2008年11月25日

たまには哲学してみた

しばらく、ロクに投稿しない時期が続いていたような気がします。例によって、ネタに困るということはないのですが、実生活が忙しく書くためのエネルギーが足りなかったこともあったし、ブログというものに正直ちょっと飽きていたのかもしれません。しかし、なんのかんの言いながら、本投稿でめでたく500回目を迎えることができました!
「こんなブログを誰が好き好んで読むんだろうか」と思いつつ、それでも読んでくださる方々に、あらためて感謝する次第でございます。いつもありがとうございます。そして、これからもどうぞよろしく。

500回目が近づくにつれて、なんか記念碑的な記事にせねばならんのかと、ちょっとだけ頭を悩ませていたのですが、悩ませついでに思い切り悩んでみることにしました。いっちょ哲学でもやってみっか!
きっかけは、例によってアニメです。数年前から数話ずつ観ていた作品を、この連休でひとつ片付けました。『BLACK LAGOON』という作品でございます。HPはコチラ。2期分合わせて24話。原作マンガは、「月刊サンデーGENE-X」に現在も連載中。日本人の冴えない商社マンだったはずなのに、アヤシゲな運び屋<ラグーン商会>に身を置くことになったロック。それと、<ラグーン商会>の紅一点で二挺拳銃使いのレヴィ。この二人を中心に、タイの架空の町ロアナプラを舞台に繰り広げられるハードボイルドなアクション。ちなみに第3期も制作が決定したようですね(笑)原作は読んでないけど、アニメではたしかにまだ描ききれてない様子だったし。楽しみに待つことにしましょう。ここからはネタバレありです。
架空の町ロアナプラは世界中から悪党の集まる町。ここを拠点に<ラグーン商会>は様々なアヤシゲな荷を運ぶわけですが、アフガニスタン帰還兵で構成されているロシアン・マフィアや、裏で武器商人をやっている教会のシスターたち、香港マフィアやイタリアン・マフィア、果ては日本のヤクザまで、とにかく闇社会の住人たちがうじゃうじゃ出てくる。フィクションとはいえ、リアルな背景を元にしていることが多い。たとえば、ロシアン・マフィア。アフガニスタン帰還兵は、ソビエト崩壊後に行き場を無くし、マフィア化していったという事実があるらしい。このアニメに出てくる<ホテル・モスクワ>というロシアン・マフィアは、軍隊の統率をそのまま残し、非常に組織化された集団として描かれているのだけれども、事実そうなのではないかな。あんなのが実際にいるのかと思うと、恐ろしい…。
リアルな世界を”想像させる”、と言うのも変だけど、直接見ることはまずないんだから、やっぱり”リアルを想像する”わけだけれど、そういうエピソードの中でも際立って印象的だったのは、児童ポルノやスナッフ・フィルムに使われていた子どもが殺し屋になるというもの。スナッフ・フィルムってのはいまだに存在が確認されていないって言うけど、ありそうだよね?世界中から誘拐されたり売られたりしてきた子供たちが、売春だけじゃなくて、臓器売買やこんなことなんかにも関わっていくことになるのを考えると…。そんなドン引きしそうな内容をたくさん盛り込んだ作品なわけです。

さて、ここから哲学の話に飛ばなければなりませんね。この作品の2期の後半に出てくるのが、ロシアン・マフィアと日本のヤクザとの関係。ロシアン・マフィアは親子関係にある二つのヤクザ組織に揺さぶりをかけます。この子組織にあたる小さな組には組長が不在で、亡き元組長の娘はまだ高校生という設定。このコは、ヤクザの娘として生まれ、自身が背負っていることの重さに、逡巡するのです。死んだ父親の組が潰されそうになり、初めて自分の運命を受け入れようと覚悟を決めます。彼女の愛読書がサルトル「実存主義とは何か」。そこで、実存主義ってなんだっけ?というわけです。
私は決して哲学に詳しいわけではないので、まったく勉強不足ながら書きたいと思うのですが、”実存主義”と聞いて、私の頭に思い浮かんだのはハイデッガーでした。当たらずとも遠からずって感じなんだけど、ハイデッガーは実存主義に至る基礎的な部分を構築したにすぎないようです。キルケゴールが、”実存主義の祖”と言われているのですね。キルケゴールっていえば、高校時代に倫理の授業で、『死に至る病』を読んで10枚のレポートを書いた覚えがあります。本当に死ぬかと思った!(笑)先生が課題として挙げた本は他にもたくさんあったのに、なぜにここまで難解なものを選んでしまったかと、後悔したもんです。でも、気が狂いそうになったのは覚えてるのに、内容を全然覚えてません(笑)

Wikiによると、実存主義というのは、
時間の流れの中で、今ここで現実に活動している現実存在としての「私」は、ロゴス的・必然的な永遠の本質を否定された自由な実存として、予め生の意味を与えられることなく、不条理な現実のうちに投げ出されたまま、いわば「自由の刑に処された」実存として、他者と入れ替わることの出来ない「私」の生を生き、「私」の死を死ぬことを免れることは出来ないのだ、とする。生を一旦このように捉えた上で、このような生を、絶望に陥ることなく、いかにして充実させていくかが、実存主義にとっての課題ともされる。

これを説明しようとすると、どうしても「神は存在するか否か」という問題に触れなきゃならないような気がするんだけど、そんな議論をするつもりは全くありません。つまりですね。すごく乱暴に言ってしまうと、「人間の存在価値や本質というものは、生まれながらに備わっているのではなくて、後に決定される」というようなことになりますか。それで、人間が外界と縁して、方向性を選択していく中で、人間性という本質が作られていくというようなことらしい。しかし、ここでそれをサルトルが後に傾倒していったように社会主義的に「他人にも同じようにあるべきだ」と強要したり、「他人のために」という意識が介在したりすると、また話がややこしくなるので、ここで考えたいのは、あくまで、自分自身と外界との純粋な関係性だけに留めておくことにします。

それで、と。『BLACK LAGOON』の話に戻りますね。組長として跡目を継がなければならないことを先延ばしにしてきた雪緒という女子高生は、組が潰されかけてどうにもならない状況に置かれてやっと、跡目を継ぐことを決意します。そして、戦う必要が無くなったことを知っても、もう後には引けないと、仇討ちをしようとし、結果自決することに。
人はサイコロと同じで、自らを人生の中へと投げ込む。

それが、彼女の愛読していたサルトルの言葉でした。彼女は自分にそう言い聞かせていただけかもしれないのだけれどね。
サイコロといっても、偶然性とかそんなものはとりあえず無視して、自分の意思で転がっていくってことですね。人生は無数の選択の繰り返し。コロコロコロコロと転がっていくわけですねぇ。選択肢は六面だけじゃないわけですから、自分の前には無数の選択肢と無数の未来があるわけですよね。そして、今日も、この瞬間も、コロコロと転がっていくわけです。あなたがPCを立ち上げ、または携帯を片手に、このブログへと辿り着いたのも、単なる偶然ではなく、あなたの意思によるものというわけですよ。こうやって、ひとりの人の選択した行動が、他の人の選択した行動と繋がって、世界は構築されているということ。サルトルの実存主義を基礎にシンプルに考えると、そんな側面もあるのですよね。
ほらね。結論としてそんなことを書こうなんて微塵も思ってなかったのに、転がるままに書き進めていったらそうなりました(笑)これからもこんな記事を書いていくと思います。私もサイコロを転がしますから、みなさんもサイコロを転がしてきてください。そして、ごっつんこ!ってね。
posted by nbm at 16:04| Comment(4) | TrackBack(0) | 哲学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする