本で牛乳が広く飲まれるようになったのは、1960年代頃からだったという。第二次世界大戦後、貧しかった日本で、栄養源として注目されたのが、牛乳や乳製品だった。それまで農地として使われてこなかった山地や荒地を開拓し、酪農が国家的プロジェクトとして推進されたという。
牛乳を生み出しているのは、生命のサイクルなのです。

子牛が成長して子を産み、乳を出して育てる。その子牛が成長して子を産み、乳を出して育てる。その繰り返し。無の状態から牛乳を飲むためには、2年以上かかるのだそうで。
製品として、パックや瓶に入った牛乳を目にしているだけだと、まるで工場で生産されたもののように感じてしまうわけだけど、(もちろん加工はしているけど)生き物が生み出しているものだということを忘れてはいけないのだね。
バターやチーズが品薄になって、価格が高騰するというようなことが時々起こるけれど、牛という生き物から生まれてくる牛乳が、工場のように生産量の調整ができるわけもなく、どこかで不均衡が生まれると、どうしてもひずみが出てしまうということなんだろう。猛暑が牛の体調に影響して生産量が減ることもあるし、逆に余ったとしてもそうそう取っておけるものでもないし。受給バランスを”保つ”ことが重要な飲み物なのだということがわかる。
なので、急激に消費が落ち込んだりすると、死活問題になりかねないのだ。

真面目な話はこれくらいにして。
この本では、牛乳を使ったレシピなども紹介されているが、一番楽しいのは牛乳に様々なものを混ぜて飲んでみる「ミルク ラボ」のコーナー。
腐ったココアのように分離し、鼻を切り裂く刺激臭、そして腐った魚の後味というバルサミコミルク。熱帯の生ゴミ大量腐敗味で”生ける者の飲み物にあらず”と称されたわさびミルク。100%ワキガ臭のクミンミルク。これらの凶悪な組み合わせは、絶対飲みたくないと思う一方、心のどこかでチャレンジしたいような気もして……いや、危険、危険。
もちろん成功例もあって、カルダモンミルクやジンジャーエールミルクは、美味しいとのこと。

こういった牛乳をとりまく様々な話題を、ミルククラウンを被ったキャラクターや謎の宇宙人など、寄藤文平さんのかわいらしいイラストで紹介してくれている。
その中でも一番印象的だったのは、「こぼしたミルクは臭い」ということ。
なので、こぼしたミルクはしっかり拭きましょう。spilt milk……”覆水盆に返らず”か。なんか違うけど(笑)
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2012年05月14日

そんなに単純な話じゃない

リチャード・ワイズマン『超常現象の科学 なぜ人は幽霊が見えるのか』を読んでみた。
結論から言うと、とりたてて目新しいようなことはほとんどなかった。内容的には、ちょっと残念。
ただ、英国人らしい語り口で、お茶目なユーモアを挟みながらだったので、読み物としては楽しい本だった。
ちなみに、リチャード・ワイズマンさんのHPはコチラ

まず、第1章から力を入れて語られているのが、占い師がよく使うコールドリーディングについて。
占い師の巧みな言葉に乗せられてしまうのは、自己中心的な片寄り”レイクウォビゴン効果”が働いて、褒めそやされることを肯定してしまうからだ、とか。
何かについて強い確信を持つ人が、どちらともとれる情報を目にしたときには、自分が見たいと思う方を選んで見るという”ダートマス・インディアンズ対プリンストン・タイガース効果”が働くからだ、とか。
前後の辻褄が合うと、無意識の内に意味のない形に意味を見出そうとするという。意味の無いものが意味のあるものへと変わる”フォックス博士効果”が働く、とか。
自分は、占いは信じない方なので、どうでもいいんだが。ひとつ素朴な疑問が。
中学1年生の頃、遊びでタロットカード占いをやっていた。何人かのクラスメートを占い、「あまりに当たって気持ち悪い」と言われ、カード自体が気味悪くなってカードを燃やした経験がある。何をどう伝えたのかは覚えてないんだが、占い師のテクニックなど知る由もなく、誰にでも当てはまるようなことだけ言ってたのなら、「気持ち悪い」とまでは言われなかっただろう。
例えば、顔の相から性格や病気の有無などを読み取ろうと思えば、なにかしら傾向性がありそうな気もする。占いと呼ばれているものは多岐にわたるので、完全にすべてを否定するのもどうかと思うのだが。

さて、この本の中では、いくつものテストをされるのだけれども、二つのテストが特に印象深い。
まず1問目。
5cm四方程度の四角形が示され、これは大きな砂場を上から見た図だとして、誰かが埋めた宝物を掘り返すとしたら、どこを掘り返すかという質問。
2問目。
頭の中で幾何学図形を別の幾何学図形の中に入れ込んでくださいという質問。
あなたならどうする?
結果については後ほど。

では、後はトピック的に3つほど。
まず、幽体離脱との関連で、例の魂の重さの話が出てきた。21gってやつね。
人は死ぬと、21gだけ体重が減り、それが魂の重さなのではないかという話だ。
種を明かせば、人が死ぬ瞬間には肺が血液を冷やせなくなるために体温が急激に上昇し、発汗によって体重減少が起きるということらしい。その証拠に、汗腺のない犬は、死後も体重減少がないという。
なるほど科学的な説明ではあるのだけれども、なんともロマンのない話だな。

もうひとつ。
V.S.ラマチャンドランの著書『脳のなかの幽霊』は、続編も含めて読んだことがあるけれど、その中の幻肢の話が出てきた。幻肢とは、失った手足に痛みを感じたりすることだ。ラマチャンドランは、それは脳の情報が混乱しているせいだとして、鏡を使ったりしながら視覚認識を変えることで、脳の中の情報の混乱を正す方法をいくつか考案しているのだけれど、ここでは、同様の実験を紹介していた。
テーブルの上にちょっとした衝立になるものを用意し自分の腕を衝立の向こう側の自分からは見えない位置に置く。衝立の手前側には、自分の腕に見立てたゴム手袋を置く。向かい側から、誰かにゴム手袋と自分の手との両方の同じ部分を触ってもらう。すると、あたかもゴム手袋の方が自分の腕のような感覚に陥るというもの。著者自身が行なったこの実験では、単なる錯覚にとどまらず、本物の手の温度を0.5度も下げたという。
この実験で著者は何が言いたいかというと、「自分」がどこに存在しているかという現在地は、確固たるものがあるわけでなく、自らの知覚によって変化してしまうということ。
つまり、幽体離脱と呼ばれる現象は、自分の意識が体から離れてしまうと感じるわけだから、そういった脳の錯覚が起きているのではないかという話だ。
ここには詳しく記さないけれども、この本では、「誰にでもできる体外離脱」という幽体離脱体験の方法や、明晰夢を見るための「思い通りに夢を見る方法」についても書かれているので、興味のある方は試してみるのもおもしろいかも。私はイヤです(笑)
私は、初めて見た明晰夢で、幽体離脱しかかった。夢の中で、何かが自分の中から出ていこうとした時に、頭頂部が突っ張るような感覚がして「ヤバイ」と思い、そこで中断してしまったんだが、あのまま続けていたら、空を飛んだりとかできたんだろうか。

もいっちょ。
この本では、一番最初にロールシャッハ・テストのような図を見せられる。見ようによっては、様々なものに受け取れる図形だった。
その意味が巻末に書かれているのだけれども、パターンを見つけるのが得意な人は、いわゆる超常現象を体験する割合が高いというのだ。パターンを見つけることは、まったく無関係なものの間に関連性を見出すとも言えるらしい。因果関係があろうがなかろうが、架空のパターンまでも想像してしまうということらしい。
なるほど。言われてみれば、私にはその傾向は強い。無関係な事同士をつなげて考えるのは大好きだしな。ただ、目と口との3点が揃えば人の顔に見える!とかは思わないぞ。

ではここで、先ほどの二つの質問についての回答編。
まずは、私の場合。
1問目。瞬時に四隅や真ん中と答える人が多いだろうと考えてしまい、中途半端な所を掘ろうと考えた。
2問目。これも1問目同様の心理が瞬時に働いてしまい、一筆書きの星型の中央に四角形を入れてみた。
1問目は、ほとんどの人が対角線上を掘ろうと考えるらしい。答えの分布を見ると、「×」状になっている。
2問目では、大半の人が、三角形の中に丸を入れるか、逆に丸の中に三角形を入れるかだったそうだ。
私は構えてしまったから、あえてひねくれた答えを出そうと意識してしまったのかも。
レイクウォビゴン効果と似ているが、人は、自分は特別な存在だと考える傾向があるという。だが、そう思いたくても、実際にはみな驚くほど似ているというのが著者の結論。
占い師は、客自信しか知らないような個人的なことを口にし、占いが当たったように見せかけることが多いが、そのことに当てはまる人は大勢いるのにということが言いたいらしい。
本当にそうなのかな。みなさんの答えはいかがでした?

超常現象について、科学的な説明を求めて、こういった本を見つける度に読んでみるのだけれども、自分が体験してきたようなことをすっきりと説明してくれるものにはまだ出会っていない。
例えば、この本では予知夢についても科学的に説明をしてくれているのだけれども、自分が見ているような、断片的ではない夢で、しかも夢と現実とではちょっとずつ違うようなパターンを説明してくれるようなものはなかった。
幽霊話にしたって、話が古すぎるし、少なすぎる。今更テーブルの降霊術の話をされてもね。
最後に著者は、虚構の世界に魅力を感じることなどせずに、現実の世界に戻っておいで的なことを言っているのだが、なんかこう、そんな単純なことなのか?と。目に見えている世界だけが現実世界ではないと、私には思えるのだけれども。

ということで、おかしな現象に出会ったときには、脳が見せている錯覚だと思い込むことにしているのだけれども、同時に複数が別の形で経験することなどは、これだと説明がつかないんだよな。誰か、早く明確に説明してください!
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2012年05月03日

持つものと持たざるもの

ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』を読んでみた。
最近、文庫化されたようで、文庫の人気ランキングで知った本なのだが、1997年に書かれ、1998年にピュリッツァー賞の一般ノンフィクション部門を獲ったものらしい。私は図書館で2000年に翻訳されたものを借りて読んだ。著者は、生理学・進化生物学・生物地理学などを研究し、鳥類生態学の研究でも知られる人物とのこと。歴史学や文化人類学や考古学方面の人ではないのだね。
結論からいうと、長いばかりでオススメはできない。自分の考察をまとめないまま本にしてしまったような感じ。ヒマつぶしにというのなら、格好のヒマつぶしとなる本。

1972年7月、ニューギニアで生物学者として鳥類の進化について研究をしていた著者に、ニューギニア人で政治家であったヤリという名の友人が発した素朴な問いかけが発端だったという。
「あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはなぜだろうか?」

それから25年後、このヤリの疑問に対して、著者なりに答えを書いてみようとしたのがこの本であるとのこと。
現代世界の不均衡を生み出したものは何か。
非常に端的な答えは、すでにプロローグに以下のように書かれている。
「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」

結論はこれで終わり。

しかし、それだけではおもしろくないので、もう少し書いてみよう。
最初に出てくるのは、スペインに征服されたインカ帝国の話だ。インカ帝国は、なぜにスペインに征服されてしまったのか。
ピサロを成功に導いた直接の原因は、銃器・鉄製の武器、そして騎馬などにもとづく軍事技術、ユーラシアの風土病・伝染病に対する免疫、ヨーロッパの航海技術、ヨーロッパ国家の集権的な政治機構、そして文字をもっていたことである。

では、なぜ征服する側がヨーロッパの国であり、インカでなかったのか。
本書のテーマはこういうことです。つまり、ヨーロッパの国が持っていた様々な技術などを、なぜにインカが持っていなかったのか。持つものと持たざるものがなぜに生まれたか。

それをひもとくために、人類の歴史を遡るわけです。古代の地球を俯瞰するように。
まず、大きな最初のとっかかりは食料の問題。食料をどうやって得るかということ。
食料生産を独自にはじめた地域というのは、世界にほんの数カ所しかない。現時点の研究では、南西アジアの肥沃三日月地帯、中国、中米、南米アンデス地帯、合衆国東部の5つの地域だという。そして、それらの地域においても、同じ時代に食料生産がはじまったわけではないらしい。例えば、合衆国東部は、肥沃三日月地帯よりも6千年ほど遅い。
上記の地域では、栽培化するのに適した植物に恵まれていたようなのだが、逆に環境的には非常に適しているのに、先史時代に農耕を発展させたり実践したりすることがなかった地域も複数あったのだそうだ。
ちなみに、日本は、海山物や土着の植物が豊富であったため、狩猟採集生活の生産性が非常に高かったということで、食料生産するに至るまでに時間がかかっているらしい。
栽培する土地に恵まれなかったり、狩猟採集生活の方が豊かだったりすると、食料生産し定住する生活には移行しないこともあるということだ。

一般的に考えられているよりも、狩猟採集生活から食料生産生活への移行は単純ではないようなのだけれども、それを言い出すとキリがないので、バッサリ切って。
狩猟採集生活から食料生産生活へと移行させた原因は何か。
第一に、この1万3千年の間に、入手可能な自然資源(とくに動物資源)が徐々に減少し、狩猟採集生活に必要な動植物の確保が難しくなってしまった。取りすぎたわけですね。
第二に、獲物となる野生生物がいなくなったその時期に、栽培可能な野生種が増えたことで短時間の栽培で大きな収穫が得られるようになり、作物の栽培が狩猟採集より魅力のあるものになった。ちなみに、肥沃三日月地帯では、大麦・小麦などの農作物が栽培されるようになったのが、紀元前8500年頃。
第三に、食料生産に必要な技術、刈り入れ・加工・貯蔵などの技術が発達した。
第四に、人口密度の増加と食糧生産の増加との関係。自己触媒というのだそうだけど、結果そのものが過程の促進をさらに早める作用が働き、人が増えれば食料生産が増え、食料生産が増えれば人が増えるという関係になっていったそうだ。
土地あたりの産出カロリーが増えると、より多くの人口を養うことが可能になり、人口密度の増加につながる。定住した人々が食料を作り出すとより多くの子供が生まれ、より多くの食料が必要になる。そういうことらしい。
関係ないけど、以前に明治時代の日本で、人口が一番多かったのは新潟県ということを知り、どうしてなのかよくわからなかったのだけれど、やはり米どころということで、米の生産量と人口とがこの自己触媒という形になっていたのではと想像してみる。

話を戻して、
そうして人口が増えた食糧生産者は、狩猟採集民より数の上で圧倒的に多かったため、それを武器に狩猟採集民を追い払ったり殺したりすることができた。そうなると、狩猟採集民は追い出されるか、食料生産者に迎合するしかない。
食料ひとつに焦点をあてると、こんな具合だ。

ところが、食料生産がもたらすものは、これだけでは終わらない。
食料を生産し、定住する生活の中で重要なことは、家畜を飼うということらしい。家畜は、食料や衣服の原料となるだけでなく、どうやら重要な隠れた役割を果たしていたようだ。家畜と暮らす人々は、様々な病原菌に対して、免疫力をつけたという。
そうやって家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌を、ヨーロッパ人は、とんでもない贈り物として、進出地域の先住民に渡したというわけだ。
近年でも思い当たる節はある。新手のインフルエンザは、中国などで豚や鶏と密接に関わって暮らしている村から生まれている。家畜と暮らすというのは、そういう側面も持っているということだ。

そんなことが、延々と繰り返し書かれている本である。
なので、一気に結論までいってしまおう。
現代世界の不均衡を生み出したものは何か。
まず、栽培化や家畜化の候補となりうる動植物種の分布状況が大陸によって異なっていた。
馬は家畜化できても気性の荒いシマウマは無理というようなこともある。
上記のように、食料生産がはじまると余剰作物の蓄積ができる。そして、非生産者階級の専門職を養うゆとりができ、大規模集団の形成が可能になる。そうなれば、技術面・政治面・軍事面での有利となる。やはり、食料生産ができるか否かは大きな問題らしい。
様々な物資や技術の伝播や拡散の速度が、大陸ごとに大きく違っているということ。ちなみに、伝播が速かったのはユーラシア大陸。東西方向に伸びる陸塊で、生態環境や地形上の障壁が他大陸よりも比較的少なかったからだ。南北の気候の差が少ないわけだから、植物も育てる環境があまり変わらないということだし、家畜も適応しやすいはずだ。気候による影響というのは意外と大きい。途中に大きな山脈があるとか、砂漠に遮られているとか、そんなことも伝播を妨げるわけだ。もちろん、海もね。というわけで、異なる大陸間での伝播の容易さは一様でない。
それから、それぞれの大陸の大きさや総人口の違いということがある。発明する人間の人数、競合する社会の数、利用可能な技術の種類、こんなことは、分母の人数が多ければ多いほど増えるわけだ。その上重要なのは、技術の受け入れをうながす社会的圧力。新しい技術を取り入れなければ競合に負けることになるから、変化を受け入れ易い性質を持っている方が有利だということになる。

近代から現代あたりを見てみると、肥沃三日月地帯はかつての価値観からすると没落してしまった。肥沃な土地の大部分は乾燥し、乾燥地や砂漠になって失われている。それに変わってヨーロッパが台頭している。
一方、中国はというと、今でこそ盛り返しているように見えてきたが、この本が書かれた時代はまださほどではなかったかも。中国が今ひとつ隆盛しないのは、政治的に統一されていたがゆえに、意思決定が単純化されてしまい、意思決定の検証機能を失ったからと書かれている。
ヨーロッパの台頭は、統一されていないからこそというわけだ。いろんな意見があり、それがときに突出したりすることで、前に進んでいくというような捉え方。ヨーロッパが統一されていないことをこんな風に評価できるとは思わなかった。

著者自身も言っているけれど、消化不良な部分は少なくない。
タイトルに書かれているほど、銃や病原菌や鉄について書かれている部分もなかった。象徴的なものとして選んだ単語だったのだろうけれども。
それなりに興味深い内容ではあったけれど、同じところをぐるぐる回っているような印象だった。

それから、一箇所、大いに疑問を持つ記述があった。
日本人が、効率のよいアルファベットやカナ文字でなく、書くのがたいへんな漢字を優先して使うのも、漢字の社会的ステータスが高いからである。

庶民が漢字を知らない昔なら、”漢字はステータス”という考えもあったのかもしれないが、今の時代、こんな考え方は主流ではないと思うが。漢字の方が効率がよいから使っているわけだよね。
こんな風に、著者が思い込んで書いている部分も他にもあるのかもしれないななんて思ったので、話を半分に聞いておくくらいでちょうどいいのかも。

大雨のゴールデンウィークとなり、連休前半は、この本を読んで終わってしまったなという感じで。後半は、もう少しアクティブに楽しみたいものです。
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2012年03月10日

言葉の海を渡る舟

「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」

三浦しをん『舟を編む』を読んで、最初に感動した一文。
この一文を読んだときに、どういうわけだか感動してしまい、涙してしまった。

とある出版社での、辞書編纂の過程のドラマを描いた物語。
主にスポットが当たるのは、”まじめ”さん。”馬締”と書く。
別の部署にいたのを、辞書編纂には欠かせない特性を持つ人物と見抜かれて、引き抜かれてくるのだが、そこから彼を中心に描かれていく。言葉というものについて徹底的に掘り下げる、まさに辞書を作るために生まれてきたような男。
しかし、この”まじめ”さん、性格的に私と似ているところが多い。私は真面目じゃないけれど。まじめさんを取り巻く人たちが、まじめさんを評するのを聞いていると、まるで自分のことを言われているようで、なんとも居心地が悪い。

”まじめ”さんだけでなく、周囲の人間ひとりひとりも丁寧に描かれている。
当初、辞書編集部にいた営業担当の西岡のエピソードも心に刺さる。
軽薄なノリで口八丁な西岡は、途中まで辞書編纂に関わりながらも、宣伝広告部に異動となってしまう。ひとつのことに情熱を注ぐことのできる馬締にどこか嫉妬を覚えながら悶々とするのだけれども、あることをきっかけにスッキリと気持ちを整理し、決意する。
俺は名よりも実を取ろう、と。
(中略)
名前など残らなくていい。編集部に在籍した痕跡すら消え去って、「西岡さん? そういえば、そんなひともいましたっけ」と馬締に言われるとしてもかまわない。
大切なのは、いい辞書ができあがることだ。すべてをかけて辞書を作ろうとするひとたちを、会社の同僚として、渾身の力でサポートできるかどうかだ。

こういうことは、なかなかできることじゃない。だけど、名よりも実を取れたら、それは理想的なことだな、と。私は、人知れず何かに貢献できたら、その方が楽しいタチで(笑)

子供の頃から辞書・辞典が友達だった私。親に言わせると、ひとりで辞書を読んではケラケラと笑っているような子供だったらしい。かといって、読んだ項目をひとつひとつ憶えているということではないのだけれど、とにかく辞書は読んでいて楽しいもので、私にとってはある種のエンターテインメントだった。
うちにあったもので一番分厚かった辞書は、三省堂の『広辞林』。中型辞書といえば、岩波書店の『広辞苑』が一般的だけれども、うちにあるのは”苑”じゃなくて”林”だわと子供ながらに不思議だった。たしか父が、勤続何周年かの表彰でご褒美にいただいたものだったと思う。これをよく読んでいた。ある年には、夏休みの自由研究に、この『広辞林』を使って難読漢字などを集めた記憶もある。
調べてみると、『広辞苑』よりも、『広辞林』の方が先行していたものらしい。『舟を編む』を読むとなんとなくわかるのだけれども、時代の流れによって、必要とされる辞書も移り変わっていくということなのだと思う。

今も、家でいつも座っているリビングのテーブルの上には、国語辞典と漢和辞典が置いてあって、1日1回はオーバーかもしれないが、何かといえば引いている。

たくさんの言葉を、可能なかぎり正確に集めることは、歪みの少ない鏡を手に入れることだ。歪みが少なければ少ないほど、そこに心を映して相手に差し出したとき、気持ちや考えが深くはっきりと伝わる。一緒に鏡を覗き込んで、笑ったり泣いたり怒ったりできる。


語彙というものについては、知っているものが多ければ多いほどよいように思っても、相手がその言葉を知らなければ、言いたいことは伝わらないわけで。
でもその言葉でないと伝わらないニュアンスというものもあったりして、歪みの少ない鏡を共有することは理想なのだけれども、現実問題は厳しいのかもしれない。
今は、重たい辞書など持ち歩かなくても、どんなことでもその場で調べられるツールが発達しているのだから、もっとこの”歪みの少ない鏡”が普及していてもよいようなものなのだけれども、「いつでも調べられる」という状況は、かえってその普及を邪魔しているのかもしれない。

さて、最後にもうひとつ。
日本語の辞書というのは、直接国が編纂したものがないということを、この本を読んで初めて知った。
日本語は、日本固有の言語だというのに、国で作った辞書がないというのは不思議なことだけれども、権力の意向や検閲がない状態で自由に辞書が作れたということは、結果的にはよいことだったのかもしれない。
時代によって、言葉の使い方が変化したり、死語になってしまったりするものもあるし、もちろん、新しい言葉はどんどん増えていくわけで、辞書は終わりなき改訂を繰り返していくわけですね。

『舟を編む』は、近年稀にみる、感動で泣く本だった。5回くらい泣いたと思う。
それも悲しい涙でなく、感動の涙だった。何がそんなにツボったのか、外で読まなくてよかった(笑)
つまりは、力をあわせて何かを作り上げるということの、”すばらしさ”と表現してしまうととても陳腐なのだけれど。その過程で、関わる人たちが迷い悩み、それでも前に進んで目的を成し遂げるというカタルシスなのかな。
そんなプロジェクトについぞ関わったことのない私からすると、お話とはいえ、とても羨ましいように思えて仕方ないのだった。ちゃんちゃん。
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2012年02月01日

今日は風が騒がしいな

ショーン・タン『遠い町から来た話』を読んだ。
ショーン・タンの『アライバル』は、昨年、大人が読んでも楽しい絵本という記事で紹介した。『アライバル』は活字のない絵本だったが、『遠い町から来た話』は絵と文章とで綴られた本。この絵の部分だが、単なる挿絵というのとは違い、文章で書かれた物語のオチが絵で描かれていたりしている。
15の短いお話が載っているが、ひとつひとつがゆっくり噛み締めたいようなお話で、ひとつ読んでは余韻に浸りたくて、そして次を読むのがもったいなくて本を閉じるということを繰り返し、すぐに読めてしまう内容なのに、じっくりじっくり時間をかけて楽しんだ。
話の核心には触れないように注意しつつ、ご紹介。

特に印象に残った話は3つ。
じわっと涙が出るほど感動してしまったのは、「エリック」。
エリックは、異次元からホームステイでやってきた小さな留学生。名前が難しくて、誰も発音できないからと付けられた愛称が”エリック”。彼が気に入った居場所は、台所の戸棚の中。受け入れたホスト・ファミリーは、エリックに異国のなんやかやを経験させようと連れまわしてみたりする。映画館の椅子で、自分の頭ほどのポップコーンを頬張っている小さなエリックがキュート。どこかに出かければ、落ちている小さなゴミに興味を持って持ち帰った。瓶の王冠とか、キャンディの包み紙、ボタンなど。
ホスト・ファミリーは、そんなエリックがちゃんと楽しんでくれているのか心配していた。
そのエリックが、ある日突然「ごきげんよう」と帰って行ってしまう。
自分が暮らしていた戸棚の中に、すばらしいプレゼントを残して……
何度読んでも、紙面いっぱいに描かれたこのプレゼントに感動して泣いてしまう。

興味深い話だったのが、「壊れたおもちゃ」。この本の表紙は、このお話のものだ。
フジツボだらけのクラシカルな潜水服を来た人が出てくる。その人は、ニホンゴを話した……
お話はさておき、ショーン・タンはオーストラリアの人。父は中国系マレーシア人、母はアイルランド・イギリス系移民3世だそうだ。
訳者のあとがきで、オーストラリアで19世紀の真珠産業を支えたのは日本人潜水夫だったという事実を知った。調べてみると、農業移民に先駆けて、この真珠貝採取のための2、3年の短期契約移民がいたのだそうだ。ニューギニアとの間にある島、木曜島がその中心地で、主に和歌山県からの移民だったらしい。
真珠採取のためと言われているが、その実は高瀬貝、白蝶貝、黒蝶貝などを装飾の素材として獲るのが主だったらしく、それらはほぼボタンに使われたとのこと。
日本人潜水夫は働きに働いて、潜水病などで700人もの死者が出たという。
この日本人潜水夫たちについて、司馬遼太郎『木曜島の夜会』という作品を書いているというのを知ったので、近々読んでみようと思う。
それにしても、日本人の自分が知らない日本人の歴史を、他の国の人に教えてもらうというのは不思議なものだ。

もうひとつ、「遠くに降る雨」。
この本を最初に書店で手にしたとき、パラパラとめくる中でこのお話が目に止まり、これは読まなくてはいけないと早速図書館に予約したという経緯がある。「なぜ買わない?」というツッコミは勘弁してください(笑)
このお話は、私にとってはラストはどうでもよくて、導入部分がとても気に入った作品。
詩の一部が書かれた紙片がたくさん集まって構成されている。ビリビリに破かれた紙片に書いてある単語を切り張りして作ってあるような。
人々が書いた詩は、ほとんど人の目に触れることなく、捨てられたり、隠されたりしているものだ、と。中には、タンスの平行を取るために折りたたまれて噛ませてあったり。限りなく人の目に触れる可能性を少なくしたカタチで、それでありながらどこかで誰かが読んでくれたらという希望も捨ててはいない。たいしたことが書けるわけでもないという謙遜や、単純に恥ずかしいという思い、伝えたいけど直接は伝えられない思いだったり。
ブログで文章を晒している以上、そういった気持ちは痛いほどわかる。
でも、そんななんでもないような言葉にこそ、力があることを思い知らされるようなお話。
余談だけれど、図書館で本を借りていると、たまに誰かが栞代わりに挟んだ紙片と出くわすことがある。レシートだったり、ちょっとしたメモだったりするのだけれども、それを自分が処分する気にはなれず、いつもそっと本に挟んだまま図書館に返却してしまう。
それはさほど意味を持たない紙くずであるはずなのだけれど、紙片を挟んだ借主の生活や思いがなんとなく伝わってきて、どうにも処分する気になれないのだ。そのまま、本と共に旅をお続けなさい。そう思って、紙片を送り出すような気分になる。

装丁が凝っている本で、最後の1ページには裏の見返しが模してあり、「遠い町公立図書館」の貸し出しカードが張ってある。そこには、本を書くにあたっての協力者リストが書かれているのだけれども、名前と日付が羅列してあって、まさしく図書の貸し出し記録のよう。
英文だから自分が使っていたものとは趣がだいぶ違うけれども、これが妙に懐かしい。
小学校の図書室から借りていた本を思い出す。お気に入りの本には、図書カードに自分の名前がずらずらと並んでいたものだ。

さて、話は少々変わる。
先日、とある番組で東洋と西洋のものごとの捉え方の違いというようなものをやっていた。韓国のテレビ番組を紹介したもので、ここでいう東洋とは韓国・中国・日本、西洋とはアメリカ・イギリスあたりを言っているらしい。
例えば、風船が浮かんでいて、それが急に飛び去ったとする。それはどうしてだったかと問うと、西洋人は「風船の中の空気が漏れてその勢いで飛んでいった」と答え、東洋人は「風が吹いて飛ばされていった」と答えるという。
どういうことかというと、西洋人はものそれ自体のことを考え、東洋人は周囲との関連性を考えるという傾向があるらしい。
自分でも「風船は風で飛ばされた」と自然に考えたけれども、それは自分にすでに東洋人としての考えが根付いているということで、意識せずともそのような考えに至ることを客観的に考えたときに、刷り込まれてきたことの大きさを知ったわけだ。
この話を広げるとまとまらなくなりそうなので、畳むとして、ショーン・タンの作品を読んで、東洋的な匂いを感じ取ってきたわけなのだけれども、それはやはり親近感につながっていたと思う。逆に、西洋の作家さんの本を読んで、なんとなく違和感を感じるというか、自分のいる世界と違う世界での出来事という感じが付きまとうことも体験しているし、この感覚の違いというのは案外大きなものなのだというのを再認識した。
お話に出てくる生活スタイルは、どうみても西洋のそれなのだけれども、それでも東洋の雰囲気を感じるのだから、ショーン・タンの作品は多分に東洋的なのだと思う。東洋と西洋なんて、ずいぶんと乱暴なくくり方ではあるのだけれど。

今放送中のアニメ『男子高校生の日常』の中に、文学少女が出てきて、風について語るシーンがある。
YouTube 5:50あたりから「男子高校生と文学少女」(リンク切れの際はご容赦ください)
この面白さは、西洋の方には伝わりにくいのではないかと想像するのだが、実際はどうなんだろうか。
posted by nbm at 11:51| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月04日

輝け!nbm Awards 2011<書籍編>

少々遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、新年一発目は、nbm Awards 2011<書籍編>です。
昨年も、一昨年同様、さほど読書が進まず、全部で50冊くらいしか読めてないと思いますが、記事にしていない本もいくらかあります。一時期ほど刺激を回避しようという雰囲気はなくなってきましたが、ペースは上がりませんね。
図書館をうろついて目に付いた本を借りることがほとんどで、新刊はほぼ読まないか、予約の順番を待って大幅に遅れて読むことが多いです。ということで、2011年に刊行された本が対象というわけではなく、たまたま私が今年読んだ本が対象になっています。

<絵本賞>
『アライバル』 ショーン・タン(→大人が読んでも楽しい絵本
活字のない絵本。画力だけでストーリーを描くというのは、難しいことなのだと思うが、文字がない分、イメージの自由度は増すわけで、活字だけが描く世界と、絵だけの世界と、それぞれの想像世界があるものだなと新鮮に感じた1冊。
『どこ?』シリーズ 山形明美(→大人が読んでも楽しい絵本どこ?
造形作家・山形明美さんの作るジオラマの世界を舞台に、”さがしもの”をするという絵本。意外性のある仕掛けがあちこちに散りばめられていて、「そうきたか!」と楽しい驚きを体験できる。それがあまりに楽しかったので、シリーズ4作すべてに挑戦した。

<思考へのアプローチ賞>
『14歳のための物理学』 佐治晴夫(→物理のソナチネ
”14歳のみなさん”を対象として書かれているのかといえば、実は”かつて、14歳だったすべてのひとたちのために”も書かれている本。物理に苦手意識を持ったまま大きくなってしまった大人には、とても有り難い。自分とて、原子でできていて、物理の法則の中で日々暮らしているということを思い出させてくれる。
『差分 「差をとる」ことで新しい何かが生まれる』 佐藤雅彦・菅俊一・石川将也
(→だるまさんがころんだ
二つの図表を見て、その間の変化を読み取ること。つまり、画像の”行間を読む”ような感覚。これを真面目に考えてみようという試み。「まばたき」と「だるまさんがころんだ」を想起した私。日常何気なくしているはずのことを意識させられる不思議。
『秘密の動物誌』 ジョアン・フォンクベルタ/ペレ・フォルミゲーラ
(→「実在するもの」は、存在しうるものの小さな一部分にすぎない
今は亡きペーター・アーマイゼンハウフェン博士の未発表の研究資料を、偶然見つけた第三者がまとめて1冊の本にしたという体裁。UMA的な動物たちが図鑑のように列挙されていく。しかし、種を明かせば、これは真偽を見抜けるかという壮大な実験でもある。リアルを匂わせるファンタジーでありながら、現代人への強烈なアンチテーゼを含んでいる奥の深い本。

<文芸賞>
『虫の音楽家』 小泉八雲(→へるん先生に学ぶ
小泉八雲のエッセイの中の「虫の文学」と「海の文学」をまとめた1冊。やはり、八雲が客観的に観た当時の日本文化は鮮やかで、今私たち日本人が観ることのできない景色が様々描かれている。しかし日本人の精神はまだどこかしら受け継がれているもので、そういったことを教えてくれる。
『まさかジープで来るとは』 又吉直樹/せきしろ(→まさかエスプリで来るとは
お笑いコンビ、ピースの又吉直樹さんと、文筆家せきしろさんとの共著、自由律俳句集第2弾。一見よくある”あるあるネタ”のようだが、ルールがないことをやろうとするのはとても難しいことだと教えてくれる。負のエネルギーを感じる1冊。
『夜露死苦現代詩』 都築響一(→リアルな言葉を取り戻せ!
餓死した親子の日記から点取占いまで、様々なカタチで表現される現代の詩。詩というものを意識して作られたとは思えないものの、読んでみるとそれは紛れも無く詩で。リアルに世界を感じるためには、とても優れたツールになっている。

<ルポルタージュ賞>
『秘境に学ぶ幸せのかたち Mysterious World』 田淵俊彦(→此処ではない何処か
世界の秘境を訪ねるドキュメンタリーを担当してきたディレクターが、あらゆるものをそぎ落とし、厳しい環境の中で究極にシンプルな生活をする人々を通して、”ただ生きる”ことを思い切り肯定してくれる。複雑な事柄に囲まれてにっちもさっちもいかなくなった人には、ホッとできる1冊かも。
『珍世界紀行 ヨーロッパ編 ROADSIDE EUROPE』 都築響一(→脳内旅行再び
ウクライナのキメラ・ハウス、旧東ドイツの遺産である巨大建築廃墟プローラなど存在を知らなかった奇妙な建築物や、各種ビザールな博物館などを紹介してくれる。しかし、かなりグロい画像も多い本なので苦手な方はご注意を。人間の趣味・嗜好の幅広さを教えてくれる。
『住宅巡礼』 中村好文(→螺旋に導かれて
ル・コルビュジエのカップ・マルタンの休暇小屋に興味を覚えてたことをきっかけに、紹介していただいた1冊。様々な建築物に触れ、変容しながらもその根底には伝統が息づいている”様式美”のようなものを感じる。
ちなみに、ル・コルビュジエについては、『ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間』加藤道夫 著)(→あるもの・見るもの・見えるはずのないもの)という本も読んでみた。これはちょっと難解で哲学的な本であったけれど、建築図を”まだ存在しないもの”として捉えている見方が面白い。

<ビジュアル賞>
『RARE Portraits of America's Endangered Species』 ジョエル・サートレイ
(→カナリアが鳴いている
アメリカにおいて、絶滅危惧種とされる動植物を撮った写真集。とにかく動物たちの写真が美しい。そのひとことに尽きる。こんなに美しいものが失われてようとしているのだなと思うと、やはり単純に悲しい。そして、動物の絶滅が、人類の存続と無関係ではないということを意識させられる。
『世界で一番美しい元素図鑑』 セオドア・グレイ/ニック・マン 記事なし
元素コレクターであるセオドア・グレイが、元素そのものと、その元素からできているものを様々収集した集大成。これまで元素についての本はいろいろ観てきたが、表題通りにこれほどまで美しい写真で見せてくれるものはなかったと思う。eBayでコレクションを集める著者が、ニオブ超合金を含むロケットエンジンだと思って入手したものが、実は空軍基地から盗まれた最先端技術部品で、FBIに押収されてしまったとか、書かれているエピソードも面白い。
『ミョ〜な絶滅動物大百科』 川崎悟司 記事なし
なんじゃこりゃあ!な古生物が100連発。オールカラーでかわいいお姉ちゃんのイラストと大きさ比較されていたり、気のきいたコメントが付いていたりで、とにかく楽しい1冊。一家に一冊欲しいくらい。私が図書館から借りてきた本の中で、かつてないほどダンナさんが食いつき、気に入って読んでいた。『ミョーな深海生物大百科』もこの1月に発売されたらしい。著者のHP「古世界の住人」も膨大な古生物が載っていて飽きない。

<小説賞>
『ハーモニー』 伊藤計劃(→人類調和計画
この作家さんの本をもっとたくさん読みたいと思うようなことは、長い読書生活の中でも珍しいことなのだけれども、伊藤計劃とはそういう作家さんだった。しかし、もうこの世にはいらっしゃらない。非常に残念。完全調和を目指す世界と、その世界に違和感を感じる一部の人間。SFにはありがちな設定ながらも、どこか新しい魅力でいっぱいの作品だった。
『偉大なるしゅららぼん』 万城目学(→古の力宿る湖
『プリンセス・トヨトミ』(→阿呆みたいな、でも、とても幸せな物語)や、『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』(→いっしょにあくびを)とともに、万城目学作品を3作品も読んだ年だった。
『偉大なるしゅららぼん』は、琵琶湖畔が舞台。”湖の民”としてそれぞれ特殊な力を持つ二つの家系が対立してきた歴史の中で、突如として大事件が起こるという青春SF小説。突拍子も無いのが万城目作品の醍醐味だけれども、この『偉大なるしゅららぼん』は、突拍子も無い内容ながらも、すべてが調和していて完成度の高い作品になったと思う。これで、今までのところ、万城目作品の長編はすべて読んだ。ということは、かなり好きな作家さんだということだ。今年は<nbm大賞>に当たるものがないのだけれども、作家さんに賞を贈るとしたら、万城目学さんになるだろう。
『弟を地に埋めて』 ロバート・スウィンデルズ(→弟を大地に葬りし者、いずこにも
ローティーンの少年を主人公にして核戦争後の極限状況での生活を描いた作品。放射能で汚染された世界での生活というものに興味が沸いて読んだ1冊。当然、小説なのだから現実とは比べるべくもないのだけれども、それはそれとして、有事の際の人間の行動というのは、やはりそうなるだろうなと、SFでありつつも、現実にそうなったらというシミュレーションのようなつもりで読んでいた自分がいる。言動の何もかもが命に直結する世界。守ってくれるものは何もない。自分の身に置き換えて、その厳しさを知るのもいいかも。

ということで、いつものようにまとまりのないラインナップになりました。
今回は、抜きん出たものがないので、大賞はありません。
私は特に読書家というわけではありません。ただ、読書は、私にとって娯楽のひとつ。今も図書館から借りてきた本が5冊ほどあり、とっかえひっかえ読んでいます。それと、昨年末に発売された怪談雑誌『幽 16号』も入手し、ちびちびと日本酒を飲むように楽しんでいます。
さて、今年はどんな本にめぐり会えるでしょうか。
ラベル:nbm Awards
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2011年12月21日

いっしょにあくびを

咳のひどい風邪を引いてしまったらしい。発端は、母の問題で声を荒げたこと。これで喉を痛めたところに風邪のウィルスが入り込んでしまったようだ。
喉を痛めただけなら時間が経てば良くなるだろうと思っていたが、日に日に咳がひどくなり、一昨日はついに咳で眠れないまでになってしまった。熱はないのだけれども、朝晩の咳がひどくて、声を出そうとすると咳き込んでしまって喋れない始末。汚い話で恐縮なんだが、私は自力で痰を切ることができず、喉が一度イガイガすると延々イガイガが続く。
仕方がないので、医者に行くことに。
医者といえば、眼科に行ったのも確か1年半ほど前、内科に至っては、もう何年もかかっていない。健康診断も会社を辞めてから10年やってない。さすがに今年こそはと思っていたが、結局やらないまま1年が過ぎようとしている。
医師に、とにかく咳と痰がひどいことを訴えると、5種類の薬とトローチが処方された。
薬を飲むと比較的楽だったが、昨夜布団に入ると咳が止まらない。咳き込んでいるうちに、どうやら冷たい空気を吸う度に喉が刺激されて咳き込んでいることに気づき、マスクをしてみた。すると、魔法のように咳が止まる。なんだ、こんなに簡単なことだったのか。
薬を飲むことやマスクをすることは根本的な解決にはならないけれども、咳でえずくほど苦しんだり眠れなかったりするよりはいい。
医者は何とも言ってなかったが、薬剤師は咳の風邪が流行っていると言っていた。皆さんもお気をつけください。もし、夜の咳でお悩みの方がいらしたら、マスクを付けてみることをお勧めする。夜でなくても、吸気が刺激になるとお感じになったのなら、試してみる価値あり。
蛇足だけれど、今、ダンナさんの指示でネックウォーマーをしている。首を暖めることは、気道を温めてウィルスを殺す助けになるらしい。また、首を通る血管を温めることで、体も冷えから守られる。ということで、風邪やインフルエンザの予防につながるんですってよ。寝るときもしているといいね。マスクもそうなのだけれど、呼気を含んだ温かい空気を吸うことは、ウィルスへの対抗策となる。もちろん、外出時にはマフラーなどをして首を温めることが意外と大事なわけだ。首元を温めることは、体を温めるのには一番効果的だと言うけれど、それ以外にも理由はあったのだ。

さて、病院の待ち時間の暇つぶしとして、1冊の本を持っていったわけだけど、待ってる時間にほぼ読み終わってしまった(苦笑)
それが、万城目学さんの『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』
今年は、万城目さんの本をたくさん読んできた。たくさんと言っても、『偉大なるしゅららぼん』(→過去記事古の力宿る湖)、『プリンセス・トヨトミ』(→過去記事阿呆みたいな、でも、とても幸せな物語)、そしてこの『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』の3冊だけれども、小説を読むことが少ない私にしてみると、”たくさん”ということになる。
これで万城目学さんの長編作品は出版されているすべてを読破したことになる。
ちなみに、ちくまプリマー新書の本なのだが、装丁が私の大好きなクラフト・エヴィング商會だ。

今日は思い切りネタバレしますので、未読の方はご注意ください。
あらすじとしては、小学校一年生のかのこちゃんと、アカトラの猫・マドレーヌ夫人のお話。かのこちゃんは一風変わった女の子で、マドレーヌ夫人は実は”外国語”が話せる猫。

かのこちゃんは”鹿の子”ちゃんであって、どうやらかのこちゃんのお父さんはあの”鹿男”らしい。”あの”って言っても知りませんよね。万城目学さんの別作品『鹿男あをによし』に出てくる主人公が”鹿男”。鹿男なら教師もしくは研究職のはずで、かのこちゃんは父親に教えられて「刎頚の友」とか難しい言葉を知っているのだけれども、その辺も設定として合致しているような気がする。
ことばに対するアプローチが面白くて、小学生の男子と女子が、どちらが難しい言葉を知っているかで対戦したりするのだけれども、男子代表が「オバマ大統領」と言ったのに対して、すずちゃんが「いかりや長介」と返すあたりにセンスがきらめく。
かのこちゃんがすずちゃんと「刎頚の友」になるくだりは、下品ながらも子供らしく、そしてことば遊びが元になっていて、著者の狙い過ぎているほどの狙いが見えるのだけれども、それでも微笑ましく思ってしまう。
猫の後を追跡して猫のお散歩地図を作ったり、水族館の工作が出てきたり、ままごとのごとく野点を真似てみたり。子供らしい発想や遊びに、素直に楽しい気持ちになる。

物語の軸はふたつあって、ひとつはかのこちゃんとすずちゃんとの友情物語、もうひとつはマドレーヌ夫人と老犬・玄三郎の夫婦愛。そして、この2つの話を、猫股化したマドレーヌ夫人の行動がつなぐ。
一風変わっているかのこちゃんが、同様におませで変わり者のすずちゃんと幼いながらも友情を育んでいく様子は、自分とつい重ね合わせてしまった。
私は、小学校に入学するのに合わせて引越しをしたので、未知の地で周りには知らない子ばかりの小学校1年生だった。それに加えて、おそらくその頃から変わり者だったので、仕方なく世話を焼いてくれた近所の子はいたけれども、心からの友達にはなれなかった。
ところが、もうひとり別の子が近所にいて、その子は周りの子とはまったく違う大人びた雰囲気を持っていて、そちらの子とは気が合った。
彼女とは、どういうわけか、小学校でも中学校でも一度も同じクラスになったことがなかったし、部活も別々だったのだけれども、中学卒業までは仲良く過ごした。
結局疎遠になってしまったが、大人になってから地元の駅前で偶然再会したことがあり、彼女は立派なお母さんになっていた。
人間、ひとりでも自分の理解者がいるということは非常に心強いもので、あの時代、私は彼女に支えられてきたのかもしれない。
かのこちゃんがすずちゃんと出会ったということは、そのときはたいした話もしなければ、くだらない遊びをいっしょにしていただけかもしれないけれども、かのこちゃんにとってもすずちゃんにとっても、人生においてとても大事な出来事だったのでは、と。

そして、猫のマドレーヌ夫人と犬の玄三郎の夫婦愛の話。
マドレーヌ夫人は”外国語”が話せるので、犬と言葉を交わすことができる。ゲリラ豪雨の中、犬小屋で雨宿りをしていたマドレーヌ夫人を追い出すことなく、自分はどしゃぶりの中でびしょ濡れで立っていた玄三郎。マドレーヌ夫人の心は、どんなに安らいだことだろう。そうして、2匹の心は種を超えて結ばれた。
マドレーヌ夫人と玄三郎が写真を撮ってもらうのだけれども、それは2匹がいっしょに大あくびをしている写真。あくびは共感の象徴。アカトラの猫と老犬がいっしょにあくびをしている写真。それは、2匹が夫婦である証。種が違っても、年齢が離れていても、ただいっしょにいることの幸せが、架空の写真から伝わってくるなんて…。
病院でこの本を読んでいて自分の診察の順番が来たとき、最後の一章(ほんの30ページ程度)を残すのみだったので、どうせなら読みきってしまいたかったと思ったのだが、帰ってきてから最後の章を読んで、病院で読まなくてよかったと思った。涙なしには読めなかったからだ。
猫と犬。種を超えた愛で結ばれた2匹に、老犬・玄三郎の死という形で別れが訪れる。玄三郎の死は、あらゆる死を内包しているように思える。ペットの死、連れ合いの死、老いた親の死。愛する者の死は、どんなものでも悲しい。

この中で、私はまだペットの死しか体験していない。
実家では、私が小学校に入学した頃から犬を切らしたことはなく、8匹の犬を見送った。その中の1匹が産んだ犬を当時の彼(今のダンナさん)が飼い、結婚してからもしばらく飼っていたが、そのコもまた亡くなった。このコを入れて合計9匹。
インコやうさぎ、ハムスターなども飼ってきたが、それらの死については覚えていない。それくらいの愛着しかなかったということなのだろう。
犬の中でも、それだけいると家族それぞれ愛着を持ったコが違っていて、私は、自分が中学生くらいから成人する頃まで買っていたマリコという犬が忘れられない。毛足の長い真っ白なカールした毛で、洋犬の血が濃いであろう雑種だった。とてもおしとやかな女の子で、このコの息子を後にダンナさんが飼うことになる。
私は元来、人に悩みをあまり打ち明けないタチで、中学生のとき、いじめに遭ってクラスの女子全員から無視されていたときも、マリコにだけ辛い気持ちを打ち明けていた。マリコは黙ってそれを聞き、泣いている私にそっと寄り添っていてくれた。
マリコが死んでしまった後は、犬を愛する気持ちを半分くらい持っていかれたような感じで、新しく家に来た犬をかわいがることがあまりできなかった。新しいコは、もう”自分の犬”ではなかった。
今は幸か不幸かペットを飼える状況にないので、飼わずにいる。もし、状況が変わったとしても、失うときの気持ちを考えると、飼いたくはない。
たまにペットショップなどにいる子犬や子猫を見て、無責任に「かわいい」「かわいい」と言っているだけで十分だ。

最後に老犬の死が出てくるとはいえ、後味が悪い話ではないので、それを理由に敬遠してもらいたくはない。かのこちゃんの成長と、マドレーヌ夫人が新しい世界へ旅立つことで、物語は明るい方向で終わっていくからだ。
猫同士の会話や猫股となったマドレーヌ夫人など、ファンタジックな部分も、重くなりがちな話を軽妙にしている。

この本の中で、一番気に入ったくだり。かのこちゃんとすずちゃんが「刎頚の友」となるきっかけとなった出来事。
放課後の教室、教室の電気を消す”でんきがかり”であるかのこちゃんが、みんなが教室の外に出たことを確認して電気を消そうとしていると、クラスメートのまつもとこうたが「人間に電気が流れたらどうなるのか」と訊いてくる。わからなくて答えられないかのこちゃんに、廊下から突然現れたすずちゃんが助け舟を出し「そんなの簡単じゃない」と言い放つ。
すずちゃんはそんなこともわからないの? とばかりに、ふんと鼻を鳴らすと、挑みかかるような眼差しとともに、
「ビリビリッて音がして、骨が見えるのよ」
と力強い調子で答えた。
一瞬の沈黙が、三人の間に流れた。
「ワオ!」
とかのこちゃんは感嘆の声を上げた。
絶対にそれしかない、と思った。
まつもとこうたも同じことを感じたのだろう。顔を赤らめて、「ううむ」とうなっている。

なんてアホかわいいんだろう!

子供の頃の純粋な気持ちを思い出させてくれる良作。例えば、ただのガラス玉であるビー玉が宝物のようにキラキラと見えるような。そんな気持ちになりたいときに読むとよい1冊。
posted by nbm at 15:24| Comment(7) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月26日

「実在するもの」は、存在しうるものの小さな一部分にすぎない

この世界には、UMAと呼ばれる存在がある。現実に存在するかどうか、確認されていない未確認生物の数々。ちなみにUMAというのは和製英語らしいのだけれども、それはさておき。
しばらく前に、ロシアで雪男の捜索隊が出動したなんて話がニュースになっていた。この現代でも、謎の生物というのはどこかに存在しているのではないかと考えられることがある。
雪男や、ネッシーなどの恐竜に準ずるような生物ならば、進化の過程で絶滅したと思われていたものが実は生き続けていたというパターンかもしれず、シーラカンスみたいに”生きた化石”として発見されてもおかしくないという意味で、存在に真実味が付加されるのだと思う。
大体、かつて地球上に存在していた生物たちでさえ、今存在している動物しか直接知らない私たちにとっては非常識な形状のものが多い。バージェス動物群なんて、今の感覚から言ったら正気の沙汰とは思えない形状をしているものがいる。良く知っているようなつもりでいる恐竜たちでさえも、実は皮膚の色さえわからないわけだから、本当はどういう見た目だったのか誰も知らないわけで。

また、古今東西、幻想動物や伝説上の生物というものは様々いるもの。
あまりに昔のことで、どこで観たのかさえ忘れてしまったのだけれども、たしか学生の頃、ジャッカロープ(当時は”ヴォルパーティンガー”という名前を知らなかった)とか、カッパや人魚のミイラなんかを集めた異形のものの展覧会があって、わくわくしながら鑑賞したことがある。当然、ジャッカロープなんかは、うさぎの剥製に鳥の翼や何かの牙をくっつけて作られたキメラなのであるけれども、偽者だとか本物だとか、そんなことはどうでもいいのであって、ただ奇妙なものを愛でたいという、それだけのことで。そうはいいながらも、こんなのが本当に存在したら面白いのにと、想像するのが楽しいのだ。

そんな私にぴったりの本を発見。それが、『秘密の動物誌』(ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ 著)。
今は亡きペーター・アーマイゼンハウフェン博士の未発表の研究資料を、偶然見つけた第三者がまとめて1冊の本にしたという体裁。アーマイゼンハウフェン博士は、世界各地をフィールドワークしながら飛び回り、様々な珍しい動物の収集に成功した研究者だということで、写真や標本、デッサンなどが載っている。
インドでは6対の足をもった蛇ソレノグリファ・ポリポディーダを、ガラパゴスでは甲羅を持つ鳥トレスケロニア・アティスを、ドイツではモグラ風ヴォルペルティンガーであるウォルペルティンゲル・バッカブンドゥスを、根室ではイルカとトカゲのあいのこのようなコック・バシロサウルスを、といった具合に、発見した生物たちを分類した資料が続く。
スカティナ・スカティナというのが出てくるのだが、これは何を隠そうジェニー・ハニヴァーである。
一番気に入ったのは、ステゴサウルスのような背びれのついたワニ的な形状の火トカゲ、ピロファグス・カタラナエ。エトナ火山近辺に生息するとされるこいつらは、火を食らい、火を吐くという。これは胃で生成されるガスが空気との接触で燃焼すると考えられており、火を吐くのはいいのだが、実は本人も熱くて辛いようで、もよりの川に飛び込んで消火している写真が載っている(笑)なんというドジっ子キャラ…。

さて、種を明かせば、巻末の製作ノートにはこう書かれている。
『秘密の動物誌』は、1984年にぼくらふたりが行った写真と文章による共同製作から出発したものだ。その当時の目標は、実際には存在しない想像上の植物のカタログ製作によって、「それは写真にうつっているのだから実際に存在するはずだ」といった通俗的論理を皮肉りつつ、写真ドキュメントの説得力の薄弱さをしめすことにあった。

1988年にニューヨーク近代美術館で、そしてバルセロナ国立自然博物館でも、この『秘密の動物誌』の展示が行われたようだ。壮大なほら吹きのように見えて、裏にはこういった意図が隠されているわけである。自然博物館のような科学的に権威ある場所で、19世紀のヴィクトリア朝チックな趣で標本等を展示をすることによって、どうなるか。
この枠組みの下にあるとき、膨大なデータや、微を穿った細部や、それらが発する科学的厳密さの雰囲気が、どんなに途方もない内容ですら観客に信じこまれそうになってしまうのだ……ただ観客自身が、それに抵抗しようという考えを起こさない限り。そしてぼくらとしては、まさにそんな抵抗を望んだ。


インターネット上では、様々な画像や動画を観ることができるけれども、下手に画像処理技術が発達してしまったがために、その真贋を見抜くのはもはや容易ではなくなっている。
たとえば、ホラー映画を観るのなら、それが作り物であることは明白だ。しかし、心霊動画と銘打たれた映像をインターネット上で観るとしたら、偶然何かが映り込んでしまった映像なのか(それが何なのかはさておき)、作為的に作られたものなのか判別することは難しい。
最近は、インターネット上に流れている動画をテレビ局が拾い集めて番組にしてしまうことが多く見受けられるけれども、真贋についてはまったく検証されていないため、何の説明もなく放送すれば、視聴者は鵜呑みにすることだろう。たとえば、映像製作を勉強している学生が課題として作ったフェイク動画を、そんな説明は一切なしに堂々と本物のようにテレビ局が放送していたりする。
こんなことは映像に限ったことではないわけで、噂話や評判など、みなが鵜呑みにすればどこかに利害関係が生じてくるなんてことは既に日常茶飯事だ。
逆に、写真や動画で捉えられなくても、存在するというものも五万とありそうですがね。

真実とは何なのか。
そんなことばかりをつきつめていたら、頭がおかしくなることだろう。
とすれば、簡単な道は二つ。すべてを鵜呑みにするか、信じ込まずにテキトーに流すか。
ということで、私は後者を選択することにしている。
なので、このブログに書かれていることは、真実であると胸を張って言うことはできません(笑)

最後に。この本では、荒俣宏さんが監修し、解説文を載せているのだけれども、そこで気づかされたことがひとつ。
東洋、特に日本では、龍は水に関係する神のような扱いをされることが多い一方、ヨーロッパなどで龍と言えば、火を吐くドラゴンという印象がある。指の本数など細かい違いはあれど、見た目はほとんど同種といってもいいと思うのだけれど、龍といっても捉え方が違ってくるのが不思議だ。
荒俣さんいわく、ドラゴンは体が燃え上がらないように予防策として水辺に暮らしているのではないかとのこと。日本での水と龍との関係とかつっこんでいくと大変なことになりそうなのでスルーするけれども、上記のピロファグス・カタラナエのようなドラゴンが水で燃える体を冷やすという発想はなかなかに説得力があり面白かった(画的にも)

真贋がどうのという話が出たのだけれども、地球上だけに限っても、深海や広大なジャングルなどまだまだ人跡未踏の地域は多く、どんな生物がいるのかなどわかったものではないわけで、そういう意味では今までの常識では考えられないような生物に出くわす可能性も大いにあることになる。
実際、新種の生物などまだまだ発見され続けているのだから。
ということで、この本の中で、アーマイゼンハウフェン博士の業績に対して、バルセロナ国立自然博物館長ペレ・アルベルクさんが寄せている言葉。
「実在するもの」は、存在しうるものの小さな一部分にすぎない

posted by nbm at 16:53| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月22日

弟を大地に葬りし者、いずこにも

ちょっとヘヴィな本が続きます。
今日は、ロバート・スウィンデルズ『弟を地に埋めて』です。タイトルからして、内容の凄まじさの一端が伝わってきます。
核戦争後の極限状況での生活を描いた作品ですが、主人公も10代のようで、ローティーン向けに書かれた作品でしょうか。私が読んだ本には、対象年齢について”中学生から”との表示があります。著者は、1939年イギリス生まれ。平和運動をしていて投獄された経験もあるとのこと。原作がいつ書かれたのかはわかりませんが、日本語版は1988年に出ています。つまり、20年以上も昔の作品です。
核兵器と原発事故とではあまりに違いすぎますが、現実に放射性物質による汚染が起きてしまったわけで、小説の中とはいえ、そういった世界で人はどう暮らしていくのか興味が沸きまして。

今回はネタバレ注意です。
舞台はイギリスのとある田舎町。主人公のダニーは私が読み落としたのか年齢がわかりませんが、おそらく15,6歳といったところ。7歳の弟ベンと食料品店を営む両親と暮らしていたのですが、夏のある日核戦争が起こり、自分の住む町にも核爆弾で攻撃されます。運良く直接的な被害を免れたダニーでしたが、母は死に、町や家はめちゃくちゃに壊され、周囲でも多くの人が亡くなっていきます。
自治体や政府などの支援は一切なく、生き残った者たちは自力で生き抜いていかなければならなくなります。水と食料を確保しようにも、ほとんどが焼けてしまったか、もしくは放射性物質で汚染されています。そして、放射性物質を浴びたことによって、日を追うごとに亡くなっていく人々が増えていきます。
生き残った政治家たちは権力と軍事力を使って支配を広げようとし、労働力にならないような病人や年寄りなどを食糧を消費するだけの存在として始末しようとさえします。一方で、略奪を繰り広げる者もいるし、中には人間を狩って食料にする輩も……
そんな者たちに対抗しようとする勢力も現れてコミュニティを形成するのですが、仲間を増やせば増やすほど食糧問題は切実になり、表面の汚染された土を除去したつもりの畑には奇形の作物しか育たない。
鳥は死に絶えたように見え、僅かに残った蝶も異形。そして、戦争後に生まれる人間の子供も……

頼りにしていた父も死に、自宅の食料品店の食料品も略奪されたダニーは、弟を連れてコミュニティに向かう決意をします。
ぼくたちは、ありったけの服を着こんで店をあとにした。ぼくはポケットにチャーリーの銃をしのばせ、手に持ったプラスチックの買い物袋の中には、はき替え用に二人分の靴を入れていた。
前に、あるアメリカの少年の話を本で読んだことがあった。そいつは学校を退学になってばかりいた。あるとき、また別の学校を追い出されることになって、でていこうとしたときに、思わず、ふりかえって校舎を見た。別れをおしもうとしたのだ。ところが、何の感情も沸いてこなかったという。ぼくたちが店をでたときも、ちょうどそんなふうだった。生まれ育った場所を離れるんだから、何か心に感じるはずだと思うかもしれないけど、本当に何も感じなかったのだ。思うんだけど、人間の感情って、限りがあるんじゃないだろうか。使い切ってしまうと、品切れみたいになって、もうどんなことが起こっても、何も感じることができなくなってしまうんじゃないだろうか。とにかく、悲しくも何ともないなんてどういうことなんだろう、などと考えていたら、あの本のことを思いだしたのだ。

この作品の中では、”夢遊病者”と呼ばれる存在が出てくるのだけれども、彼らは核戦争のショックで正気を失った人々。そこまでいかずとも、ダニーは母を失い、そして父も失い、家も財産も失っています。彼の手元に残ったのは、弟ベンのみ。夏のあの日から数ヶ月、淡々と毎日を生きることだけ考えて過ごしてきたわけで。両親を失ったことも、痛ましい遺体をたくさん目撃したことも、命の危険にさらされたこともあったのに。でも、とにかく”生きる”ことが最優先であって、感情も何もバッサリと切り捨てられていたかのように見えました。

タイトルの通り、最後には放射性物質を浴びたことが原因と思われる障害で、弟ベンは亡くなってしまいます。
そのとき、コミュニティのリーダーが語ってくれた言葉を、ダニーは思い出すのです。
「弟を大地に葬りし者、いずこにも」
訳者の方が著者に聞いたところ、古代エジプトの賢者イプウェルの言葉で、荒廃したエジプトの状況を王(ペピ二世)に報告した文書の中に記されている言葉だという話。
何のなぐさめにもならない言葉なのだけれども、弟を地面の下に埋めたダニーにしてみれば、それまでの生活への決別とこれからの困難極まりない生活への決意が込められているようで、たくましさが伝わってきます。

平和運動をする著者によって意図的に作られたお話であろうと、この本は良質なSF作品だと思います。
ダニーはヘタレだけど、短期間にさまざまなことを体験して急激に成長していきますし、恋の話もあります。
個人的にはオススメです。特に中学生くらいの読者に。

本当の核爆弾の恐ろしさは、実際に経験した広島・長崎の人々でなければ語れないでしょう。この本で描かれた世界は、それに比べたら甘いのかもしれない。けれども、まだまだ甘いと感じるこの本の中の話でさえ、現実に我が身に起こったら乗り越えられるのか自信がありません。
この本の内容から、放射性物質への恐怖を煽るような記事になってしまったかもしれませんが、それは私の意図するところではありません。
放射性物質のことについては、必要最小限のことを簡潔に説明された動画を観ていて、それをまとめて記事に書こうと思っているのですが、そのうち書きます。

数日前、お米を買いました。新米です。
どこの産地のものか迷いましたが、福島県喜多方産のものを買いました。
「安心・安全 検査済シール」という黄色いシールが貼られています。「放射性セシウムの検出されていない地域のお米のみを使用していることを証明する」シールだそうです。
極端なことを言えば、どうにでも適当に作って貼ることができるシールですが、私はあえてこのお米を買おうと思いました。
特に強い思いがあってというわけでもありません。一応シールを信じ、安全だということにして、それなら他の製品と一律に並んでいるだけのもの。あとは好みや気分の問題です。うちはこしひかりを好んで食べているのですが、そのとき一番安いこしひかりが喜多方産だったので、それで決まりです。
購入後、米袋に書いてあったサイトで喜多方地域のこれまでの放射線量を見返してみましたが、私の感覚としては大したことはありませんでした。
食品に放射性物質が含まれているかどうか。そんなことが判断されなければならない世界に、私たちは現実に暮らしているのですね。
だけど、じゃあ原発事故前には食品にまったく放射性物質が含まれてなかったかというと、そうではないはず。気にしてなかっただけで。
でもだからこそ、自分で調べ、自分の基準で判断することが求められるのだと思います。敬遠する人もいるでしょうが、それも自分の判断ですもんね。
posted by nbm at 10:32| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月21日

リアルな言葉を取り戻せ!

アンダーグラウンドな世界を垣間見ることができる都築響一さんの本が面白くて(→過去記事 脳内旅行再び)、今度は『夜露死苦現代詩』を読んでみました。
認知症老人のシュールな言葉、餓死した親子の遺書めいた日記、陰陽石を祀る神社に奉納されたお色気俳句、玉置宏のイントロ曲紹介、風俗チラシのコピー、おみやげものの人生訓、見世物小屋の口上、インディーズの月刊ラップ・ミュージック、誤変換の妙……
暴走族の特攻服の刺繍もありました。特攻服といえば、「憂国」とか「極悪非道」とかそれっぽい漢字の熟語の印象がありましたが、それは80年代の話で、90年代頃からは、もっと長い自作の詩のようなものを刺繍するのがメインになっていたそうです。学校の卒業式用に、特殊制服に刺繍を入れるということも流行ったそうな。読むと吹き出しそうになるような詩なのだけれども、本人たちは大真面目にやってるわけで、それも、命を懸けてやってるわけで。そのあたりが、稚拙な詩をなんとも味わいのあるものに見せているのだろうな、と。著者は、この無駄なものにかけるエネルギーこそが、無駄なものを芸術に昇華させているのではないかというようなことを言っています。

死刑囚の読む俳句などもありましたが、この本の中で一番衝撃的だったのは、やはり餓死していく親子の日記でした。
池袋北口のアパート。夫は4年前に病死。脳に障害を持った寝たきりの40代の息子を抱えた77歳の母は、月に4万円ほどの年金が唯一の収入。家賃は、8万5千円。電気・ガスを使わずにいるために火を使わないスナック菓子などで飢えをしのぎながら、新聞だけは料金を滞納することなく取り続けていたという。家賃や光熱費も滞納はなかったし、母親は身なりも整えていて、近所の人からは困窮しているようには見えなかったという話。
なぜに生活保護を受けなかったのか。役所サイドは申請してくれていれば住宅扶助も含めて月20万円ほどは支給できたケースだという。親子は申請も、相談もしていなかったために、受給できなかったということらしい。
区のお世話になっても、私と、子供は、運命が違うので、外の人同様には、うけられないで、かえって、苦しまねばならぬので、それも出来ない

母は「覚え書き」として書いていた日記にこう記しているのです。
A6判のノートに綴られた「覚え書き」は約3ヶ月に1冊のペースで書かれ、10冊ほど発見されたのだけれども、最後のノートは「69」冊目。1996年3月11日で終わっていて、親子の遺体はは4月27日に発見されました。
上記の引用でもわかるとおり、句点が非常に多い文章で、まるで息も絶え絶えになった状態であえぎながら綴ったように見えるのが痛々しい日記。恨み言を書いているようで、でもどこか矜持を保っているというか、毅然としたようなところもあり、なんとも不思議です。
残念ながら、独居老人の孤独死や生活困窮者の餓死など、今や珍しくないようなことになってしまいました。今の時代、何が起こるかわからない。明日はわが身です。
考えたくはないことであるだけに、脳は想像を拒絶します。が、その拒絶をこじ開けて、起こり得る現実と対峙していかなくてはならないことをつきつけられた気がします。
「覚え書き」全文を載せた本もあるようなのだけれども、断片を読んだだけでもこれだけダウナーになるのだから、全編を読んだりしたら、絶望の淵に引きずり込まれて二度と戻ってこれなくなるような気がします。
ちなみに、役所に保管されていたはずの「覚え書き」の現物は今、行方不明になっているそうです。

あまりにヘヴィだったので、もうひとつ。
著者が、『痴呆系』(データハウス刊)という本を立ち読みしていたとき、目に飛び込んできたのは
人生八王子

というフレーズだったそうで、「なんてすごいフレーズなんだろう」とその場を動けなくなったそうであります。
老人病院で看護助手として働いていた直崎人士さんが、認知症の老人たちが発する無意識のことばを書き留めた「介護記録」なのであるけれども、それがどうにもシュールで面白すぎます。直崎さん曰く、”胡桃の城の山頭火”。胡桃の城というのは、脳のことですね。老人たちの脳の中では、どんなことが起こっているのでしょう。都築さんが直崎さんを取材し、どういう状態でそういった言葉が生まれてきたのかも書かれているのですが、敢えてそれは割愛。ちょっと”胡桃の城の山頭火”さんたちの言葉を抜き出してみます。
あの夏の狸の尻尾がつかめなくって

音の出る坂へバスで行きたいんですが

おまえのおれをかえせ
おれのおまえをかえせ

認知症だけでなく、末期癌患者さんがモルヒネによる幻覚から発している言葉もあるようなのだけれども。
私は何もただ単純に面白がっているつもりはないのです。なぜなら、わが父も認知症。徐々に病状が進んでいく中で、なかなかに面白いことを言うようになってきました。先日は庭の小さな灯篭と犬とを混同していて、ヤツの頭の中では、面白い結びつきが起こるのだなと感心しているところです。
脳内でつなぎ方をミスするがために起こるシュールな言葉の羅列。常人が考え付かないものが詩的に聴こえるという不思議。だからって、わざと意外な組み合わせの言葉を並べてみたところで、意図が見えてしまって本物の迫力が出ないわけで。

あまり明るいテーマでもなかったので、最後にとんちんかんなものをもうひとつ。
それは、「点取占い」。
駄菓子屋さんで売っているアレです。といっても、大阪で作られたものなのに、関西では不人気で主に関東に出荷されているのだそうですが、みなさんはご存知でしょうか。
ちなみに、現在販売しているワカエ紙工の山田博社長によると、関西では言葉に意味づけしたがる傾向にあり、関東では感覚的にとらえておもしろがってくれるそうで、だから関東の方が売れるのではないかというお話。
大阪天王寺にあったミヤギトーイという玩具会社が、昭和10年に発売した「点取辻占」というものがもとになっていて、戦災で一度焼失したものを戦後ゼロから作り直したのが「点取占い」なのだそう。その後、販売する会社は移っていったものの、ミヤギトーイの宮城昭三社長が自ら考案したというその文言はそのまま受け継がれているらしい。添えられているイラストは、当初一人のデザイナーによって描かれたそうだけれども、宮城社長からは「なるべく泥臭く描いて欲しい」と依頼されたのだとか。ただ、それだけでは間に合わず、宮城社長や奥さん、従業員に至るまでが”お絵かき”したものもあるという。
ミヤギトーイ版の籤は、672種。
雨の降る日は天気が悪いとは知らなかった 1点
カッパにお尻をなめられる 5点
グッときたね 9点
鉛筆で書くのはきらいだがけづるのはすきだ 2点
もう何が何だかわからない 4点
あまりパッとしない顔をしているね 2点
給食はなるべくおいしくしてもらいたい 7点
便所の中で歌を歌っているのは誰だろう 6点
自分の寝言は聞いたことがない 2点
丁度よいようになりました 10点
お前は三角野郎だ 5点

やっぱり意味わかんねぇ。
本来、籤に書かれた白丸・黒丸・半黒丸により、一袋16枚(販売当初は24枚)の籤の白丸合計−黒丸合計が正の数であれば半黒丸合計を引き、負の数であれば半黒丸合計を足すというルールによって、それが50点以上か否かで運・不運を占うという趣向らしいのだけれども、そんな風に遊んだ覚えはないな。
とにかく、書いてある文句のシュールさにいちいち笑っていたような覚えはあるけれども。

ポエトリー・リーディングとか朗読会とか、何か詩が復権してきているように感じるのだけれども、この本を読んで私の頭に浮かんだのは、吟遊詩人というものでした。
形は多岐にわたっているけれども、今のこの時代を言葉にして残している一般市民たちがたくさんいるのだ、と。なかなかたくましいものだなと思った次第です。
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2011年10月27日

偶然が必然に出会うところ

図書館で何の気なしに手に取った1冊、『コーネルの箱』
詩人であるチャールズ・シミックが、芸術家ジョゼフ・コーネルへのオマージュとして書いた本。
私は、ジョゼフ・コーネルという芸術家を知らなかったのだけれども、パラパラと本の中身を垣間見たときに、何かが匂った気がした。
”鼻が利く”なんて言い回しがあるが、何か見過ごせないものを嗅ぎ取ったような感覚があって、迷わずに手に取った。

絵も描けず、彫刻も出来ずに美術品を作り、映画カメラの使い方も知らずに映画を作った人、ジョゼフ・コーネル。
シュルレアリスムの流れの中でコラージュ作品などを作っていた彼が、いきなり映画『ローズ・ホバート』を制作。ハリウッド映画『ボルネオの東』のフィルムを切り貼りした、映像のコラージュのような作品だったらしい。それを観たサルバドール・ダリは、コーネルにつかみかかり、「お前は俺の頭からアイデアを盗んだ」と散々喚いて激怒したという。

私の知らない時代、知らない世界のことが多く、それがとても新鮮で、美術展に行ってきたような充実した気分にさせてくれる本だった。
コーネルは様々なモチーフを箱の中にコラージュする作品を作り続けた人のようで、そんな作品をいくつも紹介しつつ、シミックがコーネルの世界観をわかりやすく説明してくれる。「わかりやすい」と言ったのには語弊があるかもしれない。そこは詩人の言葉であるから、非常に感覚的であって、論理的な説明にはなっていない。けれども、詩人が解説してくれるからこそ伝わる気配というものが、芸術にはあるのだというのがよくわかる。

コーネルの箱の中身は、ほとんどゴミクズのようなもので構成されている。興味の無い人から見たら、これが芸術だとは到底理解できないだろうと思うような。
コラージュという技法は、シミックいわく「すでに存在している図像の切れ端を組み直して新しい図像を作り上げる」ことで、「正しく見られ、認識されれば、ありふれた事物も奇跡」になる。
シミックはここで、思想家ソローの「問題は何を見るかではなく、君に何が見えるかだ」という言葉を挙げている。

コーネルは、家に保管していた150余りのファイルをこんなふうに形容している。
日記、日誌、貯蔵所、実験室、ギャラリー、博物館、聖域(サンクチュアリ)、観測所、鍵……迷路の核、夢と幻の交換所……取り戻された幼年期。

これが何に使われるのか知らない人からしたら、ただのクズ。
それを集めたコーネルの箱もクズに見える人も多いと思う。

例えば、<風の薔薇>と呼ばれる作品は、古地図が張られた箱の中にいくつものコンパスがはめこまれた内蓋があり、それを開けると、細かく仕切られた箱の中には昆虫や貝殻や石のような標本がたくさん詰まっている。
<クレオ・ド・メロード嬢のエジプト 博物学入門>という作品は、箱の中に何やらぎっしりとコルク蓋の小瓶がつまっているもので、その中には、黄色い砂、真珠のビーズ、緑の液体、ラインストーン、チュールレース、金属とガラスの破片、岩石の標本、骨とすりガラスの破片、ミニチュアのスプーンなどが入っている。クレオ・ド・メロードは、1890年代に人気のあった妖艶なバレリーナだそうだ。コーネルはバレリーナに執着していて、モチーフに度々登場する様子。

シミックは、<偶然が必然に出会うところ>と題して、こう語っている。
ニューヨークの街のどこかに、四つか五つの、いまだ知られざる、たがいに属している物たちがある。ひとたび一緒になれば、それらは芸術作品となるだろう。これがコーネルの前提であり、彼の形而上学であり、信仰である。私はそれを理解したいと思っている。
自分が何を探しているのかも、何を見つけることになるのかも知らずに、彼はユートピア・パークウェイの家を出る。今日は古い指ぬきのようにありふれた、かつ興味深いものかもしれない。その仲間が見つかるには何年もかかるかもしれない。それまでコーネルは、歩き、見る。都市は無数の興味深い物を、無数の意外な場所に持っている。


前前回の記事(→だるまさんがころんだ)で取り上げた”差分”の話の中で、2つの画像の”行間”を、脳が補完して物語を勝手に作るということを知った。
コーネルの、雑多なものを時間的・空間的に離れたところから集めてきて、ひとつの箱に収めるという行為は、この脳内の一見無関係な情報を結びつけるという働きに似ている。
佐藤雅彦研究室の『差分 「差をとる」ことで新しい何かが生まれる』と、この『コーネルの箱』とを、同時に図書館で借りてきた自分。
『コーネルの箱』を何気なく手に取ったとき、何かが”匂った”のだけれども、結果的にこの2冊は、こういう風に私の中で結びつけられた。
この記事を書き始めたときには、図書館でこの『コーネルの箱』が何やら”匂った”ことがどういうことなのか、まったくわからなかったのだが、こうして文章にしていく中で、次第に理解できた。
この自分の本のチョイス自体も、”コーネルの箱”や”差分”に通じている気がする。

ジョゼフ・コーネルの作品は、一体どこにあるのだろうと検索してみたところ、意外なことに日本にも多くあることがわかった。
ひとつは、千葉県佐倉市にある川村記念美術館。ここはコーネルの作品をいくつも所蔵しているようで、コレクションの中から今も7つの箱が展示してある。
東京の麹町三番町にある小川美術館にもいくつか所蔵されているようだけれども、こちらは常設展示がなく、機会を待たないと観られないかもしれない。
芸術作品というものは、直接観ると、作者のエネルギーというか魂が伝わってくるのを感じるので、できるだけ実物をこの目で観たいと思う私。川村記念美術館は、他のコレクションや展示も面白そうだし、これは一度行ってみなくてはいけない。

もうひとつ、おもしろいものを見つけた。
アメリカはマサチューセッツ州にあるピーボディ・エセックス博物館のサイト。ここに、コーネルの作品についての解説がインタラクティブに楽しめる仕掛けがあった。→コチラ
写真の部分をクリックすると、別ウィンドウで開きます。
全編英語だが、観るだけでも楽しむことができ、コーネルの作品世界を知る入り口としてはそれでも十分。
ちなみにこの博物館、東インド海員協会に属する船員たちによってアフリカやアジアやオセアニアの各地から収集された様々なものが展示されているよう。アメリカ国内のアートもあるし、ネイティブ・アメリカンのものや、古い写真のコレクションも。博物館そのものもとても面白そう。コレクションの写真を観るだけでも楽しめる。

芸術の話が出たので、まったく関係ないのだが、ついでに。
待ちに待っていた松井冬子さんの展覧会が決まった様子。
横浜美術館「松井冬子展 −世界中の子と友達になれる−」
会期は、2011年12月17日(土)〜2012年3月18日(日)。
これは、絶対に行きたい。
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2011年10月25日

だるまさんがころんだ

唐突ですが。
まばたきを自分がどれくらいしているのか観察してみたことがありますか。

やってみました。
ストップウォッチを見ながら、1分間にどれくらいまばたきするものか数えてみたところ、8回でした。
ヒトのまばたきは、大体3秒に1回くらいのペースだそうです。ということは1分間に20回。ストップウォッチを凝視していたためか、平均的な回数よりも少ないな。何かを集中して見ているとまばたきの回数は減るようで、例えば読書などのときには6秒に1回と半分くらいになるんだそう。
ちなみに、ドライアイってのがありますが、パソコン操作でモニターを見るなどするとまばたきの回数が減るので、それも原因のひとつと考えられているようです。

よし、なるべく無意識にもう1度数えてみよう。
今度は、1分間に21回でした。ほんとだ。
観察していると、規則正しくパチパチしているわけでなく、パチパチパチっと3回続けることがあったり、しばらくないなと思ったらパチっとしたり、なんだかバラバラ。
しかし、ヒトのカラダが無意識でやっていることって多いわ。

なんでこんなことを急にやったのかといいますと、『差分 「差をとる」ことで新しい何かが生まれる』と言う本を読んだからで。この本は、佐藤雅彦さんと、慶應義塾大学佐藤研究室の研究生であった菅俊一さん・石川将也さんの共著になっています。
aとbとの差を取ることで、「ある表象」が生まれる。

これをテーマに、人間の認知の問題を提示してくれます。
厚みがある本ですが、ほとんどが差分のグラフィックで占められていて、活字は多くありません。

具体的には、例えばaという図表とbという図表が並べられているとして、その二つの図表は時間もしくは変化の流れからするとa→bのようになっていて、ただその二つの間にある”変化そのもの”は直接表現されていないので、脳が勝手に「こうなった」と判断しているということで。つまり、いくつかの絵を見て、その中に勝手に物語を作っているということ。文章でいえば、”行間を読んでいる”というようなことが起こっているわけです。ですが、自然にやっていることで、これを意識することはありませんでした。
こればかりは、文章で図表を表現するのも野暮ですし、かといって、いい例が載っているサイトもありません。
amazonでは、この本の中身が少々見られるので、ソチラをどうぞ。

思い返せば、ちょうど去年の今頃、佐藤雅彦ディレクション「”これも自分と認めざるをえない”展」に行って来たっけ。(→過去記事ふたつとしてないはずのもの
それ以降、佐藤雅彦さんについて着目していなかったので、『差分 ーdifferenceー 』という展覧会が行われていたのを知りませんでした。ですがコレ、会期が2011年3月5日〜4月3日。ということは、開始から1週間と経たずに、日本はパニック状態に陥っていたわけで…。
書籍上の平面では表現できない立体作品もあったそうで、これを見逃してしまったのは残念でした。

さて、最初のまばたきの話。
なんで、『差分』とまばたきとが関係しているのか。自分の中でも半信半疑だったのですが…(苦笑)
まばたきをする前とした後。二つの景色を比べると、そこには必ず変化があるはずです。目には見えない、もとい、脳が感知できないくらい些細な変化だとしても、1秒の数分の1の時間しか経っていなくても、時間は確実に経過しています。
別の話。例えば、視線を瞬時に右から左へ移すとき、ヒトは右から左へと至る視界のすべてをなめらかに見ているのではなく、「右の視界・左の視界」という風に、途中の景色は失われています。見たような気になっているのは、脳が勝手に補って解釈しているから。
もっとわかりやすいのは、テレビや映画の映像。おおまかに言うと、テレビは1秒間に30フレーム、映画は1秒間に24フレームで構成されています。ひとつひとつ独立した静止画像を連続して速く見せられると、それは動画に見えるというわけです。原理としてはパラパラ漫画と同じ。
動画を観るとき、なめらかな映像に見えても、それは独立した画像の連続でしかないということです。

ここで、時間の経過という問題が出てきます。
本の内容に戻ると、『差分』の書籍上の2つの画像を見るときには、次の画像に目を移す時間は見る人の任意です。ですが、その時間が短くても長くても、受け取る変化の印象は同じになるそうです。
著者と脳科学者・茂木健一郎氏との対談が載っていて、その中で言われていたことなのですが、書籍上に載っているような差分作品をそのまま見るのと、時間管理をして1秒30フレームのアニメーション化して見るのとでは、受け取る脳の働きがまったく違うのではないかという話。
アニメーションは、物理的な刺激から脳内の意味を解釈する領域へと刺激が伝わるボトムアップ型。一方、グラフィックのみの差分作品は、脳の中に既にあるモデルや意味や感覚からフレキシブルに補おうとするトップダウン型。
脳内の解釈のプロセスが、時間によって違うというのは興味深い点です。
また、動画は視点を固定して「動き」を見るものであるのにたいして、差分のグラフィックは視野の空間が移動するわけで、違う空間にあるそれぞれのカタチを頭の中で関連付けているということになり、脳の中で知覚する部分も異なるのではないかということでした。
実際に人体を使って実験したわけでなく、あくまでも理論上の話なのだけれども。

茂木氏との対談で、佐藤さんはこう言っています。
「差分」というものを突き詰めてみようと思ったきっかけの一つは、それが本来人間にとって必要で、もともと備わっている機能ではないかと考えたからなんです。たとえば、原始社会では暗闇で動物がざわっと動いた気配、そのちょっとした日常の差を感じ取れるかどうかが、そのまま生死に関わったわけで、そういう機能があったとしたら、それを現代に呼び起こすことができないかと思ったんです。


と、ここまで書いたら、私の脳は、<だるまさんがころんだ>を「こんなの、どうでしょう?」とばかりに提案してきました。
「<だるまさんがころんだ>って何よ?」と自問自答。なんでこんなものを連想したのか、自分の脳がやっていることながら一瞬わからない。
一拍おいて、「あぁ、なるほどね」。
<だるまさんがころんだ>の鬼は、一度視界を遮って、数秒の後に視界を元に戻す。そして、その度に変化を確認するわけね。ここで<差分>を取っていることになる、と。
しかも、視界を遮っている間は、人が近づいてくる<気配>を感じようとしているということか。

まったく関係の無いような物事を結びつけるという脳の働きも、大きな意味では<差分>を取っていることになるのでしょう。
たまには、無意識でやっていることを意識してみるのも面白いものです。
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2011年10月12日

カナリアが鳴いている

ここ数日、荒川にゴマフアザラシが出現したことが話題になっている。当地からは程近い場所。だけど、見に行くような気にはならない。”アラちゃん”とか呼んで、またもフィーバーになっているようだけれども、マスコミはそのフィーバーぶりを追いかけつつ、自らも野次馬の一部になって、アザラシ出現の映像を撮ろうとやっきになっている様子。しかし、こういった川に迷い込む野生動物について、詳しいことを調べて報道しようとする姿勢は皆無と言っていいくらい。
なぜに、アザラシが生息地から遠い川に迷い込むのか。「エサを追いかけて」とか、「仲間とはぐれて」とか言っても、根本的な原因ではありませんね。「正直言って、わからない」というのが本当のところなのだろうけれど。
そこに何が隠されているのか。真剣に研究しようと思う人はいないのか?

国立科学博物館の海棲哺乳類情報データベースで2000年からこっち、アザラシが関東地方に現れたケースを抜粋してみた。
2002年8月7日 多摩川にアゴヒゲアザラシ迷入(タマちゃん)
2004年3月9日 千葉県鴨川市でアゴヒゲアザラシの遊泳目撃
2005年1月16日 千葉県鴨川市の海岸にゴマフアザラシが上陸
2007年7月15日 茨城県神栖市でアゴヒゲアザラシ?上陸
2009年8月26日 神奈川県横須賀市で種不明アザラシ迷入
けっこう来てる(笑)全体を見ると、北海道がダントツに多い印象だけれども、日本全国で日本海側・太平洋側を問わず(種類によるけど)ちょぼちょぼ出没はしている様子。
『いきもの通信』の調べによると、1981年〜1999年までの約20年間で、アゴヒゲアザラシとゴマフアザラシは北海道以南でも目撃されていて、特にゴマフアザラシは平均年2件は北海道以南で目撃されているらしい。
詳しくは、『いきもの通信』さんのVol. 185(2003/8/3)[今日の事件]アシカ・アザラシの過去のストランディングを検証するをご覧になってください。
んで、今回の”アラちゃん”が来た。2年に1回は関東地方にも出没しているってことね。意外と多いぞ。

さて、ストランディングといえば、先日は大阪湾にザトウクジラが現れたそうな。
NHK ONLINEからNHK NEWSWebで10月9日の暮らし・文化のニュースの中に「大阪湾にクジラ 迷い込んだか」という映像付きニュースあり。
日本全国の沿岸に棲息しているとはいえ、大阪湾で目撃されたのは初めてのことだそうで。

ということで、ザトウクジラのストランディングについても海棲哺乳類情報データベースで2000年からこっちを調べてみた。
2003年10月28日 三重県長島町揖斐川河口付近ザトウクジラ座礁
2004年1月22日 大分県大分市の別府湾にザトウクジラの迷入
2004年3月16日 愛媛県宇和島市でザトウクジラの目撃
沖合い数kmで目撃されたり、死体が漂着したり、定置網にかかっていたりというケースを除くと、湾内に入ってきた、もしくは座礁したケースは少ない。

ちなみに、アザラシとかザトウクジラとか種類を特定して調べてもけっこうな件数がデータベースに載っている。イルカや他のクジラ類などを合わせると、もっともっとたくさんの事例があるんだが、死体の漂着なども混ざっているので、細かく調べるのは時間がかかりそうでやめた。

なんらかの原因で方向感覚が狂ってしまい、湾内や浅瀬、川などに迷い込み、戻れなくなったということまでは推測できるものの、では何が方向感覚を狂わせたのかという一番大事な問題はまだ解明されていない。
もちろん、結論はひとつだけとは限らないし、仮説として言われていることはいろいろ。だけど、考えられることは、方向感覚を司る耳の機能が障害を起こしたのではないかということで、ではその原因は何かと考えると、生物自身が例えばウィルスなどで侵されたとか、潮流の変化や地震の影響、磁場の変化など様々なことが挙げられるわけで。
でも、そこには”何か”が潜んでいるのかもしれないのだから、きちんと研究していくべきなのではないかと。

さて、実は「ナショナルジオグラフィック」の写真家ジョエル・サートレイによる写真集『RARE Portraits of America's Endangered Species』(邦題:ナショナルジオグラフィックの絶滅危惧写真集)を鑑賞したばかり。
アメリカにおいて、絶滅危惧種とされる動植物を撮った写真集。日本は国土が小さい割りに気候条件が極端に違う土地を含んでいて、島国ということもあり多種多様な動植物が生息しているが、アメリカもアラスカからハワイまで含まれるわけで、広大な土地には砂漠や草原もあり、やはり多種多様な動植物が生息しているわけだ。動物ならアフリカ、植物なら中南米のジャングルとかが主流で、アメリカの動植物が紹介されるケースが極端に少ないことを疑問に思ってきたのだけれども、あらためて見てみると、いろんなものがいることに驚く。
絶滅危惧種を扱っているからには、それらを保護する立場で作られた写真集であって、でもそういった保護は人間が必要とするエネルギー資源や土地などの開発の問題が密接に関わりあうもので、全部を一緒くたにして簡単にどっちがどうとは言えないのが難しいところ。

それはさておき。
とにかく、写真が美しい。
アメリカワニの歯の一本一本やプエルトリコヒキガエルの表面のボツボツにさえ見入ってしまうほどに(笑)
なかでも、サンタカタリナシマハイイロギツネの愛らしさったらない。このキツネさんは、カリフォルニア州チャネル諸島8島のうち6島にそれぞれの亜種が棲息しているのだそうで、個体数784。外部から連れてこられた犬によってジステンパーが広まり、個体数を減らしてしまったようだ。しかし、ワクチン接種が効果を上げていて、今は復活しつつあるという。
そして、オセロットの毛並みの美しいこと!思わず、写真を指で撫でてしまう。アメリカでは、テキサス州以外は全滅してしまったというが、逆にいうとテキサスにはオセロットがいるということに衝撃を受けた。中南米ではまだ多くの個体が棲息しているということだけれど、アメリカ国内の野生では100頭未満。
クズリがアメリカに棲息しているということも、あまりイメージになかった。寒い場所にいるのはわかってても北欧のイメージなんだけど、調べてみたら、アメリカ北部やカナダ、ロシアなど、それに中国にまでいるんだな。
ハクトウワシの写真もいい。後を向いている。白髪で長髪の人の後姿みたいだ。ハクトウワシといえば、アメリカの国鳥。アメリカの鳥といえばハクトウワシを思い浮かべるほどなのに、一時は殺虫剤DDTの影響で絶滅の危機にあったという。DDTを濃縮して体内に蓄積した魚を食べると、鳥の卵の殻は薄くなり、繁殖能力が低下するのだそうだ。しかし、このアメリカのシンボルは、1972年にDDTの使用が禁止されたことから個体数を劇的に快復し、今は20,000羽ほどになり、絶滅の危機を脱した。

アメリカでの個体数がもとになっているので、同じ動植物がアメリカ以外には多く生息しているというケースもあって、わかりにくいんだけど。
例えば、グリズリーは1500頭ほどで、ホッキョクグマは3500頭ほど。どちらもアメリカ国外にも棲息しているけれど、アメリカ国内だけで考えると、ホッキョクグマよりもグリズリーの方が希少とは。
また、個体数には野生のものと保護されているものと両方が含まれていて、実像はちとわかりにくい。巻末にその内訳が書かれているのだけれどね。

個体数の少ない絶滅危惧種の写真であるから、ほとんどが野生ではなく、動物園や保護されている研究所にいる個体を写したもの。
それでも、十分に意味のある写真集になったのではないかと思う。
この写真集の最初に出てくるのは、コロンビア盆地のピグミーウサギ。最後の2羽のうちの1羽。農地開発によって生息地を奪われたこのウサギは、2008年にここの個体群としては絶滅してしまった。別の個体群との間に生まれた子孫に、かろうじて遺伝的要素が残されたという。ちょっとわかりにくいが、佐渡のトキみたいなものか。
今まさに進行形で、絶滅していく種があるという現実から始まっている。

作家バーリン・クリンケンボルグによる「最後の一羽」というエッセイにはこうあった。
これらの種は人間にとって指標種、つまり炭鉱のカナリアという意味を持っている。絶滅危惧種もしくは絶滅危惧種としてリストに掲載された米国内,312種の動植物や昆虫は、全てが指標種となるのだ。(中略)人間をとりまく生物たちの健全性、つまり複雑生と多様性は、人間の住み場所の健全性(水や大気のきれいさ、オープンスペースの広さや特性、気象の安定性など)を測る指標として最も有効なのだ。自然界に関して人間は、地球上のどの種なら絶滅しても問題がないと言えるほど理解しているわけではないし、今後もそんなことは決して分からないだろう。人間の居場所は、進化学的に見ても人間以外の全ての生物の存在の中にある。お互いの存在なくして進化はあり得ないからだ。人間以外の生物の状況を知るということは、人間自身の状況を知ることでもあるのだ。

この写真集は、2009年1月に「ナショナルジオグラフィック」に掲載されたバーリン・クリンケンボルグの記事が基となって作られたものだという。
上で取り上げたアザラシやクジラのストランディング。絶滅とは一見関係ないように見えるが、棲息していた場所で何らかの環境の変化が起こった(かもしれない)という点では、まったくの無関係ともいえないと思う。
炭鉱のカナリアのように、野生生物たちが矢面に立って教えてくれている危機を、もっと真剣に捉えるべきなのではないかと思う。

”アラちゃん”とか、単純に喜んで見ていていいのかなぁ、と。
今回は、ちょっと真面目モードでお送りしました(笑)
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2011年09月27日

物理のソナチネ

今日は、本の話。
物理学の基礎をわかりやすく解説してくれている本、『14歳のための物理学』佐治晴夫 著)という本でございます。著者は、この本を”物理のソナチネ”と表現されております。
私も小学生の頃から高校生までピアノを習っていましたが、教則本の最初がバイエル、次がブルグミュラー、ハノンと平行してソナチネ、そしてソナタと進みました。その感覚からすると、ソナチネは決してやさしいものではありませんが、かといって難しいものでもないという印象。
著者の佐治さんは、東大物性研究所などを経てNASA客員研究員でもあったということで、あの1/fゆらぎを研究されていたことでも有名な方だそうです。また、リベラル・アーツ教育を実践していることでも知られ、ピアノやパイプオルガンを弾きながら全国の学校で特別授業を行っていらっしゃるようです。
この本は、表題通り”14歳のみなさん”を対象として書かれているのかといえば、実は”かつて、14歳だったすべてのひとたちのために”も書かれているもので、物理学の基礎である力学をたいへんわかりやすく説明してくれています。力学がわからない人でも理解できるように細かく配慮された本です。佐治さんがリベラル・アーツ教育をされている方ということも大きいのでしょう。物理学を教えてもらっているはずなのに、話のとっかかりは詩や季節の話や日常の出来事だったりして、苦手意識から自分と遠いと思いがちな物理の世界が、急激に身近に感じられるような気がしてきます。そこここで、人間の感情や心理などと物理の世界とを絡めて表現している箇所もあって、少々哲学書のような趣もある不思議な本でした。

基本的な話。難しいと思われることを、人にわかりやすく説明するということは至難のワザだと思いますが、それをさらりとやってのけているあたりに、佐治晴夫という方の懐の深さを感じるのです。単純に、もっとお話を聞きたいなぁと思ってしまう。広範で難解な物理学の世界が、この本1冊で語りきれるわけでもなく、機会があったらもっと語りたいというような表現が幾度か出てきましたが、そのお言葉通りに続刊が出ることを期待してしまいます。

まえがきに
100人の人の人がいれば、100人の世界があるということになります。
そこで、みんなにとって同じように世界が感じられるような、論理的な考え方がほしくなります。
それが、数学です。

とあります。文系の私にとっては、数学は高校生以来触れていないので、方程式などが出てきて少々戸惑う場面もありましたが、それでもなんとかついていけるようにわかりやすく説明してくれてますし、難しい箇所は読み飛ばしてよいとさえ言われてます。

一番最初に出てきたのは、「杞憂」のお話。「杞」の国に住むある男が心配性で、いつも空を見上げてはいつ天が崩れ落ちるかと心配し、いつ大地が崩れるかと心配するという中国は列子の故事。
空はなぜ落ちてこないのか。そんな素朴な疑問から、思考実験が始まります。
どこぞの国の人工衛星が落ちてくると騒ぎになったばかりなので、一瞬矛盾しているようにも思うのですが、星々が落ちてこないのは、規則的に回転しているからというのがおおまかな答えです。そこから考えれば、人工衛星が落ちるのは、その回転が止まるもしくはぶれるからってことなのでしょうね。わかりやすい説明を探したら日本科学未来館のブログに衛星UARS落下に関する説明がありました。

こんな調子で、慣性の法則、作用・反作用の法則、重力、重力加速度、遠心力、ベクトルとスカラー、位置エネルギーと運動エネルギー、波長など、基本的な物理の考え方を解説してくれます。

仕事量についての下りがちょっと面白いものでした。登山道や参道にある男坂・女坂の話。距離は短いけれど急な男坂と、ゆるやかな坂道だけれども距離が長い女坂。どちらを行っても、物理的な仕事量は同じ。ちょっと視点を変えて、同じ道を行くのに、速度を速めれば疲れるけど短時間で済む。逆に、ゆっくり行けば疲れは減るが時間がかかる。
物理的に考えれば仕事量は変わらないのだけれども、そこに人間の意志や価値観が関わってくると、それぞれの選択があるわけで。
人間と言うものは、実に自由に活動しているのだなぁ、と。

人間の活動をワット(W)に換算してくれていたのも面白かったです。
私たちが寝ているときに消費しているエネルギーは70w
じっと座っているときには100w
歩いているときで200w

自分が家電製品にでもなったような気分(笑)
「生きているということは、エネルギーをつくり出しているということ」なのだと。
口にする食べ物のエネルギーをカロリーとして換算することはしていても、ワットに換算するとは考えたことがなかったわ。どちらにしろ、摂取したエネルギーを使っているわけで、そのためにまた食事をしてエネルギーを補給するわけで。こういった営みも視点によって、いろんな見方ができるものですね。

目にははっきりと見えないけれども、その先に広がる自然の深いからくりを想像し、確信する心の営みこそが、「科学」なのです。

想像力を必要とするという点で、詩などの文学と科学とは意外と近い存在なのかもしれないなと思ったり。

先日テレビで見かけたのですが、原発事故をきっかけにエネルギー問題が浮上してきた今、自家用の水力発電で注目されている山村があるとか。
その番組を観ながら、ダンナさんがひと言。
「水力発電っていうのは、位置エネルギーを利用しているんだよね」と。
ダンナさんは、仕事上、機械の構造から工具の使い方に至るまで物理学的なものの考え方を常にしているので、日常的にも物理学的な話がよく出てきます。私は何も考えていないため、いつもハッとさせられるのですが(苦笑)
そうなんだよね。水力発電とは、水そのものの力というわけではなく、水を利用した位置エネルギーで発電するわけだよね。
位置エネルギーが運動エネルギーに変換され、その運動エネルギーで発電機が回ってはじめて電気エネルギーになり、それが産業や各家庭で使われる電力になっていくのだということ。つい先日、ダンナさんとの会話の中で確認したことが、この本の中にも出てきました。光や熱に変わったエネルギーは再び宇宙に戻り、宇宙全体で考えればエネルギーは増えもしなければ減りもしない。一定不変。そして、それが宇宙最大の大原則、<エネルギー保存の法則>だと。
それに関連して、著者はこう言ってます。
こうして考えてみると、私たちが、一生のなかで使う人生のエネルギーも、案外、減りもしないし、増えもしないのかもしれません。
自分が少しだけがまんして、相手のためにはたらけば、相手に喜びを与えることになり、相手が喜べば、自分もうれしくなる……というように、”うれしいというエネルギー”も、すべての人たちの間を、行ったり来たりしているかのようです。

多少、理想的で強引な物言いかもしれませんが、時にはこんなものの見方をすると、人間同士の摩擦も減るかもしれませんね。

「自分」という言葉は、”自然”の”分身”という二つの言葉をくっつけたものだと考えたらどうでしょうか?
すべてのヒトがそうであるのなら、私たち個々人は、自然をつくる”原子のような存在”なのかもしれませんね。

いつもは自分のことを”生物”だと意識しているので、別の視点から考えれば”自分は原子で構成されている”ということを忘れがちなのですが、そう考えると、ほんの小さなひとかけらの自分もこの広大な宇宙の一部を構成しているのですよね。
そんな風に考えると、不思議だけど、ちっぽけなりに少しだけ自分を誇れるような気分になります。

星が落ちてこないことにはじまり、日常的なものの動きや力について、物理の視点でもう一度じっくり説明してもらうというのは、新鮮な目で世界を観直すきっかけになりました。
理系が苦手で、「こんな本を待っていた!」と思う人、たくさんいると思うのだけど。
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2011年09月07日

自動書記の器たち

どこからどうつながったものなのか、何かを検索しているときに偶然1冊の本を知った。
『児玉清の「あの作家に会いたい」 人と作品をめぐる25の対話』という本。児玉清さんは、今年5月にお亡くなりになったのでしたよね。相当な読書家であられたようで、趣味が高じて書評などもよく書かれていたようなのだけれども、ご自分の気になる作家さん25人と対談しているものをまとめた本。

いろんなタイプの作家さんが話していらっしゃるけれども、やはり共通する部分が多い。
本は基本的に好き。たとえ小さい頃は読んでいなかったとしても、あるときから俄然本を読み出すということになる。中には、計画的にいつまでにどれだけの本を読むと決めて実行されていた方も。当然のことながら、子供の頃から書くことも好きだったという方が多く、作文や創作が好きだったという人ばかり。
書く側からのことで、ひとつだけ大きく頷いたことは、「書くのには体力がいる」ということを言っている方が何人かいらしたこと。確かに。こんなくだらないブログでも、体力、いや文字通りの体力とは微妙に意味合いが違うのだけれども、精神的な体力とでもいうか、そういうものは欠かせないと思う。これは気分の浮き沈みとは別種で、例えば沈んでいたとして、マイナス側からのエネルギーでもエネルギーがあれば書けるのであって、プラスとマイナスにかかわらず、エネルギーがあるか否かということなのだと思う。
そして、ほとんどの方が、作中の人物は自分の意図にかかわらず、勝手に動くと言う。スピリチュアルな見方はしたくないんだが、そんな依り代にされているような感覚を体験してみたいものだ。

さて、そんな中、2つの対談が印象に残った。
ひとつは、小川洋子さんのお話でのこと。『猫を抱いて象と泳ぐ』に関して。この本はチェスを題材にした本なのだけれども、当然チェスについてたくさん資料を読んで書かれたものの、チェスは指せないし、ルールも覚えられないという。ご自分のことを「ある距離を置いて、手を出さずに物陰からじーっと観察している人間」だと表現されている。
小川:小説も書き手の感情を入れないほうがうまくいくんですよ。感情は読み手が感ずるものであって、「書き手が予め感情を入れておくと邪魔になる」ということが書いているうちにだんだんわかってきたんですね。
児玉:(中略)演技でも、自分が感動すれば観客にも伝わると僕は思っていましたが、むしろ感情を演技にのせないほうが、見ている人により深い感動を伝えられることがあります。

それからこの話は、歌舞伎の型に通じるものがあるのでは…となり
小川:俳句とか数式とか、型の中に静かに収まっている、すべてを削ぎ落とした一行こそが、実は最も美しく、最も多くを物語っているのかもしれません。

と結ばれている。
レベルが全然違う話なのだけれども、私も体験したことがあることだったので、妙に納得してしまった。私は歌うことが好きで、カラオケで歌うと、聞いていた人が「感動した」と言ってくれたり、涙してくれたりすることがある。歌うときにどう心がけているかというと、一度気持ちを入れるものの、そこからニュートラルに戻した感覚で歌っている。と、こう書いてはいるが、実際歌うときには無意識にこれをやっているよう。別に誰に教えてもらっていたものでもなく、いつのまにか自然にそうなっていた。気持ちを乗せているようで、乗せていないというか。正直よくわからない。ある人に「あなたの歌には心がある」と言われたことがあるのだけれども、自分でも不思議で、何が人にそう感じさせているのかと疑問だった。
それが、このやりとりを読んで納得できたような気がする。私は無意識に”型”を実践し、私の歌を聞いた人は、私が削ぎ落とした部分に自分の感情を乗せていたということになるのか。

もうひとつは、夢枕獏さんのお話。
小説を書くにあたっては、もちろん資料を読むのだけれども、それだけでは書けないとおっしゃる。『東天の獅子』には、前田光世という”一度も負けたことがない”格闘家が出てくるのだそうだが、この前田さんに柔術を教わったというカルロス・グレイシーに会いにリオの自宅まで訪ねて行ったのだという。
夢枕:(中略)亡くなる何ヶ月か前で、病気でまともに話せない状況で、「覚えているよ、コンデ・コマ(前田光世のリングネーム)のことは」と、ひと言意味のある会話ができた。これが、物語を書いていく時の一番の財産でした。

こういったことが、書いていて気持ちが崩れそうになった時の支えになるのだそうだ。
なにがどう作用したのかわからないのだけれども、この部分を読んだら、涙がこぼれた。
「覚えているよ、コンデ・コマのことは」
歴戦の格闘家が、死の淵で語った、たったひと言の言葉。そのひと言に感動してしまって。
長い物語を読んだわけでもなく、カルロス・グレイシーのことも前田光世のこともロクに知らないのに。そのひと言に彼らの人生が凝縮されているような気がして。
字面だけ見れば、どうということもない一文なのに、その何気ない一文にこんな破壊力が詰まっているなんて…。そのこと自体にも感動を覚えた。

私は、作家さんや芸術家やプロスポーツ選手などのインタビューを聞いたり読んだりするのが好きなのだけれども、何かを自分なりに考えたり工夫したりしながら成し遂げる過程を知るのが楽しいのだと思う。これが、損得とは直接関係ないところがミソで、たとえば経営者とかの話にはあまり興味がない。

児玉さんは、どの作家さんにも、「こどもの頃どんなこどもだったか」ということと、「どんな本を読んで育ってきたか」ということを聞いていらした。
もちろん、それぞれに興味を持つ本は違うのだけれども、たまにかち合う人もいたりして、それも不思議なことだと思う。
自分は作家でも何でもないのだけれども、勝手に思い出してみた。
こどもの頃の私は、気難しくて強情でとても扱いにくいこどもだったらしい。先に兄2人を育てていた母は、周りから「男の子に比べれば、女の子は育てるのが楽よ〜」と言われていたのだが、私がとんでもなく難しいこどもだったので、手を焼いたらしい。あまり自覚はないんだけど(笑)
誰が教えたわけでもないのに、幼稚園に行く前に、すでにひらがなは読み書きできた。チラシや折り紙の裏から新聞の余白、はてはキャラメルの箱の裏まで、意味をなさない字をずらずら羅列して書いているようなこどもだったというのは、自分でもうっすら記憶している。
幼稚園では、キンダーブックなんかに載っていたお話を読むのは私の係りで、いつもひとりで音読をさせられ、みんなはそれを聞いていた。
母は素人女優だったので本を読み聞かせるのが上手だったようで、歳の離れた兄たちは、母が絵本を読み聞かせしてくれるのが楽しみだったらしいのだけれども、私が幼稚園の頃には、母はもう働きに出ていたので、私は絵本を読んでもらったような記憶がない。
いまでも大切にしている絵本は『しろいうさぎとくろいうさぎ』。これを何度と無く読んで、うさぎさんたちのもふもふ感に浸っていた。ロマンチックなストーリーにはあまり興味がなかったけれども、とにかくその毛並みがもふもふで、たまらなかった。
小学生になると、学校の図書館や地域の図書館で本を借りては読むように。H・G・ウェルズなどの少年少女向けのSFシリーズも好きだったけれども、一番読んだのは『冒険者たち』(斎藤惇夫 著)。これを繰り返し繰り返し読んでた。
と同時に、父が私をどこかへ連れ出す度に本を1冊買ってくれたので、ここぞとばかりに大きくて分厚い本を買ってもらって読んでいた。『西遊記』が思い出深い。この頃は、読書をしていると集中しすぎて、人から話しかけられても気づかないことが多々あり。
それから、辞書や図鑑は小さい頃からの愛読書で、ヒマさえあればめくっていた。これは今も変わらず、手元には常に国語辞書や漢和辞典がある。今も1日1回は辞書を引いている。
中学生時代には、学級文庫にあった横溝正史や星新一などをよく読んでいた。
高校時代は、人生で一番本を読まなかった時期だと思われ…。ファッション誌、ぴあなどの情報誌、ラジオ雑誌、映画雑誌など雑誌ばかり読んでいたような。
大学時代は、専門分野の本を読むことが多くなり、みすず書房の本をよく読んでいたような記憶がある。サブカル系も読んでいたかな。
会社員時代には、ミステリーやSF、ホラーやファンタジーなど、軽い娯楽作の文庫本を読んでいて、通勤時に読んでいたので2、3日に1冊くらいのペースになってしまい、すぐに読む本が無くなってしまうので、日常的に駅中の本屋に寄っていた気がする。給料日ともなると、単行本を含め、大きな書店に寄ってどっさりと本を買って帰ってくる私を見て、母がよく「気でも違ったか」と言ったものだ。
今は、図書館通いの日々。自然科学系の本を選ぶことが多いけれども、小説を読まないわけでもない。目に付いた雑多な本を読んでいる。
ただし、幼い頃から共通していることは、いわゆる古典や名作といわれる文芸作品をほとんど読んでいないということ。なので、自分のことを読書家などとは思っていない。私にとっての本は、あくまでも娯楽。古典が娯楽にならないわけでもないけれども、正当な文芸作品のような本は、本当に気が向いたときにしか読まない。なので、自分には教養というものはない(笑)
自分が文章を書くことについては、幼稚園の頃に自ら勝手に絵本を作ったことがあるけれども、それ以降、ロクに創作をしたことがない。作文や感想文を褒められた事もないし。
ただ、国語の成績は、他の教科に比べるとずば抜けてよかったので、文章から何かを読み取るということに関しては、長けていたのかもしれない。今は漢字すらロクに書けないが(苦笑)
去年の今頃まで数年間は、一応ライターとして稼いでいたこともあるし、本に親しんできたことは、少なくともマイナスにはなっていない気がする。
ためになったかとかそんなことは置いておいて、読書は私にとっては娯楽であり、なくてはならない刺激。活字から自分の脳内で勝手に世界を構築できる自由さは、他のメディアにはできないことだから、まだまだ自分の中では楽しめる娯楽。読む数は減ったと思うのだけれども、読むことをやめることはないだろうと思う。

さて、最後に児玉さんの話に戻ろう。まえがきの部分で児玉さんは、作家さんたちの共通点に触れ、こう言われている。
何よりも一番は自己憐憫の無いことだ。言葉を換えれば不退転の心を持っていることだ。

ちょっと言い過ぎのような気もするが。この一文、1冊通して読んでも、私にはちょっと理解できなかった。

作家さんそれぞれが、おすすめの本を紹介しているのだけれども、気になったものをメモしておいて、少しずつ読んでいこうかと思う。
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2011年08月10日

ESP

図書館の新刊の棚に『超常現象を科学にした男 J.B.ラインの挑戦』ステイシー・ホーン 著)を見つけて、思わず手に取った。
超常現象を科学的に解明しようということには非常に興味がある。過去記事がんばれ!ゴーストハンターズ!では、ウィリアム・ジェイムズについての本『幽霊を捕まえようとした科学者たち』を読んで書いたもの。これも面白かった。

”近代超心理学の父”と呼ばれるジョセフ・バンクス・ライン(1895-1980)が、テレパシーなどの超常現象を科学的に探究し続けた姿を追ったノンフィクション。原題は『Unbelievable』。ラインたちが残しデューク大学の図書館の地下に眠っていた700箱もの資料を、著者が読み解き、書かれたものだ。ラインは、アメリカの超能力研究に科学的な手法を持ち込んだ人で、超心理学を学問として認められるものにしようと尽力した人物。
本書では、サイコロ実験よりもESPカードの実験に重点を置いた記述になっており、他にポルターガイストや心霊現象にも触れられている。ちなみに表紙は、ESPカードの1枚、☆マーク。
ラインと交流のあった人物の中には、アルバート・アインシュタインやリチャード・ニクソン、オルダス・ハクスリーにヘレン・ケラー、カール・ユングなどの名前も。その時代、すでに著名であったということがわかると同時に、その時代性が伝わってくる。
元海兵隊員だったというラインは魅力的であるとともに好戦的な性格で、敵も多く作ったよう。晩年は、家族を除いては、周りに人が残らなかったという。

霊媒や霊能力者と言われていた人たちとはできるだけ距離を置き、幽霊の存在や生まれ変わり、臨死体験なども、どちらかといえば懐疑的と言ってもいいような立場で接していたライン。超心理学を”科学”として人々に認めてもらうために、ESP実験など科学的に立証しやすい方向に傾倒したらしい。
超心理学全般を批判する人は後を絶たないし、超心理学に興味を持つ人は「死後の世界」に興味がある人ばかりで、資金集めも難航し、研究は波乱の連続。どうにか、通常では説明できない確率の実験結果を手にしたのだけれども、それでも周囲の反応は変わらず。
例えば、90m〜200m以上も離れた地点でESPカードの遠隔透視をした実験で、ヒューバート・ピアースという青年は、10の27乗分の1という確率でカードを当て続けた。
面白いのは、このピアース青年は、失恋したことで能力を失っている点。どうやら、人間の意識や感情といったものが、超能力と密接に関係しているらしい。
ひとつ問題になったことは、こういった実験が、テレパシーなのか、透視なのかということ。情報を送信する側の人が結果を事前に知っているとしたら、受信者は、送信者の心をテレパシーで読み取っているのか、それともカード自体を透視しているのかという問題。どっちでもいいような気もするのだけど、情報伝達の意味合いがまったく違ってきてしまう。

超能力よりも死後の世界に興味がある人の方が多いということだったけれども、ひとつには、第一次世界大戦によって多くの戦死者が出て、家族や恋人を失った人たちが死者の声を聞きたいと願ったことも影響しているようだ。この時代、ウィジャボードは爆発的に売れたのだそうで。

個人的に面白かったのは、文化人類学者のマーガレット・ミードがラインと交流していたこと。ラインがミードに手紙を送り、未開社会での超心理学について意見を聞いていたという。ミードは心霊研究には共感するところが多いと言いながらも、未開社会でも超感覚的能力が発達した人は少数だと思うと述べている。
後に、ラインの超心理学研究所が米国科学振興協会の加入メンバーになるという悲願は、4度目の挑戦で、加入に関する投票のその場でのマーガレット・ミードの助言によって晴れて達成されたという。
私は学生時代に社会学科に在籍し、文化人類学の講義や発達心理学のゼミなどでマーガレット・ミードの名前は何度も聞いてきた。そのミードが、ラインを応援するような立場を取っていたというのは興味深いことだった。

ラインの研究の他にも、興味深い事例がたくさん出てくる。
例えば、「異言」という現象についての研究。学んだことのない言語や意味不明の言葉を話す現象のことなのだが、2006年に発表されたペンシルバニア大学医学部の研究によると、異言を話しているときその人は、憑依されているかのように自分自身を統制・支配できていないと感じていることがわかったという。SPECTの画像によっても、前頭葉に血流の流れが少なく、不活性化しているという結果だった。”自分が乗っ取られている”感覚については、科学的に証明されたことになる。「異言」の根本的な原因はわからないままだけれども。

もうひとつ、「幻聴」について。特定の精神疾患をもたない正常な人でも、目を覚ましているときに<声タイプ>の幻聴を体験していて、1984年に大学生を対象にした研究では71%が体験者だという。1971年イギリスでは、61%の未亡人が、亡くなった配偶者の幻覚を見ているという報告もあるそうだけれども、私が興味深く感じたのは、同じ幻聴でも「声」を聞いている例が多いこと。これも脳のしくみと関係しているんだろうか。

何らかの情報を物理的な過程を経ずに受け取ることがあるとして、それは、受け取ったまだ形になっていない情報を自分の脳内で変換して表現されるものかもしれないという話も面白かった。受け取った情報が何かはわからないが、それが表出するにあたって、自分にとってわかりやすい形にしているというわけだ。テレパシー的なものは、送信者よりも受信者の能力によるものが大きいらしい。その受信者の感度のレベルやセンスによって、送られてきたものが個性的に表現される可能性があるってことだ。
この本の中にはジョー・マクモニーグルも出てくるのだが、CIAを中心としたスターゲイト計画により軍事作戦に遠隔透視を取り入れるということはあったとしても、透視で得た情報の確認が取れなければ実際には動けないことが多いはずで、スターゲイトが雲散霧消してしまったのも頷ける話だ。それでも1995年に終了したというのだから、70年代から近年まで研究は続いていたんだよな。犯罪捜査などにもこういった能力が使えるのならば、ぜひ使っていただきたいと思うのだけれども、正確性という点で証明できないわけで、使い方が難しいよね。

1989年に超常現象調査事務所を設立してゴーストバスターズみたいことをやっているロイド・アウアーバッハは、色んな機器を持ち込んで数々の幽霊屋敷を調査しているそうだが、温度の変化やイオンの変化などは観測されず。ただ、電磁場は変動するのだそうだ。
逆に言うと、何もない場所で電磁場を変化させると、「人の気配を感じる」ようになったりするのだとか。電磁場を発生させるヘルメットを作って実験している認知神経学者のマイケル・パーシンガー博士は、脳の右半球が優先的に刺激されたときに、「恐ろしいものを」「左側に」見るという実験結果を得たという。逆に、被験者の右側に現れるものは、親しい親戚や天使、キリストなどだったという。じゃあ、恐ろしいものが右側に現れたら、本物かも?(笑)
側頭葉感受性が高い人は弱い電磁場でも強く反応するので、「幽霊を見る」という人は、そんな特徴を持っているのかもしれないということだった。

最後に、量子論。「量子的からみあい」について。
テレパシーのように瞬間的に距離を越えた相互作用が起きるという現象は、光速を超えるものがないはずの物理世界では説明できない。量子論では、遠隔地にある量子が互いに相関することが証明されているが、因果関係が説明されているわけではなく、物理的には情報伝達を媒介する粒子が存在しているはずだという立場を取っている。
現在のコンピュータの基礎を築いた数学者ジョン・フォン・ノイマンは、「意識のように物質ではないものこそが、観察結果を左右するのではないか」という趣旨の発言をしているという。

この本を読んで一番強く印象に残ったことは、超能力と人の感情との間に何らかの関係があるのではないかという仮説。思春期の少年少女とポルターガイストの関係とか考えても、何か関係があってもよさそうです。人間の感情と、物理的な現象とが関連するという不思議。そんなことが証明されたら面白いのにな。
量子論を研究していたような物理学者が、超心理学に興味を持つケースは度々聞くのだけれども、やはり、ここまで科学が発達してくると、複数の分野が協力しないと解明できないことにぶち当たっていると思う。
いろんな分野の研究をしている科学者さんたちが、お互いに意見交換しながらいろんな研究を進めていっていただきたいと思うものです。

かいつまんでトピック的に取り上げたので、散漫になってしまいましたが、こういった分野の本はもっと読んでみたいと思いました。
『量子の宇宙でからみあう心たち 超能力研究最前線』(ディーン・ラディン 著)や、『科学は心霊現象をいかにとらえるのか』(ブライアン・ジョセフソン 著)など、そのうち読んでみたいと思います。
posted by nbm at 18:48| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月06日

どこ?

新米の放射性物質検査がどうのというニュースが流れ始めた日、うちではちょうどお米が切れそうで、なんちゅうタイミングで変なニュースが流れてくれるんじゃ!と思っていた。
こんなニュースを流し続けてると、また古米を備蓄しようと考える人が増えて、お米パニックになりかねん。
そう危惧したものの、スーパーの売り場に行くと、別にフツーに売っていた(笑)
しかし、どれにしようかとボーッとお米の前に立っていた私の後から、「邪魔だ!どけっ!」と言わんばかりの勢いで、ある男性がお米をカートにボンボン積み上げていき、10kg×5袋を買おうとしていた。
パニックはまだまだこれからなんだろうか。
あるニュース番組で、お米の専門家が「白米は買いだめしても劣化するだけだ」と言っていた。「虫ごと食べたいなら止めませんけど」くらいな言い方だった。
たしかに、お米は精米したてが一番美味しい。本当は玄米のまま備蓄して、食べる分だけその都度精米するのが一番いいのだろうけど、そんなこともなかなかできないしね。もしくは玄米をそのまま食べるか。ちなみに、うちは玄米は嫌い。
新鮮さとコスト・パフォーマンスを考えれば、5kgを買うのが理想なのかも。うちでは、毎回10kgを買ってしまうけど。

お米を買うということで、その買い物にはダンナさんが付き合ってくれた。店内で、ダンナさんが気づく。
「あそこに、Mちゃんがいるよ」
ほんとだ、気付かなかった。すぐ3mほど後側に、友人のMちゃんを発見。
彼女は、20歳くらいの頃からいっしょに遊んできた仲間内。ダンナさんの高校時代からの友人のパートナーだ。同じ町内に住んでいるので、こうしてたまに出会うことがある。
でも、話を聞いてみると、毎回、私と彼女のどちらかまたは一方が、予定と違う行動をして、その結果偶然出会うということを繰り返している。
この日も、彼女は、別の店に行こうと思って家を出たのに、なんとなくこちらの店に来てしまったと言っていた。
「呼んだ?」「呼ばれた?」
今回は、ダンナさんが付いて来てくれなかったら、お互いに気付かずにすれ違っていたかもしれない。
何ヶ月も会っていなかったので、久しぶりに雑談をしていると、彼女が
「髪切ったんだね。かわいい!」と言ってくれる。
なんだかこの髪型が気に入ったようで、「後も見せて」とか、「目に焼き付けるわ」とか言ってくれて、「かわいい!」を何度も連呼してくれる。横で聞いていたダンナさんが
「”かわいい”って4回言ってもらったから、おまけにもう1回言ってもらうか」と催促すると
また「かわいい!」と言ってくれる。計5回。Mちゃん、ありがとう。要請に応えてくれて。
そんなこと、言ってくれるのMちゃんだけだよ(苦笑)
普段、言われ慣れないので、気恥ずかしくも、悪い気はしないもんだわ。ま、私自身でなく髪型を褒められただけなんだが。

その後、食品売り場を回るが、ダンナさんが商品を指差しつつ、
「機械じかけのジキ!」(←めかじき)
「ロリ!ロリ!」(←小女子)
とか言うので、いちいち笑いが止まらない。
その都度、「メカなジキじゃないから」(大体、”ジキ”ってなんだよ。磁気?磁器?)とか
「小さい女の子じゃないから」(”こうなご”だから)とかツッコミを入れなければならない。
そういえば、別の日、別のスーパーのアイス売り場では、ダンナさんが勝手に延々と謎に包まれた”レディ・ボーデン”の身の上話を始め、品出ししていた店員のお兄さんに聞こえていたようで、
「レディ・ボーデンの屋敷が火事になって、顔の半分が焼け爛れてしまい…」とか言ったくだりで
耐え切れなくなったお兄さんは「ぷっ!」と吹き出していた…。なんだよ、その展開は!
こうして、買い物するにも店内を爆笑しつつ進むことになるんだよな。

さて、本の話題をひとつ。
山形明美さんの『どこ?』シリーズを続けて読んで(?)いるのですが、出版順だと以下の通り。
『どこ? つきよのばんのさがしもの』(2003)
『どこ? もりのなかのさがしもの』(2004)
『どこ? とびらのむこうのさがしもの』(2006)
『どこ? ふしぎなまちのさがしもの』(2008)
このうち、まだ『どこ? とびらのむこうのさがしもの』に挑戦してませんが、他の3冊は制覇。
山形明美さんのジオラマを、ジオラマ写真家の大畑俊男さんが撮影して作られているこのシリーズ。CGは一切使わず、ジオラマを魚眼レンズで撮影するという手法で作られているそうだが、大畑俊男さんのサイトで、その製作過程の一端が紹介されている。空中に浮かんでいるように見えるものをどうやって撮っているのかなど、手法を考えると謎が多い。ライティングがけっこう物を言うようで、光の使い方で時間帯や感情を表現できるんだそうだ。映画などもそうだけど、意外と照明が大事な仕事をしているものだよね。
小学館に『ミッケ!』というジオラマを使ったさがしもののシリーズがあるそうで、同様のさがしもの絵本を自分たちの手で作りたいと考え、作ったのが『どこ?』シリーズなのだそうだ。
ちなみに、『ミッケ!』はこんな感じ。こちらのサイトでは、本をもとにしたゲームができ、さがしものが体験できます。かなり難しい。米国産なので、ちょっと感覚が違う感じ。『どこ?』シリーズよりもリアルで精巧な作りで、大人向けな感じさえする。
でも、『どこ?』の良さは、かわいらしさとほんわかした雰囲気にあると思う。

3冊に挑戦してみて、私の今のところの一番のお気に入りは『どこ? もりのなかのさがしもの』
ジオラマ写真家・大畑さんのジオラマ撮影を紹介に使われているシーンは、この『どこ? もりのなかのさがしもの』の表紙にもなっている1シーン。
1冊の中で、くるくると場面展開していくのはいつものことなのだけれども、この本は特にそれが印象的。子供部屋から森へ、森から洞窟へ、洞窟から水辺へ、水辺からキッチンへ、キッチンから博物学的な図書室へと、一気に空間移動する楽しさ。森の動物がとてもかわいらしいし、蝶の標本やら、ガイコツやら、食虫植物やら、図書室のあれこれが目を引く。

たとえば、「りんごはどこ?」と問われたら、頭に浮かぶのは赤いりんごそのもの。だけれども、りんごひとつにしても、虫に食われていたり、誰かに齧られていたり、丸い形を保っていないこともある。
「かえるはどこ?」といっても、ジオラマの人形のこともあれば、本物のトノサマガエルのこともある、壁面のレリーフに刻まれていることも。
同様に、「うさぎはどこ?」と問われても、それはうさぎそのものの形をしたジオラマ人形かもしれないし、単に耳の長いうさぎの影かもしれないし、どこかに描かれている絵の一部かもしれない。
自分の頭の中に描いたものとはまったく異質のものであることが多く、想像を裏切られることがこんなに楽しいとは思わなかった。毎回、「してやられた〜!」「そうきたか!」と思うのだ。
これは、物事を認識する上で、非常に重要なことだと思う。お子さんなら、なおの事だろう。
物のかたちや名前を覚える、色を覚える、種類を覚える。雑多なものの中からコレというものを選び出すという作業には、いろいろな認識を総動員しないといけないことを、あらためて教えてもらう本だった。
絵本の中で「問い」になっていることはほんの一部で、見方によってはどんな風にも遊べるようになっている。これは飽きない。
事実、図書館から借りた本はどれも、ビリビリに破いたものが修繕してあって、子供さんたちが興奮しながら何度も何度も繰り返し見ていたことを物語っている。きっかけとして図書館で借りるのはよいことだけれども、こういう本は購入して手元において、いつでも何回でも見られるようにするのがいいのだろうね。私も欲しいくらいだわ(笑)

画像認識が弱い脳を持つ私にとっては、とても刺激になる本で、”さがしもの”をしていると、脳の普段使っていない部分が活性化するのがわかる。
さっき見たときには認識できなかったものが、次に同じ場所を見ると見つかったりするんだから。目って器官は(いや、視覚を司る脳の一部分か)、いかに当てにならないかってことだ。
若かりし頃、車を運転していて、自分からぶつけてしまったことが1度だけある。
後を振り返って確認したときに、「何も無い」という認識だったので、バックしたら、後には「車があった」という…。そのとき、急いでいた私は、自分に都合のいい景色を見ていたことになる。私の視界には「車はなかった」のだから。
それほど目は当てにならないという経験をしているので、今更驚かないのだけれども、「さっき見たときには無かったのに…?」という経験を、この絵本では何度もした。
まぁ、私の脳は極端にそういった認識が弱いだけかも。

もう1冊、大人向けの絵本として知った『ラストリゾート』(絵:ロベルト・インノチェンティ/文:J.パトリック・ルイス)というのを読んだのだけれども、これはあまりピンとこなかった。表紙につられたんだが…。
やっぱりその、文化的背景というのか、どうもしっくりこない。いや、もちろん国境を越えて普遍的な作品というのもあるのだけれども、この『ラストリゾート』に関しては、読んでいるうちに無意識に国の違いというものを感じてしまい、それが興味深く思えることもあるのに、なんだか鼻についてしまった。
同じ作家コンビなら、『百年の家』の方が面白いかも。今度、読んでみよう。
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2011年07月28日

古の力宿る湖

万城目学さんの『偉大なる、しゅららぼん』を読んだ。万城目さんの長編作品としては、これで残すは『かのこちゃんとマドレーヌ夫人』のみ。こちらも近々読んで、まずは長編を制覇しておこうと思う。『偉大なる、しゅららぼん』は、2006年に『鴨川ホルモー』でデビューした万城目さんの6作目。まだまだ作品は少ないとはいえ、私にしてみれば著作のほぼすべてを読んでいる作家さんで、こういう存在は珍しい。この方の作品の肝は、荒唐無稽な設定で、コミカルに話が進むところ。読後感が爽やかなのもいい。小難しいことや、涙するような物語は他の人に任せて、同じようなテイストの作品を生み続けて欲しいと、私は希望する。

さて、『偉大なる、しゅららぼん』。
琵琶湖畔が舞台。”湖の民”としてそれぞれ特殊な力を持つ二つの家系が対立してきた歴史の中で、突如として大事件が起こるというお話。高校生たちが主人公なので、青春SF小説と言えると思う。
内容を説明してしまうとまったく面白くないと思うので、敢えて触れない。

非常に読みやすく、良くも悪くも引っかかる所がなくて、一気に読める感じだった。感銘を受けるようなセリフもないが、物語に入り込むとどんどん先に読み進みたくなるタイプの小説。
ただ、印象に残ったことが二つ。
ひとつは、竹生島。琵琶湖が世界でも珍しい古代湖だというのも知らなかったが、島が浮かんでいることも知らず。この竹生島の謂れが面白い。
伊吹山の神である多多美比古命が、姪で浅井岳(現在の金糞岳)の神である浅井姫命と高さを競い、負けた多多美比古命が怒って浅井姫命の首を切り落としたその首が琵琶湖に落ちて竹生島が生まれたという。なんともグロテスクで豪快な話。
一般的に、長くても数万年といわれる湖の寿命をものともせず、400万年〜600万年も前にできてから現在まで満々と水を湛える古代湖で、古い神々の伝承が残っているのなら、何か不思議な力が琵琶湖に宿っていてもおかしくはないと思わせる。
もうひとつは、滋賀県内の全ての小学5年生が経験するというフローティング・スクール。小説内には詳しいことが書かれていなかったが、とても楽しそう。船酔いするコには地獄だろうが、そういう体質だと欠席できるんだろうか。学習船「うみのこ」に乗って、プランクトンを見つけたり、船に泊まったり。
海もデカイ湖も無い埼玉県では、林間学校というものがあったけれども、それに代わるものなのだろうな。ただ山を登るだけの林間学校なんぞよりも、フローティング・スクールの方が数段楽しそうだ。

『偉大なる、しゅららぼん』を読んで、終始私の頭の中をちらついていたのは、”家系”とか”血筋”というものだった。
私には、最も縁遠い種類の話だったから。
うちの両親は両養子である。つまり、祖父母とは血が繋がっていない。いや、実質血の繋がった祖父母も2組存在していたわけだけれども、それは脇においておいて、「あなたの祖父母よ」と言われてきたのは、血の繋がっていない1組だったわけで。
そのことをあまり深く考えずに育ってきたけれど、いざ結婚してみると、ダンナさんの親戚とお付き合いすることになり、「親戚とはこういうものなのか」とあらためて考えることになる。
血の繋がった祖父母たちは、ほとんど早くに亡くなってしまっていたし、父母の兄弟姉妹やいとこたちと全く付き合いが無かったわけではないけれども、そこにはどこか線が引かれていたような感覚があった。
おまけに、うちの両親は自分たちの親戚についてあまり私たち子供に語らなかったことで、今もって、うちの家系のことがよくわからない(苦笑)
なんとなく”親戚”だと思っていた人が亡くなっても、兄たちと「それで、結局、あれはどういう関係の方だったの?」みたいな。両親がボケ始めた今、一通り調べておかねばならないと思って確認したことがあるのだけれども、一度聞いたくらいでは理解できず。そのときのメモ書きを後から見返してもよくわからない。
私や兄たちからしてみれば、一応血の繋がった親戚は把握しているものの、それもどことなく余所余所しい感じで、いまだに距離感がつかめないでいる。まったく孤立しているわけではないものの、自分たちだけが血の繋がらないこの家系を細々と継いでいる感覚は消えない。ま、私はもうそこから嫁に出たわけなのだが。
家が存続していくことに、今よりももっと重点を置いていた時代で考えれば、養子などという話は珍しくもなんともないわけで。でも、血筋とか家系の話になると、なんとなく自分の中にもぞもぞするものがあるのは否定できない。
世の中、親戚付き合いといっても千差万別なんだろうけどね。

話を戻して、と。
琵琶湖には、高校の修学旅行で行ったことがある。比叡山延暦寺とセットのコースだった。
実は、いくつかのコースに分かれる日があって、クラスごとに振り分けられたのだけれども、うちのクラスは華々しく人気のあった神戸コースをはずれ、地味な琵琶湖コースと相成った。
気が進まないコースではあったが、琵琶湖を前にしたときの、「これ、ほんとに湖か?」というスケールのデカさは忘れない。延暦寺のことは何ひとつ覚えてないが、琵琶湖の印象は強烈だった。
今にして思えば、琵琶湖コースでよかったかな(笑)

最後に、この作品は映像化(音声化? 笑)はムリだと思う。やめとけ。
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2011年07月21日

大人が読んでも楽しい絵本

以前にテレビで紹介されていた絵本が気になって、早速図書館に予約。
そうして読んだ(?)本が、ショーン・タン『アライバル』
この絵本、活字がありません。
この世界とはどこか違う世界でのお話。街は巨大な何者かの影に怯えていて、安心して暮らせない状態に。そんな中、ある男が家族を置いて、一足先に新天地へと単身渡り、住居や仕事を見つけて生活の基盤を作った後、家族を呼び寄せるまでの話です。…たぶん(笑)
わけのわからない仕事に、部屋に住み着いていた異形のペット、難民や戦争経験者との出会い…。
人々の表情がとても豊かで、台詞がなくても会話の内容がわかるようです。
文字にすると面白くない、何度でも読み返したくなる不思議な本。

活字がない本といえば、思い出すのは、リンド・ウォード『狂人の太鼓』。以前にこんな記事(→白と黒のイリュージョン)を書きました。
この記事で、同時に取り上げていたのが、アイナール・トゥルコウスキィ『まっくら、奇妙にしずか』でしたが、今回、上記の『アライバル』に始まり、いくつかの絵本を読んでみようと思った中の1冊がこのアイナール・トゥルコウスキィの『月の花』でした。
相変わらずの画風。HBのシャープペンのみで描かれる点描の世界。今回は特に、植物と昆虫、特に蛾の描写がすばらしい。

先日たまたま、エンタテインメント情報誌『ぴあ』が休刊になるというニュースで、長きにわたって表紙イラストを描いてきた及川正通さんのことが取り上げられてました。及川さんも点描法を駆使されている方。『ぴあ』が休刊になることになって初めて、及川さんが描かれている姿を見ることができました。極細のペンで、点点点点って。
若かりし頃、『ぴあ』には散々お世話になったので、感慨深いものがあります。ほかにも、『ぴあマップ』にも随分とお世話になりました。今はGoogleマップなんて便利なものがありますが、『ぴあマップ』は本当にわかりやすくて、当時は重宝したもんです。今、パズル好きなのは、『ぴあ』に掲載されていたおおやちきさんのパズルに端を発するものだと思われ…。

話が大幅にそれました(笑)
アイナール・トゥルコウスキィの『月の花』は、庭を愛でる男が自分の庭に不思議な植物を発見するお話です。
漆黒の闇、闇に浮かぶ光、服のしわ、など、物質とそこに当たる光と影を白から濃淡様々な灰色と黒だけで描く技量は、やはりすばらしいの一言。
やはり、じっくりじっくり、何度もためつすがめつ見返したくなる絵本です。

ついでにもう1冊。
『どこ? ふしぎな まちの さがしもの』。山形明美さんの『どこ?』シリーズで、最も新しいものにあたるらしい4冊目。
造形作家である山形明美さんが作る楽しいジオラマを舞台に、いろんなものを見つける遊びができます。シリーズを経るごとに緻密になっているようなので、一番”さがしもの”が楽しめる1冊なのかもしれません。
たとえば、りんごひとつをとっても、場面によって、りんごそのものだったり、何かの絵柄に描かれていたりするわけです。異質なものの組み合わせがあるので、思い込みで探すと全然見つからなかったりします。これは、子供ももちろん楽しいだろうけど、大人も楽しめますね。物の形や色、種類、様々なことを学べますし、何より楽しいです。脳の普段使わない部分がフル稼働しているのを感じます。
この作品は、遠景から、ミニチュアの世界へと段々フォーカスしていく楽しさもありました。最初と最後で間違い探しみたいになっているもの楽しかったし。
これは、シリーズ全制覇したくなります!

実はもう1冊、読みたい絵本があったのですが、図書館の棚にあるはずがなぜか見つからず。単純に、他の誰かが借りているとか、間違った棚に入っているとかいうことも考えられるのですが、こういうときは、本の方が「もうちょっと待ってて!」と言っているような気がして、無理に探すことはしません。

そういえば、この日、図書館の閉館10分前くらいに行って焦っていたのに、入り口前で見知らぬ若者にわけのわからない質問をされ、その応対をしているうちに貴重な時間が奪われていたのでした。
なぜかその若者は、「この辺で、子供服を売っているお店はありませんか?」と聞いてきたのです。子供を持たない私に、なぜにそんな質問を?(苦笑)
どうにかこうにか何軒か答えてあげると、「店員さんは相談にのってくれるでしょうか」とか言いつつ(そこまで知らんがな!)、多少不安そうながらも「ありがとうございました」と去って行きました。
想像するに、子供に絵本でも読んであげようかと図書館に来たものの、良い本が見つからず、方針を転換して洋服でも買い与えようかと考えたのでは?

そんなこんなで時間もなくなり、お目当ての本を1冊探し損ねてしまったというわけ。
相変わらず、人から話しかけられる体質は変わりません。
もひとつ、そういえば、先日ダンナさんとウォーキングをしていて、お散歩中のミニチュア・ピンシャーの子犬に出会いました。かわいいなと思いつつも、散歩中のワンコはこちらが意識すると飛びついてくることが多いので、こちらが飛びつかれるのは一向に構わないどころかうれしいのだけれども大抵飼い主さんが困ってることが多く、わざと知らん振りをして通り過ぎたのです。が、その直後、ダンナさんが急にペースを上げて、付いて行くのが大変だなと思っていたら、そのピンシャーちゃんが明らかに私の後をずっと追いかけて来ていたそうで。私は後ろを振り向くことをしなかったので、気づきませんでした。ダンナさんは、それを振り切ろうとペースを上げたのだと。
ゆうべ、また同じピンシャーちゃんに出会いまして。そしたら、出会った途端に急にキャンキャン吠え出して、飼い主さんにきつく怒られてました。別に私を見つけて吠え出したのではないとは思いますが、タイミングがあまりに良かった(笑)
私、何か臭いましたか?(苦笑)今は確かに美容院のカラーのにおいがまだ取れないのですがね。

脱線気味でしたが、久しぶりに絵本を読んでみたというお話でした。
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2011年07月05日

あるもの・見るもの・見えるはずのないもの

さっき観たキューピーハーフのCMで、フランク・ロイド・ライトの落水荘が映っていた。「サラダはクールだ」篇。キューピーのサイトでCMを観ることができます。
部屋の内部まで映っていたけれども、福山雅治本人は現地には行っておらず、スタジオで撮影した映像を合わせているらしい。
滝の音が清清しい、いいCM。
確かに生野菜で作るサラダは火を使わずにできる。少々ながら節電にもつながるし、調理するときに暑くならないありがたいメニューだね。
先日、7月に入ってからの東京電力管内の電気の需要のピークが、個人の家庭では夜7時台だというニュースを見た。解説している人は、昼間冷房を我慢したからもういいだろうとこの時間から冷房を使用する家庭が多かったのではないかと推察していたけれども、原因はもうひとつあると思う。それは、電子レンジを使う調理。電子レンジを使えば節電にならないのはわかるけれども、エアコンに比べれば使用時間は極端に少ない。もちろん、電磁調理器を使っているお宅もあるけどね。エアコンを使わず暑い部屋で我慢するなら、せめて火を使った調理は避けて電子レンジで調理しようと考える主婦は少なくないと思う。夏の調理中の暑さは、半端ないからね。
生野菜のサラダやお刺身なんかの生もので済ませられればいいけど、毎食そういうわけにもいかんし。
ということで、この夏は、お惣菜やちょっと手を加えればできる半調理品みたいな商品が売れることになるんじゃないかな。

さて、今日は本の話を2つ。
最初にフランク・ロイド・ライトの落水荘の話をしたけれども、私は少しばかり建築物に興味がある。
ちょっと前からル・コルビュジエについて、また熱が上がってきて、ちょうどそんなとき、図書館の新刊の棚に『ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間』加藤道夫 著)という本を見つけた。ちょっと硬そうな内容ではあったのだけれども、これも何かの縁と読んでみることに。著者は東大の教授なのだが、どうも図形科学が専門という方らしい。
ル・コルビュジエの建築図から、その思想を読み解こうという狙いなんだけれども、なんだか建築学の本というよりは、哲学の本みたいだった。真っ向からすべて理解しようと思うと萎えるので、斜め読み程度で読むことに。なので、著者の真意と違うことを言うかもしれませんが、あくまでも私の印象ということで、あしからず。

終始繰り返されるのは、「あるもの」と「見るもの」との区別について。話は古代ギリシアのプラトンまで遡っちゃったりして(苦笑)ここを突っ込むと面倒なことになりそうなので、華麗にスルーするけど。
建築図というのは、まだ存在しないものを描いているわけで、そういう意味で未来に存在するものを先取りに表現しているとも言える摩訶不思議な図なのである、と。
しかしここで、”まだ現実に存在しないもの”を表現するときに、どういう描き方をするのかが問題で。たとえば、厳密な寸法を縮小したような形でミニチュアのように描くのか、印象派の絵画のように実際にない色もわざと使うような手法を取ってイメージを描くのか。それだけでまったく違うものになってしまうということで。
ル・コルビュジエは、トラセ・レギュラトゥールとかモデュロールとか、自分が信じる黄金比率を建築図に取り込んで、未来図と現実との橋渡しに使うと同時に、人間の寸法を基準として想像上の建築物と人間とを近づける作業をしているように感じた。
もうひとつ、ル・コルビュジエは「生ける建築」というものを志向していたのではという話。本来なら、動く建築図が描きたかったのだろう、と。今は動画というものがあるし、未来にはホログラム的な建築図なんてものも出てくるのかもしれないけれども、彼の時代にはまだ一般的ではないものね。
たしかに、積み上げられるドミノ式住宅とか、増築を前提として螺旋状に増殖可能なモデュロールとか、なんかこう空間的に膨らんでいく構想が見え隠れするので、それを平面の中で表現するのは難しかったのだろうなと想像。
やっぱり、ル・コルビュジエはおもしろいな。また機会があったら、ル・コルビュジエについての本を読んでみたいと思いましたとさ。

さて、もうひとつ本の話。
怪談専門誌『幽 15号』が発売になった。
今回の特集のひとつは、ゴーストハンター。もうひとつの特集は、震災と怪談文芸。
まだ実話怪談の部分とか少ししか読んでないのだけれども、ひとつ胸を打った話が。それは、視える漫画家・伊藤三巳華さんの漫画『憑々草(つれづれぐさ)』での話。
伊藤さんは今30代、ということで当然戦争を知らない世代。その伊藤さんが、”特攻隊が飛び立った地”として有名な知覧を訪れる。伊藤さんは、無念とか郷愁とか悲しみが渦巻いていそうだと思いつつ知覧を訪ねるが、知覧特攻平和会館に着いてみると、予想外の念を強く感じることに…。平和会館内を歩いていると、叱咤激励されるかのように見えない存在にバンバン叩かれる。悲しみは感じることなく、大人数の異様な熱狂と高揚の気を感じたという。いろんなご意見もあると思いますが、伊藤さんが感じたと表現したままに記します。
三角兵舎と呼ばれる、特攻隊員たちが最後に過ごした場所を訪れると、そこには端正な顔立ちの若い兵隊さんが一人静かに座っているのが視え、「僕の出番はまだですか?」と。
その後、特攻隊の資料館を訪ねた伊藤さんは、その彼が誰だったのか知ることになる。一度出撃したものの、機体不調により帰還し一人待機。そして、二度目の出撃命令。悪天候で仲間が引き返す中、一人出撃。そのまま帰らぬ人になったというその人の写真が、伊藤さんが三角兵舎で視たその人であった、と。
ちなみに、「同期の桜」が流れるその資料館の2階には、怒りや悲しみや複雑な重い念が立ち込めていているように感じられて、上がることができなかった、と。
伊藤さんは、「私の視た全てが妄想かもしれません」と言いながらも
怒りや悲しみを隠し
その強い意志とまっすぐな心を
武器に変えなくてはならない人たちがいて
その念は今もここに残ってる事を私は伝えたいです

と締めくくられている。
単純に語ることはできないのだけれど、じぃんとするお話だった。

第5回『幽』怪談文学賞を受賞されたお二人が、「怪談との出会い」というテーマのエッセイを書かれていた。
そういえば、どうして私は怪談が好きなのか、自分もそんな内容のことを書いてみればわかるかもと考える。
誰が教えたわけでもないのに、幼稚園入園前からひらがなが読み書きできたので、本はもともと好きだった私。父は、小さな私とどこかへ出かける度に、本を1冊買い与えてくれた。
そんな本の1冊に、題は忘れてしまったけれども、タンスに隠れて醤油を飲む鬼の話など、民話的な怖い話を集めた本があった。怖い本は、それが初めてだったと思う。たぶん、小学校2年生くらいの頃の話。
オカルト映画も大好きで、小学生の頃は、テレビで放映される度に必ず観ていて、中学生になると映画館へ観に行った。そして、夜中に目覚めて眠れなくなった(笑)
それと前後して、小学校高学年くらいから中学生の頃には、自宅や学校で頻繁に不思議な現象が起こり、自分の興味に拍車をかけることになった。
高校生になると、部活やらバイトやら受験勉強やらで忙しく、そういったことへの興味が一番薄れた時期だったかもしれない。
けれども、大学生になると、再びおかしな体験をすることが増え、意識するように。
しかし、怖い話は大好きでも、自分では体験したくないという思いが強く、ダンナさんからは常に不思議がられている。
いっしょにおかしなことを体験すると、ダンナさんはそれが何なのかその場で確認しようと、怪異に自ら近づいて行こうとするのだが、私は恐怖に耐えられず、常にダンナさんを引き止めてきたからだ。
でも、自分に実害が及ばない限りは、怖い話は大好き(笑)
好奇心が旺盛で、何でも知りたがる私にとっては、謎であることというのが最大の魅力に映る。もしも、幽霊やら心霊現象やらと呼ばれていることが、科学的に証明されてしまったならば、つまらなく思って興味を失うのかもしれない。
でも、今のところは、怪談を読んでは楽しんでいるのでありますよ。

話がちょっと戻りますが。
今回のル・コルビュジエについての本は、「ないものを作り出す」とか、黄金率とか、どこかル・コルビュジエについて錬金術師のような印象をもったのでした。
オカルト好きな私には面白い視点で、新鮮に感じたのであります。
posted by nbm at 12:08| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月28日

阿呆みたいな、でも、とても幸せな物語

万城目学さんの『プリンセス・トヨトミ』を読んでみた。私にしてみれば、久しぶりの万城目作品。
なるべくネタバレしないよう多くを語らずに書きたいと思う。

五月三十一日、十六時のことである。
大阪は全停止した。


会計検査院の3人の調査官が触れることになる、「大阪国」の秘密。

旧中ノ島公会堂(大阪市中央公会堂)と東京駅。”辰野式”と呼ばれる、赤煉瓦に白い石を帯状にめぐらせるデザインという共通点があるのを知らなかった。
そして、国会議事堂と辰野金吾との関係性…。そのあたりが、この壮大なホラ話(失礼!)に現実味を持たせてくれたのだろうね。
大阪は古い建築物が多く残る街で、そんな建築物を巡るツアーもあると聞いたことがある。こういう観点で観る大阪もいいかもね。

テレビをつけ、そのまま映った「クローズアップ現代」を聞きながら、二人は焼きそばを食べた。


「はよ、好きなときに着られるようになったらええな」
とつぶやき、島は踊り場まで残り五段を「らっ」と一気に飛び降りた。

「じゃあ、これから先輩のとこ、行ってみようかな」
「何しに?」
「代紋かっさらいに」

「(中略)男が何かアホなことやってるらしいけど放っとこ━━それだけ」


私のアンテナにひっかかったフレーズをピックアップしたら、こんな感じになる。
大阪を舞台にしたことで、「本当にそんなことがあるのかも」と勘繰りたくなるような。
逞しさとか独自性とか人情に厚いとか、さ。変な団結力があって。パワー絶大。でも、実際大阪にこんな秘密があったら、おっちょこちょいな人がどこかで漏らしそう(笑)
根無し草埼玉で生まれ育つと、特異な文化を持っている土地や、そこに暮らす人々をとても羨ましく思うことがあるんだ。そのことについては、近くあらためて記事に書きたいと思う。

ところで、原作では、鳥居(男性)と旭(女性)だけれども、映画版は、この鳥居と旭の性別が入れ替わっているそうだ。これは、この物語の根幹を狂わせるものであって、それで何を描こうっていうのだろうと疑問に思った。まったくもって意味不明。綾瀬はるかという女優に、”ミラクル鳥居”をやらせたかった気持ちはわからなくはないけれども、原作とはまったく違う話になってしまうね。どこにどうやって落とすというのか…?逆に知りたいわ。
大阪の町並みを歴史的・建築史的に映像として見るためには、映画版が便利そうではあるけれども、内容としては設定だけでオススメできないな。まだ見てないけど。

それはさておき、登場人物それぞれが、周囲の人に守られながら、筋を通していく。
阿呆みたいな話。でも、とても幸せな人たちのとても幸せな物語。
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2011年06月24日

放置と行動の間

こう見えて、私はただ今求職中の身であります。
ただ、年齢その他、自分のスペックをわきまえず、わがままな条件で探しているので、まず条件を満たすところを見つけるのが大変で、やっと見つけて応募したとしても、そうそう結果が出るものではありません。
このまま続けても厳しいと思いつつ、どういう方向に転換したらよいものか、まだ考えあぐねております。
贅沢が言える立場じゃないのはわかってますが、かといって、無理をして就職先にご迷惑をかけるわけにもいきませんし。

さて、ここで本の話です。
内田樹さんの『邪悪なものの鎮め方』という本。タイトルに惹かれて、それと内田さんの本は読んだことがなかったので、いい機会だと思って読み始めたのですが、読んでみると、タイトルと内容が乖離したまま突き進んだ本のようで見掛け倒しでしたし、内田さんの考え方も感性もまったく自分と相容れないことに気づき、それはそれである種の刺激となったのでよい経験だったのですが、共感したり興味を持ったりする部分が極端に少なくて驚きでした。

そんな本の中で唯一共感できたのは、「”おせっかいな人”の孤独」というタイトルの文章でした。つまり、「働くモチベーションがある人」について。

最初に”災厄の芽”を見つけてしまった者がそれを片付ける破目になるってこと、ありますよね。内田さんご自身も、「誰の仕事でもない仕事」「誰かがやらないと片付かない仕事」をやってしまう自覚があるのだそうです。
助手として勤務した大学の研究室では、まずいろんなもので塞がっている研究室を掃除するのに何日もかかったとか。しかし、同僚はそのことにほとんど反応せず、「きれいになったね」とも「ありがとう」とも言わない。それどころか、中には不快そうな顔をする人も。
これは、細かく考えればケースバイケースになるのかもしれませんが、仕事をする
スペースを有効に使うことや衛生面を考えると、掃除や整理整頓というのは確かに馬鹿にできないことで。

また別の職場では「できるだけ仕事をしないでください」と言われたとのこと。「あなたがあまり働くと、私たちがまるで働いていないみたいに見えるから」と。
これはいわゆる”お役所仕事”的なことですね。まず枠ありきで、それを超えない程度で考えるというか。枠を超えるものは却下、それ以下ならOKみたいな。常に最低限で考えるというか、何でも”余計なこと”に仕分けてしまうというか。必要性とか時間の制約とか、まず考えるべきことがズッパシ抜けているというか。仕事の内容よりも自分の保身を優先するというか。こういう姿勢は本当にキライ。

ここで、私の日常の話になります。
先日、マンションの自転車置き場で、自分の自転車に空気入れでシュコシュコとエアを足していたときのこと。自転車置き場の一番奥の一角にいつも自転車を置いているのだけれども、そこにはいつも風で吹き寄せられたゴミがたくさん。
マンションには掃除をするおばちゃんが週に何度か来ているはずが、なぜか自転車置き場のゴミだけはいつも放置されてる。気になってはいたけれど、ここは掃除のおばちゃんの領分だと判断し、ずっと見て見ぬふりをしてきた私。
だけど、その日はどうしても気になり、一気にゴミをかき集めてちょうど落ちていたビニール袋に詰め込み、マンションのゴミ置き場にポイ!ゴミの中に溜まっていた水は腐っていて臭く、手もドロドロになったけど、これでスッキリ!
家事の中でも掃除が苦手な私だけれども、その私がもう我慢ならないくらい汚れたまま長いこと放置されてた一角だった。
共有するスペースというのは、汚れやすいもの。以前に勤めていた会社では、自社で全フロアを貸切だった階の給湯室はきれいだったけれど、数社が混在していたフロアの給湯室はいつも薄汚れてた。マンションでも、自転車置き場なんかの共有部分ってのは、自分のスペースじゃない意識からか汚しても平気な人が多い。
ただし、管理人さんなど管理する人がいるならば、そこを掃除するのは本来その管理する人の役目のはず。なのに、それができてない。
だから、私は領分を侵すつもりはなかったのだけれども、あまりに放置されたために、自分が気持ちよくその場所を使うことを考えたら、領分を侵すことはどうでもよくなって、自分がやってしまった。だって、やればほんの数分で片付くことだから。
今回の私の行動に対して、私自身は「他の住人のためにも良いことをした」なんて微塵も思ってない。単に、自分が気持ちよくその場を使うためにやったまで。
だけど、私がやるまで放置されてきたということは、「気づかない人」か「気づいてもやらない人」ばかりだったことになるわけで。もしくは、私のように「気づいていたけど”敢えて”やらなかった人」だったか。
今回は、私が「気づいて行動する人」になってしまったのだけれども、片付いてスッキリした気持ちと、どこかに苦々しい気持ちとがあるので、心からそうしたくて行動したわけでもないという…(笑)

つまり、「気づいた人が行動するしかない」ってことなんだけど、さっきも言ったみたいに、事はそう単純じゃないから、よかれと思ったことが余計なおせっかいだったりすることもあるし、なんとも言えない。
一日一善的なことをやろう!とかいうつもりはさらさら無いのであしからず。
いつも、気づいても放置することが得意なはずなのに、気づいてるのにやらずに過ごすことがストレスになることもあるという、この矛盾(笑)

これが仕事上のこととなったら、私は自分で工夫し、常に効率化や楽しく仕事をすることを考えるタチなので、そこの部分だけは内田さんと気が合うかもと思っただけの話。
これが家事にあまり応用できないのは、どういうことなのかは不明(笑)

ついでに、もうひとつだけ、この本で楽しそうだった話題について。
池谷裕二 東大薬学部講師との対談をもとに書かれた「ミラーニューロンと幽体離脱」。
雑誌「VOICE」での対談だったらしいので、機会があったら読んでみたいわ。
ミラーニューロンってのは脳の中にある神経細胞の一種で、他人がしている事を見て、我が事のように感じる共感能力を司っていると考えられているもの。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように"鏡"のような反応をすることから名付けられたのですよね。
このミラーニューロンを活性化する薬を人間に注入すると、一体どうなるのかという話。予想されるように他者との共感能力が高まるわけではなく、全員が同じ幻覚を見たのだとか。それは、なんと、幽体離脱!「自分を天井から見下ろす」というアレです。
他者への共感度が高まりすぎて、”自分が他者であっても自己同一性が揺るがない状態”になるということらしい。んー、わかりにくい。
確かに、幽体離脱は、鏡に映したように自分の姿を客観視する体験です。私も体験しかけたことがありますが、それは明晰夢(これは夢であるという自覚のある夢)を見たときのことでした。なので、脳が見せていることだとは理解できたのですが、それがミラーニューロンに関わっているとは初耳。
この線は、後々もちっと勉強してみたいです。

ということで、話を戻すと、内田さんによると、「働くモチベーションがある人」はみなおしなべて「誰の仕事でもない仕事」を進んでできる人だというのですが。
大方そうかもしれないけど、どこか釈然としないわ。
どうもこの、単純に立て分けてしまう傾向が、内田さんの主張と自分の感覚が相容れない要因のような気がします。
posted by nbm at 11:15| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする